後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ベーブ・ルースが仙台に来て2本のホームランを打つ」

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
石澤友隆さんが「八木山物語」という本を河北新報出版センターから出しました。仙台の江戸末期、明治大正昭和の郷土の気軽な歴史物語です。戦中、戦後の混乱のなかで育ったので郷土のことなど誰にも教えて貰いませんでした。焼け野原になった町々と食料難の事しか思い出せません。そんな私に、石澤友隆さんの「八木山物語」はいろいろ面白いお話をしてくれます。
ベーブ・ルースが仙台にやって来たときの話です。
昭和9年11月9日の寒い朝でした。ベーブ・ルースやルース・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが函館から仙台駅に着きました。仙台の城山の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
試合は好天に恵まれ、米国選手の灰色のユニホームに真紅のレザーコート姿が八木山球場の周りの森の緑と鮮やかなコントラストをつくり美しい風景です。アメリカチームはあわせて5本のホームランを打ったのです。ルースは日本に来て初めて2本のホームラン打ったほか、ゲーリック、フォックス、ミラーは各一本打ちました。試合は7対ゼロで米チームの圧勝です。
この年、日本の野球界にとっては画期的な事が起きました。年末に我が国初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)が創立されたのです。投手の沢村栄治、スタルヒン、内野手の三原脩、水原茂などの19名です。そして翌年6つの球団が生まれたのです。
それから茫々70有余年、プロ野球チームの楽天が来たのです。仙台の市民は戦前にベーブ・ルースが八木山球場で2本のホームランを打ったことを語り継いでいます。そして楽天を応援しているのです。

少年の頃、私はしばしば八木山球場へ遊びに行きました。戦争が激しくて誰も野球などしません。放置され荒れ放題です。スタンドの盛り土が崩れ、内野席の前にあった鉄製の網は供出され、崩れた白いコンクリートの台座だけが広がっていました。



広い赤土の内野、外野をわけもなく走って遊びました。ベーブルースのホームランは伝説のように私は知っていました。子供ながら旧懐の想いをしながら遊んだ思い出があります。その場所は現在、仙台市立動物園になっています。(続く)








追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山という所に住んでいました。

向山いう地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所でした。

向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。

市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのです。

明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。

この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます

風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯、などがありました。

下の市街地にあった会社の経営者や成金さん達が使う宴会場でした。

夜になると街の明りが美しく見下ろせる場所だったのです。芸者さんが出入りし、三味線の音が絶えなかった場所だったのです。

向山の奥の方の八木山には、昭和11年にベーブルースが来て、オールニッポンと試合をして、ホームランを打った八木山球場がありました。

八木山は遊山の地だったらしく、その山へ続く入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があったのを覚えています。

これらの料亭が大繁盛したのは大正時代という話を聞きました。

日清戦争、日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30、40年間ほどの間が景気の良い時代だったのです。日本の軍備拡大の波に乗った成金さん達が大らかに遊んでいた時代でした。それも一瞬の栄華でした。

昭和4年の大恐慌の後はすっかりさびれ、多くの料亭は廃業した様子です。

特に、荒れ果てた「いかり亭」の、昔は豪華だった庭や建物は子供の遊び場になっていました。昭和4年の世界恐慌で倒産したのです。

この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいたのです。誰も居ない池でそのアカハラをよく取って遊んだものです。

2年ほど前の仙台、愛宕中学校の同窓会で、経営が安定していた「黒門下の湯」の当主の息子さんと偶然会いました。追憶の向山についていろいろ話を聞きました。長徳寺と大満寺、そして愛宕神社は江戸時代から存在していたがあとはすっかり変わってしまったという話でした。

戦後から現在にかけては住宅街になり、このような料亭や割烹旅館は跡かたも無くなってしまいました。

しかし、東洋館と鹿落旅館だけは戦後66年にもなるのに現在も営業しているのです。と、書きましたが仙台に住んで居る弟から電話があり、鹿落旅館は今年の3月11日の大震災で崩れ、廃業したそうです。その旅館の前の鹿落坂も崩れ長い間通行止めになっていたそうです。残ったのは東洋館だけになりました。

風光の良い向山には、金持ちの別荘も数軒ありました。恐慌で倒産した経営者の別荘だったらしく、全て荒れ果てた廃屋になっていました。小山の上にあった廃屋をお化け屋敷と言って、よく探検に行ったものです。廃屋に入ると立派な玄関があり、奥には白いタイル貼りの温泉のような浴室があったのを覚えています。

現在、向山へ行って見ると何も無いのです。見事に何も無いのです。当時の向山の面影が全然無いのです。私の家族が住んでいた家も消えてしまって更地になっています。そして新しい住宅だけがびっしりと並んでいます。広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えているのです。

あれから茫々70有余年。すべては夢、幻になってしまいました。無常感に包まれます。(続く)

下の写真は現在営業中の東洋館のホームページの表紙です。URLは:http://www.toyokan.jp/index.html です。

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先程現れた凄い夕焼け雲の写真をお楽しみください。

2011年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

先程、窓の上の空の雲が急に紅い色に染まりました。カメラを掴んで、飛び出して雲の写真を撮って来ました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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旧甲州街道、台ケ原宿のある晩秋の日

2011年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

旧甲州街道の韮崎を過ぎ、武川宿の次の宿場の台ケ原宿は現在も昔の面影が残しています。11月16日にブラリと寄って見ました。お菓子の金精軒と酒蔵の七賢は江戸時代からの店です。七賢は高遠から引っ越して来た古い酒造店です。

のんびりした風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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街にクリスマスがやって来る・・・そして間もなくお正月も

2011年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、横濱駅東口のそごうというデパートで、もうクリスマスツリーが飾ってあるのを見ました。その前を通る多くの人々が少し楽しそうな表情をして過ぎて行きます。子供達はそばに寄っていって母親と話し合っています。自分の家にも早く飾ってよとせがんでいるのかも知れません。母親に写真を撮ってもらっている子も居ます。

クリスマス飾りを見ると、ああ、今年もクリスマスがやって来ると楽しい気分になります。クリスマスの頃、家族で一緒に食事をした事や友人達と街で意味もなく祝杯を上げた事などを思い出して楽しい気分になります。下に昨日みた光景を示します。

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クリスマスは街が活気づく季節です。小さな子供がいる家庭では家々にクリスマスツリーを飾って、贈り物の貰える楽しい時期です。一緒に楽しい食事もします。

そして間もなくお正月が来ます。都会で働いている息子や娘がそれぞれ家族を連れて里帰りをします。年老いた両親にとっては大きな喜びです。

このような楽しい風習が日本に定着しています。善い事です。家族や友人が暖かい絆を確かめる季節です。

この頃になると偉い知識人が、「日本人はキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うのは軽率だ。間違った行為だ。4月8日のお釈迦様の誕生日を祝うべきだ。」と非難します。そうではないのです。人々が家族や友人を大切に思い、その事を言ったり、贈り物を送る事は宗教に関係なくとも実行すべきことなのです。その時期がクリスマスとお正月なだけなのです。

もともとクリスマスは西洋の北方民族の冬至祭だったのです。イエス様の誕生日とは関係ないのです。

もっとはっきり言います。キリスト教徒であるなしに関係なく多くの人々がクリスマスを祝い家族や友人を大切にする事をイエス様は喜んでいるのです。

カトリックでは11月27日から待降節に入ります。毎週、祭檀のローソクを1本ずつ灯していき、5週間目がクリスマスになります。クリスマスには非常に多くの信者がミサに参加します。親の居ない子供を育てるカトリックの施設でのクリスマスミサには社会に巣立った子供達がそれぞれの家族を連れて参加します。

それこそイエス様の家に帰る彼等の里帰りなのです。そのミサに一緒に参加しながら考えました。クリスマスは信者であるなしに関係なく家族愛を強めるお祝いなのです。

これからクリスマスの日まで大いに楽しみましょう。家族を大切にしましょう。友人、知人を大切にしましょう。私はこのブログを読んで下さる多くの方々へ感謝する季節です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


清春白樺美術館の風景をお楽しみ下さい

2011年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県、北杜市に白樺派の文学者や画家の作品を展示した清春白樺美術館があります。南を見ると甲斐駒の秀峰が輝き、西を見ると八ヶ岳の美しい山並みが横たわっています。小高い台地の上にある眺望の良い場所です。

11月16日に写真を撮ってきました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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・・・上は美術館の本館です。1階建の横に広い建物です。

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・・・上は若い藝術家へ貸し出しているアトリエの集合体の円形の建物です。手前の黄色の作品はフランスのエッフェル塔を作った建築家の作品です。

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・・・上は樹上に作った茶室です。

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・・・白い雲の彼方に八ヶ岳が見える筈です。

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・・・上はロシア生まれでフランスで活躍した彫刻家のザッキンの作品です。逆光で上手く撮れませんでした。

白樺美術館を作る運動をしていた柳宗悦の展覧会が横濱のそごう百貨店で開催中だったので今日見てきました。下に案内看板を示します。

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・・・白樺美術館は学習院卒の志賀直哉や武者小路実篤や柳宗悦などが中心になってロダンから貰った3点の彫刻を公開展示するために計画されました。建設費の寄付集めをしましたが結局開設には至りませんでした。

戦後、銀座の吉井画廊が私財を投じてその遺志を継ぎ、山梨県北杜市に開設しました。

今日見た柳宗悦展には白樺美術館設立の為の趣意書も展示してありました。清春白樺美術館はその趣意書に沿って開設されたのです。感慨深いものがあります。

白樺派は一言でいえば西洋の藝術に憧れ、それを日本へ紹介したロマンチックな人々でした。大正時代を中心に栄えた日本の一つの文化的な潮流でした。

そんな文化的な雰囲気も満州事変、上海事変、そして第二次大戦という戦争の勃発で消えてしまったのです。第二次世界大戦の前に短いながら平和な時代が存在していたのです。

そんなことをも考えさせる柳宗悦展でした。


遠望深慮な日本外交でアメリカと中国の戦争を防止すべき!

2011年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

大津波や原発の爆発も大きな悲劇です。そして戦争も悲惨な傷跡を残します。戦争が始まると人格破壊が起きて、多くの人間が狂気の行為を繰り返すのです。

戦争こそは絶対に防止すべきことなのです。何があっても戦争は避けなければいけません。

最近、中国が太平洋や東南アジアを自分の勢力圏にしようとする外交政策、経済政策、そして海軍の装備を拡大しています。

この中国の覇権主義的な政策に対してアメリカが対抗して太平洋地域を重要視し、経済攻勢を強め、アオーストラリアには軍事基地を建設しつつあります。

その上、ミャンマーにも軍事的な足がかりを作ろうとして、ミャンマーに対して友好的な外交攻勢を展開しています。これは目を見張るようなアメリカの政策の転換です。

21世紀に大きな戦争が起きるとしたらアメリカと中国の実戦を中心にした第三次世界大戦だろうと言われています。

何故そのように言う人が居るのでしょうか?

中国の外国への進出は国内の不満の捌け口になっています。共産党一党独裁が続く限り中国人の自由と民主化への渇望が存続します。それを抑え、外国へ目を向けさせ団結させる為には外国を敵とし続けなければなりません。その敵国は中国人の面子をつぶすような尊大な強国でなければいけません。

丁度良い敵こそアメリカ帝国なのです。太平洋の緊張の大きな原因は経済大国になった中国の一党独裁体制にあるのです。中国の国内問題が太平洋に戦争を起こすい可能性があるのです。

この書き方は公平を欠きます。アメリカ側にも国内に経済不況に対する不満が渦巻いています。中国が経済成長したのにドルと元の換算レートを変えようとしません。対米輸出が大きい中国にとってはアメリカの富をむしり取っている構図になっているのです。アメリカ人はその不公正さに怒っています。

その上、アメリカは自分に楯つく権力を執拗に攻撃します。イラクのフセイン大統領、ビンラーディン、カダフィ大佐、などなどはアメリカ側の勢力で排除されました。

北朝鮮も例外ではありません。潰したい国ですが、背後に中国が控えています。うかつに手が出せません。

このような状態が今後20年位は続くでしょう?

日本の外交は一言で言えば簡単です。一方で中国をなだめ、その一方でアメリカに開戦の危険を起こさせないようになだめる事に尽きます。このなだめる仕方が問われているのです。口先だけでは双方から信用されません。双方と経済協力をするだけでは信用されません。ある程度のリスクを背負った軍事的な交流も必要になって来ます。例えば中国の海軍と日本の海上自衛隊との限定された内容の共同練習などもアメリカ側の同意を得ながら進めるのも良いかも知れません。

日本のこれからの外交は単純に右顧左眄するのではなく、遠望深慮な外交で国益を守りながら戦争を絶対に避けるようにしなければなりません。

それは簡単な道のりではありません。叡智が要求されます。

最後に戦争の悲惨さを示す映像があるので、ご紹介いたします。

世界の衝撃映像集の中の戦争

戦争・軍事兵器の項目です :

http://youtube-shocking.sblo.jp/category/792148-1.html

特に神風特別攻撃機がアメリカの戦艦や航空母艦へつぎつぎと突入する連続的な映像ほど戦争の悲劇性を描き出している映像はないと思います。

死んで行った若者は何を言っているのでしょうか?「二度と戦争の悲劇を繰り返してはいけない」と悲痛な声で言っていると私には聞こえます。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


この美しい姿のシナーラ号は現在どうしていますか?

2011年11月18日 | インポート

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この美しい姿の帆船は1927年に英国で製造され、チャーチル首相も愛用した名艇でした。長い間、三浦半島の油壺にあるシーボニアの所有で、一般にも開放されていました。私も2回程、帆船体験のセイリングに同乗したことがあります。最近、シーボニアのHPを見てもシナーラ号の事が書いてありません。

現在この美しい木造帆船はどうしているのでしょうか?

何方かお知りの方にお教えして頂きたいと存じます。

お知りの方からのコメントをお待ちしています。

それはそれとして、シーボニアという名前から連想しました。そこを母港にしていたヨットの本を読みました。「どんがめ物語」という本を思い出しました。

そこで昔シーボニアにいたmissdongameさんというお方へ問い合わせてみました。返事が来ましたので下に掲載いたします。

=====missdongameさんからのコメント=========

後藤和弘 さま:
何かのご縁か、明日が父親の七回忌になります。父は下田の出身で「どんがめ物語」という本を書いております。戦地から引き揚げて最初に自作したヨットの名前が「missdongame」です。父は海軍の潜水艦乗りでしたが、潜水艦の俗名が「どんがめ」です。
 貴殿は、家内のメル母さんのブログ「父とヨット」、「Japan Sailing Cruiser Net」のお茶エピソードなどで存じ上げております。
 小生は、父の影響で物心つく頃からヨットに乗ってきましたが、仙台の大学でヨット三昧の後、海が好きで海洋開発の会社に勤め、その後マリーナ業界、ヨット界に身を置いております。
 貴殿のブログ大変興味深く拝見しており、今後もよろしくお願いいたします。

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missdongameさんへ:コメント有難う御座いました。

もしシナーラ号の現在の様子をご存知でしたならお教え下さい。

ところで御父上は日本で有名なヨットマンでした。しかし戦争中の潜水艦の愛称が「どんがめ」とは知りませんでした。

そこで戦争中にドイツへ派遣された潜水艦の話を紹介した記事、雑誌は「文藝春秋」より「歴史群像」のほうが面白い? はきっとご興味を持って頂けると存じます。

ご笑覧頂ければ嬉しく思います。

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御父上の七回忌に当たり心からご冥福をお祈り申し上げます。合掌。


今年は大震災の被害者との絆を感じ、そして考えた一年でした

2011年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

「絆」という言葉は今年の流行語になりました。日本人の多くの人々が大震災の被害者へ絆を感じ、支援したのです。義捐金だけではありません。忙しい人々が時間をさいてボランティア活動に行ったのです。「絆」という言葉がこれらの人々の気持ちをよく表す言葉だったのです。大震災は歴史上前例の無い大悲劇でした。皆が暗い気持ちで打ちひしがれました。

しかしその闇夜の世界で一縷の輝きを放つ灯を見ることが出来たのです。人々が被災者を助けようとする行為です。被災者との強い絆です。感動的に美しい灯です。

以前は何のかかわりの無かった他人同士が強い絆で結ばれたのです。

それは日本民族の心の美しさを表す素晴らしいことです。

人々は夫婦の絆や親子の絆を大切にしています。友人との絆も大切です。同じ学校の卒業生の絆や会社の同僚との絆もあります。同じ趣味の世界で結ばれた絆もあります。人々はいろいろな絆の中に生きているのです。絆を縁と言い変えても良いのです。絆を愛という言葉に置き換えても良いのです。

東日本を襲った大津波で愛する家族を失った人々が何万人、何十万人と出たのです。家族や友人との絆が一瞬にして津波で流されしまったのです。

遠方の九州や関西地方に住んでいる人々も何時かは自分達の土地に大津波が襲ってくるという実感を覚えました。

東日本だけが例外ではないのです。原発の爆発も福島だけが例外ではありません。九州や北海道の原発も爆発する可能性があることに気がついたのです。

このような感じ方が被害者への絆を強めた人もいるでしょう。そして被害者を助けようと思ったのです。ボランティア活動に参加したのです。

「絆」という言葉が安易に氾濫する風潮には、いささか心配すべき傾向が混じっています。偽善的な匂いがするのです。しかしそれを非難すべきではありません。

「絆」という言葉は日本文化の美しさの象徴です。いや全世界の人々の美しい文化の一部なのです。

大津波で一人娘を亡くした夫婦のインタビューの場面をテレビで見ました。

四国に住んでいるある男性がその娘さんの名前を書いた紙を持って88ケ所の編路巡りを歩いてしたのです。その事を手紙で知らされた一人娘を亡くした夫婦が泣きながら感謝していました。その手紙を娘の写真に供えて拝んでいました。

この88ケ所巡りをした男性は娘を亡くした夫婦と強い絆で結ばれたのです。この男性は弘法大師と一緒に歩いたのです。亡くなった娘は弘法大師とも強い絆で結ばれたのです。

ほんの少しの寄付しか出来ない私は時々、折々に大津波で大切な人々との絆を一瞬にして断ち切られた人の為にお祈りをしています。大津波の事は決して忘れません。(終り)

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


山奥にある瑞牆山(みずがきやま)の美しい姿をお楽しみ下さい

2011年11月17日 | 写真

鉄道の客車から見える美しい山もあります。高速道路や国道から見える名山もあります。富士山、濃鳥岳、観音岳、薬師岳、地蔵岳、甲斐駒や八ヶ岳などは甲府盆地の何処からでも見える美しい山々です。

しかし増富温泉ラインを登りつめ。更に12kmも細い山岳道路を車で登らないと瑞牆山(みずがきやま)は見えないのです。山岳道路を根気良く登って行くと「瑞牆山公園」への入り口があり、広大な駐車場と売店があります。

そこからは眼前に神秘的な瑞牆山の山容が急にせまって来ます。兎に角、そこまで行かないと見えない山なのです。神聖な感じの山なので昔から修験者が修業して居ました。山頂近くの岩肌に修験者の彫ったお経があるそうです。

標高2230mの山頂付近はすっかり落葉しています。花崗岩の岩はいろいろな不思議な形をしています。日本百名山の一つとして山の好きな人々には有名な山のようです。しかし観光バスが登りにくいので一般の人々にはあまり知られていない山です。駐車場にはバスが一台も居ませんでした。数台の乗用車だけが停まっています。

昨日は駐車場から飽きずにしばし眺めて帰ってきました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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恥ずかしいこの私の迷いと悩み

2011年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

75歳にもなった私が迷いに迷い、悩んだ事件が起きました。全く恥ずかしい次第です。

今年の4月に26年打ち込んでいたヨット趣味を老齢のために止める決心をしました。その決心には迷いが無く悩みもしませんでした。

しかし売り渡す相手を選ぶ事で迷い、悩みぬいたのです。13年間荒天の日も忠実に私に仕えてくれた愛艇です。大切に乗ってくれる人を選ぼうとしたのです。

中古艇を売りますとこのブログに写真と共に記事を出しました。4月下旬に掲載しましたところ何人かの方が申し込んできました。文章がシッカリしていてヨットへの情熱が強い方を独り選んで交渉を続行しました。その方はKBさんといいヨットは全くの初心者でした。そこで5月に3回、操船や帆走の仕方を伝授しました。ヨットの事は本で詳細に勉強していたので覚えが早いのです。3回目には1人でセールを上げ、舵を握れるようになりました。

7月の始めには予定通り船舶操縦士2級免許も取ったというメールを貰いました。

ところが、「8月には葉山か江の島のディンギースクールへ練習に行きます」というメールを最後にぷっつりと連絡が取れなくなってしまったのです。10月末に譲渡証明書とヨットの代金を交換して、所有者名義の変更をするという約束はどうなるのでしょうか?

さてここからが私の愚かな所です。家内が気長に待てと言いましたが、私は迷いに迷ったのです。忙しくてメールも寄こせない大会社の部長さんのKBさんへ、愛艇を渡しても大切にしてくれないと思ったのです。

そしてあんなに熱心だったKBさんの心変わりもあると思い始めたのです。そこでKBさんへ心変わりが起きて重荷になっているのならお断りになって良いですとメールを送りました。ところがそのメールに対してもナシのツブテです。

悩みに悩んだ末に2番目に申し込んで来たVCさんへ相談しました。それまでのイキサツを説明してどうしたら良いか相談したのです。

その方は現在は土浦にお住まいですが以前は三浦半島のシーボニアというマリーナに勤めていたそうです、1927年製のイギリス製の2本マストの大型帆船、シナーラの乗組員をしていたそうです。私も乗合で家内と2度乗ったことのある名艇です。その上、現在愛艇の係留している同じ岸壁にヨットを停めてあるというのです。そこで悩んでしまったのです。このVCさんのようにヨットのプロへ売り渡したほうが苦労もなく安心なような気がします。そこでVCさんへ電話していろいろ話し合いました。彼は立派な人生観の持ち主のようです。私のブログを時々見ていたそうです。プロテスタントの信者とも言っていました。この電話の相談の後で、私はKBさんの自宅に電話をいれました。息子さんが父の会社へ緊急のメールを送ったらしく、KBさんから不連絡へ対する心からの詫び状がメールで送られてきました。そして約束通り、10月末に是非売って頂きたいと言うのです。

この返事をVCさんへ伝えたところ、以下のようなメールを送って来てくれたのです。その一部分のみを掲載いたします。

======誰が引き継ぐかはヨットが決めます========

後藤和弘様:
ご連絡ありがとうございました。後継の方の意思が確認できてよかったですね。これでもとの針路どおりに舵を戻すことができますね。
忙しい方こそヨットでの体験が必要なのかもしれないのです。
私も今の船はある方から引き継いだものでした。引き継いで2年ぐらいはあまり乗りませんでした。
しかし、ある時からもう一度セイリングをしたいと思い、メインセイルを新調し、中古のジブを購入しました。そしてひと冬じっくりとシングルハンドで乗るうちにとてもハッピーな気分になりました。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くかを知らない。霊から生まれたものの皆そのとおりである」
私の好きな聖句です。人間の思いを超える自由に出会う兆しを感じさせてくれるセイリングのひと時は私の宝物です。
船たちは人間の目には岸壁にもやわれているときの方がはるかに長いと思われますが、岸壁にあってもその船を思う者にとっては、その瞬間にその人を自由にすることができる不思議な存在です。
LUNAⅡ号も自由です。きっとその方をオーナーとして選ばれたのでしょう。私も自分のヨットをこれからも大事にしていきます。
今回はお電話にて藤山杜人様の声が聞けて良かったです。また、何かお役に立てることがあればご連絡ください。後藤様ご夫妻の上にイエス様の豊かな祝福と導きがありますように。 VCより

=====すばらしい手紙です================

10月末に約束通りKBさんへヨットを売りました。

その方は本気でヨットを始め、名前もMyHermitCrab号と変えて、新しくデビューさせてくれました。その上、「クルーザーヨット MyHermitCrab号 のブログ」を開始したのです。アドレスは、http://myhermitcrab.blog.fc2.com/ です。その事は私の記事でもご紹介しました。私の中古ヨットが売れました・・・MyHermitCrab号と名前を変えました です。

私の迷いや悩みは実に恥ずかしいです。物に執着したために起きた迷いでした。

いさぎよく死ぬためには全てのことに対する執着心を捨てなさいと偉そうに何度も書いていたのです。人間は自分の事になるとこの醜態です。恥ずかしいです。

下にVCさんが三浦半島で乗り組んでいたシナーラの写真をお送りします。右の写真では右側の船がシナーラ号です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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シナーラ(日本)http://homepage2.nifty.com/yorkkoba/sansaku/hansen/index.htm
1927年に英国で建造された美しい木造帆船で、チャーチル首相に愛用されたという名艇。三浦半島「シーボニア」でチャーター船として多くの人々に親しまれている。総トン数: 72トン  全長: 29.1m  帆装型式: ガフケッチ


いそいで紅葉の写真をお楽しみ下さい・・・季節がどんどん過ぎてゆきますから

2011年11月16日 | 写真

昨日、甲斐駒の麓の小屋に独りで泊ってきました。近辺の紅葉が丁度見ごろなので北杜市のあちこちの山里を2日間、車で走りまわり写真を撮って来ました。標高が少し上がると落葉してしまっています。季節がどんどん足音をたてて過ぎ去って行きます。

一昨日と昨日、北杜市で撮った写真をお楽しみ下さい。

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多摩御陵の喬木の紅葉

2011年11月16日 | インポート

多摩御陵には大正天皇、皇后と昭和天皇、皇后の4基の巨大な円形墳墓があります。

参道には大きなケヤキが亭亭と聳えています。広い駐車場もあり、暇な時の散策場所として良く行きます。下の写真は2年前の11月25日に撮りました。

先日、行って見ましたがまだ紅葉していませんでした。11月25日以後に下のようになると思います。

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宗教に少しでも関心があったらニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい

2011年11月16日 | インポート

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佛教でもキリスト教でも、とにかく宗教というものに少しでも関心のある方は東京の、お茶の水のニコライ堂の日曜礼拝を一度はご覧下さい。本を幾ら読んでも分からない宗教の本質的な部分が簡単に理解できます。

日曜礼拝のことを日本正教会では「聖体礼儀」と言います。きらびやかな聖職者の行列と美しい宗教音楽の極致のような混声合唱で神への崇拝を示しています。人間の神を敬う深さを儀式で示すとこのようになるのです。宗教の全てに普遍的な神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部を(聖体)を頂くという儀式です。

日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。新約聖書は始めはギリシャ語で書かれたのです。そのギリシャ語の原典に書いてある内容を忠実に教えています。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。

この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、1855年函館へ上陸しました。日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本に根付いて日本正教会という宗教法人になりました。しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。宗教の本質の一つは「永遠に変わらない」という性質を含んでいます。そのことを礼拝式を実見して体験できるのです。

しかし、少しでも宗教に関心のある人はヨーロッパで起きた宗教改革のことを知っています。各国の近代化革命も共産主義革命も知っています。アメリカ流の自由と平等な民主主義も知っています。そのような極く普通の常識人がニコライ堂の日曜礼拝を見ると非常に大きなショックを受けるかも知れません。そこには聖職者と合唱隊と平信徒の恐ろしい差別があります。神に祈る儀式の大部分は聖職者だけがします。合唱がそれを助けます。平信徒は黙って祈るだけです。

昔、ロシアには貴族と農奴しか居ませんでした、と聞きます。農奴は文盲でしたから祈祷書は読めません。代わりに聖職者が全て読みます。そんな封建時代の圧政を連想させるのです。正直に言えば、見てはいけないものを見てしまったような暗然とした気分になりました。でも次の瞬間、気が付きました。それは自分の勘違いで、会堂全体にイエス様の笑顔が見えるようです。マリア様の優しい眼差しが見えます。壁に掛けた無数のイコンのマリア様は微笑んでいるのです。

儀式の見かけ上の荘厳さは人間の弱さの表れなのかも知れません。堅苦しい儀式が、実は自分の郷里の実家に帰った時のように寛いだものに感じられるのです。

普通の日本人がニコライ堂の日曜礼拝をみるとき一番重要なことは、儀式の豪華さや厳粛さの中に漂う「マリア様の優しさ」や「イエス様の慈しみ」を想像しながら見ることと思います。場違いな所に来たという感じや違和感が消えてなくなり、心から楽しめます。宗教というものに少しでも関心のある方は是非一度、ニコライ堂の日曜の聖体礼儀をご覧下さい。本には書いてない色々なことをご発見出来ると思います。(終り)