昨日は秋晴れでした。東京都最大の湖、多摩湖の写真を撮りに行きました。
多摩湖は村山貯水池とも言い東京都の水道水の水源の一つです。そして都内にある湖としては最大の広さです。
昨日の多摩湖は水が碧色で美しい秋の風景でした。
湖の向こうに白いドームの西武球場の屋根が光っています。丸い屋根の右には西武遊園地の大きな森がまだ緑に輝いています。遠方にかすんでいる山並みは奥多摩の山々です。
ここ多摩湖は自宅から一番近い湖なので四季折々に行きます。そし広々した自然の風景を見て幸せな気分になります。昨日も幸せな老境のある日の午後でした。
昨日撮った5枚の写真をお送りします。5番目の写真のプラタナスの大木が黄葉すると感動的に美しくなります。それにしてもこの湖は都民の命を守る水なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
村山貯水池は、多摩湖の通称で呼ばれる、東京都東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られました。1927年(昭和2年)完成の東京都水道局水源管理の人造湖です。西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれています。東京都内の他県にまたがらない湖の中では最大です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E8%B2%AF%E6%B0%B4%E6%B1%A0 をご覧下さい。
建設背景です。
明治以降、人口増加及び水道改善目的で東京市は1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加及び一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久野村(現:日の出町)と、北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現:東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した。
着工・竣工の経緯です。
1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで10年の歳月をかけ建設されました。工事にあたり、資材運搬と導水管(羽村村山線)工事のために羽村-横田間(7.8Km)に軽便鉄道を1918年(大正7年)に着工し1921年(大正10年)に完成します。この鉄道は完成後1924年(大正13年)に廃線となり線路撤去を行ったが、1928年(昭和3年)に山口貯水池建設工事の際に羽村-横田間の線路引き直しを行い、横田-山口貯水池堰堤間の延伸工事を行い、1929年(昭和4年)には資材運搬に利用されたのです。廃線跡の一部は武蔵村山市は野山北公園自転車道として、羽村市は神明緑地として整備されています。
竣工後の話です。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、太平洋戦争中に爆撃対策として羽村山口軽便鉄道を復活させ砂利を運び、貯水池の堤体(堤防)の嵩上げ工事を行いコンクリートで強化しました。
1945年(昭和20年)、米軍により山口貯水池を含めて5回(4月4日、4月12日、5月25日、6月10日、6月11日)の爆撃を受けますが被害は軽微でした。戦争では都会の貯水池が攻撃目標になるのです。
戦後の1985年(昭和60年)に山口貯水池と合わせて近代水道百選(日本水道新聞社)に選ばれました。
以下省略します。
多摩湖は村山貯水池とも言い東京都の水道水の水源の一つです。そして都内にある湖としては最大の広さです。
昨日の多摩湖は水が碧色で美しい秋の風景でした。
湖の向こうに白いドームの西武球場の屋根が光っています。丸い屋根の右には西武遊園地の大きな森がまだ緑に輝いています。遠方にかすんでいる山並みは奥多摩の山々です。
ここ多摩湖は自宅から一番近い湖なので四季折々に行きます。そし広々した自然の風景を見て幸せな気分になります。昨日も幸せな老境のある日の午後でした。
昨日撮った5枚の写真をお送りします。5番目の写真のプラタナスの大木が黄葉すると感動的に美しくなります。それにしてもこの湖は都民の命を守る水なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
村山貯水池は、多摩湖の通称で呼ばれる、東京都東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られました。1927年(昭和2年)完成の東京都水道局水源管理の人造湖です。西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれています。東京都内の他県にまたがらない湖の中では最大です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E8%B2%AF%E6%B0%B4%E6%B1%A0 をご覧下さい。
建設背景です。
明治以降、人口増加及び水道改善目的で東京市は1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加及び一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久野村(現:日の出町)と、北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現:東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した。
着工・竣工の経緯です。
1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで10年の歳月をかけ建設されました。工事にあたり、資材運搬と導水管(羽村村山線)工事のために羽村-横田間(7.8Km)に軽便鉄道を1918年(大正7年)に着工し1921年(大正10年)に完成します。この鉄道は完成後1924年(大正13年)に廃線となり線路撤去を行ったが、1928年(昭和3年)に山口貯水池建設工事の際に羽村-横田間の線路引き直しを行い、横田-山口貯水池堰堤間の延伸工事を行い、1929年(昭和4年)には資材運搬に利用されたのです。廃線跡の一部は武蔵村山市は野山北公園自転車道として、羽村市は神明緑地として整備されています。
竣工後の話です。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、太平洋戦争中に爆撃対策として羽村山口軽便鉄道を復活させ砂利を運び、貯水池の堤体(堤防)の嵩上げ工事を行いコンクリートで強化しました。
1945年(昭和20年)、米軍により山口貯水池を含めて5回(4月4日、4月12日、5月25日、6月10日、6月11日)の爆撃を受けますが被害は軽微でした。戦争では都会の貯水池が攻撃目標になるのです。
戦後の1985年(昭和60年)に山口貯水池と合わせて近代水道百選(日本水道新聞社)に選ばれました。
以下省略します。