後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

追悼 国際ジャーナリスト・後藤健二さん

2015年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

追悼 国際ジャーナリスト・後藤健二さん

以下は私の書いた追悼記ではなく、
(http://www.christiantoday.co.jp/…/memorial-message-journali…) からの転載です。

深い悲しみを覚えます。ここに、後藤さんのご家族に謹んで哀悼の意を表したいと思います。悲しみに沈むご家族の内に、主なるイエス・キリストが共にいて慰めと平安を下さいますように。
昨年10月末にシリアに渡航したとされる後藤さんからは、ちょうどその時期、毎月1回の掲載を予定していた連載コラムの最初の寄稿「戦争に行くという意味」を頂きました。これが最初で最後のコラムになってしまうとは、想像すらしていませんでした。
後藤さんの霊は、今、神様の御許(みもと)にあります。数カ月にわたる恐怖、不安から解放され、安らぎを得ていることでしょう。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3〜4)
聖書は、天国についてこのように語っています。後藤さんは、たくさん流した涙がぬぐい去られ、悲しみも嘆きもない場所にいるのだと思います。
しかし、この世に残された私たちには、それを知りつつも、後藤さんを失った悲しみが残ります。もう後藤さんにこの地上で会うことができないのか、彼の口から話を聞くことはできないのか、もう二度と別れの握手を交わすこともできないのか・・・。
後藤さん、どんなに苦しかったでしょう、どんなに寂しかったでしょう、どんなにつらかったでしょう、どんなに無念だったでしょう・・・。
昨年5月のインタビュー記事を何度も読み返しました。あの時もシリアに向かう前日でした。「今回は、今までで一番危険かもしれない」。そう言って、少し緊張した横顔を見せた彼を今も忘れません。それでも、数週間後に帰国した後藤さんは、いつものように時折SNSやメールを通して連絡をくれました。テレビでの出演も多く、元気で活躍している姿に安堵したものです。
別れ際はいつも「気をつけてくださいね。またお会いしましょうね」と声を掛けました。後藤さんは決まって「大丈夫。無理はしないから。またお会いしましょう」と笑顔を見せてくれました。そう、あのシリア入国前に見せた「必ず生きて帰りますけどね」と語ったあの笑顔です。誰にでも安心感を与えるような温かなあの笑顔に、もう会うこともできないと思うと、寂しさで胸が張り裂ける思いです。
インタビュー記事の中で、「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と語っていた後藤さんを思い出します。この言葉を話し終えた後、少しだけ寂しそうな顔をして、クスッと笑ったように見えました。昔のことを思い出して恥ずかしかったのか、それとも「そんなこと、起こるわけないだろう」と自答したのか・・・。
荒い岩砂漠の土の上にひざまずき、ナイフをかざされ、死を前に何を祈り、何を思ったのか・・・。今は、推測しかできませんが、少なくとも彼が最期に遺した「この内戦が早く終わってシリアに平和を・・・」という言葉に嘘はないと思います。
「関心を持ち続けてほしい。シリアで起こっていることは、『遠い国で起きていることで、われわれ日本人に関係ないこと』ではないということを忘れないでほしい。なぜ僕がカメラを向けたときに、シリアの人々は話をしてくれるのか? それは、彼らがその映像を通して、日本にいる人たちに訴えたいことがたくさんあるからなのです」と、多くの講演会で後藤さんは語っていました。
彼が命を懸けて伝えたかったのは、イスラム国の恐ろしさでも、政府への不満でもなく、「なぜ、こんなことが世界で起きてしまっているのかを真剣に考えてほしい」ということではないかと思うのです。「分かち合い・奉仕・愛」の気持ちが世界中の人にあれば、あんな残忍な事件は起きないはずです。われわれ一人ひとりにできること、それはあらゆる状況下で暮らす人々のことに「関心」を持ち続けること。そして、隣人を思い、祈ることだと思います。
「後藤さんはキリスト者ですか?」と、初めて聞いた時のことを思い出します。
「そうです。不敬虔極まりないキリスト者ですが・・・」と、照れたように笑った顔。
後藤さん、あなたは不敬虔なキリスト者なんかじゃありません。立派なジャーナリストであり、立派なキリスト者でした。私たちは、あなたを誇りに思います。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
後藤さんと天国で再会する日を期待して。新聖歌508番「神共に在(いま)して」を心静かに賛美します。
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝身(ながみ)を離れざれ

(昨年5月に後藤健二さんをインタビューした本紙記者より)

キリスト教が後藤健二さんへどのような影響を与えたか?

2015年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム





昨日、上野公園で写真のような噴水とチューリップの花を見ながら考えたことです。
キリスト教が後藤健二さんへどのような影響を与えたかという問いに公平に答えるためには彼が何時洗礼を受けて、日本基督教団田園調布教会の信徒になったかを知る必要があります。
彼はまず戦争ジャーナリストになってから中年の時の1997年に受洗し、信徒になったのです。
取材対称を避難民の子供や弱者に焦点をあて戦争の悲惨さを世界中に訴え続けていた最中に洗礼を受けたようです。ですから彼の優しさと勇気は生まれつきの性格でありキリスト教とは関係のないことです。キリスト教の影響ではないのです。
それでは何故、彼は洗礼を受けたのでしょうか?
その動機については後藤さん自身が説明しています。シリアへの出国を翌日に控えた昨年の5月27日のインタビューの折りに以下のように答えています:
・・・・自分が神を信じ、キリスト教の信仰を持つようになったきっかけは、ある冬のクリスマス礼拝だったのです。当時、偶然、教会を訪れた時、そこで何か大きな存在がこの世にあることに気づきます。そしてそれまでの自分の人生がどこか傲慢であったことを大きく悔いたのです。それは1990年代初めの出来事でした。
すでに、国際ジャーナリストとして駆け出していた彼は、常に「死」と隣り合わせにいました。そのことを不安や恐怖に思わなかったわけではないのです。紛争地に出向くときは、ほとんど一人で飛行機に乗り、現地で通訳やドライバーなどとチームを組みます。
「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかななんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」・・・・と後藤さんが説明しています。(以上の文章の出典は、http://www.christiantoday.co.jp/…/1…/20140530/goto-kenji.htm です。)

ですからキリスト教が後藤健二さんへ与えたものは死を直前にしても静かにそれを受け入れる気持ちでした。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのですから。
しかし人間はこのことを120%信用しません。疑います。死を怖れます。苦しいです。
しかしほんの束の間、天国で父なる主イエス様が迎えてくださることを確信します。それは絶大な慰めになるのです。
そして刃物を持って脅迫している男を許すのです。この男は自分が何をしているのか判っていないのです。
そして自分の家族に感謝します。救出に努力してくれた全ての人々へ感謝します。
キリスト教はこの様な境地を後藤健二さんへ与えてくれたに違いありません。
後藤さんの所属教会の田園調布教会で11年間、2013年3月まで伝道牧会にいた田村牧師は後藤さんを讃えて以下のように言っています。
・・・・私たちは負の連鎖を断ち切るのに十分な力を持ち合わせていません。武器を放棄する十分な勇気もありません。しかし、確かにすべての武器を放棄された一人のお方を知っています。そのお方、後藤さんは、ご自分の命と引き換えに、その負の連鎖を断ち切ってくださいました。そして復活され、全く新しい希望の鎖があることを教え続けてくださっています。それゆえ目を上げて祈りましょう。もう一度祈りましょう。・・・・・
下に田園調布教会の写真を2枚掲載しっます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
後藤健二さんの略歴:
宮城県仙台市で末っ子として生まれる。
1991年に法政大学を卒業。東京放送系のテレビ番組制作会社を経て、1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立。アフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わる。
1997年に受洗し日本基督教団田園調布教会信徒となる。
2006年、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
2011年の東日本大震災では、被災地の石巻市や気仙沼市で日本ユニセフ協会の記録員を務めた。中東での取材中でアル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された。