日本におけるキリスト教はフランシスコ・ザビエルによって1549年に伝えられ、西日本を中心に急速に広がりました。最初のキリシタン大名、大村純忠によりイエズス会に寄進された長崎は、日本におけるキリスト教布教の中心となりました。多くの教会や関連施設が建てられ、南蛮貿易の中心地としてキリシタン文化が花開きました。その繁栄ぶりは、当時の記録に「日本における小ローマ」として記されています。
またキリシタン大名、有馬晴信が所領していた島原半島南部には日野江城下にセミナリヨがおかれ、大名の子弟らが西洋文化を学びました。ここで学んだ天正遣欧使節の4人の少年たちは海を渡り、ローマ教皇に謁見を果たし、ヨーロッパ世界に日本を知らしめました。
全国統一を目指す豊臣秀吉は、「伴天連(ばてれん)追放令」を発して長崎を直接支配し、1597年には宣教師やキリシタン26人を処刑しました(26聖人殉教事件)。これに続く徳川幕府も1614年に禁教令を発し、キリスト教弾圧が本格化します。そのため当時長崎にあった教会もすべて破壊されてしまいました。
その後、1637年の島原の乱をきっかけに、鎖国が完成します。こうした状況のなか、ローマ教皇庁では日本のキリスト教は完全に根絶したと考えられていました。
しかし、厳しい弾圧にもかかわらず、教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくり、潜伏してキリスト教の信仰を守り続けていました。また、信徒たちの中には信仰の継続のため、海を渡り五島列島に移住する者もいました。
ペリーの来航による開国を機に、パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎でも、外国人神父により居留地に大浦天主堂が建設され、1865年献堂式が行われました。その数日後、浦上の信徒十数名が現れ、プチジャン神父に信仰を告白します。
これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。この「信徒発見」の知らせは、世界中を駆け巡り、大きな衝撃と感動を与えました。禁教から250年もの間、信徒たちは自らで洗礼やオラショを伝承していたのです。その後、長崎港外の島々や外海、五島、平戸、天草に潜伏していた信徒たちも次々と神父の指導の下に入っていきました。
しかし、明治政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧事件が起こります。信仰の自由が認められたのは、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去された後のことでした。
1873年、禁教の高札が撤去されると県内各地に教会が建てられました。こうした歴史を経て建てられた教会は、九州の北西部に濃密な分布を示し、特に長崎県内には現在でも130以上の教会が点在しています。
それらの教会の多くは潜伏して信仰を継承してきた地区などに、外国人神父の指導のもと、日本人大工と信徒が自らの財力と労力を捧げて造ったものです。信仰を守り続けてきた信徒の強い想いが込められた、まさに「信仰の証」です 。
そして明治維新以後はいろいろなプロテスタン宗派やロシア正教やイギリスの聖公会などが日本へ導入され現在のキリスト教徒が300万人に増加したのです。
以下の写真と教会の説明文は、「長崎の教会」http://www1.odn.ne.jp/tomas/ から転載致しました。
上の写真は、下五島地区の井持浦教会です。
明治28年(1895)全五島の司牧宣教を委ねられたフランス人宣教師アルベルド・ペルー師の指導によって建立された聖堂で、島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリとなった。設立当初は両外側にアーケードを持つ、初のロマネスク風聖堂として名を馳せたが、大正13年(1924)室内拡張のためアーケードを堂内に取り組んだ。教会境内にあるルルドは、フランスのルルドを模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、明治32年(1899)に建設されたルルドで、聖母像は本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎいれた。
日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たないそうです。
上の写真は、下五島地区の浜脇教会です。
明治14年(1881)に建立された最初の天主堂は潮風に晒されて痛みが激しく、昭和6年(1931)五島では最初の鉄筋コンクートの教会として建立された。
解体された旧聖堂は五輪地区に移されて、巡回教会として使用されていたが、現在は県指定有形文化財として保存されている。
上の写真は、上五島地区の頭ケ島教会です。
頭ヶ島は幕末まで無人島であったが、鯛ノ浦キリシタンが、安政6年(1869)迫害を逃れて住み着いた。明治3年ドミンゴ松次郎が、長崎にてプチジャン師の教えを受けて島に帰り、住家を青年伝導士養成所とし、仮聖堂を置いたのが始まり。明治20年(1887)最初の教会を建設したが、明治43年(1910)司祭館の建設で自信を得た大崎八重師は、長崎から招いた石工(佐藤某)や大工鉄川与助等の指導を得て、松次郎の屋敷跡に、島で産出する石材による総石造りの聖堂の建設に着手、7年余の歳をかけて大正6年(1917)、ロマネスク様式の石造り天主堂が完成、大正8年(1919)5月14日コンバス司教によって祝別された。
上の写真は、平戸ザビエル記念教会です。
以前上神崎教会の巡回地であったが、昭和6年(1931)4月新聖堂の落成・献堂とともに早坂久之助司教によって設立された。
現在平戸は商工、行政、教育、交通などあらゆる面において県北の中心である関係上、当教会は平戸、松浦、北松浦地区の主管教会である。
上の写真は、大曽教会です。 大曽は巡回地の跡次と共に地区住民の100%がカトリック信徒で、昔ながらの信仰を中心とした生活のリズムが保たれている。
一方、町の中心地にある青方巡回教会区域は、上五島各地から転入した信徒によって構成され、比較的若年層の信徒によって新しい感覚の教会づくりがなされ、対照をなしている。
眼下に見下ろす青方湾の入口内にある折島は、キリシタンの島で、昭和5年(1930)から巡回教会が置かれていたが、日本石油公団によって全島が買収され、上五島石油備蓄基地が建設されたため、住民は青方へ移住し、昭和38年(1963)改築された教会は閉鎖された小値賀町を撤退したマリアの宣教者フランシスコ修道会が、昭和47年(1972)から町立の保育所の運営と小教区の奉仕に当たっていたが昭和63年(1988)撤収した。
またキリシタン大名、有馬晴信が所領していた島原半島南部には日野江城下にセミナリヨがおかれ、大名の子弟らが西洋文化を学びました。ここで学んだ天正遣欧使節の4人の少年たちは海を渡り、ローマ教皇に謁見を果たし、ヨーロッパ世界に日本を知らしめました。
全国統一を目指す豊臣秀吉は、「伴天連(ばてれん)追放令」を発して長崎を直接支配し、1597年には宣教師やキリシタン26人を処刑しました(26聖人殉教事件)。これに続く徳川幕府も1614年に禁教令を発し、キリスト教弾圧が本格化します。そのため当時長崎にあった教会もすべて破壊されてしまいました。
その後、1637年の島原の乱をきっかけに、鎖国が完成します。こうした状況のなか、ローマ教皇庁では日本のキリスト教は完全に根絶したと考えられていました。
しかし、厳しい弾圧にもかかわらず、教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくり、潜伏してキリスト教の信仰を守り続けていました。また、信徒たちの中には信仰の継続のため、海を渡り五島列島に移住する者もいました。
ペリーの来航による開国を機に、パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎でも、外国人神父により居留地に大浦天主堂が建設され、1865年献堂式が行われました。その数日後、浦上の信徒十数名が現れ、プチジャン神父に信仰を告白します。
これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。この「信徒発見」の知らせは、世界中を駆け巡り、大きな衝撃と感動を与えました。禁教から250年もの間、信徒たちは自らで洗礼やオラショを伝承していたのです。その後、長崎港外の島々や外海、五島、平戸、天草に潜伏していた信徒たちも次々と神父の指導の下に入っていきました。
しかし、明治政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧事件が起こります。信仰の自由が認められたのは、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去された後のことでした。
1873年、禁教の高札が撤去されると県内各地に教会が建てられました。こうした歴史を経て建てられた教会は、九州の北西部に濃密な分布を示し、特に長崎県内には現在でも130以上の教会が点在しています。
それらの教会の多くは潜伏して信仰を継承してきた地区などに、外国人神父の指導のもと、日本人大工と信徒が自らの財力と労力を捧げて造ったものです。信仰を守り続けてきた信徒の強い想いが込められた、まさに「信仰の証」です 。
そして明治維新以後はいろいろなプロテスタン宗派やロシア正教やイギリスの聖公会などが日本へ導入され現在のキリスト教徒が300万人に増加したのです。
以下の写真と教会の説明文は、「長崎の教会」http://www1.odn.ne.jp/tomas/ から転載致しました。
上の写真は、下五島地区の井持浦教会です。
明治28年(1895)全五島の司牧宣教を委ねられたフランス人宣教師アルベルド・ペルー師の指導によって建立された聖堂で、島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリとなった。設立当初は両外側にアーケードを持つ、初のロマネスク風聖堂として名を馳せたが、大正13年(1924)室内拡張のためアーケードを堂内に取り組んだ。教会境内にあるルルドは、フランスのルルドを模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、明治32年(1899)に建設されたルルドで、聖母像は本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎいれた。
日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たないそうです。
上の写真は、下五島地区の浜脇教会です。
明治14年(1881)に建立された最初の天主堂は潮風に晒されて痛みが激しく、昭和6年(1931)五島では最初の鉄筋コンクートの教会として建立された。
解体された旧聖堂は五輪地区に移されて、巡回教会として使用されていたが、現在は県指定有形文化財として保存されている。
上の写真は、上五島地区の頭ケ島教会です。
頭ヶ島は幕末まで無人島であったが、鯛ノ浦キリシタンが、安政6年(1869)迫害を逃れて住み着いた。明治3年ドミンゴ松次郎が、長崎にてプチジャン師の教えを受けて島に帰り、住家を青年伝導士養成所とし、仮聖堂を置いたのが始まり。明治20年(1887)最初の教会を建設したが、明治43年(1910)司祭館の建設で自信を得た大崎八重師は、長崎から招いた石工(佐藤某)や大工鉄川与助等の指導を得て、松次郎の屋敷跡に、島で産出する石材による総石造りの聖堂の建設に着手、7年余の歳をかけて大正6年(1917)、ロマネスク様式の石造り天主堂が完成、大正8年(1919)5月14日コンバス司教によって祝別された。
上の写真は、平戸ザビエル記念教会です。
以前上神崎教会の巡回地であったが、昭和6年(1931)4月新聖堂の落成・献堂とともに早坂久之助司教によって設立された。
現在平戸は商工、行政、教育、交通などあらゆる面において県北の中心である関係上、当教会は平戸、松浦、北松浦地区の主管教会である。
上の写真は、大曽教会です。 大曽は巡回地の跡次と共に地区住民の100%がカトリック信徒で、昔ながらの信仰を中心とした生活のリズムが保たれている。
一方、町の中心地にある青方巡回教会区域は、上五島各地から転入した信徒によって構成され、比較的若年層の信徒によって新しい感覚の教会づくりがなされ、対照をなしている。
眼下に見下ろす青方湾の入口内にある折島は、キリシタンの島で、昭和5年(1930)から巡回教会が置かれていたが、日本石油公団によって全島が買収され、上五島石油備蓄基地が建設されたため、住民は青方へ移住し、昭和38年(1963)改築された教会は閉鎖された小値賀町を撤退したマリアの宣教者フランシスコ修道会が、昭和47年(1972)から町立の保育所の運営と小教区の奉仕に当たっていたが昭和63年(1988)撤収した。