今日はこの傑出した日本人、阿倍仲麻呂について書いてみたいと思います。
(1)出生から唐へ渡った後の活躍
阿倍 仲麻呂は文武天皇2年〈698年〉に生まれ 宝亀元年〈770年〉に没しました。
筑紫大宰帥の阿倍比羅夫の孫で中務大輔の阿倍船守の長男でした。若くして学才に恵まれていました。
霊亀3年・養老元年(717年)に多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学したのです。
唐の太学で学び科挙に合格し唐の玄宗皇帝に仕えます。
725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年に左補闕と官職を重ねていきます。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していました。『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存しています。その後も唐での官途を追求するため帰国しなかったのです。
752年衛尉少卿に昇進しました。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐し、唐の皇帝玄宗から遣唐使の応対を命じられます。
そして望郷の念を抱いて帰国許可を玄宗に申し出るが、容易には許可されなかったのです。
結局、日本への帰国は叶えられることなく、唐の玄宗・粛宗 ・代宗に仕えて、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じました。
中国での妻子は伝えられていないが、配偶者は当時ならいて当然とされ、詩などから太学在学中に初婚、その後出世して高位家の娘と2回目の結婚をしていました。
(2)歌人としての阿倍仲麻呂の大きな影響
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』は百人一首で有名な阿倍仲麻呂の和歌です。
歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ掲載されています。
『古今和歌集』の「後序」によれば、『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌は天平勝宝5年(753年)帰国のために明州までやってきた仲麻呂が送別の宴で日本語で詠った歌とされている。
また、陝西省西安市にある興慶宮公園(5番目の写真)には日本人の手に依るその歌の記念碑があります。記念碑の裏にこの歌が刻まれています。
さて『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌は和歌の世界で大きな影響を残しました。その後の歌人たちがこの歌の派生歌を作ったのです。その代表的なものを以下に示します。
ふりさけし人の心ぞ知られぬる今宵みかさの月をながめて(西行)
さしのぼる三笠の山の峰からに又たぐひなくさやかなる月(藤原定家)
何処にもふりさけ今や三笠山もろこしかけていづる月影(*源家長[新勅撰])
初時雨ふりさけ見ればあかねさす三笠の山は紅葉しにけり(〃[続後撰])
天の原ふりさけみれば月清み秋の夜いたく深けにけるかな(*源実朝[新拾遺])
年を経て光さしそへ春日なる山はみかさの秋の夜の月(西園寺公相[続拾遺])
春日なる三笠の山の秋の月あふげばたかき影ぞ見えける(二条良基)
影たかみ今もふりさけみかさ山遠き神代に出でし月かも(堯孝)
今宵月みかさの山の草枕夢かうつつかもろこしの空(藤原惺窩)
以上のように阿倍仲麻呂は中国の玄宗皇帝のもとで政治家として大活躍しただけでなく歌人として日本の和歌の世界に大きな影響を与えたのです。歴史の残る天才でした。こんな傑出した日本人が8世紀にいたのです。
ここに添付した5枚の写真は阿倍仲麻呂を描いた3枚の絵と、続けて阿倍仲麻呂の記念碑とそれがある興慶宮公園(5番目の写真)の写真です。阿倍仲麻呂の記念碑の裏に『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌が刻んであります。
写真は「阿倍仲麻呂 関連の絵の写真」を検索してインターネットにある絵から選びました。
今日は中国の玄宗皇帝のもとで政治家として大活躍した阿倍仲麻呂について書きました。そして歌人としての阿倍仲麻呂の大きな影響をご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)