武蔵野には所々に泉がコンコンと湧いています。そこは昔から湿地帯になり幾つかの沼がつらなっています。そんな場所に石神井公園があります。私の家から車で40分くらいの所です。
昨日は好天気だったので午後に秋の陽射す石神井公園の写真を撮って来ました。
公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。
昨日撮って来た写真をお送りいたします。
写真の始めの3枚は東側につらなる石神井池です。4番目の写真は西にある三宝寺池です。
5番目の写真は三宝寺池に隣接した石神井城の遺跡の碑です。
さて鎌倉幕府が新田義貞によって倒されたのは1333年です。それ以後武蔵野は室町幕府が支配出来ず戦乱が続いたのです。現在の東京の地には数人の武装豪族が跋扈していました。しかし彼等は太田道灌よって滅ぼされ、その太田道灌は小田原の北条一族に滅ぼされたのです。関東はしばらく北条一族によって支配されていましたが、天正18年、1590年、豊臣秀吉に敗れます。そうして関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。
こんな激動の中に石神井城の運命があったのです。
その石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間しか城として存続しなかった悲劇的な城でした。
城は現在の石神井公園の三宝池の南岸の高台にあり1956年以降の発掘調査と文献調査により1400年頃から1477年まで豊島氏の本拠の城であったことが確認されています。
数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。5番目の写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。台地の上には現在、三宝寺になっています。
昨日の散歩は風もなく快適でした。散歩しながら太田道灌よって滅ぼされた豊島泰経とその家族の悲しい境遇を想いました。池の水面に秋の陽はあくまでも明るく射していました。屈託のない家内が小声で秋の童謡を歌っています。明日は豪徳寺の世田谷城阯公園へ行こうと思いながら帰って来ました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。
昨日は好天気だったので午後に秋の陽射す石神井公園の写真を撮って来ました。
公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。
昨日撮って来た写真をお送りいたします。
写真の始めの3枚は東側につらなる石神井池です。4番目の写真は西にある三宝寺池です。
5番目の写真は三宝寺池に隣接した石神井城の遺跡の碑です。
さて鎌倉幕府が新田義貞によって倒されたのは1333年です。それ以後武蔵野は室町幕府が支配出来ず戦乱が続いたのです。現在の東京の地には数人の武装豪族が跋扈していました。しかし彼等は太田道灌よって滅ぼされ、その太田道灌は小田原の北条一族に滅ぼされたのです。関東はしばらく北条一族によって支配されていましたが、天正18年、1590年、豊臣秀吉に敗れます。そうして関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。
こんな激動の中に石神井城の運命があったのです。
その石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間しか城として存続しなかった悲劇的な城でした。
城は現在の石神井公園の三宝池の南岸の高台にあり1956年以降の発掘調査と文献調査により1400年頃から1477年まで豊島氏の本拠の城であったことが確認されています。
数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。5番目の写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。台地の上には現在、三宝寺になっています。
昨日の散歩は風もなく快適でした。散歩しながら太田道灌よって滅ぼされた豊島泰経とその家族の悲しい境遇を想いました。池の水面に秋の陽はあくまでも明るく射していました。屈託のない家内が小声で秋の童謡を歌っています。明日は豪徳寺の世田谷城阯公園へ行こうと思いながら帰って来ました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。