どこの国にも善人とそうでない人が住んでいます。そして全ての民族文化には絶対に優劣が無いとも言います。しかし最近になって北朝鮮人はもとより韓国人を差別し、一方的にあしざまに言う日本人が増えてきました。
私はその差別と非難は間違いであると思います。その趣旨で昨日まで、「80歳になって日韓友好を祈る」と題して3回の連載記事を書いて来ました。
それに対していろいろと考えさせるご意見を沢山頂きました。まだ連載は続けるつもりですが、一休みして少し考えてみようと思います。
そこで昨日は三浦半島の葉山、森戸海岸、長者ケ岬、佐島港とドライブしながら静かに考え直してみました。相模湾の海と空の風景をゆっくり写真に撮りながら考えると広い気持ちになります。本来人間の持っている性質は民族に関係なく同じだと感じるのです。
昨日撮った写真をここに示します。





今日書きたいことはたった一つです。簡単に言ってしまえば「他人を差別し非難する人は、その人自身が不幸になる」という考えです。
他人を何かの理由で差別すると快感を覚ええます。そして他人をあしざまに非難すれば自分が他人より偉くなって気持ちが良いものです。
ですから人間はついそうします。私も何度も繰り返し他人を差別します。快感を覚えます。気持ちが良いものです。
しかし次の瞬間に暗いみじめな気持ちになります。自分がそのような悪性な心を持っていたことに落ち込むのです。80歳になって悟りの境地になったと偉そうなことを書いても、時々は暗い気持ちになります。その結果、差別し、あしざまに非難することは自分の心の貧しさなのだと確信します。
韓国人を差別する行為は韓国人と自分自身を傷つけるのです。差別は自分の心の貧しさの表れなのです。
貧しい心で人は幸福になれる筈はありません。ですから韓国人を差別し、一方的にあしざまに言う日本人は幸せになれないのです。このように私は信じています。いや信じたいと思います。
このように書くと必ず韓国人の遺伝子が悪く、いくら好意を示しても絶対に友人にはなれないと反論してくる人が幾人もいます。これは決定的に間違っています。人間の遺伝子はどの民族も似たり寄ったりです。ある民族だけが凶暴で復讐心がおおせいだということはあります。しかしそれはその民族のまわりの他の民族の行為がそのようにさせているのです。これが文化人類学の原則です。
ですから韓国人が仮に凶暴だとしたら隣国の北朝鮮と日本がそのようにさせているのです。
このような理解が客観的な理解というものです。
このように書くと必ず日本は戦後賠償も含めて韓国を手厚く援助してきたのに反抗していると非難する人が多いのです。この考えも主観的過ぎる理解です。問題は先方がどのように思っているかなのです。そのように考えるのが自分自身を幸せにさせる考え方です。それは自分の問題であり韓国人には関係の無いことなのです。
最後に、1985年にドイツのヴァイツゼッカー大統領がした演説の一節を示して終りといたします。
「・・・ドイツ人(ここを日本人と置き換えてお考え下さい)であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。・・・」
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
私はその差別と非難は間違いであると思います。その趣旨で昨日まで、「80歳になって日韓友好を祈る」と題して3回の連載記事を書いて来ました。
それに対していろいろと考えさせるご意見を沢山頂きました。まだ連載は続けるつもりですが、一休みして少し考えてみようと思います。
そこで昨日は三浦半島の葉山、森戸海岸、長者ケ岬、佐島港とドライブしながら静かに考え直してみました。相模湾の海と空の風景をゆっくり写真に撮りながら考えると広い気持ちになります。本来人間の持っている性質は民族に関係なく同じだと感じるのです。
昨日撮った写真をここに示します。





今日書きたいことはたった一つです。簡単に言ってしまえば「他人を差別し非難する人は、その人自身が不幸になる」という考えです。
他人を何かの理由で差別すると快感を覚ええます。そして他人をあしざまに非難すれば自分が他人より偉くなって気持ちが良いものです。
ですから人間はついそうします。私も何度も繰り返し他人を差別します。快感を覚えます。気持ちが良いものです。
しかし次の瞬間に暗いみじめな気持ちになります。自分がそのような悪性な心を持っていたことに落ち込むのです。80歳になって悟りの境地になったと偉そうなことを書いても、時々は暗い気持ちになります。その結果、差別し、あしざまに非難することは自分の心の貧しさなのだと確信します。
韓国人を差別する行為は韓国人と自分自身を傷つけるのです。差別は自分の心の貧しさの表れなのです。
貧しい心で人は幸福になれる筈はありません。ですから韓国人を差別し、一方的にあしざまに言う日本人は幸せになれないのです。このように私は信じています。いや信じたいと思います。
このように書くと必ず韓国人の遺伝子が悪く、いくら好意を示しても絶対に友人にはなれないと反論してくる人が幾人もいます。これは決定的に間違っています。人間の遺伝子はどの民族も似たり寄ったりです。ある民族だけが凶暴で復讐心がおおせいだということはあります。しかしそれはその民族のまわりの他の民族の行為がそのようにさせているのです。これが文化人類学の原則です。
ですから韓国人が仮に凶暴だとしたら隣国の北朝鮮と日本がそのようにさせているのです。
このような理解が客観的な理解というものです。
このように書くと必ず日本は戦後賠償も含めて韓国を手厚く援助してきたのに反抗していると非難する人が多いのです。この考えも主観的過ぎる理解です。問題は先方がどのように思っているかなのです。そのように考えるのが自分自身を幸せにさせる考え方です。それは自分の問題であり韓国人には関係の無いことなのです。
最後に、1985年にドイツのヴァイツゼッカー大統領がした演説の一節を示して終りといたします。
「・・・ドイツ人(ここを日本人と置き換えてお考え下さい)であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。・・・」
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)