私は見知らぬ町へ行ったことがあります。群馬県の山の中の淋しい下仁田町です。私は深く溜息をつき、「はるか遠くに来たもんだ!]と独りつぶやきました。当時は高速道路も無く、遠路はるばる群馬県の下仁田町に着いた時のことでした。そこは皆様も多分ご存知ない遠い、山に囲まれた町で名物は葱とこんにゃく、妙義山麓の小さな町です。
今日はこの下仁田町のご紹介をしたいと思います。
全国の村々では神社の祭りが途絶えているそうです。御神輿を担ぐ人や山車の準備をし、それを引く人が高齢化していないのです。秋の風物詩が一つ、また一つと消えて行くのは淋しいものです。
しかし下仁田町では現在でも秋祭りが盛大に行われています。諏訪神社の秋祭りでは7台の豪華な山車が勢揃いして華やかに行われるのです。天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいです。
下仁田町は上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社という神社に変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されます。その時の棟梁は信州諏訪の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められています。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。彫刻は遠く飛騨の国の工匠の作とも言われています。従って豪華な山車は飛騨の高山から伝承さたものと考えられます。
この下仁田町の諏訪神社の見事な彫刻を2枚の写真で示します。
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この下仁田町へ終戦の直前に家内は鎌倉から疎開しました。鎌倉はアメリカ軍の上陸用舟艇が来るというのです。
海から山の生活に変わった下仁田町での生活は家内にとって毎日楽しかったそうです。工作の粘土は店で買うのではなく山の崖で掘ってくる、ウサギの餌を毎朝刈りに行ったこと、河原の桑の実を食べて甘くてビックリし母へのお土産にしようと白いワンピースのポケットに入れて帰ったら服が赤紫に染まっていたこと、鏑川で溺れそうになったことなど具体的な話を何度も聞きました。
そして下仁田小学校の同級会へ何度も家内を車で送って行きました。そうしたら家内の同級生だった横山美知彦さんと知り合いになりました。
以下にこの横山美知彦さんの下仁田の思い出の記を送りいたします。
===山郷、群馬県下仁田町の遠い日の盂蘭盆会、祭り、運動会・・・横山美知彦著===
いずれも幼き日の思い出である(小学生から高校生の頃)
・・・盂蘭盆会・・・
あつい夏、入道雲が南の山の頂から湧き上がっている。
今日も夕立か、そんな予想は間違いなく当たる。新暦の盂蘭盆会も過ぎて、夕立の去った山の谷合から吹き降りてくる風に、秋の気配が感じられる。
田舎の夏休みは早い。再び学校でのきついクラブ活動が始まる。何故か勉強のことは、頭に浮かんでこない。
川に降りて見る。精霊が家で過ごした盆棚を橋の上から川に流すことで精霊を再び仏の世界にお送りする。そして普段の生活が始まる。
先祖の精霊は、野菜や、胡瓜や茄子で拵えた馬や牛に乗ってやって来て、盆の間は現実の家で静かに過ごす。そして盆が終わるとお帰りになる。質素であってもそれぞれの家の風習に従い恙なく語り合う、そこには現代の世の中の醜さは微塵も感じられない。
・・・祭り・・・
お祭礼の提灯の明かりが何となく気持ちを、幼かった頃に戻してくれる。
夜、暗闇の中にかすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に教えてくれたのか。そして遠くから静かに聞こえる、笛や小太鼓の独特の音は、特別な世界に私を引き入れてくれる。
町内を引き回す山車にはなかなか触れることさえ出来ず、気持ちとは裏腹に遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたこと、少子化の現在とは想像する事も出来ないことだった。
山車の上の笛、鐘、太鼓の音が乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた組の小田原提灯が左右にかすかに揺れる。正面の一段高い場所にそれぞれの町内で自慢の人形も山車の動きに合わせる様にかすかに動く。
深まりし秋の祭りの笛の音に遠き昔を思い起こさん
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・・・運動会・・・
祭りの終わった翌日の学校は、朝から機械的な音に再び気持ちをふるい立たせてくれる。
町内最後のイベントの運動会だ。スピーカーから流れるスポーツ行進曲は、自分の力量に関係なく子供達の耳を賑わし、天候だけを気にしながら指導の先生の合図で体をほぐす為の準備運動に入って行く。
今と違い校庭の外の周りには露天の物売りが数軒必ず出店していた。
大きな混乱もなく、子供達は店を目を丸くして覗くことが出来た。
いもあめ、芋串し、ハッカパイプ等が粗末な台の上に並べられており、玩具類はなかったように記憶している。
運動場での生徒達は、靴を履いていない。はだしだ。今では考えられない光景だが、当時はそれが当たり前で、足が痛いなどの言葉は何処からも聞こえてこなかった。
昼飯も気の利いた家でも各家で作る稲荷すしが精々で、大方通学時に持ってくる弁当箱に、良く出来て玉子焼きが入る程度だった。でも少しもそれを、みじめと思ったことはない。むしろ胸はいつもより高鳴り、心は晴れやかだった。
そして運動会が終わると同時に始まる蒟蒻刺しのアルバイトに抵抗を感じる憂鬱さが大きく頭をよぎるようというになっていた。
遠い日の運動場に我れ立ちぬ (平成25年9月15日記)
======================================
さて皆様の故郷はどんな所でしたでしょうか。故郷ではどのような秋祭りが行われたのでしょうか?
昔の思い出は懐かしく楽しいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
今日はこの下仁田町のご紹介をしたいと思います。
全国の村々では神社の祭りが途絶えているそうです。御神輿を担ぐ人や山車の準備をし、それを引く人が高齢化していないのです。秋の風物詩が一つ、また一つと消えて行くのは淋しいものです。
しかし下仁田町では現在でも秋祭りが盛大に行われています。諏訪神社の秋祭りでは7台の豪華な山車が勢揃いして華やかに行われるのです。天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいです。
下仁田町は上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社という神社に変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されます。その時の棟梁は信州諏訪の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められています。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。彫刻は遠く飛騨の国の工匠の作とも言われています。従って豪華な山車は飛騨の高山から伝承さたものと考えられます。
この下仁田町の諏訪神社の見事な彫刻を2枚の写真で示します。
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この下仁田町へ終戦の直前に家内は鎌倉から疎開しました。鎌倉はアメリカ軍の上陸用舟艇が来るというのです。
海から山の生活に変わった下仁田町での生活は家内にとって毎日楽しかったそうです。工作の粘土は店で買うのではなく山の崖で掘ってくる、ウサギの餌を毎朝刈りに行ったこと、河原の桑の実を食べて甘くてビックリし母へのお土産にしようと白いワンピースのポケットに入れて帰ったら服が赤紫に染まっていたこと、鏑川で溺れそうになったことなど具体的な話を何度も聞きました。
そして下仁田小学校の同級会へ何度も家内を車で送って行きました。そうしたら家内の同級生だった横山美知彦さんと知り合いになりました。
以下にこの横山美知彦さんの下仁田の思い出の記を送りいたします。
===山郷、群馬県下仁田町の遠い日の盂蘭盆会、祭り、運動会・・・横山美知彦著===
いずれも幼き日の思い出である(小学生から高校生の頃)
・・・盂蘭盆会・・・
あつい夏、入道雲が南の山の頂から湧き上がっている。
今日も夕立か、そんな予想は間違いなく当たる。新暦の盂蘭盆会も過ぎて、夕立の去った山の谷合から吹き降りてくる風に、秋の気配が感じられる。
田舎の夏休みは早い。再び学校でのきついクラブ活動が始まる。何故か勉強のことは、頭に浮かんでこない。
川に降りて見る。精霊が家で過ごした盆棚を橋の上から川に流すことで精霊を再び仏の世界にお送りする。そして普段の生活が始まる。
先祖の精霊は、野菜や、胡瓜や茄子で拵えた馬や牛に乗ってやって来て、盆の間は現実の家で静かに過ごす。そして盆が終わるとお帰りになる。質素であってもそれぞれの家の風習に従い恙なく語り合う、そこには現代の世の中の醜さは微塵も感じられない。
・・・祭り・・・
お祭礼の提灯の明かりが何となく気持ちを、幼かった頃に戻してくれる。
夜、暗闇の中にかすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に教えてくれたのか。そして遠くから静かに聞こえる、笛や小太鼓の独特の音は、特別な世界に私を引き入れてくれる。
町内を引き回す山車にはなかなか触れることさえ出来ず、気持ちとは裏腹に遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたこと、少子化の現在とは想像する事も出来ないことだった。
山車の上の笛、鐘、太鼓の音が乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた組の小田原提灯が左右にかすかに揺れる。正面の一段高い場所にそれぞれの町内で自慢の人形も山車の動きに合わせる様にかすかに動く。
深まりし秋の祭りの笛の音に遠き昔を思い起こさん
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・・・運動会・・・
祭りの終わった翌日の学校は、朝から機械的な音に再び気持ちをふるい立たせてくれる。
町内最後のイベントの運動会だ。スピーカーから流れるスポーツ行進曲は、自分の力量に関係なく子供達の耳を賑わし、天候だけを気にしながら指導の先生の合図で体をほぐす為の準備運動に入って行く。
今と違い校庭の外の周りには露天の物売りが数軒必ず出店していた。
大きな混乱もなく、子供達は店を目を丸くして覗くことが出来た。
いもあめ、芋串し、ハッカパイプ等が粗末な台の上に並べられており、玩具類はなかったように記憶している。
運動場での生徒達は、靴を履いていない。はだしだ。今では考えられない光景だが、当時はそれが当たり前で、足が痛いなどの言葉は何処からも聞こえてこなかった。
昼飯も気の利いた家でも各家で作る稲荷すしが精々で、大方通学時に持ってくる弁当箱に、良く出来て玉子焼きが入る程度だった。でも少しもそれを、みじめと思ったことはない。むしろ胸はいつもより高鳴り、心は晴れやかだった。
そして運動会が終わると同時に始まる蒟蒻刺しのアルバイトに抵抗を感じる憂鬱さが大きく頭をよぎるようというになっていた。
遠い日の運動場に我れ立ちぬ (平成25年9月15日記)
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さて皆様の故郷はどんな所でしたでしょうか。故郷ではどのような秋祭りが行われたのでしょうか?
昔の思い出は懐かしく楽しいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)