後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業

2015年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
大学時代の友人の竹内義信さんが「樟子松」と題する貴重な日中友好事業の報告文を寄稿して下さいました。
お読み頂く前に樟子松をご理解頂きたいと思い、その美しい樟子松の写真を3枚お送り致します。写真はいずれもホロンバイル平原での風景です。





====竹内義信著、「樟子松」============
 私は国民学校一年生から、四年生の昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、満州のハイラルという町で平和に暮らしていました。その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
海拉爾は北緯49度に位置し、冬の寒さは厳しく、零下40度以下になることも稀ではありません。しかし、樟子松は零下40度の真冬でも緑の葉を付けたままで、春にはまた新芽を吹いて成長します。
 海拉爾在満国民学校の同窓会は戦後間もなく40年になろうという昭和57年に設立されました。そして芋づるのようにな同窓生探しが実を結び500名以上の名簿が作られtらのです。
始めての同窓会総会には全国から200名近くの、懐かし顔ぶれが集まりました。そして平成12年には同窓会活動から一歩踏み出した海拉爾市の植林に協力することになりました。
そのためにNPOの「呼倫貝爾地域緑化協力会」を有志で立ち上げ、私も参加しました。
丁度、時を同じくして設立された「日中民間緑化協力基金」(通称、小渕基金)の助成金を受けて10年間に54万本の植林を行いました。
主な樹種は懐かしい樟子松でした。海拉爾市も2,000ヘクタールの「中日友誼林基地」を準備して協力してくれました。その植林地は私が戦争中に遊んでいた西山の数キロ西方にあります。私達が戦時中に見た樟子松の林は現在では国家森林公園として保護されており、樹齢400年から500年の樟子松が何本もあります。その上、樟子松は海拉爾の郷土木なのです。
 樟子松は海拉爾付近に多いので別名海拉爾松とも呼ばれます。学名はPinus sylvestris var. mongolicaでヨーロッパアカマツ(Pinus syrvestris)の仲間で日本の赤松(Pinus densiflora)とは違います。ヨーロッパアカマツはヨーロッパの、イギリス、スペインから東はシベリア、南はコーカサス山脈、北はラップランドにかけて分布する正にユーラシア大陸を代表する松で、樟子松はその蒙古亞種ということでしょうか。
 NPOでの植林ボランテアは退職してからのことでした。現役時代に親しくしていたイタリアのピサにあった製薬会社の研究所長のロジーニさんが訪日して会社に来られ時、後輩が気を利かして一席設けてくれました。その席で、中国内蒙古自治区の海拉爾での植林の話が出ました。彼が植林している木は何かと尋ねました。松の木だと返事すると松の木と言ってもいろいろあるだろうと食い下がって来ました。説明するのも面倒なので「Pinus sylvestri」まで言い、variant mongolicaまで言わない内に「Ho capito! Sylvestris」と立ちどころに了解してくれました。
さすが、薬の研究所長はヨーロッパアカマツの学名を知っていました。
 海拉爾での植林も樟子松が中心で一緒にマメ科の黄槐を混植しました。黄槐は根塊で窒素を固定しますので、栄養分の乏しい砂地では大切で樟子松の成長を助けます。
ホロンバイル草原に関する著書の多い細川呉港氏によると海拉爾から満洲里までの海拉爾河沿いの砂丘には昔はずっと松林が続いていたと蒙古人から聞いたとのことです。
中国人の増加もあり、鉄道沿線に住む多くの人たちが伐採して炊事や暖房に使ってしまい樟子松も少なくなってしまいました。
蒙古人はパオの燃料には牛糞を使うことを書いて蒙古人を援護しておきます。
更に、細川氏は1998年の夏に嵯崗というところから砂山に入って何十本か群生している樟子松の林を見付けられたそうです。昔、大平原の砂丘を樟子松の林が100キロ以上も連続したいた頃はさぞ壮観だったことと想像できます。
 海拉爾の友誼林基地での樟子松の植林方法には春と秋の二通りの全く違った植林の仕方がありました。樟子松の松傘から集めた種を苗畑に蒔くと発芽率は良く、丁度稲の苗畑の様に密生して芽を出します。春季植林は手植えと機械植えがあり、手植えでは、2年目の15センチ位に伸びた樟子松の苗を30センチの穴に苗の頭が出て風に当らない様に手で植えて行きます。雨が降れば水が溜ることも期待します。3メートル間隔で1ha当たり二千株ほどになります。同じ春季植林でもトラクターで二人の乗った車を引っ張り、3メートル間隔位に交代で苗を置いて行くと、後ろに土寄せのタイヤで土を掛けます。トラクターに乗った二人は前屈みで目に土が入らないように風防眼鏡をしてかなりの重労働になります。
 一方、海拉爾独特の冬期植林があります。土の凍らない9月頃に立横高さがそれぞれ50センチの穴を掘っておきます。11月頃には地面も凍結し樟子松も冬眠状態となります。7~8年生の樹高約1.2メートルの樟子松を掘り起こします。慣れた職人でも一日15株掘り起こすのがやっとの重労働です。この凍土の付いた木を9月に掘っておいた穴に入れ土を掛け踏み固めたら、根元に50lの注水をするとたちまち凍結し、苗木はそのまま越冬して、翌年の春に水を要求する時期になると凍結した水がゆっくりと溶けだし根は十分に水分を吸い上げると言う大変合理的な植林方法です。
 植林基地の一部に畑だった場所に植えた1メートル一寸の樟子松は9年後には6メートルにまで成長しましたが、大部分の砂地では精々2~3メートルでした。
 プロジェクトの終了から5年目の2014年の夏に前出の樟子松に詳しい細川氏が海拉爾を訪問されると聞き、私達の「中日友誼林基地」を見て来て欲しいと依頼しましたが、昨今の日中関係のせいか基地は封鎖されており誰も入れないと断られてしまったそうです。しかし、私はこの封鎖は私達が植えた樟子松にとって決して悪いことではないと思っています。
戦争中に北海道の函館山は要塞だったために、そのの原生林は立派な森になりました。私達の植えた樟子松も郷土木として海拉爾の地で立派に成長して見事な松林になることを願っております。中国の環境保護の一助になればと考えるこの頃です。(終わり)
下にハイラルの小学生の協力の光景の写真と呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化推進協力会の会合の光景の写真を示します。竹内義信さんは最後の写真の左手前の方です。事務局長として活躍しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
特定非営利活動法人 呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化推進協力会
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~s-juku/hurunboil.htm
平成12年2月17日、呼倫貝爾地域(中国内蒙古自治区)の砂地緑化を支援するボランティアグループが生まれました。
ホロンバイル地域の中心都市は海拉爾(ハイラル)市です。
現在この地は、黄砂の害に悩まされ、砂地が広がっており、防風林造成や砂地緑化が緊急の課題になっています。
今回、この地で50年以上前に学童時代を過ごした有志が中心となって緑化推進協力会の設立を行いましたが、今後多くの方々の参加と支援を求めていくこととしています。
したがいまして、このページも今後逐次充実させて参りますのでご期待ください。
注、呼緑協は平成12年10月から、特定非営利活動法人(NPO)に移行しました。



今日の新宿御苑の大温室の花々をお楽しみ下さい。

2015年02月19日 | 写真
昨日、小さいニッサン・ノートという車を買いました。エンジンも1200CCなので軽自動車のような車と覚悟していました。
ところが高速道路での時速100Km以上での加速性能が抜群です。ロードホールディングもしっかりと路面をつかんでいるような安定感があり感心してしまいました。そこで今日は午後から新宿御苑まで飛ばし、いろいろ写真を撮って来ました。
今回は温室内の花々の写真をお送りします。
新宿御苑の温室は明治25年に出来た日本で一番古い温室です。その古い温室の隣に一番目の写真のような巨大な温室が数年前に出来ています。
花々の写真をお楽しみ下さい。













日本の農業と農協の問題を考える(2)日本の食料自給率は低すぎる

2015年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本では世界中の美味しいものが食べられます。昔からのフランス料理や中華料理は勿論、イタリアンやタイ料理、インドネシア料理、そして寿司やウナギの蒲焼など全ての美味しいものが食べることが出来るのです。
しかしこれらの食料のカロリーベース自給率は40%で、残りの60%は全て外国から輸入されているのです。食料の品目別自給率を調べると米以外は魚も穀類も乳製品も全て輸入に頼っているのです。
一旦、大戦争が起きれば食料の輸入が途絶え、国民の60%が栄養失調になってしまうのです。そして貧富の差が厳然として存在している日本では栄養失調で死んでしまう人が何十万人、何百万人も出ると想像されます。
日本の食料自給率は世界でも最低の国々と同じようなレベルにあるのです。
下の2枚の図面をご覧下さい。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E6%96%99%E8%87%AA%E7%B5%A6%E7%8E%87 です。

上の図面で恐ろしいことは日本の自給率が毎年、減少していることです。1961年には75%もあった自給率が2012年には40%まで減少しているのです。

上の図面は穀類だけの自給率ですが、アメリカ、フランス、ドイツは穀類が余って輸出しているのです。イギリスは自給率がほぼ100%です。日本だけが毎年減少しして現在は25%位まで下がっています。
このよ2つの図面が示すように先進国の中で日本だけが自給率が突出して低くなっているのです。それも毎年減少する傾向が止まらないのです。
その原因を、日本の農業と農協にだけ責任があると考えるのは間違いです。
むしろ日本の高度経済成長によって外国から美味しいものを際限もなく輸入し、食べつくすという文化を作った人々に責任があります。私自身も輸入食品を沢山買いますし、輸入食材を多量に使ったレストランなどで食事もします。
その外国産の食材を世界のはてから輸入しているのが大小さまざまな商社なのです。
輸入に必要なお金は日本の先進的な工業製品を輸出して稼いでいるのです。例えば昨年度のトヨタの自動車販売数が世界一になったと言います。トヨタだけでなくニッサンもホンダも利潤を上げています。
そして多数の日本の会社が、中国や東南アジアに工場や支社を作って利潤を上げ、その一部を日本へ送金しているのです。
一言でいえば日本の民間会社の経済活動がグローバル化して巨大な利潤をあげています。その利潤の増大にしたがって食料自給率が次第に下がって行くのです。
日本は戦後70年平和が続きました。ですから世界はいつまでも平和で、現在の食料の輸入も永久に続くと信じている人が多いのです。
しかし「この世の全ては必ず変化します」というお釈迦さまのこの言葉は永遠に正しいと信じています。
現在のような食料自給率を何とかして増大するにはどうすれば良いのでしょうか?
それは非常に難問です。解答はありません。
しかし砂上の楼閣のような日本の繁栄を時々真剣に考えることは健全な精神文化を創る為に非常に重要なことと私は信じています。
楽観も悲観もない静かで健全な精神文化が続くようにお祈りしながら美しい富士山の写真を2枚お送りして終わりとします。富士山の写真の出典は、http://fotopus.com/fuji/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



===参考資料===============
日本の食料自給に関して:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E6%96%99%E8%87%AA%E7%B5%A6%E7%8E%87
日本の食料自給率
日本の食料自給率 1965年73% - 2010年39%
日本は世界最大の食糧輸入国であり、2008年財務省貿易統計によると、食糧輸入額は約5兆6000億円で世界全体の10%を占めている[7]。
日本の食糧自給率は、カロリーベース総合食料自給率で39%(2010年度)、生産額ベース総合食料自給率では69%となっている。
農林水産省の試算では日本の2010年の品目別自給率は:
• 穀類 27%、(内訳:食用穀物 59%、粗粒穀物 1%)
• いも類 75%
• 豆類 8%
• 野菜類 81%
• 果実類 38%
• 肉類 56% (飼料作物の自給率は約25%である[10]。)
• 卵類 96% (同上。)
• 牛乳・乳製品 67% (同上。)
• 魚介類 54%
• 砂糖類 26%
• 油脂類 13%
2010年度の米、麦、とうもろこし等の穀類の日本国内の総需要(仕向量)は、3476万トンで国内生産は932万トン(総需要の27%)であった。総需要 3476万トンの内訳は飼料用1516万トン(44%)、加工用514万トン(15%)、純食料1196万トン(34%)となっている。
2010年度の大豆など豆類では総需要404万トンに対し国内生産32万トン(8%)で、需要の内訳は飼料用12万トン(3%)、加工用270万トン(67%)、純食料108万トン(27%)となっていた。
魚介類の総合自給率は54%と報告されているが、2010年度の国産漁獲は531万トンでその内訳は沿岸漁業129万トン、沖合漁業236万トン、遠洋漁業48万トン、海面養殖111万トン、内水面漁業8万トンとなっており、自給率の1割弱は遠洋漁業によるものである。食用魚介類のみでは自給率は若干高く2010年度は62%であった。2011年度の国産漁獲量は東日本大震災の影響もあり2010年度比で約1割減となった。
畜産物(肉類・卵類・牛乳・乳製品等)の自給率が高くなっているが、必要とする飼料用の穀類は4分の3は輸入に頼っており、輸入飼料による飼育分を輸入畜産物と見なすと、畜産物の自給率は16%(2010年度)である。
各都道府県の食料自給率(カロリーベース)では、100%を超える都道府県は北海道と青森県、岩手県、秋田県、山形県のみである。北海道は192%と全国一の値を誇る。一方、一番低い東京都は、約1%となる。
また、穀物自給率は28%となっている。これは、173カ国・地域中124番目(2002年時点)となっている。
日本国民の意識としては、7割の人が食料自給率を低いと感じている。

バードウオッチングの世界への憧れと、入門の為のHP

2015年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
バードウオッチングは長年のあいだ憧れています。森の中や湖畔で双眼鏡を持ち、大きなカメラを三脚につけて遠方の木々の枝や湖水の面に照準を合わせ根気よく鳥たちがたって来るのを待っているのです。声をたてると鳥が来ませんから、皆静かに自然たたずまいを観ています。空気の揺れ動きを感じるために呼吸もゆっくりしています。
その姿が美しいのです。自然を愛している姿を見ると自分の心まで豊かにんまります。ですから私は長いあいだバードウオッチングは高尚な趣味とし憧れています。
しかしとても敷居の高い趣味のようで気軽には手が出せません。
第一、何千とある鳥の名前を覚えなければなりません。その上、暑さ、寒さに負けずに野外へ出て根気よく野鳥を探さなければなりません。
そこで写真で野鳥を眺めてバードウオッチングの世界を楽しんでいます。よく見るHPは「日本野鳥の会」のHPです。そこかには何枚もの美しい野鳥の写真が整理して掲載されています。渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥などの区別も理解出来ます。
そして、そのような美しい写真はどのようにして撮るのでしょうか?
その実際的なヒントになるようなHPを見つけました。「森に届いた鳥だより」というHPで、「牛久とりの会」の会員の方の鳥の写真を撮った時の文章と写真が掲載されています。URLは、http://ubird.blog98.fc2.com/です。
写真を撮る時、どのような旅をして、どうすると野鳥の写真が撮れるかがかなり実際的に分かります。野鳥にご関心のある方へお薦めしたい野鳥の情報満載のHPです。この早春の季節に見られる鳥は次のように沢山あります。
例えば、2015/1/18(日)の午前 9:00~11:00時の牛久自然観察の森の 定例探鳥会の会員が見た鳥は以下のように報告されています。
カワウ、オオタカ、ハイタカ、ノスリ、キジバト、コゲラ、ヒバリ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、タヒバリ、ヒヨドリ、モズ、ジョウビタキ、シロハラ、ツグミ、エナガ、ヤマガラ、シジュウカラ、メジロ、ホオジロ、カシラダカ、アオジ、カワラヒワ、シメ、カケス、ハシボソガラス、ハシブトガラスの合計27種です。
下にこのHPから美しい鳥達の写真をお借りしてご紹介いたします。

上の写真はオオルリです。写真の出典:http://ubird.blog98.fc2.com/page-7.html です。

上の写真はブッポウソウです。 写真の出典は、http://ubird.blog98.fc2.com/page-6.html です。

上の写真はカナダカモメです。比較的脚が短い、風切羽の黒い色が若干薄い、風切羽の裏面が白い。この写真と以下2枚の写真の出典は、http://ubird.blog98.fc2.com/blog-date-201303.html です。

上の写真は冬鳥のシロハラ、ジョウビタキの姿です。

上の写真は、早春の空を舞うヒバリの姿です。
鳥たちの写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

戦場ジャーナリストの犠牲をいろいろな視点から考える(1)自己責任を公言すれば許されるのか?

2015年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
善人の湯川遥菜さんと魂の清らかな後藤健二さんが殺害されてからしばらく経過しました。世の中が静かになったところで少し基本的なことをいろいろな視点から考えてみたいと思います。
中東で過激派に殺された外国人ジャーナリストの総数は諸説ありますが2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロ以来少なくても数百人と言います。
国連に付属する非政府機関「Press Emblem Campaign(PEC)」が発表した報告書によれば、2012年に世界中で取材中亡くなったジャーナリストの数は、この機関が統計をとり始めてから最高の139人となったそうです。この139人のうち中東で犠牲になった数は2012年だけでは44人でした。日本人の犠牲者は総数でも数人だけの少数です。
この犠牲者のほとんどはフリージャーナリストでした。テレビ局や新聞社の社員ではありませんでした。ですから自己責任で危険な戦場へ入って行ったのです。
後藤さんもシリアへ入る前に「自己責任で入るのだから誰にも責任が無い。自分が殺されてもシリア人に責任が無い。」と公言して行ってしまったのです。外務省が3度、後藤さんを説得してシリア入りを止めたそうです。
しかし自己責任を公言しても彼の死は日本政府関係者に多大の迷惑をかけたうえで、国民の税金を使わせたのです。
欧米では自己責任は自明なことですから政府は必要最小限度のことしかしません。日本政府は感情的な世論を恐れ充分に対応したのです。
ここで考え方が分かれます。
(1)自己責任ですから救出に関しては政府は一切関知すべきではない。放っておくべきである。家族だけが対応すべきである。
(2)人質になった人が日本人であるなら、政府はあらゆる手段を用いて救出に努力すべきである。国民の税金も必要な限り使うべし。
(3)人質の人命は大切だが日本の重要な同盟国、特にアメリカとの関係を悪くしないように、その他の国際関係を重視しながら、教出はほどほどに努力する。
国民感情は上記の(1)と(2)の間で揺れ動いていました。どちらも正しく、どちらか一方を選択することは困難な問題です。
さて感情論を抜きにして日本をとりまく国際関係を考えると、上記の(3)が問題になってきます。
安倍総理大臣のアメリカ重視の姿勢がヨルダンに救出本部を置いたと書けば言い過ぎでしょうか。今回の悲劇が自衛隊の海外活動を容易にしたと書けば間違いでしょうか?
それにしても大きな事件はいろいろな視点から考えるのが重要だと信じています。
皆様のご意見を頂けたら嬉しく思います。
戦場で犠牲になったジャーナリストの冥福を祈ってユリの花を手向けます。(続く)







早春の花々の写真を見ながら春到来を待つ

2015年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
「季節の花」という楽しいHPを見つけました。
そのアドレスは、http://www.hana300.com/aasyasin03.html です。
このHPから早春の花々の写真を5枚お送りいたします。
一番目の写真から順々に、クロッカス、梅、ウチワノキ、ジンチョウゲ、カタクリの花々です。
花々の写真を見ているとこれらの花は縄文時代から山野に咲いていたのか調べてみようと思いました。縄文時代は無理ですが文字の使われ始めた奈良、平安時代からの日本に咲いていた花の一覧表がありました。
http://nihon-rekishi.com/hana/index.html から転載致します。
1、桜
農業開始の指標とされた。
2、躑躅・皐月
「万葉集」でも詠まれるなど、とても長い栽培の歴史を持つ。江戸時代に栽培が大流行し、多くの園芸品種が生まれました。
3、藤
日本最古の歴史書「古事記(712年)」にもその名が登場しているため、かなり古くから親しまれてたようです。
室町将軍・足利義詮や太閤・豊臣秀吉も観藤会を催したことが知られています。江戸時代までは藤から取った繊維を使った「藤衣」と呼ばれる仕事着が作られていました。日本で植物分類学が確立する前は、野田藤(ノダフジ)と呼ばれていました。
4、薔薇
その容姿から外来種と思われがちですが、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシなどの立派な日本固有種もあります。
「万葉集」のも名前が出てきています。
現代のように「花の女王」として親しまれるのは明治時代になってからでした。
5、睡蓮
ヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生。
6、花菖蒲
平安時代から栽培されており、特に江戸時代に江戸系、肥後系、伊勢系、長井古種など多くの園芸品種が生まれました。
7、紫陽花
「万葉集(759年)」などにも名前が出てくる事から、長らく親しまれてきたようです。
8、百合
国内には15種類の固有種が自生しており、「古事記」にも『神武天皇が百合の花を摘んでいる娘に惚れて嫁にした』という記述があります。
江戸時代に観賞用としても多くが栽培されるようになりました。
8、萩
「秋の七草」の一つで古くから親しまれてきました。「万葉集」で最もよく読まれる花です。
9、山茶花
「冬の華」として各地に伝播し、幾度か盛衰を繰り返しながら今日に受けつがれています。
http://www.flower-photo.info/products/detail.php…
10、椿
「古事記」にも名前が出てきます。赤く山茶花によく似た花を冬から春に咲かせます。
花弁が散らず、花が丸ごとボトッと落ち、その姿が人の生首を連想させる事から、見舞いの贈り物にはタブーとされます。
11、薄
かつては「尾花」と呼ばれ「万葉集」でもその名が詠まれています。茅葺屋根の材料や家畜の餌として古くから利用されてきました。
「秋の七草」の一つ。
さて、人々と花の関係についても以下のような説明がありました。
日本では古来よりお墓に花を供えたり、花を愛でる習慣がありました。
し・・・中略・・・・・
「源氏物語」によると男女が愛の告白を行う際に花を贈るなどの習慣があるようですので、平安時代ごろに一般の人々も花と接するようになったと思われます。
生け花を追求した「華道」は室町時代に広まりました。・・・
そして人々は山や野に咲く花々を見て楽しんだに違いありません。
ところで写真にあるジンチョウゲ(沈丁花)は、常緑低木で、漢名は瑞香、別名輪丁花です。 原産地は中国南部で、日本では室町時代頃にはすでに栽培されていたと言われています。
そして団扇の木(ウチワノキ)は、朝鮮半島の中北部が原産です。わが国へは昭和時代のはじめに渡来しました。葉は卵形で、先端が尖り対生します。3月から4月ごろ、葉の展開する前に白色または淡い紅色の「れんぎょう」に似た花を咲かせます。名前は、果のかたちが扁平な円形で、これを団扇に喩えたもの。別名で「しろれんぎょう(白連翹)」とも呼ばれます。
このように花々が日本へ移り住んだ歴史を調べると興味がつきません。花々は静かに日本へやって来ます。そして奥ゆかしく咲いています。想像しただけで楽しいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











竹内義信著、「海拉爾の思い出」・・・明るく広がるホロンバイル平原の町、ハイラル

2015年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

(ハイラル平原の丘陵地帯:http://55075507.at.webry.info/201101/article_11.html)
戦後、満州のことを悪く言う人が多かったものです。そこに住んでいた日本人まで悪人のように非難する人もいました。しかしそれはあまりにも一方的なものの見方です。歴史はいろいろな視点から考えるのが重要だと私は信じています。
私の大学時代の友人の竹内義信さんは小学校時代に満州の辺境のハイラルという町に住んでいました。父上がそこの日本人の為の女学校の先生だったので、家族とともにで住んでいたのです。
そこで竹内さんへ、そのハイラルでの生活の様子を書いて下さいとお願いしました。以下はそれにこたえてお送り頂いた「海拉爾の思い出」です。ご一読して頂き、ご感想を頂ければ感謝いたします。
======竹内義信著、「海拉爾の思い出」========
海拉爾はハイラルと読みます。私は海拉爾には昭和17年6月に行きました。その年に設立された海拉爾高等女学校に赴任した父に連れられて家族と共に引っ越したのです。
私は生後二か月で内地から渡満しました。そしてはじめは朝鮮との国境に近い図們の国民学校に入学しました。その学校から転校してハイラルの学校へ行ったのです。
私にとっては満洲と言えば、戦時中とは思われない平和で楽しい生活を送った海拉爾がやはり忘れられないのです。海拉爾には楽しい思い出が沢山あります。
その楽しい生活は昭和20年8月9日のソ連の侵攻で崩れたのです。
その楽しいハイラルでの生活は小学4年生夏までの三年二か月間でした。
戦後70年の今年、思い出すのは辛かった難民生活や引揚の苦労よりもこの三年二か月の海拉爾での生活が楽しく思い出されるのです。そこで楽しかった海拉爾の思い出を書いてみようと思います。
海拉爾という町は何処にあるのでしょうか?
東の図們から西の辺境の海拉爾までは直線でも1,000キロ以上、鉄道では1、500キロもあります。
子供心にも遠くに来たなと思いました。当時の濱洲線を更に西に向かって210キロ行くと国境の町、満洲里があります。逆
に東に戻ると100キロも行かないうちに大興安嶺に達します。
大興安嶺の西側に広がる北海道の面積の三倍もあると言う有名なホロンバイル草原の中心が海拉爾という街なのです。
街の中心を南から北へ伊敏(イビン)河が流れ、北の町外れで西に流れる海拉爾河と直角に合流します。
釣りの楽しみを覚えた伊敏河
伊敏河は私の釣り場で、ソ連侵攻の前日も学校から帰ってカバンを放り出して、釣り竿と空き缶にマッチ一箱を持って出掛けました。伊敏河の東側は黒土で農場がありましたが、私達の住んでいた西側は砂地で餌にするミミズはおらず、小さなマッチ一箱を現地の人に上げると、20匹ほどのミミズと交換してくれるのです。
ハヤの様な魚が面白いように釣れ、殆んど毎日釣って帰り翌日の弁当のおかずにして貰いました。この心をおどらせた釣りはソ連侵攻の日は出来ませんでした。早朝から空襲があり弁当どころではありませんでした。
海拉爾で住んだ家の構造と柳絮(りゅうじょ)の思い出
釣りのことはさておき、海拉爾で最初に住んだ住宅は新設の女学校に隣接した敷地に急遽建設された日干しレンガの土の家でした。夏は涼しく、冬は暖かくて快適だったのですが、如何せん雨に弱く、二年生の夏に家族で朝食を食べている時、父が突然立ち上がって、柱時計を抱えました。その時です。壁が崩れてポッカリ穴が空きました。
銀行の支店長の佐々木さんのお宅に一週間位お世話になり、教員官舎に入居しました。官舎の前は忠霊塔広場でその西側に白亜の立方体の忠霊塔があり、師団の兵隊さんが隊列を組んで参拝するのを見かけました。
平成9年にこの国民学校の同窓会で海拉爾を訪問した時、勿論忠霊塔はありませんでしたが、そこには三階の海拉爾市役所が堂々と建てられていました。日本の為に名誉の戦死を遂げられた英霊には申し訳なく思いましたが、それが歴史なのです。中国は見事に仕返しをした訳です。
海拉爾に移ったのは6月でしたので、柳絮(りゅうじょ)の季節だったと思われます。ドロヤナギからフワフワと飛ぶ柳絮は地面に落ちて道路の端の吹き寄せられて、一面が真っ白になっていました。
女学校の前の同化街にもドロヤナギが生えており盛んに柳絮を飛ばしていました。先に述べた同窓会の海拉爾訪問の時に、昔、女学校に在学した阿爾滕掛(日本名青山英子)さんと昔の同化街(現在の文化街)へ行きました。昔は女学校のあったあたりに大きなドロヤナギの木があり、彼女に聞くと昔あったドロヤナギに違いないと言います。50年以上ぶりの再会?でした。とても嬉しく思いました。
海拉爾のあれこれ
最初に住んだ土の家から南に少し行くと海拉爾神社の鳥居の前に出ました。鳥居から社殿までの境内は所々に草の生えた砂地でした。此処は私にとっての茸狩りの場所でした。2,3センチの褐色のマッシュルームが生えていました。だんだん目が慣れて来ると砂が少し盛り上がって割れ目が出来ているのを見付け、その下にはまだ開かない茸を見付けることが出来ました。最初は恐る恐る食べてみましたが、これが美味しいのです。神社の境内を歩く時は砂が盛り上がって割り目はないかと探していました。
海拉爾はいろいろ珍しいことばかりでした。朝鮮人の多かった図們と違って蒙古人とロシア人が目に着きました。
ロシア人は殆んど牛を飼っていて、ビール瓶か一升瓶を持って新鮮な牛乳を買いに行きました。
蒙古人も珍しかったと思います。蒙古人が馬に乗って街にやって来ました。竹竿のような長い木の棒を持っており、棒の先には革紐の輪が付いており家畜の首に引っ掛けるようでした。
日曜日には日本人家族で集まって南屯の方へトラックでピクニックに出掛けました。帰りに車の冷却液が足りなくなり蒙古人のパオに行ったら、水は上げられないけど代わりに牛乳を上げようと言います。仕方なく牛乳をラジエーターに入れ冷却液がわりにして無事帰り着いたことがありました。
毎朝早く牛の群れが砂山を目指して道一杯に移動しました。そして不思議な事に夕方になるとまた群れで帰って来て、それぞれの牛舎に帰ります。
砂山と言っても砂漠ではありません。赤松が生えており、また草も生えております。所々には沼もありました。
日本から赴任したばかりの先生が砂地に松が生えているのでその先に海があると思い、いくら行っても海がないから戻って来たと言う話もありました。
通学は忠霊塔広場の北側にある官舎を出て海拉爾神社の方へ砂山を左に見ながら女学校の前を通って西二道街を左折して学校へ向かいました。
神社に向かう砂山には大きな蒙古犬がたむろしていましたが、幸い襲われることはありませんでした。でもそれは通学の緊張の一瞬でした。
校舎はL字型で中側の校庭は運動場でした。校庭の西側が砂山に面していて、高さ15メートル位の砂の斜面があり、小型の鳥取砂丘でした。斜面の上は平らな砂地になっており、赤松が所々に生えておりました。
初夏にはいろいろな花が咲きました。やはり黄色いケシの花がきれいでした。
学校からさほど遠くない砂地は楽しい遊び場でした。戦場だったのか演習場だったのか小銃の弾が簡単に拾えました。墓地でないのに黒塗りの立派なお棺が捨ててあり怖々見に行きました。
厳寒の冬の遊びと生活
その砂山は冬が楽しかったのです。何しろ零下40度まで下がりますので、校庭にはスケートリンクが作られました。砂山が楽しかったのは橇遊びです。リンゴ箱を改造した手製の橇には荷づくりの鉄帯を下に張って砂山に積った雪の上を滑り下りました。橇の先に舵を付けるのが流行って上手く行くと上手に方向を変えられるので、操縦桿よろしく腹這いにになって橇で滑降ました。その爽快感は今でも忘れられませんが、よくぞ零下30度の厳寒の中を遊んだものです。
 雪は降っても30センチは越えませんでした。気温が低く完全なパウダースノウで風に吹かれて漂っていました。真冬は溶けることはなく昇華してなくなります。
神秘的で美しいダイヤモンドダストも見られました。こんな厳寒でも前述の赤松は松葉を散らすこともなく、緑を保っていました。赤松と書きましたが、植物学上は日本の赤松とは違う亜属に属するヨーロッパ赤松の仲間で樟子松と呼ばれますがこの松については章を改めてお話します。
 こんな厳寒の地で生活出来たのも、暖房、衣類、食物が寒さを防げるものだったからでしょう。官舎はレンガ作り(最初の土の家の日干しレンガではなく)でした。壁ペチカになっていて家の中はシャツ姿でも大丈夫でした。外へ出る時は大変です。厚着をしてシューバと呼ばれる毛皮のオーバーを着て、靴はカートンキと呼ばれるフェルトの長靴でした。新しいカートンキなら裸足でも平気で雪の上を歩ける優れ物でした。着ぶくれていましたから転んだら一人では起き上がれないくらいで、毎朝家を出る時に転ばないように注意を受けました。
海拉爾での少し変わった食生活
バター、チーズとカルパスを食べました。佐々木さんのお宅に遊びに行くとお茶の時間にはお菓子の他にバター、チーズにカルパスが大きな皿に出されました。カルパスと言うのはソーセイジです。可なり堅く薄切りの断面には白い脂肪と胡椒の切る口がポツポツとありました。長じてイタリアでトスカーナ地方のサラミソーセイジ(サラメトスカーナ)に出会った時、これが起源だと思いました。
 チーズはゴーダチーズに近いもので赤いパラフィンに包まれたボール型のものでした。子供の時からチーズを食べておりましたから、カルシウムも多いことから体づくりには役立ちましたし、米国やヨーロッパに行っても好物ではあっても全く毛嫌いすることはなく、むしろ色々なチーズを楽しむ下地が出来ていたと思います。
 戦時中でも食べるものには不自由はしませんでしたが、流石に昭和20年の春からはバターが配給制になりました。その頃でしょうか、卵かけご飯の代わりにバター御飯の味を覚えましたが、偏食になるからと注意されました。(終わり)
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後記:一昨日、竹内さんからいろいろ話を聞きました。最後に満州のことをどのように考えればよいのですかと聞きました。彼は迷わず、「よその国に行って勝手に満州を作るのは悪い」と言いました。それだけの話ですが付記しておきます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

ハイラル平原の夕焼け:https://www.flickr.com/photos/26245162@N05/2464275097/?rb=1

ハイラル平原の川:https://www.flickr.com/photos/26245162@N05/2464275097/?rb=1

現在のハイラルの街:http://www.chinaguide21.com/chinaphoto/zpnm/zpnm_07a.jpg

満蒙開拓団8万柱の鎮魂の雑木林

2015年02月15日 | 写真
都立桜が丘公園には満蒙開拓団の8万人の犠牲者の鎮魂の碑があります。
満州に居た日本人155万人のうち24万人が亡くなりました。そのなかに開拓団の8万人が含まれていたそうです。
開拓団の死者への国からの補償も無きにひとしく、ただ日本の無謀な戦争の犠牲になったのです。私はその歴史を忘れないように時々訪れて大陸の土になった方々の冥福を祈ります。
今日も行きましたら、周囲の冬木立が美しいシルエット見せています。そしてその梢を吹く風の音が鎮魂曲のように聞こえたのです。そんな光景の写真をお送りいたします。合掌。











ブラジルのカーニバルに青森のたちねぷた参加・・ 山車とダンサー共演

2015年02月15日 | 写真

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H3G_U5A210C1CR8000/ より転載しました。
【サンパウロ=宮本英威】ブラジルの最大都市サンパウロで13日夜(日本時間14日午前)、カーニバルが開幕した。サンバチームのパレードに、青森県五所川原市の「立佞武多(たちねぷた)」の山車が登場。東日本大震災からの復興を祈願して作られた高さ約15メートルの山車がサンバダンサーと共演し、観客を魅了した。
 今年は日本とブラジルが外交関係を樹立して120年。サンバチーム「アギアジオウロ」は日本をテーマに選び、五所川原市が「日本の復興支援への御礼を伝えたい」(平山誠敏市長)とねぷたの参加で協力した。
 日系人や日本人650人が参加。ねぷたを制作した福士裕朗さん(33)は「すごい歓声と拍手に感激した。お祭りの雰囲気は青森と似ていた」と感慨深げに話した。
写真は、ブラジル・サンパウロのカーニバルに登場した青森県五所川原市の立佞武多の人形灯籠(14日)です。

リオのカーニバル、灰の水曜日、四旬節、復活祭の意味とお互いの関係

2015年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、2月になると南米のリオのカーニバル風景がマスコミの話題になります。そしてその風景は2月の風物詩のように日本人の持っているイメージの一つになっています。
しかし多くの人はそれがキリスト教の祭りだということを知りません。しかしキリスト教のカトリック教徒にとってはカーニバル(謝肉祭)、灰の水水曜日、四旬節、復活祭という一連の宗教行事の幕開けとしていろいろなことを考えさせるのです。
今回の記事の目的はこれらの宗教的な行事の意味とお互いの関係を簡略に説明しようとするものです。
その前にカーニバルの風景写真をご覧ください。
一番目から三番目までの3枚の写真は南米のリオのカーニバルの写真です。四番目の写真はイタリアのヴィネチアのカーニバルの仮装の写真です。5番目の写真は日本の小平市の花小金井のサンバ祭りの写真です。写真の出典は、http://www.jiji.com/jc/d4?p=smb005&d=d4_int です。









さて復活際とその前の宗教行事の意味をご説明いたします。
イエス・キリストは、ローマ提督、ピラトによって十字架刑にされました。2000年程前の出来ごとです。しかし3日後に復活して生き返りました。そして弟子達と会い、話をして、天国へ登り、神の右の座に着きました。
このイエス様の復活を祝うのが復活祭です。春先の大きなお祭りです。今年は4月5日(日曜日)です。その前の40日間が四旬節として歌舞音楽を控え、断食や節食をしてイエス様の処刑を悼みます。カトリック圏では騒がしい音楽やお笑いがテレビやラジオから消えます。静かな番組になります。禁欲的な生活を送る40日間なのです。
その四旬節の始めの日が、「灰の水曜日」です。灰の水曜日とはその日に神父さまが信者一人、一人の頭に灰をつけてくれるのです。この世の全てのものは土から生まれ、土へ還るということを忘れないように信者の頭に灰をつけるのです。今年は2月18日の水曜日です。
そしてこの日から禁欲の40日(四旬節)が始まります。
この禁欲的な40日間の前に大いに肉を食べ、ワインを飲み、バカ騒ぎをして断食や節食の期間へ突入する準備をします。それがカーニバル、あるいは謝肉祭と呼ばれるお祭りなのです。
ですからこの飽食の馬鹿騒ぎは「灰の水曜日」の前日にピタリと止めます。大規模なリオのカーニバルも2月17日にピタリと止め、世の中は水を打ったように静謐になります。
この謝肉祭が行われるのはカトリックの国々です。特にスペインやポルトガルの植民地だった南米では大きなお祭りとして毎年行われます。
しかし、よくよく考えてみるとイエス様は飽食や、欲望のままに酒を飲むのを喜ぶでしょうか?「汝、肉慾に生きるな」と教えました。ですから馬鹿騒ぎのカーニバルはキリスト教とは関係の無いお祭りだと私個人は理解しています。
けれどもカーニバルは地球上のすべての生物は土から生まれて、土に帰る灰の水曜日の意味を強調してくれます。
「灰の水曜日」はカトリックの重要な儀式で、今年は2月18日です。今年はこの日から復活祭の四旬節が始まります。
なお今年の灰の水曜日 、枝の主日 、主の晩餐、 主の受難、 復活Eve、 復活祭 、はそれぞれ、 2月18日、 3月29日、 4月2日、 4月3日、 4月4日 、4月5日となります。
復活祭(イースター、復活の主日)は、キリストの復活を記念する、キリスト教では非常に重要な記念日です。
さて話は変わりますが現在日本の各地で「サンバ・カーニバル祭り」というものが開催されています。これは1981年に始まった浅草サンバカーニバルが各地に広がったものです。
上の写真の5番目の写真はその一つの例です。
しかし日本のサンバ祭りは夏祭りなので灰の水曜日や復活祭とは関係がありません。
しかし日本に定着しているクリスマスと同じようにキリスト教を思い出して頂ければ、それも良いと信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の午後、大学時代の友人の竹内義信さんにお会いし、かつての満州国のハイラルという町に関するお話をいろいろお聞きしました。
その中に細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』という本の話が出て来ました。
満州国の官吏になったモンゴル人の悲劇的な一生を描いた本だそうです。
帰宅後、早速を内容を調べましたら、熊本日日新聞の2007年7月3日に阿部重夫さんという方が書評を書いて、本のあらすじも紹介してありました。
人間の生涯とはどういうものかと深く考えさせる内容なので、阿部重夫さんの書評を抜粋して以下にお送りいたします。
なお全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.htmlに出ています。
・・・・・・タイトルを見ただけでつい手に取った。が、よくある敗走記でも抑留手記でもない。満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれたモンゴル人、ソヨルジャブの信じ難いような波瀾の生涯である。
昭和20年(1945年)8月9日未明、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員だった彼は、突如飛来したソ連軍機の空襲に遭った。数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学した。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転した。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ(一期上には『生き急ぐ』の故内村剛介がいた)経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
同じ運命をたどったモンゴル人に、戦前「徳王」と呼ばれたドムチョクドンロブがいる。内モンゴルで諸侯を集めて会議を開き、自治を求めて蒋介石軍と戦った。のち日本軍の協力で蒙古連合自治政府を樹立した。汪兆銘の「内モンゴル版」とも言えたが、日本敗戦後も逃げず、49年に最後の決起を試みる。
が、衆寡敵せず、外モンゴルに逃れた。ウランバートルでは監獄が待っていた。7カ月の訊問を受けたのち中国へ送還、北京の監獄に幽閉され13年後に獄死している。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこに9年半――。65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない……。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に協力した人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。彼に比べれば、わが叔父はまだしも幸運だったかもしれないが、どんな人生も比較できない。
ソヨルジャブは存命らしい。名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校した。いまはフフホトで暮らす。この本は自伝ではなく、日本の元出版人がフリーランスで書いた労作だ。筆力があって読みやすいが、物語仕立てより史書で読みたかった。どこまでが聞き書きで、資料のどこを参照したかの注がほしい。
ソヨルジャブの背後には、黙したまま去った無数の死者がいる。わが叔父もわが父母ももう世にない。
風吹草低見牛羊――。(終わり)
下の写真はソヨルジャブの生まれたハイラル近辺の風景です。


馬酔木、福寿草、金縷梅、白梅、紅梅がそれぞれ静かに咲いていました

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から快晴です。午前中に神代植物公園へ家内と散歩に行きました。
アシビ、フクジュソウ、マンサク、白梅、紅梅がそれぞれ静かに花開いていました。
季節が巡ると花々は自然に咲き出すのです。早春の空のひんやりとした空気の中でそれそれぞれがひっそりと咲いていました。























日本の農業と農協の問題を考える(1)農協と農家の関係のいろいろ

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「安倍総理の農協改革は農民の貧富の差を拡大し、農業を破壊する」 と題する記事を書きました。
農協は農家の米や野菜の生産を助ける有難い存在だったのですが、現在はどうもそうではないようです。
そうしたらFace Bookの会員の方から以下のようなコメントを頂きました。
(1)松尾 清司さんのご意見:
うちは貧乏農家です。真っ先に抹殺され、死に至らしめられるかもしれません!利益を得るのは政治家でしょう。国民のための政治をしなければいけないのに、貧乏農家をどんどん切り捨てていいのでしょうか。これらは月に数十万以上もいただいているサラリーマンには理解のできないところでしょうね。皆さん、少し貧乏暮らししてみませんか?
上のご意見に対して、大澤 善信 さんからのご意見:農協がしっかりと農業に取り組み、そういう農家を支援している地域と、もう全く金融機関になってしまっているようなところと。
(2)山下時義さんからのご意見:
後藤和弘さん色々考え方は異なりますが、今の農業制度が日本農業を弱体化させたと考えています。農協改革大賛成です!私や親戚も農業生産法人を立ち上げ頑張っていますが、TPPをチャンスと考え前向きに頑張って行こうと思っています。
(3)Sumio Mishima さんからのご意見:
カミさんの実家がある村落の米作り(地主15~20軒程度)は地元の農業専業者を中心にして会社化しています。後継者が農業をしなくなっていますが農業用地を売ろうとしません(カミさんも含めて)。作業員は農地を貸している人が日当を貰って作業をしています。機械は会社のを使用しますから個々に持つより経費は掛かりません。しかし会社化しても補助金が売り上げの40%もあります。つまり小規模の会社(小村落)では補助金で経営が成り立っています。常時若い人を雇えるような会社経営でないと農業を継ぐ人がいなくなります。
流通に乗る農業製品は外国から輸入すればいいという考えもがありますが?補助金は税金ですが、税金で皆さんが食べる国産の農業製品は安くなっている事になります。農業を大型化しても外国産の単価に勝てないと思います。しかし、これからは単価が高くても安全で高品質で定期的に流通できる生産をしないと生き残れません(つまり優秀な会社化)。国産の農業製品を守ろうとすれば後継者を育てないと日本の農業は壊滅です。カミさんの地域は作業員が高齢化しているので、他所から若い作業員を連れてこられたら継続できますが?
・・・その他にも多数のご意見を頂きました。そこで判ったことは現在、日本の農業はいろいろな意味で揺れ動いているということです。
その上、農協がJAバンクとして巨大な資産を有し各種の金融業を展開し非常に大きな利潤を挙げています。農家の生産の援助を忘れて金融業に邁進しています。
( 週刊朝日 2015年2月6日、詳しくは(http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-559.html)をご覧下さい。
この一方で消費者につながる商社は世界中から美味しい食品を輸入しています。
そこで今日から「日本の農業と農協の問題を考える」という連載を始めようと思います。いろいろなご意見を頂けたら感謝します。どうぞ違った視点からのご指摘をお願い申し上げます。
今日の写真はどこにでもある何気ない日本の農村風景です。
3枚の写真の出典は、http://www.kabegamikan.com/htm/です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(3)イタリアの地域主義

2015年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事は2013年10月5日に掲載した記事です。最近、著者の竹内義信さんがまた面白い連載記事の原稿を送ってくれました。近日中にその連載を始めたいと存じます。
そこで著者の竹内義信さんを皆様へご紹介するためにこの記事を再びお送りすることにしました。私どもの知らないイタリア文化の特徴が書いてありますので面白いと思います。
なお、「イタリアの魅力とその混沌」(1)は9月30日に掲載し最終回の(5)は10月7日に掲載してあります。
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一頃、北部同盟(Lega Nord)という政党がありました。北イタリアの人達はなんで北の俺達が稼いだものをドブ(溝)に捨てるように南に使うのは馬鹿げている。北で稼いだものは北で使わせて貰おうというのがこのLega Nordです。2006年の9月15日にLega NordはヴェニスでおごそかにPadagna共和国の独立を宣言しました。Padagna(パダニア)というのはPo河流域という意味です。
Po河流域は映画「苦い米」で有名になった豊かな米作地帯であり、私どもの会社のTMI(帝人マンテロ工業;ポリエステル繊維後加工会社)のあったVercelli工場は田んぼの真っ只中にありました。米ばかりでなく小麦などの穀倉地帯でもあり、酪農も盛んです。
また北イタリアは各種の製造業が栄えています。FIATやOlivettiで有名なトリノ、ミラノ、ボローニアの工業地帯,良港をもつジェノヴァの工業、またヴェネチアの近くの石油化学コンビナートのメストレなどがあり、もし北イタリアが独立したら、ドイツやスイスより一人当たりの国民所得の高い国が出現し、英国やフランスに取っては脅威になります。
帝人が技術援助したモンテフィブレのAcerra工場はナポリの郊外ですから、ミラノに住んでいた私にはAcerra付近の貧しさを目の当たりにして、南北格差というものを身をもって実感しました。Acerra工場がニンニク畑と羊の放牧地の跡であることはモンテプロジェクトのところで説明済みです。
ドイツも東西が統一されて西が東を今でも担がなければならないように、イタリアは宿命的に北が南の面倒を見続けなければなりません。前述のように、イタリアは都市国家の寄せ集めなのですから、どうしても地域主義になります。イタリア人は自分の出身地を誇りに思い大切にしています。イタリア人である前に、シチリア人であり、ヴェネチア人であり、またボローニア人なのです。北部同盟は政党レベルが堂々と行った独立運動ですが、シチリアの独立運動とか、Friuli(ヴェネチアの北部)の独立運動とかが有名です。
ここではFriuliの独立運動について説明します。第二次世界大戦後、オーストリアがナチスドイツから分離独立した時、Friuliではオーストリアへの復帰運動がありました。この地域はオーストリアと接しており、ハプスブルグ家の領地だったのですが第一次世界大戦の後、イタリアがオーストリアから分捕った地域なのです。従って、ここの住人はオーストリア人で、背が高く、勤勉で生活水準も高いのです。しかし、イタリアでは南部振興のために北部でも税金が高いので不満がある訳です。第二次世界大戦後、何年かゴチャゴチャやっているうちに、Friuliの人達はオーストリア復帰運動を止めてしまいました。何故でしょう、イタリアでは彼等は高所得層に属するのです。しかし、オーストリアに帰って下手をすると低所得層に落ちるかも知れないから、それならイタリアで威張っていた方がいいということになりました。
もう一つ別の例では、ピサの20Kmほど南にあるLivornoという港町の話です。中世時代ピサは四大海運都市国家(他の三つは、ヴェネチア、ジェノヴァとAmalfi)の一つでした。直線距離で50Kmのフィレンツェとは頻繁に戦争をしていました。フィレンツェのメデイチ家は各地と貿易をやっていましたから港が欲しいのですが、一番近くの海岸にあるピサは使えませんから、ピサの領土を避けて、廊下のような道をLivornoまで作って、Livorno港から交易をやっていました。でも、ピサの目と鼻の先では宿敵のフィレンツェのメデイチ家がお金儲けをやっているのを黙って見逃す筈がありません。当然ピサはLivornoを襲撃します。そのためメデイチ家ではLivornoには前科者やならず者を住まわせました。現在でも、ピサとリヴォルノは仲が悪く、リヴォルノの人達は背筋をピンと伸ばしている人が多いと思います。西部開拓時代のフロンテイアの人達を思わせるものがあります。
もう一つ地域主義の典型的な実例を挙げましょう。ミラノ駐在員も2年くらい経った頃、モンテフィブレと帝人の会議の席でモンテ側が私に花を持たせようと、「竹内さん、ミラノの生活も2年になればイタリア料理の素晴らしさは分かるでしょう。」と水を向けてくれました。そこで私は胸を張って「イタリアの国境の外ではイタリア料理は食べないことにしています。」と答えました。モンテフィブレの人達はそうだ竹内もイタリア料理の良さ分かって来たなと皆で拍手をしてくれました。ところがです私の向かいの席に座っていたのが法規部長のRighiさんでポツリとしかも聞こえよがしに言いました「ボローニア以外ではイタリア料理は食べません。」と。彼のお祖父さんがボローニア大学の物理学の教授で、なんと無線通信のマルコーニを教えたという生粋のボローニアっ子です。ボローニアっ子の彼にとってイタリア料理はボローニア料理だけなのです。(続く)
下に北イタリアの風景写真をお送りいたします。この4枚のイタリア北部のガルダ湖の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E6%B9%96です。







竹内義信氏の略歴:1958年、東北大学、応用化学科卒業。1960年大学院を修了。総合化学会社の帝人の研究所に就職。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はイタリーのミラノに派遣され4年間在住しました。大会社の研究所にいる優秀な研究者がよくたどる経歴でした。