後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

男の本当の優しさを体験しました(訂正した再掲載記事です)

2015年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム
以下の記事は中川善之さんのコメントに従って消えていた写真5枚を再度掲載しましてもう一度お送りするものです。 原文は2013年11月19日に掲載された記事でした。 =====中川善之さんのコメント====== 2015年11月6日 ブログを拝見させていただきました。 2013年11月19日付<男の本当の優しさを体験しました>にヤマハのフェスタに乗られたときの記事を読んで興奮しています。 私はこのヨットを購入したくていろいろな情報を集めているのですが、ブログの写真が消えており、見れないのです。 もし、データがまだ残っていましたら、再度UPしていただけませんか? よろしくお願いします。 =====写真5枚をあらためて加えた記事======= ブログを書いていたお蔭で、繁田慎吾さんというヨットマンに霞ヶ浦でのセーリングに招んで頂きました。ご自分のヨットは修理中なので中村文政さんの「さくら」に乗せてもらい、もう一人のクルーの渡辺さんと4人でセーリングを楽しんで来ました。 繁田さんも中村さんもこのブログをご覧なっていて、霞ヶ浦の魅力に惹かれて自艇を土浦港に係留することにしたそうです。 私自身は丁度2年前の75歳でヨットを若い人に譲渡し、それ以来一度もヨットに乗っていません。人生の最後にもう一度くらいはヨットに乗ってみたいと思っていたのです。 そうしたら幸運にも繁田さん、中村さん、渡辺さんのお蔭で昨日その夢がかないました。 ヨットに乗せてもらい、帰港後は中村さんの手料理で身も心も温まりました。 男の深い優しさをしみじみ体験した一日でした。長生きするとこんな幸運にも巡り合えるのです。 それに中村さんのヨットはヤマハ24フェスタという私の憧れのヨットでした。 以前、東京、晴海の国際ボートショーで何度もそのヨットに上っては艇内に座って、こんなヨットに乗ってみたいと憧れていたヨットだったのです。 そのヨットはパーティを楽しみ、セーリングも楽しむ設計になっている実にユニークなデザインになっているのです。 まずコックピットが広く、8人位はぐるりと座れます。真ん中に頑丈な白いテーブルが固定されています。ビールのグラスを差し込む丸い穴が沢山あいています。そしてテーブルの中央部分の蓋を開けると流しになっています。そこに氷といろいろなリキュールを入れておけば冷たいカクテルもその場で出来る設計になっているのです。 邪魔なブームは高い位置にあり頭をぶつける心配がありません。 パーティを楽しみながらセーリングをしますのでジブは自動タックになっています。舵も自動操縦装置をつけると手放しでヨットが一人で帆走する設計になっています。ジブもメインも小さめに作ってあり気楽に操船できそうです。 ところがこのヨットは弱風でも強風でも敏捷に走るのです。昨日は晴天で、午前が弱風で午後は強風という珍しい天候でした。その様子を写真にしたがい説明します。 午前中は弱風でした。そこで中村さんと渡辺さんがスピンを上げてくれました。 昔、湘南にドンガメ号というヨットがいて、クルーの大学生が苦心してスピンの部分品を集め、初めてスピンを上げたときの感激を思い出しました。彼はドームのように膨れたスピンを見てそれを「海の聖堂」と言ったそうです。昨日のスピンは霞ヶ浦の聖堂だっだのです。 午前中は湖岸の景色などを楽しんでいましたが、午後になると急に強風が吹き出しました。ヨットがかなりキールしはじめ、すごいスピードで走ります。 上の写真くらいの傾きなら丁度よく疾走しますが、そのうち下の写真のように急角度で傾きます。 実際はもっと傾いていたのですが、片手で舷側にしがみつきながら、もう一方の手で写真を撮るのでうまくとれません。風下側の甲板が水で洗われています。 しかし心配は要りません。舵を握る中村さんは伊豆七島や大洋をセーリングしてきたベテランです。 風をセールの上に流させながら、風との駆け引きを楽しんでいます。上の写真の左にある黒い影が中村さんです。 ヤマハ24フェスタはパーティ仕様のヨットですが、強風では爆走する頑丈な設計になっていることに感銘をうけます。 強風域を通過すると波もおさまり水面が午後の陽に輝いていました。 そして最後に心優しい男たちの写真を示します。 左から順に渡辺さん、中村さん、繁田さんです。 このヨットのキャビンも楽しい雰囲気の内装になっています。水洗トイレもシャーワールームも寝室もついています。泊まれる設計になっているのです。 年齢を重ね、体が固くなった私が乗船、下船のとき落水しないように皆で手伝ってくれました。 繁田さん、中村さん、渡辺さん、本当に有難う御座いました。 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

最古の神道が分かる、諏訪大社の雰囲気と建物の配置

2015年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の知識人は神道には体系的な教理が無いから高等宗教ではないと言い、神道を軽んじています。それは信仰を持たぬ知識人の誤解です。宗教を信じると、原始宗教と言われる神道の奥深さや日本人への大きな影響力が理解できるのです。
大きな影響力を示す出来事が2011年3月11日の大震災の時の起きました。日本中におる10万以上と言はれる神社に参拝の人々が押し寄せたのです。人々が二度とこのような大災害が起きないように祈って安堵したのです。
信者は人々に神による保護を願い、それを感じ、信じる場所なのです。
不立文字と言い宗教は理屈では理解できない部分が多いのです。
今回、諏訪大社を訪れてその神秘的な雰囲気に圧倒されました。八百万の神が存在を感じたのです。
もう少し詳しく言うと諏訪大社の4つの境内のうちの一つの上社本宮だけを訪れたのです。
4つとは上社本宮、上社前宮、下社春宮、そして下社秋宮の4つの境内です。
このように一つの神社が4つの境内を持っているのは大変珍しいようです。
そしてこの神社は出雲大社や伊勢神宮と同じように日本最古の神社で古事記や日本書記にも明確に記録があるのです。
出雲地方で政治権力の争いに敗れた人が諏訪地方に逃れて来て建てた神社といわれています。それは大和朝廷の権力が全国に行きわたる遥か以前のことです。
この神社の内陣には拝所と立派な拝殿はありますが神様を祀った本殿がありません。
拝殿の後ろの森に神様が居るのです。これは古い神社の形式です。
そして中の境内にいたる長い、暗い木造の廊下=布橋が特徴です。その暗い廊下を一人で歩いていると神々が下りて来て私の肩に留まるような気分になるのです。それは不思議な、そして神秘的な体験です。
当時の諏訪湖は現在の4倍の大きさがあり、諏訪大社の上社と下社は湖を挟んで諏訪湖の岸辺に建っていたのです。そのことを考えながら写真に従ってご説明します。
下の写真が北参道から見上げた中心の境内で立派な拝殿があります。

この写真の左に立っている巨大な棒は7年に一回建て替える御柱です。
下の写真がこの神社で一番立派な建物の拝殿です。

拝殿では丁度七五三を祝う家族が子供を前にして畏まっていました。神主が祝詞をあげています。この拝殿の後ろには普通ある本殿が無く、後ろの森がこの神社の神が宿っているところです。この本殿の無い形式が一番古い形式と言います。
下の写真は中の拝殿にいたる長い、暗い木造の廊下の入り口です。

子供連れの家族がこの布橋という廊下の説明板を読んでいます。
下の写真はこの廊下の側面です。

廊下は杉木立に囲まれています。紅葉した木々も見えます。
下は暗い、そして長い、長い廊下の写真です。

この廊下は誰もいない時に独りで歩くことが需要です。団体でガヤガヤ通ってはいけません。
下はこの廊下から見える森です。神様が住んでいます。廊下の左右にはいろいろな美しい建物があります。

下の写真は東参道の入り口の鳥居です。参拝に来た家族のシルエットです。写真を撮りながらこの家族に幸多かれと自然に祈っていました。

このように諏訪大社は非常に神秘的な場所です。
全国に15000の末社があるそうです。
10月23日の記事、「山郷、下仁田町に昔と変わらず山車が勢揃いする諏訪神社の秋祭り」でご紹介した神社もその末社の一つです。
皆様のお近所に諏訪神社は御座いますでしょうか?
ありましたならその様子などをお知らせ頂けたら嬉しく思います。
末尾の参考資料もご一読下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料==================
(1)諏訪大社研究記:http://www.renya.com/suwa/taisya.htm
旧第一官弊大社、信濃國一之宮諏訪大社(すわたいしゃ)は、出雲大社や伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、伏見稲荷大社などと並ぶ古くからの有力神社の1つで、日本全国に1万を越える諏訪神社の総本社です。毎年真夏に行われる御舟祭(おふねまつり)や7年に1度の御柱祭(おんばしらまつり)は全国的に有名です。
全国に神社の数はおよそ11万社あると言われています。その中で末社の数でいうと伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社が3万を越えて1番多く、2番目にはおよそ2万5000社の八幡神社、そして諏訪神社は3番目に多いと言われています。
基本情報
諏訪大社というのは1つのお社(やしろ)の事をいうのではなく、諏訪地方に4つあるお社の総称です。諏訪湖を挟んで北側の下諏訪町に秋宮(あきみや)と春宮(はるみや)からなる下社(しもしゃ)があり、南側の諏訪市に本宮(ほんみや)と茅野市に前宮(まえみや)からなる上社(かみしゃ)があります。明治4年までは上諏訪社、下諏訪社として別のお宮であった。それ以前は下社と上社の間で仲違いなどもありましたが、明治以降は4つのお社で1つの諏訪大社として運営され、現在もその形で宗教法人諏訪大社は形成されていて、巫女さんなどに支払われるお給料も4つのお宮共通で支払われています。
諏訪大社の歴史は古く現存する日本最古の書物である古事記(こじき)においては出雲の国譲りに反対して諏訪までやってきてそこに王国を築いた記述があり、また古事記と並び日本最古の書物と言われる日本書紀(にほんしょき)にも持統天皇が勅使を派遣したという記述がみられます。また、大社の由来を記した『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』には征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北へ向かう際に戦勝祈願を行ったと書かれています。
ちなみに、古事記は現存する日本最古の歴史書で上中下の3巻からなりたっています。神話や伝説などがまとめられています。日本書紀は日本最古の正史で勅撰の六国史(りっこくし)の1つです。編年体で全30巻からなります。この中で出てきた諏訪は今の諏訪ではなく州羽という漢字でした。
(2)諏訪神社上社と下社の抗争

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/6939cb10616458cda242d92c668dd455
諏訪大社と金刺氏
傍から見ると、諏訪大社は、あたかも一つの神社に見えます。上下社・春秋宮併せて、本来なら一つの神社の筈です。でも、故あって歴史を調べると、鎌倉期以降、上社と下社の対立の時代がずっと続きます。それが内乱にまで発展してしまうのが、諏訪家の文明の内訌です。この内訌で、下社の金刺氏は滅亡してしまいます。その後、下社は係累の武居氏を祝にあて、下社を諏訪湖畔北側に移設しながら、上社との対立の火を収めながら、現在に繋がります。
諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が”国盗り”を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。
それでは、この金刺氏を追ってみます。神話の時代、神話の世界は得意ではないので、およそ鎌倉期よりの諏訪神社、上社と下社の”ありよう”から始めます。
治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。
・・・平出・宮処は現在平出・宮所、龍市・岡仁谷は現在辰野・岡谷として地名をのこしています。
・・・これを見ると、鎌倉時代初期に諏訪大社は”軍神”として、周囲に認知されていたことが覗われ、さらに”武士団”を形成していたことが分かります。
平安時代の後期になると、諏訪大社の上社・下社の神主系は、別流として独歩に系譜してきたことが顕著になります。上社の神主大祝は当初は神(ミワ)家後に諏訪家・諏訪一族として、下社の神主大祝は金刺家・金刺一族(当初は諏訪家)として、一族を主張し始めます。

の金刺氏の成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではないかと思われます。ただし、資料が不足しているため、一族に伝わる伝承を根拠にしているため、定かではありません。
下社の金刺氏の祖は、金刺舎人と言うことになっているが、「金刺系図」によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されているのをみると、ここまでにも混乱があったことが覗われます。『信濃史科』によれば、一族に諏訪・上泉・手塚の諸氏がある、と述べてあり、再び諏訪氏も同族であったことが記されています。
金刺氏の武士化・・・先述のように金刺氏は武力を蓄え、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築き武士化していった。金刺氏は手塚とも称し、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。・・・
・・・中略・・・・
・・・ 十五世紀なかごろから、対立構造に変化が起こってくる。それまでの上・下社の争いは、神事の運営方法や政治的な立場の相違からの対立だが、嫡子の相続権が絡む領土・経済戦争の戦国時代の内容の対立が顕著になってくる。諏訪大社で言えば上・下社に加えて惣領家と大祝の隠棲別家の高遠家の、四どもえの戦いに発展してくる。・・上社大祝と高遠家は、ほぼ共同歩調なので、三社対立(鼎立)という方が正確かも知れない。
戦乱のなかで滅亡 ・・・文明十二年(1480)頃になると、諏訪大社の上社の内訌が激化してくる。そして、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。
この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺興春は上社大祝・継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。分明十五年、金刺興春は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、金刺興春を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。
興春が戦死したのち、子の盛昌が継ぎ、ついで昌春が継いだ。一方、諏訪上社の抗争は頼満によって克服され、永正十五年(1518)、頼満は昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃した。上社大祝家に伝わる『当社神幸記』によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。ここに、金刺氏の没落は決定的となったのである。
社殿などを焼かれ、萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したのである。このときは、諏訪氏がよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられている。・・・下社大祝・金刺氏の滅亡。
かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった。
諏訪のその後 ・・・諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。しかし、諏訪氏と武田氏の抗争は、のちの武田晴信の諏訪平定へと連鎖していくのである。
ところで、高遠の地は古来より諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領の地位を狙い、諏訪大社下社の金刺氏と結んで武田晴信の力を借りて諏訪氏を攻撃した。こここに出た金刺氏は、武居祝のことであろう。
その後、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、甲斐に連行され幽閉の身となった。ほどなく、諏訪大社上社の大祝諏訪頼高と共に切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡した。その後、諏訪の地は高遠頼継と武田晴信とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継が、諏訪地方を武力制圧した。結果として武田晴信と対立、宮川の戦いに敗れた頼継は高遠に逃げ帰り、諏訪一帯全ては武田晴信の領有に帰した。
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「花園、ラフォーレ小淵沢に昨日咲いていた花々の写真」

2015年11月04日 | 写真
もう初冬のような寒い季節になりました。あちこちの公園や花園の花々もすっかり散ってしまい淋しい季節になりました。
しかし昨日訪れた「花園、ラフォーレ小淵沢」の寒い屋外にもまだ花々が咲いていたのです。吃驚しました。そこは一番目の写真のように甲斐駒岳がよく見える南向きの斜面で太陽が暖かく射していました。
花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













あなたはパック旅行、団体ツアーを活用していますか?

2015年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
若い時の家族旅行にパック旅行や団体ツアーを利用する人はあまりいません。
自分で旅行案内書をよく調べ旅館やホテルを予約して新幹線や飛行機で行きます。あるいは自分で車を運転して旅行くのも楽しいものです。
しかし老境にいたると旅行業者が泊まる場所や訪れるいろいろな観光地がまとめてパッケージにして募集するパック旅行が便利になります。あるいはいろいろな組織が団体でバスや泊まる場所を決めて旅を楽しむ団体ツアーが便利になります。
私共は近畿鉄道の「クラブツーリズム」や阪急交通の「阪急トラピックス」のパック旅行をよく使って楽しんでいます。
勿論、そればかりでなく若い時のように自分で日程を組み上げて車を運転して旅に行くこともあります。
今日は近鉄や阪急の旅行会社のパック旅行の長所、短所をご紹介します。過去15年間ぐらいに何十回と利用した経験がありますので以下はそんなに大きな間違いは無いと思います。
まずパック旅行の長所を書きます。
(1)個人では行けないような交通不便な、しかし魅力的な観光場所に、一回のパック旅行で何か所も訪問出来ることです。
(2)参加費用が驚くほど格安なことです。
少し説明を加えると、パック旅行の専門会社は個人旅行よりも魅力的な交通不便な観光地を組み合わせてスケジュールを組みます。
新幹線と貸し切りバスの組み合わせや飛行機と貸し切りバスの組み合わせて路線バスの行っていない観光地を組み合わせるのです。
例えば飛行機と貸し切りバスを組み合わせると北海道、九州、沖縄の普通は行けないような観光地を巡ることが出来るのです。
これがパック旅行の第一の長所です。
二番目の長所は参加費が実に格安なことです。
例えば先月参加した2泊3日の十勝さほろリゾートとウトロのホテルに2泊するパックでは狩勝峠、幸福の駅、鶴の里、阿寒湖、知床五湖、オシンコシンの滝、オホーツク流氷館を訪れました。その参加費用が航空運賃、貸し切りバス、2泊4食、各種入場料金など全てと含めて一人35000円でした。
格安の理由は2つあります。まず航空運賃が想像以上に安いのです。大型飛行機は50人の空席で飛んでも、そこに客を満席にしても機体が重いので燃料費がほとんど同じなのです。安くても満席で飛んだ方が利潤が上がるのです。
もう一つは宿泊費が格安な場所の清潔で風光明美なホテルに泊まることによります。
例えば先月は十勝さほろリゾートのスキー客向けの清潔なホテルの泊まりました。スキー場なので風光明美です。ホテルの設備も良く、掃除が完璧でした。食事は質素ですが参加費を考えると不満を言うことが出来ません。
上のようなパック旅行の長所に対照的に以下のような短所もあります。
(1)団体旅行なので各地の集合場所では時間厳守です。各地の観光地や土産物屋でのバスへの集合時間は非常に厳しいのです。皆は5分前や10分前に集合しています。バスの中や食事時にご婦人方のグループの会話の声が耳障りなこともあります。
(2)どんなに当日が悪天候になっても旅行を取りやめ出来ないのです。
勿論、主催者へ電話して取りやめても良いのですが、参加費は一切返ってきません。そういう内容の契約で前金制で振り込んであるので仕方がないのです。
参加費が惜しかったら、大風雨でも参加決行をしなければなりません。
幸い私共にはそのような経験がありません。天気の長期予報を見ながら申し込むからです。
(3)パック旅行は集客の都合で出発場所が大都会に限られます。
地方にお住まいの方々には利用しにくいのです。
しかし近年はきめこまかく地方、地方の小都市から出発するパックツアーが非常に増えて来ました。
私共の住んでいる都下の小金井市の駅前から出発するパックツアーも次第に増えてきました。
昨日も小金井出発のバスツアーで、茅野市の紅葉が美しい長園寺や諏訪大社上社などの日帰り旅行に行ってきました。
写真は長園寺(http://chouenji.info/annnaizu.html)で撮った写真です。
このようにパックツアーは意外な観光地と格安の参加費の組み合わせで数多くの客を集めています。経済用語で言えば実にコストパーフォーマンスの良いサービス商品なのです。
さて、あなたはパック旅行や団体ツアーを活用していますでしょうか?そのご感想などをお送り下されば嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









害獣駆除で得た鹿肉をスーパーや個人商店での販売が増加

2015年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、鹿や猪や猿が増え過ぎて農業や林業へ甚大な被害が起きています。2012年の推定では全国の鹿は約250万頭、猪が約90万頭にも増加しているのです。
例えば鹿の増加は私自身でも実感しています。
下の写真は今年の6月に甲斐駒岳の山麓の山林の中の私自身の小屋のそばて撮った鹿の写真です。

そして下は先月の9月に富士山の五合目に登るスカイラインで撮った鹿の写真です。
三番目の写真はこの9月17日から知床に旅した時に撮ったエゾシカの写真です。

このように自然界でゆうゆうと遊んでいる可愛い鹿の姿を見ると害獣駆除のために殺してしまうのが非常に残酷に感じます。しかし駆除しなけてば農業や林業をしている人々が困まります。この害獣駆除が日本の大きな問題になってきました。
そこで農林省や各地の自治体が害獣駆除政策を進めています。
このような背景があったので、以前に害獣被害の実態と、狩猟の実態を調べ、以下のような2つの記事にしました。
(1)「鳥獣被害額は年間1000億円くらい!」
(2)「狩猟の趣味の実態を知り、皆で考えよう」
この二つの記事は今年の8月14日に、後藤和弘のブログ:http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に公開致しました。
(1)の記事では次の2つの事実が書いてあります。
1、農林水産省ホームページによると日本の害獣被害額は年間200億円弱といいます。
その内訳を見ると鹿と猪の被害が一番多いのです。
そして届け出ていない害獣被害を含めると被害額は年間1000億円と推定されています。
大切に育ててきた農作物が一夜にして食い荒らされてしまうのです。
2、2007年度のデータによると、狩猟免許所持者約23万人中、60歳以上が約13万人、50歳以上まで含めると約20万人となり、50歳未満の狩猟者数はわずか3万人程度です。このままの状況であれば、20年後、30年後には狩猟者数が数万人になってしまうでしょう。
要するに害獣被害が増加しているのにシカやイノシシを獲る猟師がいなくなりつつあるのです。
そして上記の(2)の記事では猟師が獲った獲物の解体と流通経路が明快になっていないことを指摘しました。せっかっく獲ったイノシシや鹿の肉を全国へ販売する為のルートが明快に確立されていないのです。
そこで8月以来、折に触れて猪肉と鹿肉の販売業者について調べてみました。
ネットに鹿肉を検索するといろいろなネット販売の広告があります。
しかし鹿肉の処理方法や衛生状態が分からず不安です。
私自身は山林の中の小屋の近所の馬刺しを売っている精肉店が衛生的なのでそこから猪肉や鹿肉を時々買っています。その店の主人の息子が甲斐駒岳の周囲で銃猟で獲ったものだと判っているので安心なのです。
今回はその鹿肉の販売に関して更に詳しく調べましたのでご報告いたします。
農林省も「野生鳥獣被害防止マニュアル-シカ、イノシシ(捕獲獣肉利活用編)」を発表し積極的に鹿肉や猪肉の流通を支援しています。
このマニュアルの第2章には以下のように鹿肉や猪肉などの衛生管理を詳しく規定しています。
第2章捕獲獣肉の衛生管理
1.衛生管理の基本的な考え方
2.捕獲段階の衛生管理
3.処理施設の衛生管理
4.処理段階の衛生管理
5.事業者等における衛生管理
これを受けて最近、数多くの鹿肉処理、販売業者が事業を始めました。
例えば9月17日に訪れた斜里町では下の写真のような食用の鹿牧場を見ました。

この鹿牧場は株式会社エゾシカファームの所有で、野生の鹿を囲い網で一網打尽に獲って飼育しているのです。
この鹿の大量飼育の目的は市場への鹿肉を安定供給し、さらに売り出す鹿肉を美味しくするためです。
このエゾシカファームの代表取締役、土田一吉 さんは以下のように述べています。「平成17年8月に、知床は世界自然遺産の登録をうけました。しかしこの素晴らしい生態系を破壊する勢いでシカが爆発的に繁殖しています。 私どもは建設業で培った技術力を生かし、地域への恩返しをこめて、このシカの駆除・有効利用事業に着手致しました。この取組が斜里町の基幹産業である、農業・漁業・観光業の活性化につながるよう願っております。当社は上記の各産業の皆様にも参画をいただいております。社員一丸となり、少しでも地域に貢献できますよう、努力する所存であります。皆様のご愛顧のほど宜しくお願い致します。」
この鹿牧場は大規模ですが、北海道では、例えば「狩人の蔵」(店主:引地 安久)のような個人経営の鹿肉業者も数多く鹿肉を供給しています。
これを受けて社団法人エゾシカ協会は以下のような推奨鹿肉販売店を指定しています。
(1)スーパーエース美香保店、札幌市東区北18条東8丁目2-5 011-741-2346
(2)スーパーエース30条店、札幌市東区北30条東8丁目1-2 011-731-2141
(3)スーパーエース屯田店 、札幌市北区屯田5条3丁目2-23 011-733-8411
(4)スーパーエース八軒店 、札幌市西区八軒3条西3丁目2-5 011-613-1033
(5)産直生鮮市場江別店、 江別市野幌代々木町77-2 011-385-8971
(6)産直生鮮市場北郷店 、札幌市白石区北郷4条4丁目22-1 011-879-2310
(7)産直生鮮市場月寒店 、札幌市豊平区月寒中央通2丁目3-38 011-858-3351
(8)産直生鮮市場平岡店、札幌市清田区平岡7条3丁目18-45 011-883-8555
(9)産直生鮮市場伏古店、札幌市東区伏古9条4丁目3-1 011-789-5538
(10)生鮮おろし、連絡先 北海道滝川市 TEL/0125-23-8064
  生鮮専門のスーパーで、新鮮なエゾシカを販売しております。主に、知床産、阿寒産、静  内産を販売。ブロックなど売り場にないエゾ  シカ肉も近隣の処理工場より仕入れ販売  いたします。 シカのいろいろな部位の肉も供給します。
(11)せいせん日の出、連絡先 北海道岩見沢市 TEL/0126-22-0000
(12)アンの店、住所と電話 札幌市白石区本通4丁目南1-13 011-863-9373
(13)Natural & Organic 自然食の店「まほろば」本店、札幌市西区西野5-3-1-1 011-     665-6624
(14)Natural & Organic 自然食の店「まほろば」厚別店、札幌市厚別区厚別中央1-3       011-894-5551
(15)焼肉わらべ、連絡先 北海道千歳市 TEL/0123-24-8826
  焼肉店に併設する精肉販売店舗にてエゾシカを販売しています。主に、知床産、阿寒産、   静内産を販売。
(16)株式会社北海道食美樂、北海道新冠町 TEL/0146−47−1822、FAX/0146−47−1823
(17)株式会社アイマトン業務卸、札幌営業所TEL/011-787-1105
(18)同上、滝川営業所TEL/0125-24-1105
(19)同上、千歳営業所TEL/0123-23-1105
(20)南富フーズ(株)、 空知郡南富良野町字幾寅617番地3 TEL 0167-52-3773
(21)その他。
以上を見ると北海道ではエゾシカを普通に買って毎日のように食べている人が多いようです。
それでは本州、四国、九州ではどうなっているのでしょうか?
いろいろな情報がありますが以下に一例として長野県で大手スーパーのシカ肉販売をご紹介します。
 総合スーパー「イオン」は、2015年6月5日から県内の11店舗すべてで、県内産のニホンジカの生肉(冷凍)や加工食品を通年で販売しはじめました。
害獣駆除で獲ったシカの生肉が長野県スーパー販売されるのは初めてです。
「信州ジビエ(野生鳥獣肉)」としてブランド化を図っている県はこれを支援しています。このイオンの事業によって消費者にジビエを届ける流通経路がようやく出来上がったのです。普通に家庭の食卓に上がるのも時間の問題です。
今回、生肉を販売する仕組みが出来上がったのは、業務用食品卸売業「ナガレイ」(長野市)が県内各所に散らばる22のジビエ処理加工施設から、シカの生肉や加工品を仕入れる流通の流れが構築できたためです。
長野県は昨年度、信州ジビエ研究会とともに、徹底したトレーサビリティー(流通履歴管理)や衛生管理のもとで加工処理されたシカ肉に対する認証制度を創設しました。ナガレイにはシカ肉の流通促進事業を委託しており、イオン店頭で販売される生肉は同制度で認定された3施設からのものに限られます。県庁の担当者は「この流通の仕組みにより、消費者のジビエに対する安全性への懸念は払拭される」と言っているそうです。
イオンで販売される生肉はいずれも冷凍状態で、ロースとモモのブロック肉が200グラム1280円(税抜き)、煮込み用が同980円(同)。イオンを運営するイオンリテールの辻晴芳専務執行役員は「シカ肉は牛肉や豚肉に比べて高タンパク、低脂肪、低カロリーで鉄分が豊富。ヨーロッパではジビエとして注目が集まる食材で、シカ肉のおいしさをイオンから発信していきたい」と話しています。
長野県のイオン11店舗では、認証生肉3種類を月間ベースで合計400キログラムの販売を計画。このほか、大和煮などの缶詰、カレーなどのレトルト製品、ソーセージなどの加工食品11種類も販売し、信州ジビエのブランド化を後押ししていく。
他の地方の鹿肉販売の実情は以下の言葉を検索する見ることが出来ます。
鹿肉販売神奈川、鹿肉販売東京、鹿肉販売奈良、鹿肉販売京都、鹿肉販売兵庫など。
さて冒頭に2012年の推定では全国の鹿は約250万頭、猪が約90万頭も棲んでいると書きました。これに対して捕獲数は2010年の統計では鹿が38万頭で猪が48万頭でした。
それでも鹿も猪も増え続けてるのです。
農作物の鳥獣被害額も増加の一方です。
日本人がもっともっと鹿肉や猪肉を食べ、捕獲数を増加しないとこの問題は解決しそうもありません。
一方で動物愛護の精神では捕獲数の増大には反対です。ここに大きなジレンマがあり実に難しい問題なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

ユリノキの花とプラタナスの鈴の写真

2015年11月02日 | 写真

上の百合の花のように見えるユリノキの花の写真の出典は、http://smcb.jp/digiphoto/498341です。百合の花に似ているからユリノキと言います。

上のプラタナスの鈴のように見える実の写真の出典は、http://www.go-isesaki.com/green_flower_sep1.htmです。

上の落葉した後のプラタナスの鈴のように見える実の写真の出典は、http://kanon1001.web.fc2.com/foto_sinrin/K_suzukake_no_ki/amerika_suzukake_no_ki/amerika_suzukake_no_ki.htmです。

この美しく神々しい樹木たちに魅せられて数十年

2015年11月02日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年10月末になると、都立小金井公園のプラタナスとユリノキの巨大な樹木を見に行きます。その頃は黄葉しはじめて何とも言えない美しい姿になるのです。
単に美しいだけでなく神々しさも感じます。
この樹木たちに魅せられて五十年余、毎年、毎年、今頃になると木の下に来て見上げます。
しばらく眺めていると新宿御苑のプラタナスとユリノキの巨木を思い出します。
そして札幌の北大の植物園にあるハルニレの巨木を想います。
原始の昔、人間はこのような巨木に神が宿ると崇拝していた気持ちが判るのです。
今年も例年のように昨日、小金井公園のプラタナスとユリノキをしばし眺め下に示すような写真を撮ってきました。

遠方から見るとプラタナスとユリノキ(袢纏木)は判然と区別出来ません。幹が緑っぽくすべすべしていて、落葉すると鈴のような実が沢山垂れ下がるのがプラタナス(鈴懸け)と簡単に分かります。

これはユリノキですね。幹がプラタナスのようまだら模様になっていないくてざらざらしているので判るのです。
そして葉の形から分かるのです。





私は40年ほど前にカトリックの洗礼を受けました。それ以来毎週ミサに行っています。
しかし美しい巨木や碧く輝く山々を見るとその中に神様が住んでいると感じます。
この感じ方を大切にしています。美しい日本人の心を大切にしたいからです。
そして美しい日本人の心の底にあるお釈迦さまの教えや神社への想いを大切にしています。
特にお釈迦さまの教えの色即是空、空即是色という言葉を大切に思っています。
大切というより信じたいのです。
ありていに言えば私のキリスト教は原始宗教と仏教と神道の混淆したものです。
これが日本人として至極自然なキリスト教への接し方だと思います。
よく識者はそれは間違った信仰だと言います。そうかも知れません。反論はしません。
昔アメリカ人にこの話をしました。思慮深い彼は黙って聞いています。目を遠くを見ているようにしています。そして深い息をしただけです。
欧米人も原始宗教を大切にしているのでしょう。ドイツでは新築のとき棟上げをし、モミの木をその棟の上に飾っていました。星占いも何か北斗七星を敬う妙見信仰のようです。
昨日はそんなことを考えて小金井公園のプラタナスとユリノキを拝んできました。
走ることが好きな老妻がプラタナスとユリノキの下を無心に走り回っていました。
プラタナスとユリノキの違いは末尾の参考資料にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=============
(1)プラタナス(スズカケノキ、鈴掛の木、)は、スズカケノキ科スズカケノキ属の落葉広葉樹。果実が楽器の鈴に似ていることからこの和名がついた。
属の学名であるプラタナスと呼ばれることが多いが、日本で見かけるプラタナスは、本種よりもモミジバスズカケノキ。
原産地はヨーロッパ南東部~アジア西部で、日本への導入は明治年間とされる。樹高は約10〜30 mに達する。樹皮が、斑に剥げる特徴を持つ。
葉は大きく、カエデに似ていて、掌状に5~7裂し、裂片には鋸歯がある。葉柄の基部に小さい托葉がある。
花期は春で、花は淡黄緑色で、雌花、雄花を、別々の葉のつけ根の頭状花序につける。
果実は、晩秋、長い柄の先に痩果が多数集まった3.5cmほどの球形果を、1本の果軸に3~4個連なって下垂する。
(2)ユリノキ(百合の木、学名: Liriodendron tulipifera[1])は、モクレン科ユリノキ属の落葉高木である。
種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意。
北アメリカ中部原産。
日本へは明治時代初期に渡来した。東京国立博物館本館前庭の巨木に添えられた銘板に、次のように記されている。
別名にハンテンボク(半纏木; 葉の形が半纏に似ることから)、レンゲボク(蓮華木; 花が蓮の花を思わせることから)、チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。
花期は5~6月頃。鐘形で、枝先に直径6cmくらいでチューリップに似た形の、付け根近くにオレンジ色の斑紋のある淡い黄緑色の花を咲かせるが、高く茂った葉の間に咲いていて目立たない。

ハロウィンとキリスト教は一切関係がありません!

2015年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は渋谷駅前でハロウィン祭りで大賑わいだったそうです。
いろいろ話を聞くとハロウィンとキリスト教が関係あると誤解している方も多いようです。
それが一切関係がないのです。
私共の行っているカトリック教会では話題にもなりません。
話題にもならないのは他にもあります。バレンタイン・ディーもリオのカーニバルも一切話題に上がりません。
洋の東西を問わず人間は自分のしていることを正当化するために宗教を利用します。戦争も正当化するために宗教を利用します。祭りをして暴飲暴食を楽しむために宗教を利用します。
聖バレンタインの祝日を利用してチョコレートを贈ることは果たしてキリスト教の宗教行事でしょうか?
復活祭の前の準備と称してカーニバルで暴飲暴食をして踊り狂うことはキリストの教えに反することです。
東洋のお釈迦さまも西洋のイエスさまも殺すことを禁じました。暴飲暴食を禁じました。この世の楽しみを忘れなさいと教えました。
ですからハロウィンもバレンタイン・ディーもリオのカーニバルも一切キリスト教とは関係ありません。
さらに言及すれば日本で楽しまれているクリスマスもキリスト教と関係ありません。
もうすこし厳密に言うとクリスマスと称して暴飲暴食することが関係ないのです。
ですから日本のクリスマスの多くは飲食を楽しむみだけで、祈らないので関係ないと言えます。
クリスマスの日にイエスさまが生まれたことに感謝の祈りをしたらそれは関係のある部分です。
第一イエスさまが生まれた日が12月24日という確証がありません。ロシア正教では一月にクリスマスを祝います。
誤解しないで下さい。私は祭りが大好きです。
しかし宗教行事と人間の行事としての祭りを分けて楽しんでいます。
欧米の祭りの全てがキリスト教に関係している訳ではありません。
それを知った上で町の活性化や商店の売り上げ増大にハロウィンもバレンタイン・ディーもカーニバルも大いに利用することは良いことです。
しかしそれらはキリスト教とは関係無いことをお互いに認識したいものです。
ここで気になることは何故欧米の祭りだけを輸入するのでしょうか?インドの祭りやタイの祭りを輸入すれば楽しいのではないでしょうか?
つまらない昨日のハロウィンに関する感想文でした。
今日の挿絵はこの春に訪れた五島列島の教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)