後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新しい都立公園がデビューしました・・・武蔵野の森公園・南地区

2011年11月25日 | 写真

小型飛行機のための調布飛行場の北と西の境界に隣接して以前から武蔵野の森公園がありました。一方、飛行場の南境界の外には野球場を含む運動場があり、広大な無料駐車場がありました。この南地区を整備し、野球場とテニスコートと広い芝生や池を整備し公園にしました。広大な駐車場は公園に取り込まれ、半分くらいの広さの有料駐車場になりました。

この新しく整備された南地区を都立武蔵野の森公園の南地区として一般へ開放しました。従来から存在していた武蔵野の森公園は北地区と呼び、新しく整備した南地区と幅広い遊歩道で連結したのです。

隣は調布飛行場なので空が開け、広々した明るい公園です。

今日は初めて都立武蔵野の森公園の南地区を散策し、写真を撮って来ました。東京の西部にお住まいの方は一度お出掛けになって見て下さい。駐車場は北地区にも南地区にもあり1時間300円です。駐車場は平日なら空いています。

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晩秋の山里の風景(6)紅葉の田園の散策

2011年11月25日 | 写真

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山梨県、北杜市の清春白樺美術館の西側には「北の杜倶楽部」というゴルフコースがあります。そこへ入る道路の周囲がのどかな田園風景になっています。上の写真のような雑木林の中に車を停め、ゆっくり散策します。

その折にとった紅葉の写真を下にしめします。撮影は11月21日です。

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美しい夫婦愛、そして美しい写真

2011年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

夫婦愛は美しいものです。奇蹟のように感じられるときもあります。

織田寧人さんの最愛の妻、美保子さんは1984年にガンで亡くなりました。寧人さんはすぐに美保子さんの遺稿集を出版しました。「風を愛したひと」と題した装丁の美しい単行本です。

現在は2011年ですのでそれ以来27余年が経過しています。しかし寧人さんはこの本を読みたいという人に現在でも無料で送り続けています。以前、このブログでその事を紹介しました。そうしたら3人の方が申し込んでその本を送って貰ったのです。

申し込み先は、http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/kazeai.htmに書いてあります。是非、寧人さんから送って頂き、お読み下さい。

その本は夫と2人の子供を残して39歳で旅立って行った美保子さんの悲しみが溢れています。悲しい本ですが、一方で夫婦愛の美しさが溢れているのです。そして亡くなってから27年余になっても寧人さんは妻の遺稿集を多くの人へ送り続けてるのです。27年前に別れてしまった妻を忘れられないのです。妻に対する愛はますます強くなっているようです。

この織田寧人さんは美しい写真を撮り続けています。妻と別れた悲しみが写真の印象を一層奥深いものにしているようです。人間は写って居ません。風景、建物、教会、廃墟、鉄道写真、万葉集、芭蕉、などとテーマ別に分類されています。

このブログの「推薦したいブログ」の一つの、織田寧人@風工房 です。

その中の「天主堂巡礼」というテーマの中の2枚の写真を下に示します。

私も遺稿集、「風を愛したひと」を読み、感想文を3回に分けてこのブログに掲載しました。

それらは、(1) 39歳、ガンで逝った織田美保子さんの遺稿集の書評(1)分かりやすい文章、美しい日本語、(2)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(2)結婚しようとしている男性、夫婦生活をしている夫が読むべき書、(3)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(3)涙、涙、涙、そして慟哭  です。

再度お読み頂き、この遺稿集を取り寄せて是非お読み下さい。夫婦愛の美しさが分かります。そしてあなたの夫婦愛が今まで以上に輝きだすと思います。仲の良い夫婦も、仲の悪い夫婦も是非お読み下さい。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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別荘は絶対に持ちません・・・あくまでも小屋にこだわっています

2011年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

別荘は絶対に持ちません。粗末な小屋は持っています。この違いが分からない人が多いので往生しています。

詰まらない私の道徳観が贅沢は敵ですと叫んでいるのです。戦争中に少年だった私は、「贅沢は敵だ!パーマネントは止めましょう!欲しがりません(米英に)勝つまでは!」と面白半分、叫びながら遊んでいました。戦後、パーマネントは解禁になりましたが、贅沢は長い間してはいけないという道徳が存在していたのです。

若い頃、ストックホルムの工科大学へ集中講義に行った時スエーデンの人々が質素な夏の小屋を島に持っているのを見ました。そこへ招待されたこともあります。キャンプ生活と同じような泊り方をするのです。要するに別荘と言う概念からひどくかけ離れた小屋なのです。これなら私の道徳観にも合格です。帰国してすぐ、1973年に甲斐駒の麓に小屋を作りました。

別荘ではないので当時は電気も水道もガスもありません。現在は電気だけは引きましたが。その小屋の表と裏の写真を下に示します。

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いかがでしょうか?皆様の持っている別荘のイメージとはかけ離れた小屋ですね。その南と北側の樹木の様子を下に示します

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いわゆる別荘地ではないので眺望は悪いのです。

100 しかしこの小屋には唯一自慢できる贅沢があります。それは庭の中を年中水の枯れない小川が流れ岩魚が棲んでいることです。左の写真でその様子を示します。

昼間は明るい太陽の光を浴びながらこの小川と遊んでいます。

川岸の落ち葉を掃除したり川床に綺麗な砂を広げたりして飽きずに遊んでいます。小さな木の橋を作って回遊しながら散歩できるように小道を繋ぎます。

そんな事をしていると晩秋の夕方は急に暗くなります。そして窓の外は漆黒の闇にになります。小川の向こう岸に灯したガーデン灯が心細く光っています。その様子を下の写真で示します。

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闇夜の空を見上げると星が木々の梢の間に輝いています。

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外はあまりにも寒いのですぐに室内に入り、上のような薪ストーブを燃やしながらビールをゆっくり飲みます。そして薪ストーブで煮た赤い鍋のビーフシチューの肉が柔らかくなったら夕食にします。近所のスーパーから買って来た焼き立てのパンと一緒に食べます。

食後は勝沼の有機栽培で作ったブドウの新酒を飽きずに飲みます。

本を読んでいると小川の水音だけがして、夜が更けて行きます。

夜ふかしはせずに10時には東京から車に積んで持ってきた布団を敷いて寝てしまいます。

夜は冷えるので電気ストーブをつけたまま寝ます。

朝目が覚めて、薪ストーブを燃やしてから東の窓の鎧戸を開けます。

丁度、下の写真のように太陽が上がってきて、部屋の中が明るくなります。

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そして又新しい日が始まるのです。何十年通っても同じようなことの繰り返しですが、実は季節によって、そしてその日の天候によって決して同じではないのです。自然の息使いは微妙に変化し、その変化こそが楽しいのです。山小屋で一夜を明かす事は決して楽ではありません。辛いのです。しかしそれを我慢して朝日を見た時の感動が良いのです。太陽の有難味が身に沁みます。

小屋の生活の必需品は薪ストーブと室内に設置した「流し」と水洗トイレです。これを私は3種の神器と思っています。

水は小川に流れていますが、飲むと枯葉の味がして不味いのです。白州の名水を汲んで来てコーヒーを淹れます。

この小屋に一泊するとヘトヘトになって帰宅します。兎に角生活が厳しいのです。その厳しさがあるからこそ楽しさが倍加するのです。この点こそ安逸な生活が出来る別荘とは決定的に違うのです。

この違いをご理解して頂くために説明したのです。しかし考えて見るとそんな詰まらない違いにこだわる私はまだまだこの世に執着している証拠です。困ったものです。次回に山林の小屋の記事を書く時はこの執着心を卒業するつもりです(乞うご期待!)。しかし別荘と小屋の違いがあるのも良いものですね。(終り)


晩秋の山里の風景(5)別荘を取り囲む紅葉の樹林

2011年11月24日 | 写真

都会の人が農村に行くと、そこの人々の暮らしぶりに興味が湧いてきます。そのような場合には水田が有るか無いかを観察します。水田が出来る土地の農家は昔から豊かな生活をしています。白い壁の土蔵や白壁の塀があります。母屋も瓦葺です。

ところが台地で水掃けが良すぎる土地では水田が出来ないので畑作だけになります。この場合も土地が黒土か赤土かで明暗が分かれます。黒土なら野菜や果物がよく実り収入も大きいのです。赤土の全てがそうとは限りませんが、土が痩せていてトーモロコシやサツマイモくらいしか出来ません。

もっとやせている時は肥料を充分に撒いて牧草を育てます。牧畜をするのです。牧草地は観光客が見て楽しいものですが、牧畜はリスクの大きい作業らしく、ところどころに廃業した畜舎が散在しています。

そのような牧畜地帯は一般に眺望も開け、別荘地として好まれます。

ですから牧畜をしている地域のある農村には大小さまざまな別荘が立っています。

経営の困難な牧場の片隅を都会の人が買って別荘を立てるのです。牧場の人も助かるので歓迎します。そのような別荘地が北杜市の八ヶ岳の山麓に沢山あります。

紅葉の樹林に囲まれた様子が美しかったので下に写真をご紹介いたします。

11月21日と22日に撮って来た写真です。

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・上の2軒の別荘は明らかに牧場地の隅を買って作ったような場所にありました。前は広々した牧草地です。

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・牧草地に続く雑木林の中には上のような道が出来ていました。そこを入って行くと下のような別荘がありました。

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・この別荘には人が定住している様子でした。都会にも家があり行ったり来たりしているのかもしれませんが。

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・この別荘は私の小屋の隣にあります。持ち主のNKさんとは30年以上のお付き合いで、よくお酒を一緒に飲んだものです。一昨年に急病で亡くなりました。私より年下でしたのでショックを受けました。気持ちのサッパリした好男子でした。その後は息子さん一家が時々泊りに来ます。息子さん一家とは丁寧に挨拶はしますが親しく話をしません。それが何故か亡くなったNKさんへ忠義を尽くすような気分なのです。私の考えは間違っているでしょうか?

詰まらない老人の独りごとでした。失礼します。(終り)


豊かな地方の生活レベル・・・その大津波被災地との落差に心が痛む

2011年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

この11月もあと1週間で終わり、あわただしく師走がやって来ます。

10月末に26年打ち込んでいたヨットの趣味を完全に止めてしまったので時間が余ります。そこで山林の中の小屋に3回も泊りに行きました。近辺は今が盛りの紅葉が見事です。小屋の回りの落ち葉の掃除もしないで、車を走らせ遊び回ってきました。

その時改めて気がついたのですが山梨県の農村地帯の生活が実に豊かなのです。家々が新築や改装されています。ゴミ一つ落ちていない舗装道路が紅葉の雑木林の中を縦横に走っています。村落が静かに広がっていて人々はあくせくしていません。農家の庭先には綺麗な車が2台置いてあります。下にそのような村落の写真をしめします。北杜市の花水地区です。

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このの後ろの山を登ると下のような牧草地が広がっています。写真の奥の方に牧畜農家が見えます。

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このような家々に住んでいる人はどのような食生活をしているのでしょうか?上の家々から車で10分から15分の所に白州町道の駅の大型売店とスーパーの「食彩館エブリ」があります。スーパーの方には朝9時から近辺の農家の人々が買い物に集まってきます。全国から取り寄せた鮮魚の部門が人気の中心です。珍しい貝類や活きの良い魚が廉価で売っているのです。肉類も、香り豊かな信州牛や地元の良質な豚や鶏を売っています。もちろんアメリカ産やオーストラリア産のより廉価なステーキ用の肉も並んでいます。朝らかに農家のおばさんやおじさんがカゴ一杯買物をしています。果物も全国のものが豊富に集められています。

食生活に関しては東京以上に新鮮で種類が多く、廉価なものを買って生活しているのです。

私が小屋に泊りに行く時、以前は東京から食料を車に積んで行きました。しかし最近では現地の「食彩館エブリ」で買って揃えています。

特に震災以来、東北地方の魚や果物を意識的に選んで買っています。魚は三陸産のサンマや秋田のハタハタ、ワカサギなどを買いました。最近、工場が復興したのか東北地方の笹かまぼこやオデンの種が揃っています。

そのような東北産の物を見る度に大津波で流されてしまった岩手、宮城、福島、茨城の海岸よりの町々のことを考えています。人々の落胆がすこしでも復興の方へ心が向くようにと祈らざるを得ません。

昨夜もNHKのテレビで三陸、高田町の地元の酒蔵を復興させて「酔仙」という銘柄の酒を復活させる努力を丁寧に紹介していました。さきの大津波で酒造工場が一切流されてしまったのです。まだ若い杜氏頭も波にさらわれて、現在は自宅の仏壇の中です。

残った酒造メーカーの社長と杜氏達が山の中の古い工場を借りて必死の努力で新酒を作ったのです。その新酒の瓶を社長が亡くなった杜氏頭の家に届けます。

年老いた父が仏壇の息子の写真の前に「新酒」を供えます。「今夜は息子と一緒に静かに飲みます」と言っていました。

被災地の人々も支え合って生きています。日本全国の多くの人々も間接的にではありますが、被災地の人々と支え合って生きています。

豊かな山梨県の農村地帯を見るたびに大津波の災害を受けた地方のことを遥かに偲んでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


晩秋の山里の風景(4)やがて冬を迎える村落と紅葉

2011年11月23日 | 写真

山梨県北杜市の旧甲州街道の台が原宿の北隣の花水地区の村落と、まわりの樹木の光景です。数日で葉をすっかり落としてやがて裸の梢になります。一昨日と昨日車で回り撮った写真です。この花水地区は小さな平地が山に囲まれていて住み良いように見えます。清春白樺美術館へ登って行く道の入り口にあるので何度も通りました。穏やかな表情の住民にたまに会います。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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・上の写真の手前が小高い台地になっていて台が原の宿場の町があります。後ろの山は断崖になっていて七里ケ岩の始まりになっています。右の方へ断崖が七里続き韮崎市で終わっています。

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・村落にはこのような柿の木が数本立っていました。

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・のはずれのクヌギの大木が虚空へ向かってそびえたって居ました。

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・上と下は七里ケ岩を登りきった稜線に聳えている樹木です。清春白樺美術館はこの台地の上にある昔の小学校の跡地を上手に整備して出来あがっています。敷地の周囲には桜が植えてあり春には見事な花を咲かせます。遠方には甲斐駒や八ヶ岳が輝いている絶景の地にあります。

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・この近辺にはペンションなどがあり洒落た雰囲気の地域です。


晩秋の山里の風景(3)水辺の紅葉

2011年11月23日 | 写真

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・山梨県の西部には「白州の水」という名水があり、清い流れや湖が沢山あります。

県の東部の富士五湖のように有名な観光地ではありませんが美しい風景です。

そんな水辺の紅葉をご紹介いたします。上は清春白樺美術館の西にある溜池です。

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上の写真も同じようなもう一つの農業用の貯池です。

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・上の写真は小生の小屋の西にある尾白川です。後ろの山は甲斐駒の前山です。

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・上と下の写真は北杜市の北部の増富温泉の手前にある瑞墻湖です。

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人間の絆と神へのきずな

2011年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

これは私個人の体験です。自分が神ときずなを感じるためにまず人間との絆が必要でした。いろいろな人間と温かい絆を感じ、その結果イエスとの絆を感じました。そしてイエス様のとりなしで神への絆を感じています。正直に言えば四六時中感じているのではなく、時々感じるだけですが。

小生のように想像力の足りない人間には神の存在を確信し、その神へのゆるぎない絆を持つことが出来ません。

実感として理解出来るのは自分へ好意を持って、温かく話してくれる人の感情です。その話が押しつけがましく無い場合にはその人の話を真剣に考えます。結果としてその人と絆が出来るのです。

話の内容が偶然にもイエス様や神に関することであったのです。

いきなり話は飛びますが、若い頃ドイツのローテンブルグでフェルナンデス君という年下の友人が出来ました。カトリックの信仰を持ったインド人でした。彼と絆が出来たお陰で帰国後、洗礼を受ける決心をしました。

立川教会で会った神父様は塚本金明さんという方でした。何故か強い絆を感じ、いきなり夫婦一緒に洗礼を受けました。

塚本神父様の転任とともにカトリック小金井教会へ移りましたが、その後の10年以上をアメリカから来たムニ神父様と強い絆を感じるようになりました。

塚本神父様もムニ神父様も現在は府中市のカトリック墓地に眠っています。時々、家内と墓参りに行きます。

人間の絆はこれだけではありませんでした。カトリック立川教会で洗礼を受ける時に代父をして下さった山本大二郎さんとの絆です。そして、その息子さんの山本量太郎さんとの絆です。彼は当時神学生で立川教会で何度かお会いしていました。

その方が後にカトリック小金井教会の主任司祭として赴任して来たのです。吃驚しました。嬉しい驚きです。10年間、温かくお世話になりました。現在は本部の大きな教会の主任司祭をなさっています。

人間は直接話が出来ます。その好意や友情は実感することが出来ます。しかし2000年前に逝ってしまったイエス様との絆は実感出来ないのは自然な話です。

しかし私の場合はイエス様との強い絆を確信して、一生独身を通している3人の神父さまと強い絆を感じています。一別以来、二度と会っていないインド人のフェルナンデス君の笑顔が忘れられません。そんな人間的な理由で私はイエス様への絆を感じることが出来るのです。

その上毎週のミサの折にはイエス様の肉体を聖なるパンとして食べるのです。弱い人間がいつもイエス様との絆を忘れないように聖なるパンの一片を食べるのです。イエス様は半分人間で半分神様です。神の右の座に着いています。ですからこそイエス様のとりなしで私は神への絆を感じることが出来るのです。

生身の人間とは絆を持てます。それを確信出来ます。そのとりなしでイエス様と絆が出来、イエス様のとりなしで神との絆を実感できるのです。不思議でもなんとも無い、ごく自然な心の動きではないでしょうか

私はこの文章を読む方々へキリスト教の宣伝をする気持ちは毛頭ありません。

上に書いた文章の中の神父さんを和尚さんと言い替えて、イエス様を観音様と読み替えると、神はお釈迦様になるのです。それでも良いのです。佛教でいう縁とは絆のことかも知れません。

この文章をここまで読んで下さった方に私は強い絆を感じます。お会いしたことも無いのに絆を感じるのです

ですからこそ、今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


晩秋の山里の風景(2)北海道を連想させる畑の風景

2011年11月22日 | 写真

八ヶ岳は大きな火山で、何度も噴火を繰り返し火山灰を降らせました。

優しい曲面を形つくった丘は麦畑や牧草の畑になっています。その境界にはカラマツの並木が植えてあります。

清春白樺美術館の西側一帯は私の好きな北海道の牧草地を連想させます。ヨーロッパの牧草地をも連想させます。若い頃、1年余住んで居たドイツを思い出させるのです。

山林の中の小屋に行く折に、時々訪れ、散歩をします。

一昨日も独りで散歩し、車の中で持参の弁当を食べてきました。その折に撮った写真をお送りいたします。

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晩秋の山里の風景(1)冬を迎える甲斐駒と八ヶ岳

2011年11月22日 | 写真

山梨県、北杜市の小屋に泊り、昨日と今日の2日にわたり晩秋の山里の風景写真を撮って来ました。晴天に恵まれたので鮮明な写真が撮れました。

最近、河口湖や瑞垣山なども含めて山梨県の美しい風景写真が溜まりましたので分類、整理しで数回に分けて掲載したいと思います。

その第一回目は冬山のような厳しい表情を見せていた昨日、今日の甲斐駒岳と八ヶ岳の写真を送りいたします。

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昨日は上の写真のように甲斐駒の頂上にウッスラ初雪がつもっていました。

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ところが今朝は上の写真のように頂上の雪は消えてしまっていました。

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麓には緑豊かな樹木が茂っています。

下は八ヶ岳の今朝の写真です。昨日は雲に覆われていて写真は撮れませんでした。

今日はよく晴れ上がって、麓の紅葉も綺麗でした。

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デパートに見る季節のうつろい・・・ボージョレヌーボー、鍋物、冬のファッション、冬果物

2011年11月22日 | 写真

デパートには家内のお伴でたまに行きます。婦人服売り場で別れ、1時間後にまたそこで合流します。デパートで何時もよりは少し贅沢な昼食をします。

家内と別れている間はデパートの商品の飾り付けを眺めて回ります。飾り付けに趣向がこらしてあって感心します。デパートは文化的な場所なのです。

今回は季節の移ろいを飾りつけにどのように反映しているかというテーマを持って写真を撮って来ました。先週行った立川の高島屋と横濱のそごう百貨店の写真を組み合わせて下に示します。

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上は、その日解禁になったフランスのボージョレヌーボーの売り場です。若い女性が声をからして売っていましたがお客がついていません。昼間だったからでしょう。夕方になると会社から帰る若者が沢山買いますから心配しなくても良いようです。

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冬と言えば鍋物ですね。どちらのデパートも陶器製の鍋セットがいろいろ並べてありました。

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婦人服売り場はおしゃれな冬服の飾り付けです。スタイルの良い女性に似合そうな取り合わせです。よく注意してみるとスカートは少なくなり、圧倒的にズボンだけになりました。ズボンと言うのは老人だけて、パンツと言うそうです。昔のパンツは下着でしたが現在はズボンの事です。それも時の流れですね。

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冬の果物はリンゴとミカンです。この売りには実に多種多様なリンゴが並んでいました。流石大きなデパ-トと感心して眺めてきました。

その他季節特有の商品がありますが省略いたします。皆様はその他季節特有の商品にはどのような物があるかお考え下さい。面白いですよ。(終り)


追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅

2011年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。

その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。

明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったのです。

その通りに面して三越百貨店が出来、藤崎百貨店が出来、仙台一番の商店街になりました。

私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。ついでに大人たちからよく聞いた「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。

仙台を出て東京に暮らすようになって52年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅にでました。昨年の10月の事です。父母や親戚の墓参という目的もありました。以下はその時の紀行文です。

@ふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまった

仙台では、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。

高いビルが沢山立っています。見知らぬ白い街になっていました。大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しています。

道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。

繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していましたが、あとは全て消えてしまったのです。茫々50年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。

消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が秋の夜風で身に沁みました。

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@子供の頃遊んだ秘密の場所が観光客に奪われてしまった

昔の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。

そのうち戦災で廟が焼失しました。その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。

遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。

それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。仙台観光の目玉らしく観光客がゾロゾロと歩いています。私は何故か中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽ですが、なにかガッカリしたような気分になりました。家内が一人の観光客になって楽しそうに見物しています。

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仙台へ観光客が沢山来てくれることに感謝しています。でも何故か私の心は悲しみが広がっています。

@しかし、自然の景色だけは変わらない

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じられません。

牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か嬉しくありません。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに少しばかり腹を立てているのです。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域輿しが出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし仙台の牛タンだけはなんとなく困ったものと感じています。私は、「理不尽の字」に手足を付けたような老人なのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。

しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。

人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真と評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します。

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皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?


追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり

2011年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。塩味をきかせた辛口の味噌で、炊きたてのご飯でオニギリを作り、仙台味噌を塗って、直火で焼くと香ばしい焼きオニギリが出来ます。江戸時代は仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県いちえんで製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。

そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。その後、伊達政宗の指示により城下に御塩噌蔵が設けられ、真壁屋がその醸造と運営に当たりました。真壁屋は100石の扶持を与えられ、武士として古木氏を名乗っていました。

第二代藩主の伊達忠宗の頃から、江戸の大井にあった仙台藩下屋敷においても仙台の真壁屋と同じ醸造方法で仙台味噌が作られていました。江戸勤番の藩士へ配給していましたが、余った分を江戸の味噌問屋へ払い下げていたのです。その結果、江戸では仙台味噌の名が広まっていました。

幕末の戊辰戦争で仙台藩は幕府側につき、負けてしまいます。城も焼かれ、唯一、大手門だけが残りました。明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。

紆余曲折の末、明治18年の頃、紅久という豪商の四代目、八木久兵衛ともう一人が仙台藩の味噌醸造業を東京の大井と仙台の両方で引き継いだのです。その後、東京での仙台味噌醸造は四代目八木久兵衛の弟の八木忠助さんに任せ、自分は仙台に大きな味噌醸造工場を作り、大々的に仙台味噌を売り出したのです。その醸造工場のお陰で仙台味噌は江戸時代より有名になったのです。

一方、東京の仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。現在は八木忠一郎さんが社主で、宮内庁御用達の店にもなっているそうです。

仙台味噌は現在は宮城県のあちこちで作られています。東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。まだの方は是非一度使ってみて下さい。美味しいと思います。

上で出て来た四代目八木久兵衛は明治時代の仙台の代表的な財界人で、仙台市の八木山の所有主として町の発展に大きな貢献をした人です。彼と仙台市とのかかわりについてはいろいろ面白いエピソードがあるので又続編でご紹介したいと思います。

文字通り、手前味噌の故郷の味噌自慢でした。失礼いたしました。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


けなげです。真面目です。質素な人生です。・・・そんな高校生に会いました

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、横濱駅東口のそごう百貨店の9階で「神奈川県産業教育フェア」を見ました。

神奈川県にある産業教育専門の高校生が自分の学校の宣伝をしているのです。

農業高校。看護教育の航行。海洋高校、電気・機械専門高校。盲学校。そして商業高校。その展示と高校生の様子を見てまわりました。

皆がけなげなのです。真面目に人生を渡ろうという決心をしているのです。決して東大や京都大学へ進学して、立身出世しようとは考えていません。名も無く、つつましく生きて行くすがすがしさが感じられるんです。何故か感激してしまいました。以下に数枚の写真を示します。

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上の写真は看護師養成高校の生徒です。お客さんの血圧を測っています。

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上は農業高校の展示の様子です。

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上は海上の船で働く人を養成する高校です。

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盲学校です。マサージ師を養成していました。

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厚木商業高校です。厚木市の産物を売って、地域の活性化をしようとしています。

日本にはこういう高校の卒業生が進学できる専門学校が沢山あります。私立専門学校もありますし、国立や県立の専門学校もあります。このような勉強を真面目に続けている若者が沢山居るのです。

私は何故か深い幸福感に包まれて帰ってきました。(終り)