後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の午後、大学時代の友人の竹内義信さんにお会いし、かつての満州国のハイラルという町に関するお話をいろいろお聞きしました。
その中に細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』という本の話が出て来ました。
満州国の官吏になったモンゴル人の悲劇的な一生を描いた本だそうです。
帰宅後、早速を内容を調べましたら、熊本日日新聞の2007年7月3日に阿部重夫さんという方が書評を書いて、本のあらすじも紹介してありました。
人間の生涯とはどういうものかと深く考えさせる内容なので、阿部重夫さんの書評を抜粋して以下にお送りいたします。
なお全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.htmlに出ています。
・・・・・・タイトルを見ただけでつい手に取った。が、よくある敗走記でも抑留手記でもない。満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれたモンゴル人、ソヨルジャブの信じ難いような波瀾の生涯である。
昭和20年(1945年)8月9日未明、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員だった彼は、突如飛来したソ連軍機の空襲に遭った。数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学した。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転した。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ(一期上には『生き急ぐ』の故内村剛介がいた)経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
同じ運命をたどったモンゴル人に、戦前「徳王」と呼ばれたドムチョクドンロブがいる。内モンゴルで諸侯を集めて会議を開き、自治を求めて蒋介石軍と戦った。のち日本軍の協力で蒙古連合自治政府を樹立した。汪兆銘の「内モンゴル版」とも言えたが、日本敗戦後も逃げず、49年に最後の決起を試みる。
が、衆寡敵せず、外モンゴルに逃れた。ウランバートルでは監獄が待っていた。7カ月の訊問を受けたのち中国へ送還、北京の監獄に幽閉され13年後に獄死している。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこに9年半――。65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない……。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に協力した人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。彼に比べれば、わが叔父はまだしも幸運だったかもしれないが、どんな人生も比較できない。
ソヨルジャブは存命らしい。名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校した。いまはフフホトで暮らす。この本は自伝ではなく、日本の元出版人がフリーランスで書いた労作だ。筆力があって読みやすいが、物語仕立てより史書で読みたかった。どこまでが聞き書きで、資料のどこを参照したかの注がほしい。
ソヨルジャブの背後には、黙したまま去った無数の死者がいる。わが叔父もわが父母ももう世にない。
風吹草低見牛羊――。(終わり)
下の写真はソヨルジャブの生まれたハイラル近辺の風景です。


馬酔木、福寿草、金縷梅、白梅、紅梅がそれぞれ静かに咲いていました

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から快晴です。午前中に神代植物公園へ家内と散歩に行きました。
アシビ、フクジュソウ、マンサク、白梅、紅梅がそれぞれ静かに花開いていました。
季節が巡ると花々は自然に咲き出すのです。早春の空のひんやりとした空気の中でそれそれぞれがひっそりと咲いていました。























日本の農業と農協の問題を考える(1)農協と農家の関係のいろいろ

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「安倍総理の農協改革は農民の貧富の差を拡大し、農業を破壊する」 と題する記事を書きました。
農協は農家の米や野菜の生産を助ける有難い存在だったのですが、現在はどうもそうではないようです。
そうしたらFace Bookの会員の方から以下のようなコメントを頂きました。
(1)松尾 清司さんのご意見:
うちは貧乏農家です。真っ先に抹殺され、死に至らしめられるかもしれません!利益を得るのは政治家でしょう。国民のための政治をしなければいけないのに、貧乏農家をどんどん切り捨てていいのでしょうか。これらは月に数十万以上もいただいているサラリーマンには理解のできないところでしょうね。皆さん、少し貧乏暮らししてみませんか?
上のご意見に対して、大澤 善信 さんからのご意見:農協がしっかりと農業に取り組み、そういう農家を支援している地域と、もう全く金融機関になってしまっているようなところと。
(2)山下時義さんからのご意見:
後藤和弘さん色々考え方は異なりますが、今の農業制度が日本農業を弱体化させたと考えています。農協改革大賛成です!私や親戚も農業生産法人を立ち上げ頑張っていますが、TPPをチャンスと考え前向きに頑張って行こうと思っています。
(3)Sumio Mishima さんからのご意見:
カミさんの実家がある村落の米作り(地主15~20軒程度)は地元の農業専業者を中心にして会社化しています。後継者が農業をしなくなっていますが農業用地を売ろうとしません(カミさんも含めて)。作業員は農地を貸している人が日当を貰って作業をしています。機械は会社のを使用しますから個々に持つより経費は掛かりません。しかし会社化しても補助金が売り上げの40%もあります。つまり小規模の会社(小村落)では補助金で経営が成り立っています。常時若い人を雇えるような会社経営でないと農業を継ぐ人がいなくなります。
流通に乗る農業製品は外国から輸入すればいいという考えもがありますが?補助金は税金ですが、税金で皆さんが食べる国産の農業製品は安くなっている事になります。農業を大型化しても外国産の単価に勝てないと思います。しかし、これからは単価が高くても安全で高品質で定期的に流通できる生産をしないと生き残れません(つまり優秀な会社化)。国産の農業製品を守ろうとすれば後継者を育てないと日本の農業は壊滅です。カミさんの地域は作業員が高齢化しているので、他所から若い作業員を連れてこられたら継続できますが?
・・・その他にも多数のご意見を頂きました。そこで判ったことは現在、日本の農業はいろいろな意味で揺れ動いているということです。
その上、農協がJAバンクとして巨大な資産を有し各種の金融業を展開し非常に大きな利潤を挙げています。農家の生産の援助を忘れて金融業に邁進しています。
( 週刊朝日 2015年2月6日、詳しくは(http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-559.html)をご覧下さい。
この一方で消費者につながる商社は世界中から美味しい食品を輸入しています。
そこで今日から「日本の農業と農協の問題を考える」という連載を始めようと思います。いろいろなご意見を頂けたら感謝します。どうぞ違った視点からのご指摘をお願い申し上げます。
今日の写真はどこにでもある何気ない日本の農村風景です。
3枚の写真の出典は、http://www.kabegamikan.com/htm/です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)