80年の私の生涯において朝鮮の方々と幾度か親しい交流がありました。それは子供の頃友達になった一人の朝鮮人の少年のことから、人生の後半まで時々起きた不思議な出来事でした。
今日はその一つの金鉄佑さんのことを書いてみたいと思います。
しかしその前に朝鮮の歴史を簡単にご紹介したいと思います。
日本と朝鮮の交流が盛んだった時代は古墳時代だったといいます。日本の古墳と同じような古墳が韓国の慶州に沢山あるのです。日本で副葬された刀や槍、そして馬具などは韓国の古墳から出て来るものと全く同じなのです。埼玉県の行田の古墳と韓国の慶州の古墳の両方を見た私はその類似性に吃驚したものです。古墳の形だけでなくいろいろな副葬品が全く同じなのです。
それはそれとして古墳時代の後の飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国のことは学校でよく習います。日本と同盟した百済が滅び新羅と高句麗が栄えます。
これらの三国の後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
このように整理すると朝鮮の歴史は分かりやすいのです。しかしこの整理の仕方は簡略化のし過ぎです。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。そのたびに高麗や李朝は戦ったり和議を結んだり苦難の歴史を歩んだのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。
その日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍を撃退されました。現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
さて朝鮮の歴史でもう一つ重要なことは地方、地方によって歴史が違うことです。現在でも百済、新羅、高句麗のあった地方はそれぞれ異なる文化と政治意識を持っていると聞きます。
以上が朝鮮の歴史を簡略にしたものです。
さて話は飛びますが、ここで金鉄佑さんのことをご紹介したいと思います。
彼は私を韓国へ招待してくれた人でした。一昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。
話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。
金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったので、私は金鉄佑さんと一度も会ったことがなく20年近い月日が流れました。
そして1984年頃、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大丘やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私はその時、始めて韓国を訪問したのでしたが、人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとははじめて会いましたが、旧知の仲のように雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
金さんは雀部教授から受けた恩を縷々話していたのです。その後いろいろな韓国人と酒席を共にして話し合いました。すると彼等はお世話になった日本人を絶賛するのです。
この気質や文化は現在でも変わっていないと私は信じています。
なお「金鉄佑」のことは、http://www.e-gci.org/15GCF/15GCF.html に出ています。
今日の挿絵写真は韓国の世界遺産の南漢山城の2枚の写真と同じく世界遺産の済州島の王宮の写真と仏教のお寺の本堂の3枚の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)




今日はその一つの金鉄佑さんのことを書いてみたいと思います。
しかしその前に朝鮮の歴史を簡単にご紹介したいと思います。
日本と朝鮮の交流が盛んだった時代は古墳時代だったといいます。日本の古墳と同じような古墳が韓国の慶州に沢山あるのです。日本で副葬された刀や槍、そして馬具などは韓国の古墳から出て来るものと全く同じなのです。埼玉県の行田の古墳と韓国の慶州の古墳の両方を見た私はその類似性に吃驚したものです。古墳の形だけでなくいろいろな副葬品が全く同じなのです。
それはそれとして古墳時代の後の飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国のことは学校でよく習います。日本と同盟した百済が滅び新羅と高句麗が栄えます。
これらの三国の後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
このように整理すると朝鮮の歴史は分かりやすいのです。しかしこの整理の仕方は簡略化のし過ぎです。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。そのたびに高麗や李朝は戦ったり和議を結んだり苦難の歴史を歩んだのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。
その日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍を撃退されました。現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
さて朝鮮の歴史でもう一つ重要なことは地方、地方によって歴史が違うことです。現在でも百済、新羅、高句麗のあった地方はそれぞれ異なる文化と政治意識を持っていると聞きます。
以上が朝鮮の歴史を簡略にしたものです。
さて話は飛びますが、ここで金鉄佑さんのことをご紹介したいと思います。
彼は私を韓国へ招待してくれた人でした。一昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。
話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。
金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったので、私は金鉄佑さんと一度も会ったことがなく20年近い月日が流れました。
そして1984年頃、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大丘やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私はその時、始めて韓国を訪問したのでしたが、人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとははじめて会いましたが、旧知の仲のように雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
金さんは雀部教授から受けた恩を縷々話していたのです。その後いろいろな韓国人と酒席を共にして話し合いました。すると彼等はお世話になった日本人を絶賛するのです。
この気質や文化は現在でも変わっていないと私は信じています。
なお「金鉄佑」のことは、http://www.e-gci.org/15GCF/15GCF.html に出ています。
今日の挿絵写真は韓国の世界遺産の南漢山城の2枚の写真と同じく世界遺産の済州島の王宮の写真と仏教のお寺の本堂の3枚の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)




