後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

早春でも南房総のフラワーラインは花盛りです

2015年02月23日 | 写真
関東に住んでいる人々が週末に家族で旅をする場合には、とかく富士・箱根・伊豆半島へ行くことが多いようです。宿泊設備がととのっていて、サービスも洗練されています。
一方、房総半島はなんとなく敬遠されがちです。よく言えば素朴で、洗練されていないのです。
しかし房総半島の南岸には黒潮ラインという自動車道路があります。信号のある普通道路なので青い海と花畑の景観を楽しみながらゆっくり走れます。フラワーラインは館山から和田まで46キロメートル続いています。
車窓から見ているとカラフルな花畑の間に懐かしい菜の花畑が点在しています。
ここにお送りする五枚の写真は「ちくら潮風王国」 (http://shiokaze-oukoku.jp/)の周囲の畑の中の写真と、道の駅「ローズマリー公園」 (http://www.rosemary-park.jp/)の外側に広がっていた菜の花畑の写真です。
昨年の3月14日、15日と白浜房総ホテルに一泊して撮った写真です。
特に千倉では花畑に入って好きなだけ花摘みが出来るのです。自分の気に入った色彩の花を切って大きな花束が作れるのです。
もちろん有料ですが都会の花屋さんと比べると非常に安価な上、自分で花を取る楽しみが素晴らしいのです。場所は「道の駅ちくら潮風王国」(http://shiokaze-oukoku.jp/)の向かい側に花摘みの受付をする出店が沢山並んでいます。その前に無料駐車場が広がっています。
花を切り取るときは長く、茎の根元で切ります。花束が出来ると農家のおばさんが束が萎れないように新聞紙で包み、細長いビニール袋に入れてくれます。
春の陽光が射し、生暖かい潮風が公園の向こうの海から吹きこんでいました。沖を黒潮が流れているので一足早く春がきたようです。
南房総の花々の栽培は遠く明治時代に間宮七郎兵衛という栽培家の努力によって始まったと伝えられています。
春の陽光が射し、生暖かい潮風が吹いている花畑の様子をご想像しながら5枚の写真をお楽しみ下さい。













消えてしまったハイラル小学校と同窓会誌、「草原明珠」のこと、その一

2015年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

(上のハイラル草原の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%AB%E5%8C%BA です。)
上の写真は現在、中国の東北にあるフルンバイル平原の風景です。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。
この平原に昔、ハイラルという町があり日本人が沢山住んでいました。
今、私のキーボードの隣に「草原明珠」という部厚い本があります。2001年に発刊された720ページの本です。この本は昔あった日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁した立派な本です。国会図書館にも納められています。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し指導した日本の教育をしていたのです。その全てが敗戦とともに、うたかたのように消えてしまったのです。母校喪失です。この悲しみの記憶を忘れないことが将来の日本にとって非常に重要なことだと思います。
そこでその一例としてかつての満州にあったハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」について、その概略をご報告します。以下のような順序で説明したいと思います。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
さてそれでは順々に、そして簡略に説明いたします。
(1)満州帝国のハイラルと日本の国益
ハイラルは満州の北の国境の町で強大なソ連軍に対抗する日本軍の大規模な軍隊と、その軍隊が立てこもる地下3階におよぶ要塞が置かれていたのです。
まさしく日本の国益を守る最前線だったのです。現在、若い日本人はこのハイラルという名前さえ知らない人も多いようです。
そこでもう少し詳しく書きます。
ハイラル要塞は1934年(昭和9年)6月から建設が開始され、1937年(昭和12年)に完成しました。主に関東軍の第8国境守備隊が要塞の守備を担当し、最大3万人が収容できるような中国大陸でも屈指の要塞であったのです。
1939年(昭和14年)のノモンハン事件に際しては、この要塞から長谷部理叡大佐の部隊が編成されて出動しましたが、大きな損害を受け退却しました。退却の責任をとって、長谷部大佐、酒井大佐、井置中佐は自決したそうです。
詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%8B%89%E7%88%BE%E8%A6%81%E5%A1%9E  にあります。
現在では史跡として一般に公開されており、戦死したソ連兵の慰霊碑や墓地があるそうです。
ハイラル要塞建設には、現地の中国人が徴用され、過酷な強制労働により2万人以上が死亡したと言われていることも忘れてはいけない歴史です。
(2)ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
ハイラル小学校の歴史についてはその同窓会報の合本の「草原明珠」に私の友人の竹内義信さんが書いています。それによるとハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。その歴史の詳細は省略しますが、最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
(3)同窓会の発足とその解散
ちりぢりになって引き揚げた同窓生がハイラル小学校の同窓会を結成したのは戦後30年も経過した昭和50年代の後半でした。そして第一回の全国同窓会が昭和57年に開催されたのです。そして翌年から毎年のように同窓会が開催され、その同窓会誌も発行されたのです。
その会誌は年に2回のもありましたので全部で40巻以上になります。その全てを合本し、装丁したのが「草原明珠」という部厚い本なのです。
なお竹内義信さんからのメールによると、この同窓会は平成17年(2005年)に解散したそうです。約20年の活動でした。
そしてこの同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
日本のハイラル小学校消滅から約30年経過してからやっと同窓会組織が出来た事実、そして同窓生の老齢化にしたがって50年後の2005年に同窓会組織が解散した事実は我々にいろいろなことを想像させます。
引き揚げと、戦後の生活の辛酸さ、やっと生活が落ち着いて昔の母校の同窓会の開催するまでの同窓生の心の揺れ動きは想像にあまりあるにものがあります。そしてハイラルの町への友好訪問の時の歓喜も涙を誘います。
現在、安倍総理が旗を振って日本の軍備強化をしています。日本民族が大きく舵を切ろうとしています。こんな時にあたって、かつてのハイラル小学校にまつわる悲劇を忘れないことが重要だと私は信じています。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)