後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

展覧会、「FLOWERS AND VESSELS」終了後に主催者、 山崎 礼子さんからのご報告

2011年01月11日 | うんちく・小ネタ

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先日、このブログである展覧会の案内記事:(展覧会、「FLOWERS AND VESSELS」のご案内ですを掲載しました。

出品作品は山崎礼子さんの草月流活け花と娘さんの夫のライアン・フェンチェルさん制作の花瓶とドローイングのコラボレーションです。

その展覧会が盛会裡に終了し、主催者の山崎礼子さんから出展作品の写真5枚と、展覧会開催にいたるいきさつをお送りいただきました。以下にその文章の抜粋と写真5枚を上にお送り致します。皆様にもお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

====山崎礼子から頂いたお手紙========

後藤和弘 様   

早速メールを送って頂き、ありがとうございます。 この度は応援下さいまして心から感謝しております。 今回の展示は、たまたま長女の結婚相手がアーティストだったから実現致しました。

彼は現在シカゴを拠点に活動しています。 実際今もシカゴのギャラリーでショーの最中です。

展示のコンセプトとして、ライアン・フェンチェルはこう言っています。

「制作活動の要素を、美術史(特に古代の陶芸やモダニストのペインティングのスタイル)を通して考察。 新作のパステル・ドローイングと器は、生け花を担当する山崎の作品を考えながら制作したもので、マテリアルに選んだ粘土を含め、色や形をアレンジしたドローイング群では、生け花という”動作”をフェンチェル流に真似て表現している。自分の作品に対して、花を生ける山崎が返答する。そこで初めて完成する、共同制作である」

======山崎礼子さんのコラボへ対する考え方=======

ウィーン在住時代、私は初めて生け花と書道家の墨絵のコラボを経験しました。

お互いが主張し合わず、ひとつの空間にある(バランスというのとは違うのですが)ということを、今回も意識してお花を生けました。ドローイングの色と動き、質感を生かせるよう、極力無駄なものを排しました。

葉や緑が少ないことで柔らかな印象が薄まったかもしれませんが、緊張感も含めた心地良さを目指しました。それが実現できたかどうかは観る方の判断に委ねるしかありません。

反省点も多々ありますが、この経験を生かしてまた新たな創作につなげたいと思っています。

==========山崎礼子さんの今までの創作活動=======

私がお花を始めたのは20代半ばで、草月流理事の先生に師事していましたが、先生がお亡くなりになってからは一人で生けております。

モスクワでの生活が二度あり、通算9年弱おります間に、日本文化週間で作品を展示したり、ホールでワークショップをやらせてもらったり、日本文化紹介のテレビ番組の取材を受けて、先輩婦人と作品を紹介してもらった経験もございます。

ウィーン時代は草月ウィーン支部でお仲間とグループ展を開いたり、大使公邸のお花を生けたり、国際代表部職員の御夫人方を対象にワークショップの講師も務めさせて頂きました。

帰国してからしばらくそういう機会がありませんでしたので、今回は久し振りの発表の場になり、とても刺激的でした。大変でしたが、性懲りもなく、次回はアメリカでと野望も持っています。

音楽や文芸やあちこち手を広げていますが、いつかこれがひとつになって集大成できる日が来ることを夢見て頑張っております。そんな私の活動に対して応援下さったこと、心から感謝しております。
写真は今回知人に一任しており、あまり手元にないのですが、私が撮った数枚をお送りいたします。また記事も書いて下さるとのこと、恐縮すると同時に、光栄に思っております。
後藤様のブログを拝読していると、とても格調高く、私などは尻込みしてしまうのですが、記事を載せて頂いたら、私も少しは品がよくなるかしら、と。
どうぞよろしくお願い致します。書きっぱなしのブログではありますが、
もしよろしかったらまたお訪ね下さい。私も後藤様のブログにお邪魔させて頂きます。今後ともよろしくお願い致します。
最後になりましたが、新しい一年が後藤様にとって素晴らしい年でありますよう。
ご健康とご活躍をお祈りいたします。          山崎 礼子


誰にも愛されたことの無い不幸な人?

2011年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

愛という言葉はもともと仏教用語の「和顔愛語」という四文字漢語から来ています。誰にでも慈しみの心をもって穏やかな顔を向ける、優しい言葉をかける事を和顔愛語といいます。しかし最近は男女の間の生々しい関係を意味する事が多いのでなんとなく敬遠されている言葉です。特にハッキリ「愛しているよ」と声を出して言って下さいと女性から強いられる男性にとっては困惑する言葉になっています。

そこで私はなるべくこの言葉を使わないようにしています。同じような意味の言葉の、大切にする、親しく思う、いとおしく思う、心を込めた贈り物をする、何時も考えて居る、などなどと場面に応じて使い分けています。しかし女性は何故か「愛」という言葉に甘いロマンチックな男女関係を連想するらしくて、この言葉が大好きです。

そして私は誰にも愛されたことの無い不幸な人ですと独りで思い込んでいる人も居ます。特にいろいろな理由で家族が居なく、独りで住んでいる老人はそんな思いをする場合があります。趣味で山小屋に独りで何日か泊っていると私も自分の人生が不幸だったと思う時があります。

自分より先に子供が死んでしまったり夫や妻が死んでしまって、独り暮らしをしている人にとっては毎日愛してくれる人が傍に居ません。不幸な境遇です。心が暗くなります。

しかしそのように考える事はトンデモナイ間違いなのです。「自分が一度は愛された事がある!」と信じるのが一番の「幸福への近道」なのです。あなたが生き残っている以上、誰かに接した事があります。その人々の中に、あなたを大切にしてくれた人が必ず居た筈です。愛してくれた人が必ず居た筈です。あなたが大切にしたいと思った人が必ず居た筈です。全て過去形で書きましたが、実は過去の事をそのように思う事が第一歩です。すると現在も誰かに大切にされて居ることに気が付きます。

何時ものようにいきなり話が飛びますが、私はこのブログを読んで居るあなたに大切にされていると信じています。読んで下さっている事が、私を大切にしている事になるのです。そうです。あなたに愛されているのです。そんなあなたを想像して私は私の限り無い慈しみの心をお送り申し上げます。こうしてインターネットを通しても、人間は愛し合えるのです。

若い頃、私はルックスが悪く女性に愛された事がありませんでした。少なくとも若い頃はそのように思い込んでいて不幸でした。

結婚してからその感じが少しずつ薄くなりました。特に妻の両親が私を大切にしてくれました。75歳になった現在その事を思うと、それは愛だったという事に気が付きました。一緒に住んで居た義母の両親も可愛がってくれました。その昔の愛への恩返しの為に、暮れに妻と一緒に義理の父母の墓参りに行きました。下の写真がその時のものです。途端に卑近過ぎる事を書いてしまって恐縮です。お許し下さい。しかし墓参りをしながらこの記事の構想を考えていました。

結論を書きます。「あなたが人に愛されているという確信」を持てば、そのお返しに他人をも愛せます。あなたも、他人も一緒に幸福になる最短距離の道なのです。

現在、天涯孤独な人でも昔は必ずあなたを大切に思い、愛してくれた人が存在していた筈なのです。そして現在も必ず居ます。

今日はその愛の存在を信じ、皆様が一層幸せになるように心からお祈り申し上げます。藤山杜人

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冬木立ちの中の散歩道の写真をお送りいたします

2011年01月10日 | 写真

小平市で整備している玉川上水沿いの散歩道です。昨日、往復4kmほど歩いてきました。裸の梢が寒い風に震えています。家内は例によって先に立って歩いたり、走ったりして暑い暑いなどと言っておりました。写真だけですがお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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老境の怒りと悲しみ(2)乱れる日本語、文学の不毛

2011年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、言葉の乱雑な使い方が平気で流行しています。テレビを見て居ると気が付きますが、男も女も同じ言葉を話し、敬語や丁寧語は消えてしまったようです。お脳の弱い美人タレントが美味しいものを試食する度に、「やわらかーい!アマーイ!」という言葉だけを連呼しています。永平寺のゴマ豆腐は柔らかいに決まっています。それに砂糖たっぷりの小豆餡をかけてあるのですから甘いのは当たり前です。他にもっと表現のしようが無いのでしょうか?

そうかと思うと、美味しいものを食べると、「ヤバイ、超ヤバイ」と連呼します。ヤバイとは最近は素晴らしいという意味に変わっています。昔は都合が悪い事や、困った事が起きた時、ヤバイと独り呟いたものです。

何か説明をし、納得すると男も女も、「そーなんだ!」と言います。昔、男は、「そうでしたか。分かりました」と言い、女は、「そうでしたの。わかりましたわ。」と語尾が違っていました。現在は美しい女言葉は消えてしまったのです。男女平等の結果です。

その上外来語の不愉快な略語を無神経に使っています。デパ地下、地デジ、デジカメ、携帯、などなどは言葉の本来の意味を無視して、単に短くした不愉快千万な言葉です。そこには知性のかけらさえ有りません。長い言葉は理由があって長いのです。その理由を完全に無視して短くしてしまう文化風潮に寒々しい思いをします。

インターネットの普及はもう一つ文化的な破壊をもたらしました。書き言葉と話し言葉を区別する文化が消えつつあります。家族、友人同士の会話をそのまま書きます。昔は話し言葉を書く時には会話の内容を整理して、分かり易く、そして美しい書き言葉にしてから書いたものです。

こんな時代なのに美しい日本語を保存しようといる人がいます。このブログの推薦したいブログとして、mikaさんのkotodamaをご紹介しています。そのkotodama別館という欄に朗読が沢山詰まったブログです。美しい日本語の響きをお聞きになりたい方は、http://koto-dama.cocolog-nifty.com/blog/で朗読をお聞き下さい。

このように言葉が衰退した時代は文学作品を貧弱にします。その上、社会が豊かになり平板化した日本では傑作が生まれません。最近の芥川賞受賞作品のつまらなさは酷いものです。古くから選考委員をしていた人があまりにもレベルの低い候補作品に幻滅して選考委員を辞めたそうです。

と、以上のように書いて居ますが、実は言葉の変化は何時の時代でも起きるものです。文学作品の性格も時代とともにどんどん変化して行きます。私が老化して、その変化へついて行けなくなっただけかも知れません。そんな変化へ理由の無い怒りを感じているのは悲しいものです。老いの悲しさです。元気が出るように下の写真を眺めています。心が静かになります。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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いつ行っても楽しい三井アウトレット南大沢アウトレットの写真をお送りします

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アウトレットとは洒落た婦人服を中心にしてハンドバック、靴、アクセサリーなどなどの商品を数多くの商店の集合体が直接販売の廉価に売りさばいている広大な施設です。広い土地が必要なので都心には出来ません。八王子の南大沢や埼玉県の三郷のような郊外にしかありません。何処も下に示す写真のような楽しげな建物群の中に斬新なデザインの服飾が数多く陳列されています。千歳、軽井沢、小淵沢、御殿場、南大沢などのアウトレットへ行った事があります。特に南大沢アウトレットは家から車で1時間程なので何度も行きました。何時行っても老若男女が子供連れで楽しそうにしています。店の外のベンチに座り、楽しげな人々を眺めているのが好きです。時には屋外のテーブルでコーヒーなどを飲みながら家内を待っています。

昨日、撮った南大沢アウトレットの風景写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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キリスト教の普遍性を求めて

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は誰が何と言おうとまぎれもない佛教国です。西暦538年に伝来し、594年に佛教興隆の詔が発せられて以来、偉大なお坊さんがいろいろな宗派を創り、江戸時代末まで人々は仏教に帰依していました。藝術的に優れた仏像や寺院が国宝として数多く遺っています。その伝統は現在でも日本に力強く残っています。現在の日本には寺院が合計75000も存在しています。

そのような歴史に比較して、キリスト教の勢いがそれほどではありません。

日本人は佛教徒であり神道も信じる多神教的な宗教環境にあるので一神教のキリスト教は絶対に根付かないと断言する人が多くいます。その上、キリスト教は欧米の宗教だから無理して日本へ導入すべきでないという考えも強いようです。

私は、1971年にカトリックの洗礼を受けて以来これらの問題をずっと考えて来ました。単純な私は、善い宗教なら信じればよいと思っています。それでは善い宗教とは何でしょう?その基準はその宗教の普遍性にあります。人種、国籍、年齢、性別に関係なく支持され、信じられる教義を持っていることが普遍性の証明になります。

キリスト教は世界中の国々で信仰されています。人種、性別、年齢に関係なく信じられています。イスラム圏の中近東の諸国にもキリスト教の教会があり、信者が生活しています。げんに私をカトリックへ誘ってくれたフェルナンデス君はインド人でした。

ですから私はキリスト教の意普遍的な価値や力を信じています。

しかし一つだけ気になっていた事がありました。それはカトリックで接することの出来る外人の神父様達は皆欧米から来た人ばかりでした。ですから信者でない日本人は言います、「文明国の欧米から、文明の遅れた日本へやって来て、上から見降ろすような態度でキリスト教を教える態度が傲慢だ」と。

そんな詰まらない意見を気にしていた私にとっては革命的なことが起きたのです。昨年の11月に新しい主任司祭として着任してきたディン神父様はベトナム出身の方なのです。そのディン神父様は欧米人の神父と全く同じように熱くキリスト様への愛と尊敬を話すのです。日本語も完璧です。性格も明るく、着任以来教会の雰囲気が明るくなりました。今日のミサでは赤ちゃんの洗礼式と、成人式を心を込めてして居ました。

イエス様の宗教を直接、東の中近東、インド、ミャンマー、タイ、ベトナム、そして日本へと伝わって来たとしたらもっと自然に日本人は受け入れたのではないでしょうか?ベトナム出身のディン神父様の司祭する今日のミサの間に考えた事を書いて見ました。神父様はキリスト教の普遍性を身をもって教えてくれているのです。下にお写真をしめします。個人的な関心事を書いて恐縮です。お許し下さい。

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高校のとき、僕は夢を諦めました

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

青春時代は苦しくて、悲しくて、辛い時期の人も居ます。私もそうでした。何が辛いかと聞かれると返答に困るような何かモヤモヤした苦しさでした。

昨日、アルキミストのライブを聞いて来ました・・・そこには暖かい人間の絆がある! という記事を掲載しました。シンガーソングライターの こうのしょうたろうさんがホームページに以下のような文章を書いています。現在75歳の私が読んで何故か心が震えます。とにかく彼は歌を作詩、作曲し、唄って生きています。そうです。私は間もなく死にますが、宇宙は何にも変わりません。悲しくて、元気の出る文章です。皆様にも是非読んで頂きたいと思い、以下に転載させて頂きます。

=======こうのしょうたろうさんの文章=========

高校のとき、僕は夢を諦めました。
僕には左手のひじから先がないし、才能もないし、
夢に破れて泣くのがオチだと、一人で勝手に納得して、諦めていたんです。
そう思うのはラクなことでした。とても。
早くそのことに気がついてよかったとさえ思っていました。
でも、ある日ぼーっと夜食を食べつつ思ったんです。
宇宙の大きな流れから見ると、僕はただのかけらなんだなって。
夢に破れて泣こうが、もっと言えば、
僕がいなくなっても宇宙が消えてなくなるわけではないんだろうなって。
そう思ったら、ちょっとくやしかったけど、
スーと胸のつかえが取れたようにラクになれました。
歌いたいなら歌えばいい!本当に、とても簡単なことでした。
そうか。僕は今、ここで、こうして生きている。
もうそれだけで、失敗なんてありえないと思ったんです。
僕が生きているということが、僕にとっては何よりすばらしい。
それ以上の何があるでしょうか。
ある日。ぼーっと夜食を食べたあの日以来。
僕は僕のためにどう生きるか、考えるのはその事ばかりです。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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アルキミストのライブを聞いて来ました・・・そこには暖かい人間の絆がある!

2011年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は八王子市の南大沢アウトレットへ行きました。妻が幾つかの店に入り服をいろいろ見て、買っている間、アルキミストのライブを聞いていました。ボーカルこんやしょうたろう・ピアノ井尻慶太のアレキミストです。昔の私の仕事は化学でしたので化学者の元祖の錬金術師(アルキミスト)という名前に興味を持って何気なく聞いていました。しだいに引き込まれて行きます。透明感ある澄んだ声で抒情的な丁寧な歌い方です。胸に語りかけるような歌い方です。感心してしまい、40分のライブを全て聞いてしまいました。

歌の合間のトークで自分達の作曲し、歌う生活の様子を控え目に話します。大学を出てライブ活動をもう13年間も続けているそうです。CDを売り出してから7年になり、ラジオやテレビにも出演しています。

私の付き合ったことの無い職業の人々です。俄然その人生に興味が湧いて来ました。ライブが終わって舞台を降りて来た こんやしょたろうさんへ名刺を出して短時間のインタビューをしました。東京の近郊やライブ専門の店で忙しく活動をしているそうです。失礼な質問をしました。「この音楽活動だけで生計が立っているのですか?」と。彼は明るい素直な青年です。「はい。じゅうぶん立っています」「それでは本物のプロなのですね?」「本物かどうかは分かりませんが」。見ると回りに彼のCDを購入する人々が20人程集まっています。こんやしょうたろうさんと井尻慶太さんのファンがこんなに居るのです。2人は買ってくれたCDにサインを真面目に書いて、握手をして渡しています。ああ、ここには暖かい、確かな人間の絆があるのです。私は何故か嬉しくなりました。CDを売っている こんやしょうたろうさんと井尻慶太さんとCDを買うために集まっている人々に神様の慈しみが豊かにありますように祈りながら、ソッと帰って来ました。

南大沢アウトレットでのアルキミストのライブは13時、15時、17時からでした。明日もあるかも知れません。以下のホームページでお確かめの上、是非一度お出掛けになってみて下さい。www.voicerecords.net/alchemist/

尚、音声は、http://www.voicerecords.net/alchemist/news.phpで聞けます。

下に舞台の様子とCDを売っている様子の写真を示します。ヒゲの男性が井尻慶太さんで、隣の男性が こんやしょうたろうさんです。

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年賀状・・・それは暖かい人間の絆のあかし

2011年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、クリスマスからお正月、七草にかけて私は暖かい人間の絆を思い出し、感謝し、来年も楽しい日々が続くような気分になります。特にクリスマスカードや年賀状の一枚一枚を見ると送ってくれた人の昔の面影を鮮明に思い出し、その時の言葉の響きまで聞こえます。私は悪と善の両面を持っていますが、私の良い面の時のお付き合いを何十年も忘れずにこうして年賀ハガキを送って下さいます。若い時は人間関係がうるさくて、うっとうしくて故郷を飛び出しましたが、老境になってみると今更ながら人間の絆の暖かさが身に沁みます。小学校、中学校の頃の遊び仲間、大学の同級生、研究生活における師、そして自分が研究のお世話をした多くの学生さん達、他の大学の研究仲間、社会で親身のお世話になった数々の恩人、そして親類の人々。その上、中年からカトリックの洗礼を受けて以来お世話になった神父様、シスター様達。外国でお世話になった異国の人々などなど、私は人間の暖かい輪の中でやっと生きてきたのです。それが身に沁みて理解出来るようになったのです。やっぱり、人間は死ぬ前に仕事を止めて自分の人生を静かに振り返る期間が必要と思いました。人々に感謝しながら旅立つ。こんな幸は無いのではないでしょうか?

更に最近の数年は、このブログを通して感動的な交流や交友ができました。現在の私にとってはこのインターネットを通しての絆がとても重要になっています。このブログを読んで下さる方々、コメントを下さる方々へ不思議な絆を感じています。感謝しています。どうぞ今年も宜しくお願い申し上げます。

下の写真は昨日、車を停めて2時間も散歩しながら、「人間の絆」について考えた場所の写真です。東京、稲城市の若葉台公園です。なんとなく寂寥とした広い場所です。神社もお寺も店も見えない淋しいところです。過去にお世話になった人々を思い返し、懐かしみながら散歩するのは丁度良い所と感じました。

昨日で松の内も終わり、ことしのお正月も終わりました。

皆様の幸多い一年を心からお祈り申し上げます。藤山杜人

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フォトアルバム「中古のヨットの見分け方写真集」と「山の中の小屋」へアクセスされた方々への感謝の辞

2011年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

フォトアルバム「中古のヨットの見分け方写真集」と「山の中の小屋」へアクセスされた方々へ:

遅ればせながら、新年明けましておめでとう御座います。

出来の悪いフォトアルバムへアクセスして下さった方々へ深く、深く感謝申し上げます。

お陰さまで開設以来のアクセス数が、17万5000件と5万2000件、合計22万7000件以上になりました。

今年も写真を更新して行きたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

2011年 正月、七草の日に、藤山杜人


老境の怒りと悲しみ(1)使い捨て風潮へ対する怒り

2011年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

善い老人のふりをして、このブログでは格調高そうなことを多く書いて来ました。しかしそろそろ本音を書いてもよいのではないかと思います。老人になったお陰で感じる怒りや悲しみをシリーズ記事として連載してみたいと思います。

あまり深遠なことではありませんが、今日は酷く怒っています。食堂の電灯がソケットの接触不良で点かなくなりました。ドライバーを持ちだしてソケットを開けて見ました。中の真鍮の部品が折れています。早速ホームセンターへソケットを買いに行きます。ありません。店員さんに聞くとそのように古い型のソケットは売って居ませんと言います。どうしたら良いでしょうか?「この電球と傘ごとそっくり新品を買って、天井のところのジョイントへ差し込むと良いですよ」と言います。それが当然という雰囲気です。有難う。チョット考えてみますと礼儀正しく答えましたが、腹の中は怒りで煮えくりかりそうです。

電気器具の部品は次から次へと変化し、大部分が使い捨てになっています。その方が製造会社の利潤が大きくなるからです。仕方なくソケットに似た部品とスウィッチを買ってきて修理を済ませました。まだ怒りで手が震えています。

つい数週間前に山小屋の薪ストーブの煙突が壊れたので取り替え用の煙突の筒を東京のホームセンターで探しましたが見つかりません。あれは昔は置いていましたが、現在は置かないことにしました。と店員がすまして言います。東京には無いことが分かりました。

散々探したあげく地方の金物屋にあるのを見つけました。しかし安価なブリキ製の煙突筒は消えてしまい、高価なステンレス製ばかりです。若い女店員に聞くとブリキという言葉を知っていません。そうですか、そういうものが昔はあったのですか。と聞き返してくれます。ああ、年は取りたくないと悲しい思いをしました。

最近は電気製品でも機械製品でも全て修理をしません。故障したら新型のものを買い、古いのは捨て去るのです。怒りと悲しみが混じって不幸な思いが渦巻きます。

テレビだってそうです。なぜ地デジにして新しいデバイスを購入しなければいけないのか理解に苦しみます。切り替えが遅いと混んで出来なくなるとテレビの画面に脅迫文が出ます。昨年9月にJーCOMへ申し込んで対応措置は済ませました。しかし変換器がいろいろ付いて、操作も煩雑になりました。その事で毎日、テレビを見るたびに怒っています。操作が難しい事はその製品の完成度が悪いことを示しています。

いろいろな機能を付けても操作は簡単にする技術開発が遅れているのです。そして改良が進むと古い型の物は捨てるのです。携帯電話しかり。カメラも同じ運命です。

このような使い捨ての精神に怒りを感じます。丁寧に故障を直しながら何十年も使う文化が懐かしいです。

年をとった老人をも捨て去るのが当たり前のような風潮には悲しみを感じています。皆様はどのようにお考えでしょうか?

怒ってばかりいると短命になるので、下の様な風景を見て浩然の気を養っています。

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展覧会、「FLOWERS AND VESSELS」のご案内です

2011年01月07日 | うんちく・小ネタ

JR目黒駅下車、東口を出て、左の方向にある、素敵なギャラリーで下記の展覧会が明日から開催されます。謹んでご案内申し上げます。

2011年1月8日~10日
目黒 ギャラリーやさしい予感

「FLOWERS AND VESSELS」

RYAN FENCHEL & REIKO YAMASAKI


アメリカ在住のアーティスト、ライアン・フェンチェルのドローイング、立体と生け花のコラボ。1月最初の三連休です。
お時間がございましたら是非覗いてみて下さい。

DMはこちら。ギャラリーのサイトはこちら

FLOWERS AND VESSELS
GalleryA:1月8日(土)~10日(月) 生け花と陶芸アート
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RYAN FENCHEL
ライアンフェンチェル

REIKO YAMASAKI
山﨑礼子

新年最初の展覧会は生け花と現代アート陶芸のコラボレーションです。
年始めのお出かけに是非お立ち寄りください。


アメリカの人権外交の空虚さ・・・人権より食物の大事さ

2011年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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アメリカ政府は人権の無視されている国々へ人権を守れと強要しています。一見立派な事のようですが、強要によってアメリカへ有利な譲歩を引き出そうとしているのです。人権を利用して利益を得ようとしているのが寒い光景を作っています。しかしそれも外交交渉のテク二ックの一つとして私は我慢しています。

今日は北朝鮮や中国の人々がこの人権という事を、そして人権外交をどの様に思っているか考えて見ましょう。まず人権外交という言葉は報道禁止される種類のものですので、人々は知りません。両国政府ともに人々が人権に目覚めることを恐れるので禁句です。中国大陸の歴史を見ると、交代する王朝の治世に上手に対応して、人々は自分の生活を楽しむ知恵を持っています。それこそが伝統的な文化遺産なのです。清朝が孫文、蒋介石、毛沢東、周恩来、鄧小平、胡錦濤と交代しても人々は微動だにしません。自分の生活を守る知恵を発揮するだけです。生活で一番大切なことは食べ物です。栄養価のある美味しい料理を食べる努力をするのが中国の文化なのです。人権は食べることが出来ません。従って一部の知識人以外はアメリカ流の人権には関心がありません。

もう一つ重大に考えるべき事は現在の中国人は国内の平和を非常に重要に考えていることです。1966年から1976年まで10年間続いた文化大革命という名前の凄惨な国内戦争の体験から政治の権力闘争を忌み嫌っています。人権闘争で政府に権力闘争が起きるくらいなら寝て暮らすほうが良いのです。国内に波風を立てることは本能的に一切消そうとしています。ですからこそ中国人は戦争前の日本人のように遮二無二に団結しようとしています。

ルースベネディクト流に言えば、中国人民の文化もアメリカ人民の文化に優劣がありません。しかし多くの日本人はアメリカ文化が中国文化より優れて居ると思い込んでいます。あなたは如何にお考えでしょうか?

ところで、人権は神様が人々へ与えた基本的な権利です。それを蹂躙するような国は尊敬出来ません。外交上のテクニックとして人権外交を使うのは疑問ですが、ノーベル賞委員会のような民間人組織が中国人に平和賞を与えるのは快挙です。人権の重要性は政府の権力によってではなく、民間人の情熱で伝えるものです。それは宗教の宣教と同じように慎重に、注意深く進めて行く必要があると信じています。中国人が人権に目覚めるのが一日でも早く来ますように祈っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


あでやかな寒牡丹の展示会のご案内です

2011年01月06日 | 写真

毎年、お正月の行事としてあでやかな寒牡丹の展示会が開催されます。神代植物公園の正門を入ってすぐ左手に特設展示場が作られ、見事なボタンの花々が咲き誇っています。是非御出掛けになってご覧下さい。牡丹の花のお好きな方はきっと感動されると思います。下に昨日撮った写真をお送り致します。

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