後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「お正月と百人一首」

2024年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
お正月になると百人一首のかるたを出して遊びます。我が家では以前に妻が百人一首のかるたを出して遊んでいました。最近は聞きませんが百人一首が懐かしいです。お正月の風物詩の一つです。
懐かしいので以下に掲載いたしました。
 
1. 秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ(後撰集 秋 302)    天智天皇(てんぢてんのう 626~672 第38代天皇)

2. 春(はる)すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山(新古今集 夏 175)    持統天皇(じとうてんのう 645~702 第41代天皇 天智天皇の皇女 天武天皇の皇后)

3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾遺集 恋 778)    柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 人丸とも 三十六歌仙)

4. 田子(たご)の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ(新古今集 冬 675)    山部赤人(やまべのあかひと 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 三十六歌仙)

5. 奥(おく)山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(古今集 秋 215)    猿丸太夫(生没年不詳 奈良~平安初期(?)の伝説的人物 三十六歌仙)

6. かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける(新古今集 冬 620)    中納言家持(大伴家持 おおとものやかもち 718~785 旅人の子 万葉集の撰者)
7. あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも(古今集 覊旅 406)    安倍仲麻呂(あべのなかまろ 698~770 遣唐留学生 唐の役人となり唐土で生涯を終えた)

8. わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(古今集 雑 983)    喜撰法師(きせん 宇治山の僧とされる伝説的な歌人 六歌仙の一人)

9. 花(はな)の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(古今集 春 113)    小野小町(六歌仙・三十六歌仙の一人 伝説的な美女とされてきた 各地に伝説が残る)

10. これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(後撰集 雑 1089)    蝉丸(せみまる 生没年不詳 琵琶の名手とされる平安初期の伝説的人物 逢坂山に住んだという)

そして最後の」100首目は、100.ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰集 雑 1205)
    順徳院(1197~1242 第84代天皇 承久の変で佐渡に遷る)

百人一首とは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたものです。 藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから小倉百人一首と呼ばれています。
 小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。 
百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われていますが、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。
「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。 

以上は、https://hyakunin.stardust31.com/ に掲載されている文献から抜粋しました。なお添付の写真はインターネットからお借りしました。

今日は小倉百人一首の冒頭の10首を紹介し、百人一首の歴史を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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