後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昭和の歴史から完全に消えてしまった亜炭という燃料を調べている仙台市市民文化事業団

2015年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
昭和時代の仙台市の生活を支えていた薪や木炭の他に亜炭という不思議な燃料がありました。
その亜炭が戦後の経済成長とともに跡形も無く消えてしまったのです。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その地区には戦前戦後にかけて東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが存在していました。
この地区の番地には越路路地丁という地名があり、長徳寺や大満寺というお寺もあります。
その長徳寺の前のバス通りに沿って3つの沼が並んでいて、そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って蛙にさせたりして遊んだものでした。
昔の滝の口渓谷の下流の川になっていたところで窪地になっていた場所なので沼や湿地になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長に従って、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられフナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
そして完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
故郷の風景が消えてしまい悲しいという記事を掲載しましたら、仙台在住の郷土史家の三原征郎さんから何度も写真を送って頂きました。
下に送ってもらった2枚の写真をしめします。

1番目の写真の右側の建物の並んでいる裏が沼があったところです。すっかり建物が沼の跡地を覆っています。

2番目の写真が現在の鹿落ち坂の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉の建物があった場所です。

そして3番目の写真に重さ10トンの巨大な亜炭の塊を示します。宮城県の三本木地方から産出した亜炭の塊です。

4番目の写真は亜炭運搬に使われていたオート三輪車の写真です。戦後のこんな車が活躍していた時代まで亜炭鉱山があったのです。
そもそも亜炭とは褐色から暗灰色のもの400万年前ころの樹木が土に埋れて炭化したものです。炭化作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多いのです。
特に仙台市内で産出された亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木細工の材料になりました。この埋れ木細工の飾り物は仙台の名産品になっていたのです。
亜炭は末尾の参考資料に示したように全国で産出し昭和時代には家庭用の燃料として大いに使用されていたのです。
それが昭和40年ころも経済高度成長とともにすっかり消えてしまったのです。
夕暮れになると家々のお風呂の煙突から亜炭の煙がながれその独特の臭いが夕闇とともに町を覆ったものです。その懐かしい臭いも二度と嗅ぐことが出来ません。
亜炭は人々の記憶から遠うのき忘れられていました。
昭和時代の生活の歴史がまた一つ闇の中に消えてしまったのです。
ところが最近、仙台文化事業団(http://www.sendaicf.jp/)の学芸員、薄井真矢さんが中心になって仙台地方の亜炭の歴史を詳細に調べ上げたのです。
その上、新聞「亜炭香報」(http://sendaicf.jp/machinaka2012/blog/atan/)という情報紙を定期的に発行して調査の結果や数々の亜炭に関する研究会の様子を公開しているのです。
このことは前述の仙台在住の郷土史家の三原征郎さんが教えてくれたのです。
私は三原さんに感謝しながら早速、学芸員の薄井真矢さんへメールを送りました。
薄井さんは他にもプロジェクトを担当していて大変多忙な方です。それにもかかわらず貴重な資料を多数お送り下さいました。
大変多くの資料ですが以下にはそのほんの一部だけをご紹介いたします。
それによると、『亜炭は戦後の仙台市内で風呂用の燃料としてごく一般的な燃料であった。燃えると微妙な匂いが漂い、たそがれ時ともなると路地に紫煙がたなびいた。その匂いと煙で夕方になったことを知り、一家だんらんのぬくもりを教えてくれた。』(市史せんだい vol.12より、
http://www.sendaicf.jp/atan2015/contents.html)
仙台は足元から生活燃料「亜炭」が採れる街でした。また同じ地層からは、地元の工芸特産品「埋木細工」の原木も産出され、一家にひとつはあるともいわれるほど、普及していました。しかし時は流れ、かつて大人達を手伝って風呂の焚きつけをした子供達(今や還暦越え)の記憶からも亜炭は消えつつあります。埋木細工もまた、現在では最後の工人ひとりを残すのみとなってしまいました。地下鉄東西線工事が青葉山の亜炭層を掘り抜いて、奇しくも時代の地層が開かれつつある今、ひとむかし前の仙台のくらしの風景を、当時を知る方々の証言とともに再発見してみたいと思います。そして伊達伸明さんが以下の催物を開催しています。
「またたく記憶の紡ぎ方」
「亜炭・埋木」をキーワードに市民が持ち寄った記憶や思い出の品々(生活用品、写真、地図など)を素材に、美術家伊達伸明が、街の心象風景をほのかに浮かび上がらせます。地中に潜む見えない物語(過去)と地上に表出する物語(現在)、足元のカケラがもつ、膨大な時間の積層にこもる人々の暮らしの物語を感じてください。
●埋木製ウクレレ「ウモレレ」(伊達伸明作)初公開!8月8日のみ同建物内1階で展示されます。展覧会関連イベント「地中を想う/地上を語る」で、同日15時より1階で作品演奏があります。
●東北工業大学・緑の楽校 運営委員会代表 松山正將 先生が、会期中の午前中、展示室に在室します。
日時:2015年8月8日(土)~18日(火)10時~19時(初日は11時から、最終日は17時まで) 会場:せんだいメディアテーク6階ギャラリー
「複眼でみる」
歩く達人、三原征郎さんと、風景の中に見落としている先人の記憶のカケラを見て歩きます。
A.向山の痕跡
見どころ:鹿落坂周辺の歴史、とっておきの絶景と黒沼炭鉱跡をゆっくり堪能します
日程11月29日(日)13時~15時30分会場向山一丁目周辺定員健脚の方20名参加料300円(野外保険料込み)主催(公財)仙台市市民文化事業団申込11月12日(木)必着までに下欄 ★印の「申込方法」のとおり、お申込下さい。応募多数の場合抽選。応募者全員への返信は11月18日(水)頃です。
そして情報紙、「亜炭香報」の記事の一例を以下に示します。http://sendaicf.jp/machinaka2012/blog/atan/
2015.9.14
ワークショップ「埋木みがき隊」
2015.8.28
展覧会「山のひかり川のほし」終了
2015.7.06
埋木製ウクレレ『ウモレレ』ついに完成!
2015.7.04
亜炭家族 春の一日、などなど以下省略。
以上は仙台市市民文化事業団の学芸員、薄井真矢さんが中心になって企画、実行した亜炭に関する催しものの一端です。
これらの資料を見ると消えてしまった亜炭の歴史をもう一度よみがえらせたことが分かります。
郷土史の発掘をして、亜炭というものを人々の心に強く焼き付けたのです。
戦前、戦後を仙台で過ごし亜炭の煙の臭いとともに育った私としては実に嬉いことです。
郷土史家の三原征郎さんと仙台市市民文化事業団の学芸員、薄井真矢さんに深甚な感謝の意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===================
(1)亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E7%82%AD
褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。仙台市内で産出される亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木として細工物の材料にもなった。
世界の埋蔵量は、褐炭と合わせて、より高品位の石炭の埋蔵量をしのぐ6,000億トン以上の規模とされる。日本国内でも埋蔵量は多く、東北地方だけでも3億トンとも推測されている。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市や名古屋市、長野市など大規模~中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。
(2)宮城県大崎市三本木亜炭記念館:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8%89%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E4%BA%9C%E7%82%AD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8
重さ10トンの亜炭塊(大崎市三本木亜炭記念館)が展示してあります。
仙台藩では幕末から亜炭の採掘が行われた。現在の宮城県大崎市三本木の大松沢丘陵などでは三本木亜炭が産出され、1920年代の仙台鉄道開通により、仙台市へ大量に供給された。
(3)仙台亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%BA%9C%E7%82%AD
仙台亜炭(せんだいあたん)は、宮城県仙台市およびその周辺で採掘された亜炭のこと。
第三紀の鮮新世(約500万年前~約258万年前)に形成された仙台層群のうち、竜の口層以外に亜炭が含まれる。亜炭のうち、彫塑可能な「木質亜炭」は仙台埋木細工に、炭化した「炭質亜炭」は香炉灰や燃料に、珪化木は観賞用または放置された。
幕末以降は、主に広瀬川中流の向山層において、小規模な炭鉱が多数散在する形で採掘が行われた。
江戸時代になると、香道に造詣が深い仙台藩祖・伊達政宗が、名取川下流右岸(南岸)の名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸に年貢諸役を免除する代わりに埋れ木および埋木灰の生産を命じた。
1822年(文政5年)、仙台藩家臣の足軽・山下周吉が竜ノ口渓谷で埋れ木を得て持ち帰り、食器類を作った。竜ノ口渓谷は、名取川水系広瀬川の中流にある同河川の支流がつくった渓で、仙台層群が広く露出している場所である。足軽身分で扶持の少ない周吉は、埋木細工を内職にしようと採掘許可を願い出たが、仙台城南面の防御である同渓谷は軍事的に重要な地区であるため許可されなかった。しかし仙台藩が黙認したことで採掘が始まり、埋木細工が作られるようになった。当初はあまり売れるものではなかったようだが、足軽の石垣勇吉によって製品として高められて名産品となった。そのため、幕末から明治・大正にかけて仙台土産として人気となり、特に観光地である日本三景・松島でよく売れた。
一方、「炭質亜炭」も明治から、木桶風呂(鉄砲風呂)やダルマストーブなどの燃料として盛んに採掘されるようになり、広瀬川沿いの青葉山・越路山(八木山)・向山などのほかに、現在の仙台市内にあたる地域では宮城郡広瀬村や大沢村(以上、現・青葉区の一部)、七北田村や根白石村(以上、現・泉区)でも採掘が行われ、鉱山鉄道を敷設する鉱山もあった。燃料事情の悪化に伴って、太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)から戦後占領期の1949年(昭和24年)までは石炭とともに亜炭は国の重点施策となり、採掘の最盛期となった。そのため昭和30年代までの仙台では、夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いが街中にただよっていた。
しかし、もともと薄い亜炭の層から大量に採掘したため、昭和30年代半ばには大年寺層の一部と向山層で採掘されるのみとなり、亀岡層からの採掘は無くなった。

2 コメント

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Unknown (mukaiyama-kyougamine)
2024-08-21 08:51:07
向山1丁目で町内会の会長をやっています。
村上と申します。
地域の中で、家の床下が陥没したり、家の敷地の地下に空洞があったりするのが囁かれています。
古老から、亜炭鉱の話が少しづつ聞こえてまいります。町内の入口にあたる鹿落坂を上り切った所に、町内会の掲示板があります。ここに大石が20個ほど転がっています。
ブログを読みますと、越路への道路沿いに池?沼?が3つあったと書かれています。あ!これか。などと思ったものです。
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ありがとうございます。 (後藤和弘)
2024-08-27 20:39:32
ありがとうございました。その通りです。
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