(ハイラル平原の丘陵地帯:http://55075507.at.webry.info/201101/article_11.html)
戦後、満州のことを悪く言う人が多かったものです。そこに住んでいた日本人まで悪人のように非難する人もいました。しかしそれはあまりにも一方的なものの見方です。歴史はいろいろな視点から考えるのが重要だと私は信じています。
私の大学時代の友人の竹内義信さんは小学校時代に満州の辺境のハイラルという町に住んでいました。父上がそこの日本人の為の女学校の先生だったので、家族とともにで住んでいたのです。
そこで竹内さんへ、そのハイラルでの生活の様子を書いて下さいとお願いしました。以下はそれにこたえてお送り頂いた「海拉爾の思い出」です。ご一読して頂き、ご感想を頂ければ感謝いたします。
======竹内義信著、「海拉爾の思い出」========
海拉爾はハイラルと読みます。私は海拉爾には昭和17年6月に行きました。その年に設立された海拉爾高等女学校に赴任した父に連れられて家族と共に引っ越したのです。
私は生後二か月で内地から渡満しました。そしてはじめは朝鮮との国境に近い図們の国民学校に入学しました。その学校から転校してハイラルの学校へ行ったのです。
私にとっては満洲と言えば、戦時中とは思われない平和で楽しい生活を送った海拉爾がやはり忘れられないのです。海拉爾には楽しい思い出が沢山あります。
その楽しい生活は昭和20年8月9日のソ連の侵攻で崩れたのです。
その楽しいハイラルでの生活は小学4年生夏までの三年二か月間でした。
戦後70年の今年、思い出すのは辛かった難民生活や引揚の苦労よりもこの三年二か月の海拉爾での生活が楽しく思い出されるのです。そこで楽しかった海拉爾の思い出を書いてみようと思います。
海拉爾という町は何処にあるのでしょうか?
東の図們から西の辺境の海拉爾までは直線でも1,000キロ以上、鉄道では1、500キロもあります。
子供心にも遠くに来たなと思いました。当時の濱洲線を更に西に向かって210キロ行くと国境の町、満洲里があります。逆
に東に戻ると100キロも行かないうちに大興安嶺に達します。
大興安嶺の西側に広がる北海道の面積の三倍もあると言う有名なホロンバイル草原の中心が海拉爾という街なのです。
街の中心を南から北へ伊敏(イビン)河が流れ、北の町外れで西に流れる海拉爾河と直角に合流します。
釣りの楽しみを覚えた伊敏河
伊敏河は私の釣り場で、ソ連侵攻の前日も学校から帰ってカバンを放り出して、釣り竿と空き缶にマッチ一箱を持って出掛けました。伊敏河の東側は黒土で農場がありましたが、私達の住んでいた西側は砂地で餌にするミミズはおらず、小さなマッチ一箱を現地の人に上げると、20匹ほどのミミズと交換してくれるのです。
ハヤの様な魚が面白いように釣れ、殆んど毎日釣って帰り翌日の弁当のおかずにして貰いました。この心をおどらせた釣りはソ連侵攻の日は出来ませんでした。早朝から空襲があり弁当どころではありませんでした。
海拉爾で住んだ家の構造と柳絮(りゅうじょ)の思い出
釣りのことはさておき、海拉爾で最初に住んだ住宅は新設の女学校に隣接した敷地に急遽建設された日干しレンガの土の家でした。夏は涼しく、冬は暖かくて快適だったのですが、如何せん雨に弱く、二年生の夏に家族で朝食を食べている時、父が突然立ち上がって、柱時計を抱えました。その時です。壁が崩れてポッカリ穴が空きました。
銀行の支店長の佐々木さんのお宅に一週間位お世話になり、教員官舎に入居しました。官舎の前は忠霊塔広場でその西側に白亜の立方体の忠霊塔があり、師団の兵隊さんが隊列を組んで参拝するのを見かけました。
平成9年にこの国民学校の同窓会で海拉爾を訪問した時、勿論忠霊塔はありませんでしたが、そこには三階の海拉爾市役所が堂々と建てられていました。日本の為に名誉の戦死を遂げられた英霊には申し訳なく思いましたが、それが歴史なのです。中国は見事に仕返しをした訳です。
海拉爾に移ったのは6月でしたので、柳絮(りゅうじょ)の季節だったと思われます。ドロヤナギからフワフワと飛ぶ柳絮は地面に落ちて道路の端の吹き寄せられて、一面が真っ白になっていました。
女学校の前の同化街にもドロヤナギが生えており盛んに柳絮を飛ばしていました。先に述べた同窓会の海拉爾訪問の時に、昔、女学校に在学した阿爾滕掛(日本名青山英子)さんと昔の同化街(現在の文化街)へ行きました。昔は女学校のあったあたりに大きなドロヤナギの木があり、彼女に聞くと昔あったドロヤナギに違いないと言います。50年以上ぶりの再会?でした。とても嬉しく思いました。
海拉爾のあれこれ
最初に住んだ土の家から南に少し行くと海拉爾神社の鳥居の前に出ました。鳥居から社殿までの境内は所々に草の生えた砂地でした。此処は私にとっての茸狩りの場所でした。2,3センチの褐色のマッシュルームが生えていました。だんだん目が慣れて来ると砂が少し盛り上がって割れ目が出来ているのを見付け、その下にはまだ開かない茸を見付けることが出来ました。最初は恐る恐る食べてみましたが、これが美味しいのです。神社の境内を歩く時は砂が盛り上がって割り目はないかと探していました。
海拉爾はいろいろ珍しいことばかりでした。朝鮮人の多かった図們と違って蒙古人とロシア人が目に着きました。
ロシア人は殆んど牛を飼っていて、ビール瓶か一升瓶を持って新鮮な牛乳を買いに行きました。
蒙古人も珍しかったと思います。蒙古人が馬に乗って街にやって来ました。竹竿のような長い木の棒を持っており、棒の先には革紐の輪が付いており家畜の首に引っ掛けるようでした。
日曜日には日本人家族で集まって南屯の方へトラックでピクニックに出掛けました。帰りに車の冷却液が足りなくなり蒙古人のパオに行ったら、水は上げられないけど代わりに牛乳を上げようと言います。仕方なく牛乳をラジエーターに入れ冷却液がわりにして無事帰り着いたことがありました。
毎朝早く牛の群れが砂山を目指して道一杯に移動しました。そして不思議な事に夕方になるとまた群れで帰って来て、それぞれの牛舎に帰ります。
砂山と言っても砂漠ではありません。赤松が生えており、また草も生えております。所々には沼もありました。
日本から赴任したばかりの先生が砂地に松が生えているのでその先に海があると思い、いくら行っても海がないから戻って来たと言う話もありました。
通学は忠霊塔広場の北側にある官舎を出て海拉爾神社の方へ砂山を左に見ながら女学校の前を通って西二道街を左折して学校へ向かいました。
神社に向かう砂山には大きな蒙古犬がたむろしていましたが、幸い襲われることはありませんでした。でもそれは通学の緊張の一瞬でした。
校舎はL字型で中側の校庭は運動場でした。校庭の西側が砂山に面していて、高さ15メートル位の砂の斜面があり、小型の鳥取砂丘でした。斜面の上は平らな砂地になっており、赤松が所々に生えておりました。
初夏にはいろいろな花が咲きました。やはり黄色いケシの花がきれいでした。
学校からさほど遠くない砂地は楽しい遊び場でした。戦場だったのか演習場だったのか小銃の弾が簡単に拾えました。墓地でないのに黒塗りの立派なお棺が捨ててあり怖々見に行きました。
厳寒の冬の遊びと生活
その砂山は冬が楽しかったのです。何しろ零下40度まで下がりますので、校庭にはスケートリンクが作られました。砂山が楽しかったのは橇遊びです。リンゴ箱を改造した手製の橇には荷づくりの鉄帯を下に張って砂山に積った雪の上を滑り下りました。橇の先に舵を付けるのが流行って上手く行くと上手に方向を変えられるので、操縦桿よろしく腹這いにになって橇で滑降ました。その爽快感は今でも忘れられませんが、よくぞ零下30度の厳寒の中を遊んだものです。
雪は降っても30センチは越えませんでした。気温が低く完全なパウダースノウで風に吹かれて漂っていました。真冬は溶けることはなく昇華してなくなります。
神秘的で美しいダイヤモンドダストも見られました。こんな厳寒でも前述の赤松は松葉を散らすこともなく、緑を保っていました。赤松と書きましたが、植物学上は日本の赤松とは違う亜属に属するヨーロッパ赤松の仲間で樟子松と呼ばれますがこの松については章を改めてお話します。
こんな厳寒の地で生活出来たのも、暖房、衣類、食物が寒さを防げるものだったからでしょう。官舎はレンガ作り(最初の土の家の日干しレンガではなく)でした。壁ペチカになっていて家の中はシャツ姿でも大丈夫でした。外へ出る時は大変です。厚着をしてシューバと呼ばれる毛皮のオーバーを着て、靴はカートンキと呼ばれるフェルトの長靴でした。新しいカートンキなら裸足でも平気で雪の上を歩ける優れ物でした。着ぶくれていましたから転んだら一人では起き上がれないくらいで、毎朝家を出る時に転ばないように注意を受けました。
海拉爾での少し変わった食生活
バター、チーズとカルパスを食べました。佐々木さんのお宅に遊びに行くとお茶の時間にはお菓子の他にバター、チーズにカルパスが大きな皿に出されました。カルパスと言うのはソーセイジです。可なり堅く薄切りの断面には白い脂肪と胡椒の切る口がポツポツとありました。長じてイタリアでトスカーナ地方のサラミソーセイジ(サラメトスカーナ)に出会った時、これが起源だと思いました。
チーズはゴーダチーズに近いもので赤いパラフィンに包まれたボール型のものでした。子供の時からチーズを食べておりましたから、カルシウムも多いことから体づくりには役立ちましたし、米国やヨーロッパに行っても好物ではあっても全く毛嫌いすることはなく、むしろ色々なチーズを楽しむ下地が出来ていたと思います。
戦時中でも食べるものには不自由はしませんでしたが、流石に昭和20年の春からはバターが配給制になりました。その頃でしょうか、卵かけご飯の代わりにバター御飯の味を覚えましたが、偏食になるからと注意されました。(終わり)
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後記:一昨日、竹内さんからいろいろ話を聞きました。最後に満州のことをどのように考えればよいのですかと聞きました。彼は迷わず、「よその国に行って勝手に満州を作るのは悪い」と言いました。それだけの話ですが付記しておきます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
ハイラル平原の夕焼け:https://www.flickr.com/photos/26245162@N05/2464275097/?rb=1
ハイラル平原の川:https://www.flickr.com/photos/26245162@N05/2464275097/?rb=1
現在のハイラルの街:http://www.chinaguide21.com/chinaphoto/zpnm/zpnm_07a.jpg