後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦前の朝鮮における日本人の振る舞いと慰安婦問題の実態」

2020年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事、「日韓友好は日本の国益です」へ対して「むつさん」から以下のコメントを頂きました。
戦前の朝鮮における日本人の振る舞いと慰安婦問題の実態が分る内容なので特にお送りいたします。

===むつさんのコメント、 2020年10月15日 ===

私の父は朝鮮総督府の下級官吏をしていた父の実兄を頼り高等小学校を卒業後に朝鮮に移住しました。
そして京城高等専門学校、今のソウル大学に進学し卒業後日本の財閥系企業の現地企業に就職し終戦まで技師として働きます。
その過程で郷里から母を迎えて現地で私の姉を授かりました。

その父が生前話していたことです。
戦前朝鮮や満州に渉る日本人は日本では生活出来ない人達が多かったそうです。そんな日本人は差別意識丸出しで朝鮮の人達に当たったと言います。

父は朝鮮で日本式の高等教育を受けたのですが、同級生には現地の朝鮮人もいました。ですから日本では生活出来ないで移住した人々とは意識が違っていたと言います。

生活の為に朝鮮に来た日本人は露骨な差別意識を持ち理不尽な暴力を振るっていたのでした。終戦を迎えて立場が逆転します。今まで朝鮮人の労務管理として鉄拳を振るっていた会社の同僚は朝鮮人労働者から呼び出されて袋叩きに会い社宅の前に投げ捨てられていたそうです。

そしてある日父にも呼び出しが来ました。母は覚悟をしていたと言いますが、父は酒をご馳走になり、夜遅く千鳥足で帰って来たと言います。

父母は20年の11月に引き揚げました。
昭和50年の初頭だったと思いますが父の高専時代のクラスメートの朝鮮人が来日しました。私も同席しましたがそのクラスメートは引き揚げるまでの期間に何度か父母が住む社宅まで食料を持ってきてくれたと言います。

そしてここまでが前提なのですが韓国が主張する慰安婦の強制連行なのですが父も母もそして朝鮮総督府の官僚だった叔父も見た事も聞いた事もむ無かったと言います。

今の時代では有り得ない話なのですが日本でも娘の身売りはありました。親の借金や生活の為に娘を売る事が有った時代なのです。
そして日本国内でも生活の為に娘を売った事例がたくさんあったのです。そして当時の朝鮮でもそれは当たり前に有った事です。

人間としては決して有ってはならない事ですが、当時は人身売買が存在していたのです。これは恥ずべき事ですが。

然しながら現在の韓国側の主張では全てが日本側に依る慰安婦の強制連行にすり替わっています。そして韓国の慰安婦団体は世界各国に慰安婦像を設置ししようとしています。

そうして日韓関係に於いて韓国は慰安婦と言う外交カードは未来永劫使い続けるでしょう。

ついでに言えば、記事の表題「日韓友好は日本の国益です」にある国益と言う言葉は嫌いです。実態を伴わない言葉なので私は嫌いです。
この国益の為と言う言葉は古くから使われて来ましたが、この国益と言う言葉が使われる時、その時には国益の為には目を瞑れと言う暗黙の強制が伴うからです。(終わり)

以上のむつさんのコメントは戦前の朝鮮における日本人の振る舞いの実態を赤裸々に描いています。そして韓国が主張する慰安婦の強制連行を父も母もそして朝鮮総督府の官僚だった叔父も見た事も聞いた事もむ無かったと明言しています。
しかし日韓関係に於いて韓国は慰安婦と言う外交カードは未来永劫使い続けると予想しています。
日韓関係の難しさが分る重要なコメントなので改めて皆様へお送りいたします。

「桃源郷のような中国の西逓と宏村、世界文化遺産」

2020年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は日韓友好を進めたほうが良いという私の持論を掲載いたしました。そうしたら感情的になった方々から随分とお叱りのコメントを頂きました。そこで今日はお怒りを静めて頂くために桃源郷のような中国の古い村の写真をお送りいたします。
中国の南部にある黄山の麓に広がる安徽省の農村地帯の写真です。そこには山に囲まれた古い村落が散在し、昔から桃源郷と言わていました。
中でも西逓村と宏村の2つの村は世界文化遺産として認定され、世界的に大切にされているのです。そして明時代や清時代の暮らしが現在もそのまま伝えられているのです。
今日の写真と説明文は長谷川 大さんの『世界遺産ガイド」を参考にしました。(https://allabout.co.jp/gm/gc/325134/ )
西逓村と宏村は20Km離れていますが同じ地域です。この2つの村についてはいろいろ調べましたが、この長谷川 大さんの写真と紀行文がしみじみとしていて、とても感動的なものだったのでご紹介いたします。

この西逓村と宏村については中国人にさえほとんど知られていない辺境の村なのだそうです。
村には、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようなのです。

2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表しました。ここでも見事選ばれたのが、安徽省の西逓と宏村だったのです。
4~5世紀の詩人・陶淵明は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描いています。
中国人はこの外界から隔絶した2つの美しい村を「桃源郷」と呼び理想郷として憧れて来たのです。
西逓と宏村は美しい自然に囲まれた盆地なので桃源郷のモデルではないかという噂が立ち、やがて「小桃源」の名を冠するようになったのです。特に西逓の異名は「桃花源里人家」と呼ばれています。

長谷川 大さんの紀行文によると、西逓・宏村の両村を歩いていると雰囲気が素朴で都会とまったく違うそうです。
田舎の村のやさしさがあります。たとえば何かを忘れていっても盗まれることはないのです。困って立っていたらきっと誰か助けてくれるそうです。そんな安心感があるのです。
街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しいそうです。
陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でもありません。人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村 なのです。
前置きはこのくらいにして、それでは早速、写真で西逓村と宏村をご紹介致します。

1番目の写真は西逓の北20kmにある宏村の明・清時代の家並みと南湖です。白と青の淡い色彩がとても美しいです。

2番目の写真は宏村の街角風景です。西逓と宏村は家並み全体が世界文化遺産に認定されており、この中で人々は日々の生活を送っています。外には田園と山岳が広がっている農村なのです。

3番目の写真は宏村南湖の風景です。桃源郷と間違えられるだけある美しい景色です。

4番目の写真は西逓の街角です。長谷川 大さんによると、漆喰の白壁、灰褐色のレンガ、すがすがしい青空、水路を流れる清流……何気ない路地がたまらなく美しいそうです。

5番目の写真は外の畑から農産物を昔ながらの天秤棒で運んでいる光景です。のどかな風景です。

写真にある風景は皆様もいつか見たことのある懐かしい風景ではないでしょうか?何故か旧懐の情が胸を温かくします。それはしみじみとした人生のひと時です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===2村の歴史を詳しく知りたい方々の為に==============
西逓;;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%80%93%E6%9D%91
西逓村は中華人民共和国安徽省黄山市黟県西逓鎮にある村である。
11世紀、宋朝の元祐年間にある河川の西岸にできた。そのため、元の名を「西川」といった。物資輸送の駅として使用されたため西逓(「逓」は宿場)と呼ばれるようになり、また「桃花源裡人家」とも呼ばれた。
この村を支えていたのは胡氏である。10世紀、唐の昭宗の子が変乱から逃れてこの地に隠れ住み、胡姓を称した。胡氏は1465年に商売を始めて成功し、土木、建築、修祠、道路整備、架橋などを行った。17世紀中ごろ、胡氏から官僚が出たため、さらに発展した。18世紀から19世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、600もの豪邸が作られた。
西遞村の中心には東西を貫く幹線道路があり、その両脇に並行する道路との間に沢山の路地がある。敬愛堂、履福堂、刺史牌樓の公共施設も設けられていた。現在でも明清建築の124棟が観光用に保全されており、そのほとんどが一般に公開されている。そのほかの主要建築物に、1578年に作られた青石牌坊、1691年に作られた大夫第(医師屋敷)などがある。
2000年11月30日、オーストラリア ケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、宏村と共に世界遺産に登録された。

宏村;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%9D%91
この村は中国安徽省黄山市黟県宏村鎮にある村。2000年に世界遺産に登録され、2001年に中国政府国務院により中華人民共和国全国重点文物保護単位に、2003年に中国歴史文化名村に指定されている。明清代の歴史建築が数多く残る村落で、家々をめぐる水路が完全な姿で残っており、「牛」の形に例えられる村の配置は徽州の村落の典型的な代表例である。
安徽省南部黄山市にある黄山の南西麓に位置する。黟県の県城からは東北へ11kmの位置にあり、現在は宏村鎮がこの集落に置かれている。集落は黃山の余脈である雷崗山を背後にし、西に邕溪河と羊棧河に面している。全村面積は約28万平方m。
11世紀、北宋時代の政和3年(1113年)に汪氏一族により、集落が結成された。汪氏一族は、村が作られる前から宏村に居住し、今では汪氏一族の住まいとなっている。明朝の万暦頃に、村内にある泉を掘り、そこに川の水を引き入れ、南湖を造った。
清朝中期になると、当時の村名「作弘」が6代皇帝乾隆帝の名に当たるとして、「宏村」に改名された。村内には、清の建物がおよそ140現存する。これらの建物は全て、徽州を基盤とする設計がされている。
村内には水を供給する整備がされている。村の全景がはっきりと牛に例えられ、村内向かって西の丘が首、出入り口が角、村の前後の橋が足となっている。
2000年11月30日、オーストラリアケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、西逓村と共に世界遺産に登録されている。