今日の午後、大学時代の友人の竹内義信さんにお会いし、かつての満州国のハイラルという町に関するお話をいろいろお聞きしました。
その中に細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』という本の話が出て来ました。
満州国の官吏になったモンゴル人の悲劇的な一生を描いた本だそうです。
帰宅後、早速を内容を調べましたら、熊本日日新聞の2007年7月3日に阿部重夫さんという方が書評を書いて、本のあらすじも紹介してありました。
人間の生涯とはどういうものかと深く考えさせる内容なので、阿部重夫さんの書評を抜粋して以下にお送りいたします。
なお全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.htmlに出ています。
・・・・・・タイトルを見ただけでつい手に取った。が、よくある敗走記でも抑留手記でもない。満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれたモンゴル人、ソヨルジャブの信じ難いような波瀾の生涯である。
昭和20年(1945年)8月9日未明、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員だった彼は、突如飛来したソ連軍機の空襲に遭った。数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学した。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転した。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ(一期上には『生き急ぐ』の故内村剛介がいた)経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
同じ運命をたどったモンゴル人に、戦前「徳王」と呼ばれたドムチョクドンロブがいる。内モンゴルで諸侯を集めて会議を開き、自治を求めて蒋介石軍と戦った。のち日本軍の協力で蒙古連合自治政府を樹立した。汪兆銘の「内モンゴル版」とも言えたが、日本敗戦後も逃げず、49年に最後の決起を試みる。
が、衆寡敵せず、外モンゴルに逃れた。ウランバートルでは監獄が待っていた。7カ月の訊問を受けたのち中国へ送還、北京の監獄に幽閉され13年後に獄死している。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこに9年半――。65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない……。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に協力した人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。彼に比べれば、わが叔父はまだしも幸運だったかもしれないが、どんな人生も比較できない。
ソヨルジャブは存命らしい。名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校した。いまはフフホトで暮らす。この本は自伝ではなく、日本の元出版人がフリーランスで書いた労作だ。筆力があって読みやすいが、物語仕立てより史書で読みたかった。どこまでが聞き書きで、資料のどこを参照したかの注がほしい。
ソヨルジャブの背後には、黙したまま去った無数の死者がいる。わが叔父もわが父母ももう世にない。
風吹草低見牛羊――。(終わり)
下の写真はソヨルジャブの生まれたハイラル近辺の風景です。
その中に細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』という本の話が出て来ました。
満州国の官吏になったモンゴル人の悲劇的な一生を描いた本だそうです。
帰宅後、早速を内容を調べましたら、熊本日日新聞の2007年7月3日に阿部重夫さんという方が書評を書いて、本のあらすじも紹介してありました。
人間の生涯とはどういうものかと深く考えさせる内容なので、阿部重夫さんの書評を抜粋して以下にお送りいたします。
なお全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.htmlに出ています。
・・・・・・タイトルを見ただけでつい手に取った。が、よくある敗走記でも抑留手記でもない。満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれたモンゴル人、ソヨルジャブの信じ難いような波瀾の生涯である。
昭和20年(1945年)8月9日未明、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員だった彼は、突如飛来したソ連軍機の空襲に遭った。数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学した。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転した。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ(一期上には『生き急ぐ』の故内村剛介がいた)経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
同じ運命をたどったモンゴル人に、戦前「徳王」と呼ばれたドムチョクドンロブがいる。内モンゴルで諸侯を集めて会議を開き、自治を求めて蒋介石軍と戦った。のち日本軍の協力で蒙古連合自治政府を樹立した。汪兆銘の「内モンゴル版」とも言えたが、日本敗戦後も逃げず、49年に最後の決起を試みる。
が、衆寡敵せず、外モンゴルに逃れた。ウランバートルでは監獄が待っていた。7カ月の訊問を受けたのち中国へ送還、北京の監獄に幽閉され13年後に獄死している。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこに9年半――。65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない……。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に協力した人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。彼に比べれば、わが叔父はまだしも幸運だったかもしれないが、どんな人生も比較できない。
ソヨルジャブは存命らしい。名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校した。いまはフフホトで暮らす。この本は自伝ではなく、日本の元出版人がフリーランスで書いた労作だ。筆力があって読みやすいが、物語仕立てより史書で読みたかった。どこまでが聞き書きで、資料のどこを参照したかの注がほしい。
ソヨルジャブの背後には、黙したまま去った無数の死者がいる。わが叔父もわが父母ももう世にない。
風吹草低見牛羊――。(終わり)
下の写真はソヨルジャブの生まれたハイラル近辺の風景です。