今朝はこれから山林の中の小屋に家内と一緒に日帰りで行ってきます。
皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人
@周囲の人々へ呼びかけて管理組合をつくろう!
山林の中に小屋を作った1973年当時は周囲に人家や別荘が無かったのです。しかし電気を引いた1975年頃から別荘が少しずつ増えてきました。そこで付近の20軒くらいの別荘へ呼びかけて管理組合をつくりました。
毎年の懇親会へは地元の村長さんも招待した。組合の仕事は車道の修理と別荘地内の草刈です。この組合は順調で、34年後の現在まで続きました。お陰で車が四季を通して上がれるようになりました。地元の人々も友好的です。
普通、山林の中に小屋や別荘を作るとその維持管理が大変です。専門の管理会社へ委託すると管理料金が大変です。自分達で組合を作ると年会費が1万円以下で道路の管理補修、草刈、懇親会などをすべて行っても繰越金が貯まります。
運営の鉄則は入会したくない人を無理に誘わない。お互いの都会での生活について質問をしない。個人的なことへは干渉をしない。山遊びのことだけの話題で交流する。などを守ることなどです。すると入会する人も次第に増えます。都会でどんなに偉い人でも山へ来れば完全に平等で、お互いに尊敬しあう雰囲気を作るのが組合を成功させる条件です。
@樹木や清流は皆の共通の財産と思い大切にする
人跡まれな山の中です。自分の土地なら樹木を切ろうが汚水を流そうが自由です。しかしそんな人は初めから居ませんでした。炊事の排水は地下の浄化槽へ出す。間違っても清流へ直接流すような人は居ませんでした。
樹木も大切にする。薪は落ちた枯れ枝で作る。ゴミは都会へ持ち帰る。組合規則もありません。全員が30年間当たり前のように守っています。
山林の中に小屋を作るのは、道がある限り地元の建設業者がしてくれます。しかし電気・ガス・水道が無いのが普通です。ところが、組合があったせいか東京電力が電柱を何本も立てて長距離の配電をしてくれました。工事費は不要というのです。
ガスは地元の金物屋がプロパンの大型ボンベを運び上げてくれます。
水道は井戸を掘ってポンプをつけて自家水道施設を作ります。
決論を言えば「山林を買って小屋や別荘を作ろうとする人々」は初めから自然を愛しているようです。自分の手で何でも作りたい、他人を尊敬する、そんな傾向があります。組合を作り、順調に続けることが難しくありません。
唯一、非常に重要な事は「誰かが言い出して、皆に呼びかける」事です。
(続く)
今日は朝から青い空が見え、暑い南風が吹いています。気圧が高いせいか気分がよく元気です。今、テレビニュースで関東甲信越も梅雨明け宣言がありました!例年は7月の末頃ですので随分早い梅雨開けです。
明日は家内と山林の中の小屋へ日帰りでゆきます。別荘地の管理組合の仕事を手伝っているのでその仕事の打ち合わせです。
今日は朝から気持が充実しているので、仏足石の拓本をインドのブッダガヤからとってきたお坊さんの記事がスラスラ書けました。そして南フランスに住んでいるParismidoriさんのブログ記事とフランス料理を世界遺産にする考えを組合わせて軽い読み物も掲載しました。
明日から本格的な夏、猛暑の夏が続くと思うと何故か覚悟が出来たようです。夏と来い。毎日充実した気持ちで過ごせば夏も楽しいものです。お互いに頑張りましょう! (終わり)
私たちはお寺さんにお世話になるのはお葬式や法事くらいです。日常は仏教とはなんのかかわりが有りません。しかし全国に、お寺は8万くらいあると言います。あまり沢山あるので空気のように仏教の有難さを意識していません。お釈迦さまの教えは幼少の頃から何気なく体に染みついています。日本の大部分の人々は仏教的な仁徳を持っている素晴らしい人々です。このことは自分がカトリックの信者になってから鮮明に理解できるようになりました。欧米人が日本を仏教国と言う意味が理解出来たのです。
先日、前橋に泊まったとき感動的なお寺を発見しました。下の写真をご覧下さい。タイのお寺のような屋根です。ホテルの駐車場の裏にあったお寺です。車を停めてからタイ風のお寺へ好奇心が湧き、見に行きました。ところが本堂の前にいきなり大きな佛足石が飾ってあります。2番目の写真です。そして3番目の写真にあるように佛足跡の由来を説明しています。
キリスト教信者には感動的な説明文です。キリスト本人を身近に感じて日常の生活をする。それが理想的な信仰生活の在り方です。仏教も同じです。お釈迦様を直接感じさせるお寺が良いお寺と思います。そのために本堂には色々な仏像が飾ってあります。しかし仏像は種類も多く、抽象的な意味のものが多く、お釈迦様の本人のお姿ではありません。
このタイ式の屋根を持ったお寺の住職さんが、インドのブッタガヤまで行ってそこの佛足跡の拓本をとってきて再現したものです。その姿勢に感動しました。翌朝、もう一度訪ね、玄関の呼び鈴を押し、突然で大変失礼ですが、住職様のお話を少しお聞きしたいのですが、と頼みました。
出てきたのは頭をそり上げた若い住職様でした。父親がブッタガヤへ行って写してきたこと、タイを巡礼し何故か感動してタイ式のお寺を作ったことなど話してくれました。日本の屋根屋さんが苦労して作ったことも話してくれました。「お釈迦さまを身近に感じさせていることに感動しました」と申し上げました。若い住職様は「そうです。それが一番です」と答えます。
それだけの話です。全国に8万もお寺があるので色々なお寺があります。しかし住職さんは人々へ押しつけがましく説教をしません。質問をするといろいろ話してくれます。皆様も機会があれば住職さんと気軽にお話しすることをお勧めいたします。
今日はお釈迦様が、皆様へご健康と平和を授けて下さますようにお祈り致します。藤山杜人
私は躁うつ病ではありませんが、やけに人生がバラ色に輝く日々が数日続き、そして暗い日々が数日続く時があります。梅雨時がそのような現象の起きる季節です。他の季節にはこのような現象が起きません。何時もバラ色です。この数日はどうも毎日が輝いていません。そんな時にはブログへ掲載する記事や写真が精彩を欠くようです。アクセス数が途端に減少します。毎日の一週間の平均が330位から280位へガタンと減ります。読者の方々の敏感さに感心します。
毎日、分野の違う話題で、3本以上の記事と写真をノルマのように掲載していますが、記事に活気がないのです。
ここ4、5日もスランプです。何か良いアドバイスやご指導が頂ければ嬉しく思います。このようなスランプの間は過去にネット上で好意的なコメントを頂いた、心の許せる友人のことをあれこれ思いながら過ごしています。
皆様にはスランプが御座居ますでしょうか? 草々、藤山杜人
脚注:ノルマとは第二次世界大戦後、シベリアへ抑留された日本兵が毎日やるべき労働量のことです。それが達成出来ないと食事が与えられなかったのです。ロシア語と思います。ノルマとは、それにしても古い日本語化した外来語ですね。若い人々は知らないと思い脚注をつけました。
先日、東京の高尾山にある薬王院は飯綱大権現という神社を本殿(本堂に相当)にする神仏混淆のお寺ですという紹介記事を掲載しました。そして読者の皆様へこのような神仏混淆のお寺が有ったら教えて下さい、と頼みました。そうしましたところ、趣味人倶楽部の会員の「かみなりさん」から即刻10枚以上の写真とともに以下のような文章が投稿されました。先日、転載の許可のお願いをいたしましたところお許しを頂きましたのでここにご紹介いたします。
======趣味人倶楽部会員の「かみなりさん」よりの紹介文です===
由加(瑜伽)山は、二千有余年の、歴史を持つ神仏混淆のお山。その昔、巨岩を御神体(磐座信仰)として近郊の人々の災難を祓い、福を授ける守護神として厚い信仰を受けて以来、桓武天皇初め朝廷の祈願所として、また江戸時代には備前藩主池田継政(二代)以降「由加大神さま」「権現さま」への信仰は篤く、正月、五月、九月には藩主自ら参拝になられました。
(その時に参拝・祈願された建物が由加神社本宮御本殿「県重文」であります)
また岡山後楽園、奈良公園などの全国に末社五十二社を有し、厄よけの由加神社本宮としても広くしられております。由加大神さまは「有求必應」、すなわち、求めがあれば必ず応じて下さる神様と云われ、参拝者、祈願者が後を絶たないのが現状です。
ゆがさん こんぴらさん 両まいり。とは江戸時代から明治にかけて特にさかんだった両参りのことです。
その昔お伊勢さんとこんぴらさんにお参りするのは人々の夢であり、願いでした。
諸国から多くの旅人がこんぴらさんに向かう途中、備前第一の霊地ゆがさん(由加神社本宮 御本殿大権現本社)で災難・交通・旅行安全の参詣をし、こんぴらさんへ。
次第に両社をお参りする人々がおおくなり、ご利益が沢山頂けるという両参りの風習が全国に知れわたりました。
塩原太助、十辺舎一九など多くの文人墨客も両参りをし、文化財などを残しています。
私の中学生時分には、ゆがさんゆがさんと、慣れ親しんだものです。
写真は 上: 由加山会館成就殿入り口付近。
した:寺から備前焼大鳥居をみる。
=============終わり===============
今日は瑜伽大権現蓮台寺のご利益で、皆様へご健康と平和が授けられますようにお祈り致します。 藤山杜人
7月7日に検査官が来て、船の状態、法定備品の完備の状態、エンジンや舵の作動状態などを検査してくれました。すべての項目がOKでした。7月11日に更新済みの船舶検査証、船舶番号票、船籍港票、などが宅急便で届きました。これで、これから3年は船に乗れます。
船検証の更新は、今まで全てマリーナに依頼し、代行して貰っていました。始めて自分で全てを準備して合格になり書類一式を貰ったので非常に嬉しいのです。と、同時に8月に入院し手術を受けるので、自分も3年は元気にヨットが出来るように頑張ろうという励みになりました。この船は船齢27年です。27年も古い車はガタガタになってしまい乗れないのが普通ですが、船は平気です。新品同様に走ります。不思議な乗り物です。つまらない話でしたが個人的に嬉しい出来事なので記録に残したいと思いました。ヨットにご興味の無い方々には大変失礼しました。写真は7月7日に検査を受けたときの法定備品の様子です。(終わり)
今日の福音書の朗読はマルコ福音書のイエスが12人の弟子たちを宣教の旅へ送り出す場面でした。宣教の旅は2人一組になる。旅に出るときは杖以外持って行ってはいけない。食料もお金も袋も一切持たないで行きなさい。に入って泊めてくれる人がいたらその人の家にずうっと泊まりなさい。同じであちこちの家へと泊まり歩かないで、そのを出発するまで最初に泊めてくれた家に泊まり続けなさい。このような具体的な指導をして弟子たちを方々へ送り出したのです。
昔のユダヤ地方、中近東地方ではお金も持っていない見知らぬ人を泊める人が居たのでしょうか?想像すると、イエスの弟子たちを家に泊めると良いことが起きるという噂が流れていたのではないでしょうか?そうでなければお金も持たない人をいきなり泊める人はなかなか居ないと思います。泊めたうえで、食事も提供し、寄付もしたに違いありません。
話は飛びますが、1541年にザビエルが日本に宣教に来た時も何も持たないで各地を巡り歩いたに違いありません。九州から京都、そして山口へと旅する間、日本人の好意で泊まり、食事をし、旅を続けました。日本人の親切さに感動したに違いありません。
ザビエルが会った日本人一人一人を慈しみ、大切に思ったに違いありません。それだからこそ泊まる家にも食事にも困らなかったのでしょう。見知らぬ外国人がいきなり日本を歩きまわってキリスト教信者が30万人も出来てしまったのです。
ザビエルは武装していない無力な人間でした。日本人が殺そうとすれば簡単に出来たのです。
不思議な事です。ザビエルは特別な仁徳を持っていて、会った瞬間に他人が信用し、尊敬し、保護したくなる雰囲気を持っていたに違いありません。宗教的修練の結果、そのような雰囲気が身についたのでしょう。宣教とはお金を持たないでするものです。出来るものです。三蔵法師もきっとそのような雰囲気を持った人だったのでしょう。
そのような事を考えていましたら、テレビの「田舎に泊まろう」という番組を思い出しました。
何軒も頼んでも断れるタレントは2種類のようです。自分が有名なタレントだから泊めてくれる筈だと思っている人。相手がそのタレントを知っていなければ逆効果です。自分が有名でないことを知っていて、ただひたすら、「泊めて下さい!」と繰り返す人。これも駄目です。
タレントに宗教的修練は無理ですから「泊めたくなる雰囲気」は始めから有りません。一番賢い方法はまず「愛を与えて」、自分が他人へ幸を与える人間であることを証明してから宿泊を頼む方法です。その為には子供を見つけて子供を愛して、その子供の依頼で、親が感謝し、泊めたくなるようにすることです。番組を見ているとこの方法は成功の確率が多いようです。もっとも周りに子供が見つからない場合も多いのですが。とにかく色々考えさせる番組です。
今日の福音書の教えは、「宣教の前に、愛が無ければいけない」ということではないでしょうか?
これは仏教でも他の宗教でも普遍的に重要な考え方では無いでしょうか?皆様は如何お考えでしょうか? (続く)
戦争には悪魔的行為が付きものです。戦争をしている全ての国が、民族が同じように悪魔的行為をするものです。戦勝国は戦後に負けた民族の残虐行為をあげつらい、批難し、自分は悪いことを一切しなかったと主張するのは人類の歴史によく見られることです。
第二次世界大戦で日本民族は負け、アメリカ、イギリス、中国、ソ連は戦勝国になったのです。
アメリカ人は真珠湾攻撃は宣戦布告なしの卑怯な攻撃だと声高に批難します。中国は南京で30万人が虐殺されたと宣伝します。ソ連は中立条約を一方的に破棄して予告なしに満州へ攻め込みました。これらの現象をどのように考え、どのように発言すれば日本民族の品位が貶められないのでしょうか? ここで、誤解の無いように言えば、民族の品位と事件にかかわった個人の名誉は別問題です。この稿では「民族の品位」だけを論じています。
さて真珠湾攻撃ですが、日本人は伝統的に奇襲攻撃をしても良いという文化を持っていました。
戦争の可能性のある緊迫していた状態で油断している方も悪いのです。日本の戦国時代の実例を2つ、3つ示しながらアメリカ人へそのような文化を説明するのが良いと思います。外務省からワシントンの日本大使館へ宣戦布告の電報を送ったが、翻訳に手間取ってアメリカ政府への報告が遅れた、という主張が繰り返しなされてきました。実に姑息ないい訳です。真珠湾攻撃を宣戦布告後にする意図が本当にあったのなら1週間前に電報を送れるはずです。
姑息ないい訳こそ日本民族の品位を貶めると思います。
南京虐殺は中国政府の政治的宣伝であることは誰の目にも分かることです。その議論に乗って30万人は多すぎる、5万人位だった、という日本側の主張も良くみます。この問題は議論すると損をするのです。完全に沈黙を守るのが良いのです。そして虐殺された中国人に対して哀悼の意を表するのが良いのです。中国は白髪三千丈と誇張する文化を持っています。数の正確さを議論し始めると日本人の品位を貶めるだけです。虐殺の人数の研究は中国人の学者の研究に任せれば良いのです。正確な数を出せるか否かは中国の研究能力と品位の問題であり、日本には何のかかわりもないことです。
最後にソ連の満州侵攻ですが、卑怯だ、けしからん、という非難は正しくても、止めましょう。
沈黙を守るのほうが日本人の品位を貶めません。ドイツと軍事同盟を組んで闘っている日本は原理的にはソ連の敵です。中立条約を書いた紙を信じるか、原理原則を信じるかの問題です。当時の日本の軍人はソ連が攻め込む可能性を常に警戒していました。しかし太平洋の島々の劣勢の故に満州の関東軍の大部分を太平洋戦線へ送りこんで玉砕させてしまったのです。
満州がほとんど無防備になりました。敵国ソ連がその隙を突いて侵攻したのです。要するに日本の参謀本部の戦略の大きな間違いでした。日本人が自分の戦略の間違いを研究しないで、相手の卑怯さだけを宣伝するのは品性に欠けます。日本民族を貶めます。
戦後、ソ連はアメリカの敵国になりました。日本人がソ連の卑怯さを宣伝することはアメリカ人にとっては心地よいのです。日本人は戦争中のアメリカ人の卑怯な行為を宣伝しましたか?きっと数多くの卑怯な行為があった筈です。戦争につきものです。
それを広島、長崎の原爆だけを批難しています。原爆は人道的な武器ではないだけでなく、卑怯な攻撃的武器という性格もあります。
戦争にかかわった日本人個人個人の立派さについては、続編で書いてみたいと思います。(続く)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人
平安時代に源義国が現在の足利市付近を領有することになりその子、義康以降の代々は足利を名乗るようになった。足利義康の子の義兼が源頼朝の挙兵に従って大活躍し鎌倉幕府の有力なご家人になった。この義兼が鑁阿寺の始めになる持仏堂を建てた。足利氏初代の足利義康が現在の足利市に館を作ったのかもしれないが、少なくとも2代目の義兼の頃には現在の鑁阿寺(ばんなじ)の堀の内側に広大な館があったと想定される。
しかし足利一族が実際に足利市付近に住んでいた事実はなかったようで土地の人々は足利一族へ親近感を持っていないことが伺われます。街には足利尊氏を称揚する看板や幟が一切なく、唯一、地味な銅像がひっそり建っていました。明治維新以後、朝敵とか逆賊とかいう汚名を与えられたお陰です。
武田信玄を自慢して信玄祭りを大々的にしている甲府市や明智光秀を英雄として尊敬している明智村などとは全く違う様子です。足利市の人々の気持ちは足利市観光案内人のKMさんが詳しく話してくれました。
結論を言えば、足利尊氏と足利市の人々とは関係がありません。しかし人々は足利学校のことを自慢にも思い、誇りにしています。「学校様」とよんで尊敬しています。
人間の歴史にたいする気持ちは現地へ行ってみないと分からないものです。(終わり)
以下にWikipedeaより鑁阿寺と足利尊氏の系図を付録として掲載します。
==========鑁阿寺(ばんなじ)とは?============
寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。
足利氏2代目の義兼が1196年、自らの館内に持仏堂を建てたのが始まりという。続いて3代目の義氏が館全体の敷地に堂塔伽藍を建て、足利氏一門の氏寺としたのが鑁阿寺である。
鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。
足利氏館として2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(15番)に選定された。
========室町幕府を開いた足利尊氏は足利氏8代目の子孫======
平安時代に河内源氏、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領有、次男・源義康以降の子孫は足利氏を称する。
義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面の武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う。その子足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、源氏将軍家の一門的地位にあった。 足利義氏以降のことと思われるが、上総・三河の守護職を務める。第7代当主・足利貞氏は長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。尊氏は後醍醐天皇の建武の新政から離反した後、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開いた。しかしその後は南北朝の動乱の中で室町幕府は常に存亡の危機に立たされたが、そのたび乗り越え、尊氏の孫で第3代将軍・足利義満の時代になって南北朝合一を達成することとなる。
================================================================
下に示した写真は堀に囲まれていた足利家の館跡の堀の様子で、この中が現在の鑁阿寺(ばんなじ)の境内になっています。堀の向こうに境内の横に通じる屋根付きの橋が見えます。
足利学校をたずね、前橋に泊まる旅の間に小さなデジカメ写真機で200枚ほどの写真を撮りました。
昨日、4つの記事を掲載しましたが、今朝は10枚の写真を選び出し、4つの記事へ配分して追加掲載する仕事をしました。
天気が悪い上、写真機も、腕も悪いのでどの写真も出来が良くありません。
200枚から10枚選び出した方針を書きます。
(1)旅行中の自分の苦労した記憶や喜びの感情にとらわれないで冷静に選ぶこと、
(2)文章記事のテーマを簡潔に表わす内容の写真を選ぶこと、
(3)写真の出来、不出来にとらわれないで何を訴えようとしているかが一見してすぐ分かるような内容の写真を選ぶこと、
(4)風の音や川の水流の音を想像出来るような写真。そして新しい詩の形を創った詩人の苦しみを表現するような写真をえらぶこと、
なにか下手な写真の言い訳になってしまいましたが、皆様はどのような方針で写真を選んでいらっしゃいますでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人
前橋市の名医の息子として生まれた荻原朔太郎は前橋で旧制中学を卒業後、熊本の五高、岡山の六高へ遊学しました。鋭い感性と、溢れる美的感覚で感傷的な詩を数多く作りました。感傷的ではあっても言葉が芸術的に響きあっています。息をのんで緊張して読まないと理解できないような感じでした。記念館に展示してある直筆の詩を数編読んで、とても疲れました。心地よい疲れでした。記念館は敷島公園の北端にありました。今回は割愛しましたが朔太郎の遺品の多くは広瀬川の傍にある前橋文学館に展示してあるそうです。
荻原朔太郎は口語自由詩を確立し、日本の近代詩に不滅の足跡を残しました。彼の生家の書斎、離れ座敷、土蔵の3棟だけが前橋市内に残ったので郊外の敷島公園に移築し、公開してあります。
下の写真は数多くの詩を書きあげた書斎の写真と詩の一部の写真です。
書斎には木のテーブルとイスがあるだけの質素なものでした。このようなわびしい部屋で彼は日夜、思索を深め、言葉の響き合いを工夫して詩を一つ一つ作り上げていったのです。
昨日、足利市へ行き、足利学校の復元された校舎、施設を見て来ました。足利家代々の館跡の「ばんな寺」も散策してきました。歴史ボランティアの男性に足利尊氏へ対する現在の市民の感情を、いろいろ聞いてきました。
いずれ詳細は書き加えますが、結論的に言えば、三者にはほとんど関係が無いことが分かりました。現在の足利市民は足利尊氏を尊敬したり、親しく感じてはいないそうです。先祖代々は足利市に住んでいたが尊氏は京都で育ち、関東へは鎌倉までしか来なかったそうです。
足利学校は一説には平安時代の小野篁の創建、鎌倉時代の足利義兼、そして室町時代の1487年、時の関東管領、上杉憲実による創建など3説があります。
いずれにしても、堀に囲まれた広い敷地に、平安時代から学校があったらしいのです。日本古来の学校を見るのは初めてなので感動しました。
下に校門の写真と堀の向こうに見える校舎の写真を示します。撮影はMrs.藤山です。