お正月になると百人一首のかるたを出して遊びます。我が家では以前に妻が百人一首のかるたを出して遊んでいました。最近は聞きませんが百人一首が懐かしいです。お正月の風物詩の一つです。
懐かしいので以下に掲載いたしました。
1. 秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ(後撰集 秋 302) 天智天皇(てんぢてんのう 626~672 第38代天皇)
2. 春(はる)すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山(新古今集 夏 175) 持統天皇(じとうてんのう 645~702 第41代天皇 天智天皇の皇女 天武天皇の皇后)
3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾遺集 恋 778) 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 人丸とも 三十六歌仙)
4. 田子(たご)の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ(新古今集 冬 675) 山部赤人(やまべのあかひと 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 三十六歌仙)
5. 奥(おく)山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(古今集 秋 215) 猿丸太夫(生没年不詳 奈良~平安初期(?)の伝説的人物 三十六歌仙)
6. かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける(新古今集 冬 620) 中納言家持(大伴家持 おおとものやかもち 718~785 旅人の子 万葉集の撰者)
7. あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも(古今集 覊旅 406) 安倍仲麻呂(あべのなかまろ 698~770 遣唐留学生 唐の役人となり唐土で生涯を終えた)
8. わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(古今集 雑 983) 喜撰法師(きせん 宇治山の僧とされる伝説的な歌人 六歌仙の一人)
9. 花(はな)の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(古今集 春 113) 小野小町(六歌仙・三十六歌仙の一人 伝説的な美女とされてきた 各地に伝説が残る)
10. これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(後撰集 雑 1089) 蝉丸(せみまる 生没年不詳 琵琶の名手とされる平安初期の伝説的人物 逢坂山に住んだという)
2. 春(はる)すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山(新古今集 夏 175) 持統天皇(じとうてんのう 645~702 第41代天皇 天智天皇の皇女 天武天皇の皇后)
3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾遺集 恋 778) 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 人丸とも 三十六歌仙)
4. 田子(たご)の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ(新古今集 冬 675) 山部赤人(やまべのあかひと 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 三十六歌仙)
5. 奥(おく)山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(古今集 秋 215) 猿丸太夫(生没年不詳 奈良~平安初期(?)の伝説的人物 三十六歌仙)
6. かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける(新古今集 冬 620) 中納言家持(大伴家持 おおとものやかもち 718~785 旅人の子 万葉集の撰者)
7. あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも(古今集 覊旅 406) 安倍仲麻呂(あべのなかまろ 698~770 遣唐留学生 唐の役人となり唐土で生涯を終えた)
8. わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(古今集 雑 983) 喜撰法師(きせん 宇治山の僧とされる伝説的な歌人 六歌仙の一人)
9. 花(はな)の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(古今集 春 113) 小野小町(六歌仙・三十六歌仙の一人 伝説的な美女とされてきた 各地に伝説が残る)
10. これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(後撰集 雑 1089) 蝉丸(せみまる 生没年不詳 琵琶の名手とされる平安初期の伝説的人物 逢坂山に住んだという)
そして最後の」100首目は、100.ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰集 雑 1205)
順徳院(1197~1242 第84代天皇 承久の変で佐渡に遷る)
順徳院(1197~1242 第84代天皇 承久の変で佐渡に遷る)
百人一首とは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたものです。 藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから小倉百人一首と呼ばれています。
小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。
百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われていますが、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。
「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。
「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。
以上は、https://hyakunin.stardust31.com/ に掲載されている文献から抜粋しました。なお添付の写真はインターネットからお借りしました。
今日は小倉百人一首の冒頭の10首を紹介し、百人一首の歴史を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)