後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東日本大震災後の韓国人の支援の様子を示す写真・・・我々は絶対に忘れない!

2015年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。
今日は、韓国人が我々を激励するために掲示したメッセージの写真を6枚お送りします。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detailから転載いたしました。

韓国の人々、本当に有難う御座いました。ご恩は絶対に忘れません!















手織り布のロマンを追い25年アジアに住んだ友人を偲ぶ

2015年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ひかるのさんは25年間、タイやネパールなどのアジアに住んでいた日本人です。
手織り布とその天然染色のロマンを求めてアジアを彷徨い、東京で蒐集した布の展覧会を開いていました。
そのことを彼のブログで知り、何度か展覧会に行き彼と親しくなりました。
しかしその後突然、2009年の12月に肺ガンが見つかり、2010年5月に東京の厚生年金病院で亡くなりました。
50歳くらいの短い一生でした。櫻が散るように短い一生を終えたのです。彼とは2年間位だけの淡い交際でした。
彼はタイのバンコックで貧しい一人のストリート・チルドレンを引き取り、育て上げ、息子としていました。
肺ガンになり、苦しい中でカトマンズとバンコックの家の整理をし、世話になった家主へ別れを告げました。お世話になったカトマンズの家主へ丁寧な感謝の言葉を残して永遠の別れをしたのです。
そしてタイの息子と永遠の別れをするのです。
その悲しみは彼のブログに書いてあるのです。
そのブログは「インド ブータン アジアの布 染織美術館」(http://asiancloth.blog69.fc2.com/)といい彼の死後5年経ちましたが現在でも見ることが出来ます。
このブログには、インドやネパールに25年以上棲んでいた間に撮影した写真が沢山掲載してありました。
アジアの人々の貧しさの中にも見える優しさや美しい情感が写し出されている写真が多かったのです。
そんな写真に感動して、このブログで彼の撮った写真を何度もご紹介したものです。下にその一例として彼が死の直前の2009年12月25日の自分で書いたブログの記事をご紹介します。
===タイ、バンコック、ルンビニパークにて=========
(http://asiancloth.blog69.fc2.com/blog-entry-1508.html)
すっかり小奇麗に整備されたルンビニパークの中をのんびり歩く。
乾期の12月も後半に入り、午前中の公園の中は まだ爽やかな涼しさが残っていて気持ちがよい。
汗も 少しかく程度で別段気にならない。
池のそばに近づいて 池の中の浮かぶ木切れにもたれかかるようにミズオオトカゲが日向ぼっこをしている。写真を撮ろうと 池の中にいるミズオオトカゲを見ながら少し移動すると近くで物音、そっちの方へと眼を向けると 陸の上で日向ぼっこをしているもう1匹のミズオオトカゲがいた。
彼も驚いただろうが、もっと驚いたのは私の方である。
池の中へと逃げ出して行くかと思ったが、そのまま日向ぼっこを続けていた。
やはり バンコクは 亜熱帯の動植物の世界なのである。
普段は 近代的な高層ビルに囲まれて そんなことを忘れている。
公園の中にも沢山のヤシの木やソテツがあるのが 当たり前の姿なのである。
花を咲かせる樹木だって 熱帯風の花を咲かせているのだ。
赤い花の名前を清掃の仕事をしている女の人に訊いたが、花の名前は知らず、この赤い花が食用になることは知っていた。
そのことの方が 花の名前を知ることより、重要な事なのだろう。
いつもはビルに囲まれ、自然を忘れてしまったような生活をしているが、自然が保全されているルンビニパークのようなところにやって来るとはっきりとバンコクの亜熱帯の自然を再確認することになる。
私が住んでいるMBKセンター(マーブンクロン)近辺は 市民が共有出来る自然といえば、センセーブ運河沿いにわずかに残る自然ぐらいのものだ。
伸び伸びと好き勝手に 自然に囲まれた中を動きまわることなど出来ない。
久し振りに広い公園の中をゆっくり歩きまわることで 自然と触れ合うことが出来た。
急いで歩きまわると 息苦しくなる体調であるが、体調に合わせて、ゆっくりと1時間半ばかり 散策した。
暑い季節なら 汗まみれになっているところであるが、午前8時過ぎの天候の中ではうっすら汗がにじみ出てくる程度だった。
再び、ゆっくり、ゆっくりと チュラロンコン病院へ向かって歩くことにした。
そろそろ 血液検査の結果が出る時間が近づいている。
この記事に掲載されていた4枚の写真をお送りします。







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私は毎年、毎年、春になるとひかるのさんのことを思い出します。2010年の晩春に亡くなったのです。
彼は時々、東京に帰って来てアジアの手織り布の展示会を開催していました。そこの会場を数回、お邪魔し、親しくお話も聞きました。
心やさしい人でした。亡くなる直前に病院へも一度お見舞いに行きました。病院へお見舞いに行ったのは私だけではありませんでした。
彼のブログの愛読者が多数、ひかるのさんを慕い病院へ見舞いに行ったのです。
インターネットの世界は「かりそめの世界」と言います。
しかし、その「かりそめの世界」の中でも、情愛あふれる人間の絆が確実に出来たのです。彼はお見舞いに来てくれた一人一人へタイやネパールの絹織物を宅急便で送ってから亡くなりました。遠方で見舞いに行けない人々は彼の蒐集品をネットで購入し彼の入院費用を支援したのです。
この人間の絆に私は感動しました。ひかるのさんへ対する温かい日本人の情愛が忘れられません。
彼の冥福を祈っています。さようならひかるのさん!
それはそれとして、皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

追記:それにしてもアジア諸国を放浪するようにして転々と住んでいた彼にもタイの男の子の養子が1人いたことに少しばかり心が和みます。以下に、最後にこの息子と新年会を開いたのです。その様子を書いた記事を彼のブログから転載します。どうぞ一読して上げて下さい。
====息子との最後の外食=================
バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて(投稿日:2010-01-06 Wed)
正月2日目は夕方から息子と二人で新年会を行うことにした。約束の時間は夕方の5時である。時間通りに 息子は5時にやってくる。いつもであれば、二人で市場やスーパーに行き、食べたい食材を買ってきて、作って食べるのであるが、今回は私の状態が こんな具合なので外で食べることにした。ペッブリー通りに並んでいる屋台で イサン料理でもと思ったが、私の病気のことを心配しているのか、刺激のある食べ物は避け、大型スーパー ロータスの1階にある飲茶を安く出すチェーン店 カントンハウスで食べることに決めた。以下省略。