私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山という所に住んでいました。
向山いう地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所でした。
向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。
市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのです。
明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。
この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます。
風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯、などがありました。
下の市街地にあった会社の経営者や成金さん達が使う宴会場でした。
夜になると街の明りが美しく見下ろせる場所だったのです。芸者さんが出入りし、三味線の音が絶えなかった場所だったのです。
向山の奥の方の八木山には、昭和11年にベーブルースが来て、オールニッポンと試合をして、ホームランを打った八木山球場がありました。
八木山は遊山の地だったらしく、その山へ続く入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があったのを覚えています。
これらの料亭が大繁盛したのは大正時代という話を聞きました。
日清戦争、日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30、40年間ほどの間が景気の良い時代だったのです。日本の軍備拡大の波に乗った成金さん達が大らかに遊んでいた時代でした。それも一瞬の栄華でした。
昭和4年の大恐慌の後はすっかりさびれ、多くの料亭は廃業した様子です。
特に、荒れ果てた「いかり亭」の、昔は豪華だった庭や建物は子供の遊び場になっていました。昭和4年の世界恐慌で倒産したのです。
この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいたのです。誰も居ない池でそのアカハラをよく取って遊んだものです。
2年ほど前の仙台、愛宕中学校の同窓会で、経営が安定していた「黒門下の湯」の当主の息子さんと偶然会いました。追憶の向山についていろいろ話を聞きました。長徳寺と大満寺、そして愛宕神社は江戸時代から存在していたがあとはすっかり変わってしまったという話でした。
戦後から現在にかけては住宅街になり、このような料亭や割烹旅館は跡かたも無くなってしまいました。
しかし、東洋館と鹿落旅館だけは戦後66年にもなるのに現在も営業しているのです。と、書きましたが仙台に住んで居る弟から電話があり、鹿落旅館は今年の3月11日の大震災で崩れ、廃業したそうです。その旅館の前の鹿落坂も崩れ長い間通行止めになっていたそうです。残ったのは東洋館だけになりました。
風光の良い向山には、金持ちの別荘も数軒ありました。恐慌で倒産した経営者の別荘だったらしく、全て荒れ果てた廃屋になっていました。小山の上にあった廃屋をお化け屋敷と言って、よく探検に行ったものです。廃屋に入ると立派な玄関があり、奥には白いタイル貼りの温泉のような浴室があったのを覚えています。
現在、向山へ行って見ると何も無いのです。見事に何も無いのです。当時の向山の面影が全然無いのです。私の家族が住んでいた家も消えてしまって更地になっています。そして新しい住宅だけがびっしりと並んでいます。広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えているのです。
あれから茫々70有余年。すべては夢、幻になってしまいました。無常感に包まれます。(続く)
下の写真は現在営業中の東洋館のホームページの表紙です。URLは:http://www.toyokan.jp/index.html です。
この美しい姿の帆船は1927年に英国で製造され、チャーチル首相も愛用した名艇でした。長い間、三浦半島の油壺にあるシーボニアの所有で、一般にも開放されていました。私も2回程、帆船体験のセイリングに同乗したことがあります。最近、シーボニアのHPを見てもシナーラ号の事が書いてありません。