後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私は見てはいけないものを見てしまった・・・その二

2011年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

これは1981年の秋の事です。中国の瀋陽市にある国家重点大学の東北工学院へ講義に行きました。中国の大学は大きな土塀に囲まれた一つの村のようになっています。校舎だけでなく職員住宅、学生寮があり、生活に必要な病院、保育園、郵便局、銀行、市場などが全て揃っています。人々は土塀の外へ出なくても生活が出来るのです。ですから大学の学長は村長さんのように行政も担当しています。

その村のような構内を散歩していたら外国人が見てはいけないような掲示を見てしまいました。「45人の武装した盗賊団が北の黒竜江省から南下しつつあります。大学構内が襲われないように準備しましょう」という掲示です。もう一つは「公開銃殺刑のお知らせ」です。瀋陽市の刑務所前の広場で死刑囚が3人銃殺される日時が書いてあります。私はこの掲示板を見た事を中国人へ言いませんでした。しかしここに初めて書きます。皆様が中国の実態を少しでも深く理解するようにと祈りながら書いています。

中国人にそれとなくいろいろ聞いて盗賊団や公開銃殺刑の意味が分かりました。公式には1976年に終焉した筈の紅衛兵の一団が、その後、略奪の誘惑に負けて武装盗賊団になったらしいのです。珍しい事ではなく中国各地にそのよう後遺症があったようです。そして公開銃殺はそのような盗賊団の幹部を公開で死刑にするのです。紅衛兵によって酷い目にあった一般の人々の溜飲が下がるのは自然な事です。なお公開銃殺刑は中国の伝統で、ひょっとしたら現在でも行っているのかも知れません。ユダヤ教の石打の刑のようなものです。

瀋陽でカトリックの教会の天主堂へ行きました。教会は紅衛兵の狼藉で、外部も内部も荒れ果てています。外壁は壊され、内部の祭壇、椅子、聖画など全ての家具調度が持ち去られています。家畜小屋として使われていたらしく豚の糞尿の臭いが残っています。その冷たい床に跪いて満員の信者がミサに与っています。

ミサ終了後、私を連れて行ってくれた金教授が大きな声で神父さんへ言います。「ここに日本から来た信者がいまーす!」と。皆がこちらを見ます。私は一言何か言うべきと思いました。「この春にヨハネ・パウロ2世がローマ法王として初めて禁教の地、長崎を訪問しました」とだけ言いました。金教授が通訳します。すると祭壇の上から神父様が大きな声でいいます。「私もここにいる信者もみんなそのニュースを知っています!」と。

中国のマスコミでは検閲が厳しくてローマ法王のニュースは厳禁です。しかし、こういう事は口コミで一瞬にして中国全土へ伝えられるのです。

天主教がローマの傘下になるのを政府が禁止していたのです。現在もこの政策が厳守されています。

何時ものように話は飛びます。下に示したのはあるお寺の写真です。この様なお寺がメチャクチャに壊され裏の墓石もひっくり返すのが文化大革命の実態だったのです。お寺の本堂が豚小屋にされたのです。

1966年から1976年までの10年間で2000万人の中国人が殺されたと言われています。これは壮絶な内戦だったのです。ですから中国人は絶対にもう二度と内部抗争をしません。一致団結して目を外に向けます。中国が経済発展をしました。しかし民主化よりも団結と平和を切望しているのです。私の理解の仕方は間違っているでしょうか?是非、皆様のご意見をお聞かせ下さい。

今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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日本のカトリックの本山は長崎、浦上天主堂・・私が勝手にそう言うだけですが

2011年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

何でも宗教組織があれば本部や本山があるのが普通です。しかしカトリックではローマ法王が各地の司教を直接指導するので、国ごとの支部も支所も存在しません。

ですから日本のカトリック信者の代表者と言うものは存在しません。全国が16の教区に別れていますが、その間に上下関係はありません。ただ日本の税法上から宗教法人組織になっていて、その主体は日本の司教達の指導で「カトリック中央協議会」です。それが全体の経営と運営を指導しています。本部事務所は東京都江東区潮見2-10-10.にあります。

しかし佛教国の日本に住んでいる私にとって本山が無いと何となく落ち着きません。そこで私は勝手に長崎の浦上天主堂を本山と決めています。心の中でそう決めているだけです。

それはそれとして今日のミサは助祭の谷口さんが説教をしました。彼は神学校の最終学年にいるので、この3月には出身教区の福岡司教区で叙階式をし、正式に神父さまになります。彼の今日の説教では、長崎、浦上天主堂の叙階式が日本一厳粛で壮大ですと話してくれました。信者が3000人以上参加し、数多くの司教団、司祭団が美しい法衣を纏って祭壇の上にズラリと参列します。その前に叙階を受ける10人位の助祭さん達が十字架へ向かってうつ伏せに寝て祈っています。荘厳なパイプオルガンと3000人の信者の合唱で叙階式が進行するのです。

東京大司教区の関口教会で、山本神父様の叙階式に参加したことがあるので長崎、浦上天主堂の様子も想像出来ます。

この谷口助祭さんは小金井教会に来て、ミサのお手伝をしてくれています。主任司祭のディン神父様の補佐として実に過不足なく働いてくれています。感動したので昨年の6月に彼の在学してる神学校を訪問し、非常に開放的なカトリックの神学校 という記事を掲載しました。

その谷口さんも3月には出身地の福岡教区に帰り、神父として九州で働くことになっています。淡いお付き合いでしたが別れるのが残念です。そこで、彼の神父様としてのご活躍を祈って、この記事を掲載する次第です。3月まではもう少し期間があります。谷口さん、有難う御座います。下に今日のミサの祭壇を写した写真を掲載致します。(終り)

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あなたは菅直人政権をどう思いますか?

2011年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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あなたは現在の政権をどう思いますか?と問われれば多くの人は、「期待していません。景気も良くならないし。まあ自民党と交代したことは良かったのかも知れませんが」と答えると思います。

そして民主党の誰に好感を持ちますか?少し怖いけど、美形の蓮坊さんがいいですね。言うことがハッキリしていて。それと前原さんも悪くないですね。よく働くから。最近は普天間問題と日米協力問題を切り離す外交をしたし。と多くの人(男)は言うでしょう。

菅さんはヌラリクラリで駄目ですね。兎に角、景気を良く出来ない政権は辞めて貰いたいですね。まあ、こんな意見が平均的な感じ方ではないでしょうか?

この記事の前に1961年のケネディ大統領の就任演説の一部を掲載しました。「あなたが菅直人政権が何をしてくれるか?と問うよりも、あなたは日本という国家へ何が出来るか?と問いなさい!そんな風に読んだら如何でしょうか?

最近の経済の低迷と閉塞感で世の中が暗い雰囲気になっています。しかしそれは自分の気の持ち方で明るい社会にもなるのです。

日本と言う国ほど所得格差が無い国は多くはないのです。貧民層の数の少ない事でも自慢出来ます。新幹線や高速道路のような便利なものがあります。世界中の料理が比較的安価で食べることの出来る国です。

不足しているものが有るとしたら、それは健全な国家観を人々が持っていない事です。国を愛していない事です。偏狭な国粋主義は絶対にいけません。しかしバランスの取れた心豊かな愛国心が重要なのです。私は日本と言う国が大好きです。愛しています。バランスの取れた愛国心とは外国の事や敵国の文化を深く理解する事によって出来あがる精神です。北朝鮮や中国を悪しざまに非難する事は簡単です。しかしその態度は偏狭な国粋主義へ繋がりやすいのでしてはいけない事です。そんな思いを深く持っています。

すると景気の悪い閉塞感に覆われた社会も、途端に明るく思えます。

私は日本が好きです。日本を愛しています。それ故に韓国も台湾もベトナムも中国も好きなのです。愛しているのです。上に示した写真の美しい雑木林のようにゆったりした気持ちで考えています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


ケネディ大統領の1961年の就任演説の終りの部分を考えてみる

2011年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ケネディ大統領の1961年の就任演説は格調の高い歴史に残る演説として有名です。

その終りの部分のみ下に示します。

日本という国家があなたに何をしてくれるか?と尋ねるよりもあなたは日本という国家へ何が出来るかと考えよというメッセージに聞こえませんか?

戦前の教育を受けた私の心に素直に響く、名演説です。最近の日本の低迷ぶりを見るとこのメッセージを噛みしめ、もう一度、日本人は新しい国家観を打ち立て、独立国家、日本の名誉と安全を守る真摯な努力をするべきと思います。

その議論の導入として以下に、ケネディ大統領の演説の終りの部分をお送り致します。

・・・・・・・・前略・・・・終りの部分・・・・・・・・・・・・

(出典:http://www.ne.jp/asahi/barber/tokyo/J.FKennedy.html

And so, my fellow Americans:/ ask not/ what your country can do for You/-Ask what you can do for your country.

ですから、私の仲間であるアメリカ国民である皆さん:/尋ねないで下さい/国があなたのために何をしてくれるかを--/尋ねて下さいあなたが国のために何ができるかを。

 My fellow citizens of the world:/ ask not/ what America will do for you/, but what together we can do/ for the freedom of man.

私の仲間である世界の皆さん:/尋ねないで下さい/アメリカがあなたのために何をするかを/、そうではなくて何を一緒に私達ができるかを/人類の自由のために。

 Finally/, whether you are citizens of America/ or citizens of the world/, ask of us Here/ the same high standards of strength and sacrifice/ which/ we ask of you/. With a good conscience/ our only sure reward/, with history/ the final judge of our deeds/, let us go forth to lead/ the land we love/, asking His blessing and His help/, but knowing that/ here on earth/ God's work must truly be our own.

最後に/、皆さんがアメリカの市民だろうが/世界の市民だろうが/、ここにいる私達から求めてください/同じ高い水準の強さと犠牲を/ それを/私達が皆さんに求めている/。正しい良心をもって/私達の唯一確かな報いとして/、歴史によって/私達の行ないの最終審判がある/、先頭に立って前進させよう/私達が愛する国を/、神の祝福と助けを求めつつ/、しかし次のようなことを知りつつ/この地上では/神の働きが真に私達のものとなることを。


寒い日には温室の写真を見て暖かい気分になって下さい

2011年01月15日 | 写真

寒い日には自分で撮って来た温室の花々の写真を何度も見ています。すると寒さを忘れて暖かい気持ちになるから不思議です。皆様も暖まって下されば嬉しくおもいます。神代植物公園で先月の末頃撮って来た写真です。

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私は見てはいけないものを見てしまった・・・その一

2011年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

この事実は胸の中に秘めて死んで行こうと思っていました。しかし書く事によって日本の人々の中国への理解が深まり、両国の関係に良い効果があると思うようになりました。

それは1981年の秋の事です。中国の東北の遼寧省の瀋陽に1ケ月近く滞在しました。国家重点大学の東北工学院へ集中講義に行ったのです。学生達は食い入るように私の顔を凝視し、熱心にノートを取ります。その強烈な勉学態度に疲れ、大学の構内をよく散歩したものです。

ある時、中国風の瓦屋根のついた豪華なレンガ建てのビルを見つけました。長い5階建のビルです。誰も居ません。好奇心で中に入りました。1階から3階までは研究用の実験室です。あちこちのドアが半分開いています。室内を覗くと、実験道具が全てひっくり返って荒れ果てています。

4階、と5階は教室になっています。廊下の端から死臭のような悪臭が漂って来ます。好奇心にかられ行って見ると、そこには数多くの水洗トイレが整然と並んでいます。

覗いて見ると、全ての便器の上に盛り上がるように排泄物の山が出来ているのです。

見てはいけないものを見てしまったような衝撃を受けました。いそいで走り出し、その放棄された豪華な校舎へはその後近づかないようにしました。

この事は中国人へ絶対に話しませんでした。

その後、何故そのような不潔極まりない物が国家重点大学に有るのか考えていました。そして日本の敗戦直後の公衆便所にも同じ光景があった事を思い出しました。その光景は先日掲載した記事、貧乏ほど怖いものは無い・・・戦争も厭です  に書いた通りです。第二次世界大戦に負けた日本人の精神が荒廃して、@@@の山が出来たのです。それと全く同じものが国家重点大学にあったのです。

では中国人は何故それ程までに精神が荒廃したのでしょうか?原因は1966年から1976年まで10年間も続いた文化大革命にあったのです。それは中国人を毛沢東派の紅衛兵と一般人とに2分した凄惨な国内戦争なのでした。食料輸送部隊を持っていない紅衛兵は民家に押し入って食事をし、金目の物を軍資金として略奪したのです。

そこには法律や秩序など一切ありません。人々の精神が病み、荒廃するのは当然です。

日本人が第二次大戦で敗れ、歴史上初めて外国の軍隊に占領されたのです。その屈辱と挫折感は日本民族の負の遺産として現在でも語り継がれています。それと同じように文化大革命の凄惨な失敗は中国人民の巨大な負の遺産として心の底に残っているのです。その事はあからさまに話が出来ないだけに一層深い傷として忘れらないのです。この大きな負の遺産を考慮に入れると現在の中国政府の政策への理解がより容易になると信じています。

続編では、日本ではあまり知られていない紅衛兵の悪行をもう少し示し、現在の中国政府の非常識な国際的態度の原因を考えて見たいと思います。彼等は気違いではありません。非常識な行動にはその原因が必ずあるのです。

今こそ冷静になってもっと理解を深め、将来の日本の名誉と安全を守る事が大切と信じています。不注意な行動をとって日本の名誉を傷つけないように努力すべきと思います。その努力を続ければ暗い現在の日中関係にも、下の写真のように明るい陽が射す時が必ずやって来ます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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私のヨットの師匠、STさんの事・・・回想と感謝

2011年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

私は50歳で小型ヨットスクールへ通い免許を取り、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。

ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがSTさんです。それ以来、23年間、STさんにお世話になったのです。

優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットのことは何でも知って居て、全てを教えてくれます。霞浦マリーナでの係留を止め、茨城県管理の係留地へヨットを動かした後でも変わらず親切にしてくれました。水漏れを直してくれたり、エンジンの調整をしてくれたり、セイルの特注を受けてくれたり、何でもしてくれました。

ヤマハ19に10年乗り、少し大きな中古ヨットへ買い変える時もSTさんが見つけてくれました。その上、古いヤマハ19を引き取ってくれました。買い変えた26フィートのアメリカ艇に現在まで13年も乗り続けています。

私が安心してヨットの趣味を続けられたのは、このSTさんのお陰です。

霞ヶ浦マリーナはその後、経営者が変わり、京成マリーナになり現在はラクス・マリーナと言います。経営者が変わってもSTさんがマリーナにとって絶対に必要な人なので変わりません。

私は時々用も無いのに彼を訪ねて少しだけおしゃべりをして来ます。

昨日も寄って見ました。不在でした。マリーナを散歩していたら23年前のいろいろな事が思い出しました。旧懐の情やみがたく思い出を楽しんできました。

初めてクルーザーを係留したとき隣に下の写真のような2本マストの大きな木造艇が係留してありました。STさんはすぐに持ち主のKさんを紹介してくれて、夜のビールパーティに呼んでくれました。

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この船は本当に大きくて前部に寝室とトイレ、後ろの部屋はパーティ用のテーブルがあり、隅に流し、料理台、食器棚、冷蔵庫がついています。桟橋から100ボルトの電源と水道を船の中に取り込んでありました。マホガニーの艶のある室内で明るい電灯の下、数人が冷蔵庫で冷えたビールを飲みながら、談笑を楽しむことが出来ます。隅の料理台の上ではKさんがツマミに簡単な料理を作ってくれます。

パーティが終われば隣の自分のヨットに帰り、寝てしまえば良いのです。KさんはSTさんを尊敬し、パーティの時は必ず招待していました。私も数回、そのパーティへ呼んで頂きました。そして私の艇へ来ては丁寧にセイリングの事を幾度も教えてくれました。

そんなお付き合いが2年ほど続きましたが、ある時Kさんが忽然と消えてしまったのです。STさんに聞くと、返事に困ったような顔をします。何か深い訳がありそうです。それ以来、私はSTさんへKさんの話は一切しません。人生にはそんな事もあると思い、楽しかった光景だけを胸にしまいこんでいます。

昨日、そのKさんの大型ヨットが係留してあった所に下の様な28フィートのヨットが係留しているのを見つけました。独りの老人がエンジンの調整をしています。ヒョットしてKさんではと思い、帽子をとって背後から丁寧に挨拶をしました。別人です。しかし何故か昔からの知り合いの様な気分になり、ヨットの中に入れて貰い話しこんでしまいました。

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マストを倒し、低い橋の下を何箇所もくぐり抜けて銚子に出て、大島までセイリングをした体験を楽しそうに話してくれます。つい長居をし過ぎたようです。気が付くと真冬の陽が傾き、冷たい風が沖の方から吹き付けてきます。お邪魔した失礼を詫びて岸へ上がり、帰ってきました。

このように用も無いのにマリーナを散歩するのは、長い間お世話になったSTさんのことを考え、そして楽しかったいろいろな場面を思い出すからです。

それにしてもSTさんには長い間お世話になったものです。彼はまだ50歳台ですが、私はヨットが出来なくなる年齢に近づいています。STさんへ感謝しながらお別れなければなりません。STさん、本当に有難う御座いました。(終り)


白鳥の餌は何か、どなたか教えて下さい!

2011年01月14日 | うんちく・小ネタ

昨日、細い揚げ煎餅のお菓子を買って白鳥へ与えました。米の粉を砂糖と混ぜて油で揚げた小さな菓子です。いかにも白鳥が好きそうです。50cmくらいも近くに行って目の下にバラまいたのですが、不思議そうに見降ろしているだけです。まわりのカモメガ狙っています。私が白鳥から離れるとカモメが白鳥にぶつかりながら食べてしまいました。どなたか白鳥の餌をお教え下さい。以前茶殻を与えているという記事がありましたが。尚、ここに居着いている白鳥は40羽位ですが近所の人が毎朝、糠のようなものを桶に入れ、水を一杯入れて餌にしています。白鳥は並んで長い首を桶の中へ突っ込んで、啜りあげながら飲み込んでいます。その正体をお教え下さい。お待ちしています。

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魔女にも課税・・・ヨーロッパは日本と同じく多神教です

2011年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本人は欧米の文化を取り入れ、追いつこうと国をあげて努力して来ました。その故に欧米を尊敬し、理想化しています。その傾向は現在でも形は変えて連綿として続いています。その利害得失や事の善悪を論じた本や講演が多数存在しています。

その歴史の故に、日本はとかく欧米を理想化し過ぎて理解しているきらいがあります。例えばキリスト教は一神教ですから欧米は完全無欠な一神教の地域と信じています。

ところがヨーロッパに実際住んでみると魔女が居たり、占い師がはびこっていたりしています。その上、訳の分からない新興宗教やオカルト教団が沢山あります。佛教集団も創価学会も統一教会もあります。

欧米は日本人が考えているような純粋な一神教の世界ではありません。彼等はイエス様を信じながら、一方では魔女を信じ、星占い師を信じ、お金を支払って占いをして貰っているのです。

その証拠に、最近、ルーマニア政府が国内で営業している数千人の魔女にも課税し、税収を増大することにしたというニュースが昨日の読売新聞の6ページ目に大きく報じられています。

人間は慾張りです。イエス様だけでは不満で、多くの魔女や占い師や他の神様達に大切にして貰いたいのです。それは人類の普遍的な性向です。欧米人だけが例外である筈がありません。それが欧米人の生活の現実なのです。

しかし、彼等が日本人と少し違う所は、多神教は人間としていけない事かも知れない、一応イエス様だけを信じる事にしようとしている姿勢にあります。姿勢がそうっであっても現実は違うのが人間の悲しさです。私は欧米人へ限りない哀れみと共感を感じます。私と同じような、人間の弱さが見えるのです。

今日は外国の人の例として欧米人を取り上げましたが、この記事はアフリカ、中近東、インド、アジア、南米の全ての国々に対して同じ内容の記事が書けます。同じように人間の悲しさに共感を感じています。一体、人間とは何なのでしょうか?

(下の写真の出典は、「魔女の写真」の検索結果のトップ記事よりです。)

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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カモメ達と戯れてきました

2011年01月13日 | 写真

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霞ヶ浦の西北の岸辺でカモメ達とたわむれて来ました。今日は白鳥達は私の相手をしてくれませんでした。実はコンビニで子供用の菓子を買っていったのでカモメが私の回りに群がって飛んでいるのです。菓子を空中に放り上げると、素早くくちばしで捕まえます。白鳥はお菓子が嫌いらしくて、足元にやってもも見向きもしません。カモ類も興味を示しません。カモメの下でハト達がおこぼれを拾って食べていました。


お釈迦様の教える慈悲とはイエス様の教える愛と似ているようです

2011年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

イエス様は罪深い私共を等しく愛して下さいます。従って我々も隣人を愛します。汝の敵をも愛します。自分も他人も、敵でさえ同じように平等に愛しなさいと教えています。

我々もイエス様も、神をも愛します。全身全霊をつくして愛しています。

先日、お釈迦様の教える「慈悲」という言葉の意味を調べて見ました。Wikipedeaの「慈悲」の項目に以下に様な説明がありました。

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慈悲とは仏教用語で、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫」の気持ちを表現する場合に用いられる。

慈悲と並べて使用されるが、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の単語である。「慈悲」は(仏教用語として)一般に、「慈しみ」と「憐れみ」を区別せずに両方を含んだ意味で使われ、あまり厳密ではない。

アビダルマ教学においては、厳密に「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)に分別され、四無量心四梵住とも呼ばれる。

  • 慈 - 「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
  • 悲- 「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
  • 喜 - 「随喜」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
  • 捨- 「落ち着き」、相手に対する平静で落ち着いた心。

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このブログで、最近、誰にも愛されたことの無い不幸な人? という記事を掲載しました。この記事の底にはお釈迦様の慈悲の心やイエス様の愛の心が流れているのです。どんなに極悪非道で、孤独な人でもお釈迦様やイエス様は大切に思ってくれます。慈悲を下さいます。愛して下さいます。ですから誰にも愛されない孤独な人は絶対に居ないのです。この世には存在しないのです。

その事を書きたくて掲載した記事が、誰にも愛されたことの無い不幸な人? です。

しかし宗教的な事は峻別して書いたので分かりにくかったと思います。両方を通して再読して頂ければ嬉しく思います。2つの記事を合わせて完成するような構成にしました。如何でしょうか。ご意見を頂ければ感謝いたします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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侠客が取持った友好姉妹都市・・・少し困惑しています

2011年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

私が47年間も棲みついている東京都の小金井市には小金井小次郎という博徒の大親分が居ました。江戸末期38歳の時に、賭博の罪で江戸幕府によって三宅島へ遠島になった罪人です。島には12年間居ましたが明治維新で赦免され東京に帰り、「島帰り」の看板で大きな勢力になりました。新宿界隈から川崎不動の周辺までを縄張りにして、3000人の子分を擁していたと言います。主な収入源は非合法の賭博です。それで金を稼ぎ3000人の子分の生活費にしていたのです。明治14年に63歳で死んでいます。

三宅島に居る間は子分も居ないし、賭博も出来ないので真面目な暮らしを送り、貧しい島人の為に井戸と貯水池をつくりました。現在でも小次郎井戸として存在しています。

小金井市の市長がこの小次郎の子孫の関綾次郎さんでした。昭和42年から44年まで市長を務め、小金井市と三宅村を友好姉妹都市にしました。そのような経緯で、小金井市と三宅島は現在でも交流を続けています。島のガクアジサイを贈られ玉川上水のほとりに植えたり、数年前の三宅島の大噴火の折にはいろいろな支援活動をしています。友好関係を根気よく続けています。

全国の市町村はお互いに友好姉妹都市になっているケースが多いと思いますが、侠客が取持った姉妹都市は他に無いと思います。自慢も出来ず、困惑していますが、それも日本文化の一風景としてご報告致したいと思います。下の写真は西念寺の南にある鴨下家共同墓地にある小次郎の追悼碑とお墓が並んでいる様子です。

尚、小次郎に関して幾つかの本があります。下村昇著、「三宅島流人、小金井小次郎」、勉誠出版、平成12年初版、は伊豆七島において流人達がが大変重荷になった事情や、当時の島の人々の過酷な生活状況が書いてあり興味深い本です。小金井小次郎伝の部分よりも流人制度とその島人への影響を書いた部分が面白いと感じました。あなたの住んで居る地方にこのような話がありましたならお知らせ下さい。

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駐停車可の道路の心温まる風景写真

2011年01月12日 | 写真

東京の道路は何処へ行っても駐車禁止や停車禁止の看板があって、チョットした用足しでも有料駐車場を探さなければなりません。ゴールド免許を持ったまま人生を終りにしたいので何時も有料駐車場へ入れます。ところが道路の両脇に停車専用のスペースを綺麗な石畳みで作ってある街があるのです。心温まる道路なのです。別に買い物をするわけでもないのですが、そこに車を止めて歩道を少し歩いてみます。その上、住宅街の先には広い歩道橋がある公園もあります。何故かホノボノとした楽しい気持ちになります。東京、稲城市の向陽台という住宅街です。写真だけでもお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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貧乏ほど怖いものは無い・・・戦争も厭です

2011年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

長い不景気の時代がやっと上向きになったと思ってホッとしていたら、リーマンショックでまたまた暗転です。若者の失業者や中年でリストラされた人々が生活に困窮しています。戦後の悲劇を見て、生きて来た私は、久しぶりに貧乏の怖さを思い出しています。終戦後、すぐに疎開先から東京に帰って来た武田百合子さんが書いています。

「地下鉄、都電、省線、東京にはいろいろな電車が、ぎゅうぎゅうづめに人を乗せて走っていた。靴磨き用に細長く布を切りとられたり破れたりして藁がはみ出している座席、ガラスの代わりに板をうちつけた窓、板の間に合わない窓から風が吹き通っていたが、満員なので顔しか寒くなかった。省線電車の一番前に一輌つけてある進駐軍専用車だけが、夢の応接間のように綺麗で空いていた。日本人の女がアメリカ兵につれられて乗っていた。・・・・中略・・・・駅の公衆便所は扉も便器も壊れていた。@@@@余りにもリアルな表現なので伏字にしました。@@@@要するに汚物のやまです。公衆電話ボックスの中にも、必ずといっても良いくらい、大量にしてあった。@@@そして自分は汚物が怖いので、焼け跡で用をたしていた。すると同じような音がいつまでも続いています。音の方を見ると蛇口が盗られた水道から水が流れているのです。・・・」(武田百合子著、「遊覧日記」181-183ページより抜粋)。

戦争に負けるという事はこのようなことなのです。戦争は厭です。

日本の現在の不景気は戦後の状況に比較してまだまだ天国のようなものです。

そして外国の貧困人口に比較すると日本の貧困層は非常に数が少ないのが特徴です(豊かなお正月に世界全体の事を考える(1)世界のスラム人口の分布)。

このように書いて、現在の日本人に、「我慢しなさい。根気良く生き延びなさい!」と言うのは簡単です。

しかしそんな簡単な問題ではありません。

確かに社会全体は豊かになりました。しかしその豊かななかに貧乏に喘いでいる人々が居るのです。貧乏の故に犯罪を犯したり、自殺したりする人々がマスコミで毎日のように報じられています。

戦後の日本は全員が生活に困窮していました。回りが同じように貧しい時には貧乏は怖くないのです。

ところが最近の日本は回りが豊かな生活をしているのにある特定の少数の人々だけが行き詰まっているのです。これは非常に悪い状況です。大きな悲劇です。私にはどうしたら良いか分かりません。

しかし声を大にして言いたい事は現在の貧乏の怖さは戦後の貧乏の怖さより大きい。もっと悲しい。出口が見えないだけに暗澹たる状況です。と、言いたいのです。

最近、不運な子供達へ新品のランドセルを匿名で寄付する事が流行っています。明るいニュースです。少しずつ、少しずつ、明るい方向へ向かい出したと感じられます。この麗しい豊葦原瑞穂の国が再び立ち上がることを心から祈っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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