これは1981年の秋の事です。中国の瀋陽市にある国家重点大学の東北工学院へ講義に行きました。中国の大学は大きな土塀に囲まれた一つの村のようになっています。校舎だけでなく職員住宅、学生寮があり、生活に必要な病院、保育園、郵便局、銀行、市場などが全て揃っています。人々は土塀の外へ出なくても生活が出来るのです。ですから大学の学長は村長さんのように行政も担当しています。
その村のような構内を散歩していたら外国人が見てはいけないような掲示を見てしまいました。「45人の武装した盗賊団が北の黒竜江省から南下しつつあります。大学構内が襲われないように準備しましょう」という掲示です。もう一つは「公開銃殺刑のお知らせ」です。瀋陽市の刑務所前の広場で死刑囚が3人銃殺される日時が書いてあります。私はこの掲示板を見た事を中国人へ言いませんでした。しかしここに初めて書きます。皆様が中国の実態を少しでも深く理解するようにと祈りながら書いています。
中国人にそれとなくいろいろ聞いて盗賊団や公開銃殺刑の意味が分かりました。公式には1976年に終焉した筈の紅衛兵の一団が、その後、略奪の誘惑に負けて武装盗賊団になったらしいのです。珍しい事ではなく中国各地にそのよう後遺症があったようです。そして公開銃殺はそのような盗賊団の幹部を公開で死刑にするのです。紅衛兵によって酷い目にあった一般の人々の溜飲が下がるのは自然な事です。なお公開銃殺刑は中国の伝統で、ひょっとしたら現在でも行っているのかも知れません。ユダヤ教の石打の刑のようなものです。
瀋陽でカトリックの教会の天主堂へ行きました。教会は紅衛兵の狼藉で、外部も内部も荒れ果てています。外壁は壊され、内部の祭壇、椅子、聖画など全ての家具調度が持ち去られています。家畜小屋として使われていたらしく豚の糞尿の臭いが残っています。その冷たい床に跪いて満員の信者がミサに与っています。
ミサ終了後、私を連れて行ってくれた金教授が大きな声で神父さんへ言います。「ここに日本から来た信者がいまーす!」と。皆がこちらを見ます。私は一言何か言うべきと思いました。「この春にヨハネ・パウロ2世がローマ法王として初めて禁教の地、長崎を訪問しました」とだけ言いました。金教授が通訳します。すると祭壇の上から神父様が大きな声でいいます。「私もここにいる信者もみんなそのニュースを知っています!」と。
中国のマスコミでは検閲が厳しくてローマ法王のニュースは厳禁です。しかし、こういう事は口コミで一瞬にして中国全土へ伝えられるのです。
天主教がローマの傘下になるのを政府が禁止していたのです。現在もこの政策が厳守されています。
何時ものように話は飛びます。下に示したのはあるお寺の写真です。この様なお寺がメチャクチャに壊され裏の墓石もひっくり返すのが文化大革命の実態だったのです。お寺の本堂が豚小屋にされたのです。
1966年から1976年までの10年間で2000万人の中国人が殺されたと言われています。これは壮絶な内戦だったのです。ですから中国人は絶対にもう二度と内部抗争をしません。一致団結して目を外に向けます。中国が経済発展をしました。しかし民主化よりも団結と平和を切望しているのです。私の理解の仕方は間違っているでしょうか?是非、皆様のご意見をお聞かせ下さい。
今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人