城と言えば人々は江戸時代の城をよく見ています。美しい天守閣や隅櫓が再現されていて、観光地になっていることが多いものです。
しかし鎌倉時代や室町時代にも沢山の城があったのです。
下に関東地方の室町時代の城を示します。この図の中の江戸城のすぐ左隣に石神井城があります。この城は平安時代末期から1477年に落城するまで豊島氏によって使われた城です。落城させたのが関東官領の上杉家と家臣の太田道灌でした。
先日、訪問して写真を撮ってきましたので下に掲載いたします。
・この時代は関東官領の上杉家と家臣の太田道灌とそれに対抗する古河公方、長尾景春との戦いがあったのです。太田道灌が勝ちます。彼は江戸城の創建者として関東では有名な武将でした。山吹の花と実にまつわる歌で有名なだけではありませ。
・石神井城は豊島氏が作りました。
・城郭はかなり大きなもので武装集団が住めるようになっていました。しかし現在は城の広さの大部分は宅地になってしまっています。中心部分のみが僅かに保存されています。鎌倉・室町時代の城跡の多くは農地になっているようです。宅地になっている場合もあります。時代の流れをしみじみ感じさせます。
・城は上の三宝池の向こうの高台の上に広がっていました。
この時代の城は自然の川や池を外堀の代わりに利用していました。
内堀は水の無い空掘のことが多かったようです。石垣もなく土塁や土手を2重、3重に巡らせていました。館は質素で、戦闘基地としての建物と馬屋が広がっていたのです。
美しい天守閣も隅櫓も一切無かったのです。それが歴史の実態だったのです。当時の社会がいろいろと考えさせます。
皆様も、このような粗末な城跡を訪ね歩く趣味をお持ちでしょうか?
東京近辺には深大寺城や高幡城や片倉城や滝上城、八王子城などの跡が整備されていて昔の質素な城のたたずまいを偲ぶことが出来ます。(終り)
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城と言えば熊本城、姫路城、岡山城、大阪城、彦根城、岐阜城、犬山城、掛川城、松本城、会津城などを見たことがある。いずれも広い堀、見事な石垣、白壁の建物群、宙に聳える天守閣などが美しく調和していて文化の香りが高いものです。
しかし、平安末期から鎌倉時代、室町時代に造られた城には華麗な天守閣などは無く、領主の住む館も質素なものです。質素というより貧しい家なのです。
そして戦闘集団の武士や軍馬の住む小屋が延々と広いのです。
近世以前の城は戦闘行為の基地であって、贅沢な生活をする場所ではなかったのです。
そのような室町初期の城の実例が、南部師行(なんぶもろゆき)、1334年築造の根城です。
見に行った人々は、その殺伐としたたたずまいに強い衝撃を受けると思います。
文化の香りでなく戦いの臭いが強烈に残っているのです。
城の実戦向きの構造と武器製造工房が300年間も臨戦態勢にあったのです。
その様子を見事に再現さしているのが青森県八戸市立、根城公園内にある城跡です。
白壁の建物など皆無で城壁は荒々しい木の柵です。太い木の柵が敵を威圧するように、陸奥の暗い空の下に蜿蜒と連なっています。
南部師行は現在の山梨県南部市身延町付近出身の武将です。
1334年に遥かに陸奥の国代とし赴任し、現在の八戸市西郊の馬淵川を望む高台に根城を築きました。
その後、南部師行は南朝側の北畠顕家の部下として足利尊氏を討つため京都・大阪方面へ2度も遠征しました。しかし2度目には足利軍に負け、1338年泉州石津(現在の堺市)で死にます。
一方、根城と八戸南部領(岩手北部、青森東部)は初代、師行の子孫がその後の293年間、よく守って地方武力政権として存続したのです。
すなはち、1334年から293年の長い間、根城は岩手北部、青森東部、秋田の東部山岳地帯を擁する広い領地を治める武力政権として存続したのです。
しかし江戸幕府確立後の1627年に八戸南部氏は遠野へ領地替えになり、盛岡南部氏の家臣になりました。
明治維新後の学校教育では平城時代から日本は統一国家で、大和朝廷が全国を完全に統治して来たと教えます。ところがそれは明治政府の単なる願望であって、事実は地方、地方に小型の武力政権があったのです。武力政権は形式的に大和朝廷に服従しますが、実態は地方分権国家だったのです。
日本の歴史は、縄文時代から明治維新まで時代によって性格の異なる地方ごとの武力集団による領民の統治だったのです。
武力政権は殺伐とした文化でです。そんな考え方の真実性をヒシヒシと感じさせるのが根城の再現建物群なのです。
大きな写真と下列の写真数枚で暗い空の下、ながながと続く砦の木柵を示しています。下列左端は現在の山梨県から行って根城を作った南部師行の騎馬像。終わりの方の4枚の写真は主殿の外観と質素な木床の部屋の様子を示します。等身大の人形のある席はお正月の祝いの席ですが、臨戦態勢の鎧兜の年男が酒を注いで回っているのにご注目下さい。お膳の食べ物の質素さにもご注目頂きたい。
根城の再現施設を見て回ると、緊張した300年の雰囲気が切々と伝わってきて、背筋が寒くなります。それが武力政権の宿命なのでしょう。
そんなことを実感させるように再現した八戸市の担当者の慧眼・見識に敬意を感じました。
八戸市へ観光に行ったら、是非、八戸市立、根城公園内にある根城の再現展示をご覧下さい。
江戸時代以前の日本の地方の武力政権の性格が分かり、興味が尽きないと思います。(写真の撮影は2010年6月21日)
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
昨日、田舎には江戸時代から連綿と続く封建的な考えかたがあって人間関係が息苦しいという記事を書きました。「個人の自由と平等を圧殺する田舎社会・・・何故若者が都会に出るか?」と題する記事です。
それでは大都会に出て来て、就職し、家庭をもった若者の運命はどうなるのでしょう?
都会は自由です。若者の個性を尊重します。恋愛も結婚も自由です。
しかし家庭を持つと運命が変わります。どうしても住むマンションや家を郊外に持つようになります。毎朝、毎夜、通勤地獄に苦しめられます。
通勤地獄の恐さは肉体的な苦痛だけでないのです。
個人の尊厳がメチャクチャにされる1時間から2時間なのです。それが朝夕毎日2回です。電車の中だけでありません。乗り換えの駅の人の多さに個人が埋没してしまうのです。
例えばラッシュ時の渋谷駅、新宿駅、品川駅で電車を乗り換える場面をご想像下さい。
地味な同じような色の背広を着た男が通路を溢れながら、奔流のように流れて行きます。個人の尊厳なんて悠長ことなど言っていられません。
昔、アメリカの研究者を何度も東京の研究所や会社へ案内しました。
時間どうりに着くためには電車が一番確実です。ところがアメリカ人の研究者は例外なく電車に乗るのを非常に嫌がります。
そこで、ある親しいアメリカ人にクドクド聞いたことがあります。
彼が怒ったような口調で言います。
「他人が自分の体を押すのは大変失礼で、酷い侮辱を受けた気分になる。個人の尊厳が踏みにじられる。これこそが、日本に個人の自由がない証拠だ!」と言うのです。
そうです。こんなに明快に言うことは出来ませんでしたが私自身も通勤時の押しあいへしあいで感じていたことです。それをアメリカ人はもっと強烈に感じていたのです。
それ以来、欧米人の研究者をいろいろな大学や会社へ案内する時は、朝早く出て自分の車で一緒に行くようにしました。
しかしどうしても車が使えない場合もあります。その場合は混んだ電車をやり過ごすのです。通勤者の奔流のある通路は避けて、遠うまわりして空いている通路を歩きます。
さて、この苦しみから逃れる方法は、息苦しい都会から脱出し、地方の小さめの都市に住むことです。
特にいけないのは札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡などの大都会です。都市が大きいのでどうしても通勤時間が長くなるのです。
通勤に自分の車が使えたり、電車やバスを使う場合でも短時間で済む小さな都市が良いと思います。
北海道の旭川、仙台、つくば研究学園都市、長野、静岡、神戸、高知、鹿児島などの都会は通勤地獄が無さそうです。あっても東京、名古屋、大阪のような酷さではありません。
さてこの記事の挿絵にしようと通勤電車の混んだ場面の写真を探しました。なかなか見つかりません。
そこで住み良さそうな神戸の風景画を下に示します。私も神戸に1年住みましたが、とくにトーア・ロードというロマンチックな雰囲気の通りが好きでした。
その風景画を挿絵がわりに掲載します。戦没画学生の杉浦基司さんが描いた油絵で、「神戸東亜ロード」という題がついた絵です。戦争中だったのでトーア・ロードは東亜ロードになっています。
この絵画の下に転載した、妹さんの兄の思い出を是非お読み下さい。
田舎暮らしでも都会暮らしでも生きているだけでも良いと感じざるをえません。最後になって、
上に描いた文章はまったく無意味だというような気分にさせる挿絵を出したことを後悔しています。
しかし実は「田舎暮らしが良いか?都会暮らしが良いか?」という記事には続編を書くつもりがあるのです。「職場の人間関係と転職の自由」と「人間の自由と宗教」の2つは是非書いて見たいと思っています。
原稿が出来たら明日以降に掲載したいと考えています。
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
・・・・・・杉浦基司、「神戸東亜ロード」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、
沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心
”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき
兄は23歳の生命をちらしました。
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絵と文章の出典は以下の通りです。
NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、123ぺージ
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日本は自由と平等が行き渡った民主国家だと信じている人々が多くいます。確かに都会に住んでいるとそのような実感が持てます。
ところが一歩農村や山村地帯へ行くと、ごとの全体主義と部落長の独裁が若者の個人の自由を圧迫しているのです。
よく農村の若者が都会に出るのは就職口が地元に無いからだと簡単に言っている人がいます。それも理由の半分です。
しかし、もう一つの大きな理由は農村や山村では若者の個人の自由を認めない因習が厳然としてあるからなのです。若者は地元の小学校や中学校、あるいは高校で個人の自由と平等が一番重要だと教わります。しかし住んで居る田舎社会の実態は江戸時代と変わらぬの全体主義が厳しくて、個人の自由など認めません。
大学だけは大都会でという悲願で、家を飛び出し、就職の時に故郷と決別するのです。これこそ農村と山村が過疎化する原因の半分の理由なのです。
最近、この田舎社会の現実を見せつけるようなチョットした事件が起きました。それを一つの実例としてご紹介いたします。
山林の中に独り住む私の友人が持病のせいで車の運転を止めます。その農村にはコミュニティ・バスが縦横に走っています。彼の山荘の下の立派な広域農道にも走っています。ところが停留所がはるかかなたにしかありません。
そこで彼は市役所に行って停留所を近くに作って下さいと交渉します。役所はいろいろ言を左右しますが、つまるところ以下の2つの理由で作ろうともしません。
(1)市役所は個人が自由に(勝手に)停留所を作る申請を出しても受け付けません。それは自分の属しているの長から提出すべきです。市役所が個人の申し出を勝手に認めたら江戸時代から連綿と続く農村の平和と秩序が壊れます。市役所はそんな事をしたら後で大変なことになります。相談を受けた役人の責任が追及されます。
(2)に住んでいる人は江戸時代から協力しあって汗水流して水田を広げてやっと生活出来るようにしたのです。
ですら戦後、いきなり満州や都会から移住して来た人とは違います。江戸時代から水田を持っていた人が一等住民で、戦後移住し牧場や養鶏業を始めた人は二等住民です。そして、最近勝手に別荘に移住してきた人は三等住民なのです。
農村には移住して来た事情によって差別があるのです。それを尊重しないような態度では希望などかなえて上げる必要がありません。
以上は私の想像です。間違っているとも思いますが、40年間通って近辺の人々を観察してきた感想です。
水田を持っている人は誇らしげにしています。私共と親しくなりませんでした。
ところが寒冷な高台で牧場や養鶏業をしていた人はとても親切でした。しかし親しくなっても、決しての全体主義や差別のことは話合ったことはありません。
そんな話題は牧場や養鶏業をしていた人を傷つけるようで怖かったのです。
しかしそれも遠い昔の経験です。
日本全体を自由で平等な民主国家にし、何処でも楽しく住めるようにという私の祈りは間違っているでしょうか?
一方、田舎の人々の生き方にも同情を禁じ得ません。そのようにしなかったら生存が困難だったに違いありません。本当に世の中はままならないものですね。
皆様のご意見をお聞かせ下さい。なお上の例は木内正夫さんのブログ、http://sizen068.blog95.fc2.com/blog-entry-702.html#comment4195に詳しく書いてあります。
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
下に2つの農業地帯の写真を示します。上が個人の自由と平等のない農業地帯で、下が東京の郊外の農業地帯です。キャベツ畑の向こう側に新しい住宅が並んでいます。こういう場所の市役所は個人の相談事をキチンと受け入れてくれます。同じ農業地帯でも社会・文化が大変違うのです。
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魚好きの方は活きの良い魚の写真を見ると何故か幸せな気分になるようです。
そこで今日は思いっきり活きの良い魚が並んでいる角上魚類という大型魚店に行って写真を撮っていました。店の男の人が自慢げに、もっと綺麗に並べて上げましょうかと言ってくれました。あまり多量に買うつもりが無かったので遠慮して、並べ変えるのは固辞しました。
上から順に、キンメダイ、シマアジの写真に続いて、メバル、マツバガニ、天然ブリの大きな4枚の写真をお送りします。
その下にはサムネイルで更に6枚の写真をお送りします。巨大なキンメダイは静岡沿岸で水揚げされたもので1匹2500円でした。次の中くらいのキンメダイは1匹700円ですので、巨大ぶりがご想像出来ると存じます。
活きの良い魚の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
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写真の魚の値段:2200円のシマアジの隣のキンメは1匹1200円。その下のメバルは1匹800円。サムニエルの写真の1匹2500円のキンメの隣のキンメは中くらいの大きさで700円。その隣のタイは1200円。
写真写りの良いものは高いのです。私はものすごく活きの良い大きなカサゴ2匹で400円、大きなカジカ(唐揚げ用)1匹350円、活きホタテ5ケ300円のみを買って来ました。夕食に食べましたがどれも最高でした。
物価が下がったことに驚いています。と、同時に漁師の方々の生活が成り立っているのでしょうか?心配しながら活きの良さに感動しつつ食べてしまいました。
冷凍運送技術の驚異的進歩に脱帽です。長生きすると技術の進歩に感慨無量です。
第二次大戦後、ヨーロッパ諸国は多くの植民地を失い疲弊します。
一方、ソ連圏とアメリカ合衆国は強大になり、世界の覇権を争っていました。
かつて7つの海にまたがる領土や植民地を持っていた大英帝国も没落し、ヨーロッパの栄光は地に落ちてしまったのです。
そのような時代になると欧州諸国は昔の対立関係を捨て、軍事同盟や経済連合を強化し、アメリカ、ソ連に対抗できる第三の主導権を握ろうとします。
その新しいヨーロッパの組織として生まれたのがNATO軍と EU経済連合体です。
もっともNATO軍も EU経済連合体も冷戦時代はアメリカと協力してソ連圏に対抗しようという目的が強かったので、当然の事ながらアメリカの支援や指導があったのも否めません。
最近、シカゴでNATO、28加盟国の首脳会議が開催され、アフガニスタン作戦の終了軍事行動を打ち合わせました。
その会議で日本の玄葉外務大臣が演説をして、日本がNATO軍の撤退後のアフガニスタンの治安維持へ数億ドルの巨額のお金を拠出すると約束しました。
その上、今年の7月に東京で日本が議長国になって、「アフガニスタンのその後の治安持続の支援金」を西側から集める会議を開くと約束したのです。
当然、クリントン長官は感謝して、私もその東京の会議に必ず出席すると言ったのです。
私は最近の北朝鮮や中国の覇権主義的な拡大政策を見るにつけて、「日本はもっとNATOやEUへ積極的に協力すべし」という意見を持っていました。
今日の読売新聞3ページに玄葉外務大臣のNATO軍事同盟のシカゴ会議での活躍が報じられています。安心しました。外務省がちゃんとした仕事をしているのです。
国民も消費税問題で揉めている国内政治に目を奪われることなく、世界の動向に日本が取り残されないように常に注目したほうが良いと信じています。
下にNATO加盟国の地図を示します。
そして下にEU加盟国の地図を示します。
NATO軍事同盟の加盟国とEU経済連合の加盟国は違います。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スェーデンなどの主要国はどちらにも加盟しています。アメリカはNATOの主要国ですが、EUには加盟していません。
違いを詳しく見るとヨーロッパのいろいろな国の歴史的、文化的な背景の違いが関係しているようです。比較文化論的な興味深い問題がいろいろあります。
例えばEUに加盟する資格として「ストックホルム基準」をクリアしなければなりません。これは社会体制や文化が本来のヨーロッパ文化と同じであるべきという基準です。
トルコやボスニアやヘルツェゴビナなどは資格がないと断られています。
特にトルコはイスラム教の国で、軍部がシビリアン・コントロールになっていません。
しかしそのトルコがNATO軍の重要なメンバーなのです。何故かヨーロッパ人のご都合主義と差別主義が見え隠れしているようで以前から私は不愉快に思っています。
さてギリシャの財政危機はNATO軍事同盟にとっても、EU経済同盟にとっても深刻な問題です。日本は積極的にギリシャの危機解決を支援していますが、もう少しその日本の支援を国際的に宣伝したほうが良いと思います。
結論的に言えば日本の国際外交は少し地味過ぎます。もっと宣伝もし、国民の後押しも結集すべきと何時も感じています。
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
参考資料: EU加盟国の推移 欧州連合加盟国(おうしゅうれんごうかめいこく)とは、1951年署名のパリ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体に事実上の起源を持つ、欧州連合(EU)に加盟している27の主権国民国家。原加盟国数は6で、その後6度の拡大が繰り返された。その拡大の中でも2004年5月1日のものは10か国が加盟する最大のものであった。欧州連合は20の共和国、6つの王国、1つの大公国で構成されている。 ブルガリアとルーマニアは2007年1月1日に加盟しており、最も新しい加盟国である。このほかにも多くの国が欧州連合への加盟協議を続けている。加盟の過程はヨーロッパの統合と表現されることもある。しかしながらこの「ヨーロッパの統合」という表現はヨーロッパ規模の諸機関に権限を段階的に集中させている欧州連合加盟国のそれぞれの国家としての協力の強化という意味としても用いられている。欧州連合に加盟することが認められるまでに、加盟を希望する国家はコペンハーゲン基準と呼ばれる経済的・政治的条件を満たさなければならない。この条件のもとでは、加盟候補国は宗教権力によらない、民主的な体制を持つ政府、またそのような政府に対応する自主性や統治機関、そして法の支配の尊重を備えていなければならない。欧州連合条約の規定では、連合の拡大は欧州議会の同意と既存の加盟各国の合意が必要とされている。 NATOと日本との関係 冷戦期に西側陣営を構成していた日米欧の三極において、日米および欧米の関係に比べ、日本とヨーロッパの関係は比較的薄いものであった。それでもアメリカ軍・在日アメリカ軍との関係から、自衛隊ではNATO弾を使用するなどNATO規格を採用している。近年では2005年のNATO事務局長の訪日、および2007年1月には安倍晋三首相(当時)が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問するなど関係構築が進められている。安倍首相が出席した北大西洋理事会(NAC)における構成各国の代表との会談においては、全ての主要国が日本との協力関係構築に賛成するなど、緊密な連携が確認された[4]。これらの首脳による関係の他にも、NAC下部組織である政治委員会との非公式協議の開催や、ローマに存在するNATO国防大学上級コースへの自衛官留学、NATOによる災害派遣演習へのオブザーバーとしての参加など、実務レベルでの協力も行われるようになった。 NATOはアフガニスタンにおける活動の中で、現地の日本大使館が行っている人道支援・復興活動に注目しており、軍閥の武装解除を進めるDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)プログラムの指導国である日本との連携を模索している。 また、日本や周辺国をNATOに加盟させようとする動きもあり、NATOを北大西洋地域に限定せずに世界規模にした上で日本、オーストラリア、シンガポール、インド、イスラエルを加盟させるべき(元ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニ、アイボ・ダールダーブルッキングス研究所シニアフェロー、ジェームズ・ゴールドゲイアージョージ・ワシントン大学政治学教授)との意見もある。 具体的な協力 2008年10月現在、日本政府はアフガニスタンで国際治安支援部隊(ISAF)を展開するNATOに対し財政支援(financial support)を行っており、NATO・ISAF側は広報センターを通じてこの事実をファクトシートの形で公表している[5]。日本の対NATO協力の変遷は次のとおり。@2007年1月、安倍首相が北大西洋理事会で演説。@2007年3月、アフガニスタンでの人道支援プロジェクトのために約20億円の財政支援を実施。@2007年12月、NATO文民代表部との連絡促進のため常勤の連絡調整員を指名。@2010年6月25日、「日・NATO情報保護協定」を締結(日本が情報保護協定を結ぶのは、「日米軍事情報包括保護協定」(2007年にアメリカとの間で締結)に次ぎ2例目である)[7]。 NATOのアフガニスタンでの活動に対する日本の財政支援は、政府の草の根無償・人間の安全保障資金協力(GAGP)スキーム[8]の範囲内で行われている。2008年10月2日現在、日本政府はGAGPの方針に従い29のプロジェクト支援を実施しており、その総額は約260万ドル(2,647,927米ドル)に及んでいる。NATOによれば、政府はさらに39のプロジェクトへの追加資金協力を検討している。
私は田舎暮らしに憧れていました。1973年に山林の中に下のような小屋を作りました。週末に泊りに行くだけです。
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私は絶対に田舎に住みつこうとは考えませんでした。田舎暮らしの危険さは地元の人々との人間関係の難しさにあります。
上の小屋の向こうの高台に登れば下のように美しく花が咲いています。
そしてサルやシカやキツネにも会えます。自然がいっぱいで楽しいものです。
近所の牧場の人や養鶏業の人とも仲良くなり搾りたての牛乳や新鮮な卵を何度も頂きました。
しかし都会の家を処分して田舎へ住み着くとなると大変危険なことが沢山あるのです。
役場の態度が冷たいのです。ゴミ集めには来てくれません。
道路の補修も自分でしろと言います。
コミュニティ・バスも近くに来てくれません。要するに行政サービスが無いのです。
田舎で快適に暮らすには地元の有力者に仁義を切り、季節ごとに貢物を欠かさないことが一番重要なのです。その有力者から役場へ話を出さないとゴミ集めやコミュニティ・バスのサービスは受けられないのです。役所では都会から勝手に移住した人は差別しても良いのです。それが田舎の常識です。
それが都会文化と田舎文化の違いなのです。その2つの文化には優劣がありません。その田舎文化は東北地方で育った私には痛いほど分かるのです。
最近、私の小屋の近所に30年も独り暮らしをしている男性が病気になりました。
心房細動という心臓病でかなり面倒な病気です。以前、通っていた武川診療所へ行きましたが、点滴すらせず、何の治療をしてくれません。
そこで遠方の北杜市立塩川総合病院へ行ったら、「診療所からの紹介状」を持って来なかったから今日は受け付けらませんと門前払いをされました。彼は痛む心臓をおさえがらやっと帰宅します。
後日、また診療所へ行って「紹介状」を頼みます。数日後、やっと紹介状が出来たのでまたその診療所へ取りに行きます。
そして、遠方の総合病院へ行きます。今度は診察はしてくれました。その結果、心房細動は手遅れで、治療できないと宣告されたのです。
治療は大都会にある循環器専門医のいる立派な病院へ行きなさいという話です。
心房細動の発作が起きたのは2月です。診療所へ何度も行ったのに3ケ月間、頼んでも、何の治療をしてくれなかったのです。
そして総合病院へ行ったら診察もせずいきなり門前払いです。
そして数週間後の昨日、やっと診察をしてくれたと思ったら、「手遅れです」という宣告です。手遅れか、そうでないかは医者といえども人間には分かりません。それをそのように言い放つのが田舎文化の特徴なのかも知れません。(詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/blog-entry-701.html をご覧下さい)
私の友人は今回起きたもろもろの事で心に傷を受けたに違いありません。それは心臓病より大きな傷だったかも知れません。
さて上に起きたような無神経な取り扱いを防ぐ方法はあるのでしょうか?
東北地方で育った私は知っています。それは北杜市の市役所に顔の聞く地元の有力者に長年とり入って、礼物を欠かさないことです。そうすれば上のような冷酷がとり扱いを避けることが出来たと思います。その有力者から北杜市の市役所に話を通うして置けば万事スムースに行った筈です。
診察した医者へもその有力者から挨拶が行っていれば「手遅れです」という宣告も無かった筈です。逆にもっと良い病院を紹介しましょうという話になった筈です。
私の友人は真っ直ぐな性格です。そのような情実を使うことは嫌いです。それ位なら死んだ方がマシだと言うに違いありません。
さてこれを読んで皆様はどのようにお考えでしょうか?
この記事の題目を、「停年後いきなり田舎暮らしはするべきでない!」とした私の真意をご理解頂ければ嬉しく思います。失礼しました。
最近、このブログで原発賛成派と反対派の本音を7つの項目に分類して比較検討しました。以下の2つの記事です。
(1)大飯原発再稼働に賛成の人々の本音と反対する人々の本音を比べてみる
(2)大飯原発再稼働に賛成の人々と反対する人々の本音を比べる(続き)
これらの比較検討を考えてみると賛成派と反対派はいくら話合っても、お互いに納得出来るような状態では無いことが明白です。お互いを説得できる客観的事実が存在していない上に、双方とも本音では酷く感情的な動機を持っているからです。
私自身は3年前から原発反対派で、50基の原発を10年くらいの間に次第に廃棄して行き、最終的には原発ゼロの日本を作り上げることに賛成です。
(そのことはこのブログの2009年2月24日と25日に掲載した記事で説明した通りです。2009年2月24日の記事:原子力発電へ反対することにしました と2009年2月25日の記事:原子力発電に反対し、現実的な解決法を提案します です。)
しかし現実的に考えると、大飯原発を夏季だけ再稼働し、秋になったら、停止するという橋下徹大阪市長の提案が最善の選択と信じています。
野田政権の官房長官が期間限定の再稼働はコストがかかり過ぎるので現実的でないと一蹴しました。又、コスト第一主義、経済第一主義、で押し切ろうとしています。
さて現状を考えてみると日本の状況は次のようになっています。
(1)中央政府、中央省庁、大電力会社、大会社、国立大学、国立原子力関連研究所などの日本の権力機構は原発再稼動賛成側です。
一部国民の犠牲の上に日本が強大になって来た明治維新以来の実績こそが原発再開の信念の基盤なのです。
ですから国民の大多数が原発反対でも、これから3年以内に休止中の原発はなし崩し的に再稼動する情勢にあるのです。
(2)原発反対派の本音はいろいろ違います。しかし国民投票を実施すれば過半数が原発反対になるのは明白です。
ですからこそ中央政府、中央省庁、大電力会社、大会社、国立大学、国立原子力関連研究所などの日本の権力機構は国民投票を絶対に実施しようとはしません。国民投票の法律が存在しないのですから日本の権力機構は実施しなくても非難されません。
このような情勢では大飯原発も他の原発もいずれは再稼動すると考えるのが現実的な判断です。
このような情勢で私は原発の安全対策の不十分さを声を大にして指摘したいと思っています。それは以下の3点です。
(1)いくら津波対策をしても、それ以上の津波が来る可能性があります。
そこで原発建屋に水が入らないようにしている筈です。
そこで原子力発電所に山側から多量の海水を流し、冠水実験をするのです。それでも水素爆発が起きないという実験をすべきなのです。
海水をかぶっても大丈夫という実験を何度も実施して、その結果を公表しなければ安全と言えません。
(2)全電源喪失の実験をすべきです。
緊急原電装置が充分配置されていることは公表されています。問題は緊急時に緊急原電装置が作動するか否かという一点にかかっています。
意図的に全電源を停止して、何分後に緊急原電装置作動し始めるかという実験を繰り返して、その結果を公表すべきなのです。
(3)緊急原電装置に熟練した電気技師と作業員を24時間体制で配置すべきです。海水の冠水に対応する技師と作業員も24時間体制で配置すべきです。
その技師と作業員の緊急時対応の訓練を常時実施すべきなのです。
以上の3点についてマスコミや新聞が議論しません。感情的な賛成意見や反対意見を掲載します。それを利用した政治的な争いを報道します。マスコミの煽動や扇情的な動きでは原子力発電の安全性は一向に向上しないのです。
賛成派も反対派も冷静になって緊急時に対応する技師や作業員の訓練をもっと、もっと強く要求すべきではないでしょうか?
あなたのご意見をこの記事のコメントとしてお聞かせ下さい。
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
緑が美しく輝く季節になりました。気温も丁度良く、さわやかな皐月の風が吹いています。
ドイツ語でアイネ・シェイネ・マイ(美しき皐月)という言葉があります。長い、長い冬を過ごすと、5月に一っ気にアンズやサクランボの花が咲き、林には新緑の若芽が一斉に出ます。
冬が厳しいだけにドイツ人は生き返ったような嬉しさです。挨拶代わりに「アイネ・シェイネ・マイ」と言うと、とても嬉しそうな顔をします。そんな遥か昔のことを思い出しながら新緑の写真を撮って来ました。
上の3枚は都立野川公園で、先程撮って来ました。下の2枚は昨日、小平墓地の真中の雑木林で撮りました。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
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熱い涙の粒がぼろぼろ止まらないまま拝読しています。
美しいドラマを観ているような・・・持病で苦しみながら賢明に生きていらっしゃる姿は何時もブログで拝見していますから、美しいという表現は失礼かもしれませんが、でもその生き様は立派だし、芯の強いお方だと尊敬いたしております。
後藤さま、旅立つ時はみんな独りなんですね。
臆病者の私もぼつぼつ覚悟が必要かと思っています。
未だこんなに沢山の涙が出てくることに驚きながら、眼の大掃除が出来たような・・・これも失言かもしれませんね。
鬼家様、後藤さまのご健勝を祈念いたしております。