別荘は絶対に持ちません。粗末な小屋は持っています。この違いが分からない人が多いので往生しています。
詰まらない私の道徳観が贅沢は敵ですと叫んでいるのです。戦争中に少年だった私は、「贅沢は敵だ!パーマネントは止めましょう!欲しがりません(米英に)勝つまでは!」と面白半分、叫びながら遊んでいました。戦後、パーマネントは解禁になりましたが、贅沢は長い間してはいけないという道徳が存在していたのです。
若い頃、ストックホルムの工科大学へ集中講義に行った時スエーデンの人々が質素な夏の小屋を島に持っているのを見ました。そこへ招待されたこともあります。キャンプ生活と同じような泊り方をするのです。要するに別荘と言う概念からひどくかけ離れた小屋なのです。これなら私の道徳観にも合格です。帰国してすぐ、1973年に甲斐駒の麓に小屋を作りました。
別荘ではないので当時は電気も水道もガスもありません。現在は電気だけは引きましたが。その小屋の表と裏の写真を下に示します。
いかがでしょうか?皆様の持っている別荘のイメージとはかけ離れた小屋ですね。その南と北側の樹木の様子を下に示します。
いわゆる別荘地ではないので眺望は悪いのです。
しかしこの小屋には唯一自慢できる贅沢があります。それは庭の中を年中水の枯れない小川が流れ岩魚が棲んでいることです。左の写真でその様子を示します。
昼間は明るい太陽の光を浴びながらこの小川と遊んでいます。
川岸の落ち葉を掃除したり川床に綺麗な砂を広げたりして飽きずに遊んでいます。小さな木の橋を作って回遊しながら散歩できるように小道を繋ぎます。
そんな事をしていると晩秋の夕方は急に暗くなります。そして窓の外は漆黒の闇にになります。小川の向こう岸に灯したガーデン灯が心細く光っています。その様子を下の写真で示します。
闇夜の空を見上げると星が木々の梢の間に輝いています。
外はあまりにも寒いのですぐに室内に入り、上のような薪ストーブを燃やしながらビールをゆっくり飲みます。そして薪ストーブで煮た赤い鍋のビーフシチューの肉が柔らかくなったら夕食にします。近所のスーパーから買って来た焼き立てのパンと一緒に食べます。
食後は勝沼の有機栽培で作ったブドウの新酒を飽きずに飲みます。
本を読んでいると小川の水音だけがして、夜が更けて行きます。
夜ふかしはせずに10時には東京から車に積んで持ってきた布団を敷いて寝てしまいます。
夜は冷えるので電気ストーブをつけたまま寝ます。
朝目が覚めて、薪ストーブを燃やしてから東の窓の鎧戸を開けます。
丁度、下の写真のように太陽が上がってきて、部屋の中が明るくなります。
そして又新しい日が始まるのです。何十年通っても同じようなことの繰り返しですが、実は季節によって、そしてその日の天候によって決して同じではないのです。自然の息使いは微妙に変化し、その変化こそが楽しいのです。山小屋で一夜を明かす事は決して楽ではありません。辛いのです。しかしそれを我慢して朝日を見た時の感動が良いのです。太陽の有難味が身に沁みます。
小屋の生活の必需品は薪ストーブと室内に設置した「流し」と水洗トイレです。これを私は3種の神器と思っています。
水は小川に流れていますが、飲むと枯葉の味がして不味いのです。白州の名水を汲んで来てコーヒーを淹れます。
この小屋に一泊するとヘトヘトになって帰宅します。兎に角生活が厳しいのです。その厳しさがあるからこそ楽しさが倍加するのです。この点こそ安逸な生活が出来る別荘とは決定的に違うのです。
この違いをご理解して頂くために説明したのです。しかし考えて見るとそんな詰まらない違いにこだわる私はまだまだこの世に執着している証拠です。困ったものです。次回に山林の小屋の記事を書く時はこの執着心を卒業するつもりです(乞うご期待!)。しかし別荘と小屋の違いがあるのも良いものですね。(終り)