後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏が来ると思い出す特攻隊と米軍の損害、そして焼け野原の風景」

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、夏が来ると思い出すことは特攻隊のことと米軍の大きな損害です。そして焼け野原の風景です。戦前生まれの私の夏の思い出です。
米軍のアーネスト・キング海軍元帥は次のように語っています。
「1945年4月6日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。・・・海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」
特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。

1番目の写真は1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊の零戦の特攻で搭載燃料と弾薬が誘爆して爆沈した護衛空母セント・ローです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ です。

2番目の写真は1945年1月1日、リンガエン湾に向けて航行中にスールー海で神風特攻隊旭日隊の特攻を受け炎上する護衛空母オマニー・ベイです。この後に沈没しました。

3番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USS William D. Porter (DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。
4番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。
さて沖縄戦だけで艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えたのが特攻隊だったのです。そして特攻関連の戦死者は14009名だったのです。
終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。 

5番目の写真はすっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真です。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。
毎年、毎年、夏になると思い出すことを書きました。

犠牲になった日本の特攻隊関連の全ての死者のご冥福をお祈りします。
同時に戦死した連合国軍の死者のご冥福をお祈りします。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没した全てのアジア人のご冥福を心からお祈りいたします。後藤和弘

「夏のローテンブルグの風景」

2023年07月29日 | 写真
夏から秋にかけローテンブルグに住んだことがりました。ほんの数回だけ晴天の日がありました。
そんな日はローテンブルグは美しく耀きます。
そんな風景写真です。
写真は「夏のローテンブルグの風景」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。

「中国文化(3)日本を仏教国にした玄奘三蔵法師」

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は日本へ最も深い影響を与えた国です。そんな中国でも玄奘三蔵法師ほど日本へ大きな影響を与えた人はいません。インドに16年間も滞在して仏教を持って来たのです。それを日本人の空海が日本へ持ってきたのです。玄奘三蔵法師と空海が日本を仏教国にしたのです。仏教は現在も日本文化の基礎になっています。

そこで今日は玄奘三蔵法師のことを書きたいと思います。

唐の時代の話です。玄奘三蔵法師は629年にシルクロードを通ってインドに行き仏教の経典657部を背負って645年に帰ってきました。現在日本で読まれている経典は全て玄奘が背負って来た大乗仏教の経典です。

長安を出発した玄奘は高昌国やヤブグカガン王国で歓迎され旅の支援を受けます。往路はシルクロードの天山北路を通り、帰りは西域南道を通りました。

その道筋の詳細は、天竺への道、第二十三回コラム「玄奘三蔵インドへの旅について」 | お寺の窓口 (oteranavi.com) という資料にあります。

玄奘の往路のルートの概略は、出発(629年)は長安で、そこからシルクロードを西に向かい、天山山脈を越えて現在のキルギス、ウズベキスタンという中央アジアに進んでいきました。そしてアフガニスタンを経て、インドの仏教の中心地だったブッダガヤ近郊のナーランダーに到着したのです。

1番目の写真は玄奘三蔵法師の旅の道程を示した図面です。
この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
玄奘三蔵法師の持って来た経典657部は現在、中國、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全てなのです。漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
玄奘は西暦602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来伝承された仏教の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は中国の長安の大慈恩寺の境内にある大雁塔です。ここに玄奘三蔵法師の持ち帰った経典が保管されていました。
私は1981年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雁塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

3番目の写真は大慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。

4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から玄奘が持って来た経典と密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。

5番目の写真は埼玉県の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の像と玄奘塔です。この塔の下に玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨が祀ってあります。この写真は埼玉県の慈恩寺で私が撮りました。
この訪問記は、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp  の2009年9月14日の掲載記事、「日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました」に書いてあります。
慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しています。

私は玄奘三蔵法師を尊敬しています。唐の長安を旅立ち、はるかインドまで行き、16年もインドで仏教を極め、数多くの経典を背負って長安に帰りついたのです。そしてインドの言葉で書かれた経典を漢文へと翻訳したのです。
玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に捨てられました。釈迦の教えどうり捨てたのです。しかし後に弟子たちが遺骨を拾い集めます。その遺骨の一部が埼玉県にあるのです。不思議です。
インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
{参考資料}
「ミャンマー、タイ、ベトナムの仏教と日本の仏教の違い」、2020年05月31日 掲載記事、
日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。
大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになります。

(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。

(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。

以下省略。 
詳しくは、2020年05月31日 の掲載記事をご覧ください。
添付の写真は上座部仏教の托鉢の風景です。