後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

趣味のヨットのおかげでヨーロッパ文化の真髄の一端を知る

2016年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は久しぶりの梅雨の晴れ間でした。青空の下で群青に輝く海が見たく、車を駆って、鎌倉や江の島までドライブして来ました。
江の島ヨットハーバーでは長い間腰をおろして25年間趣味として続けたヨットのことをあれこれ回想しました。
そこで今日はその趣味のおかげでヨーロッパ文化の真髄の一端が分かったという小さな話を書いてみます。
真髄などと大げさな言葉を使うなと怒らないで下さい。なんとなくそんな感じがしたという気楽な話です。それでは江の島ヨットハーバーの写真をご覧下さい。

1番目の写真は青い船体のレース艇風のヨットの写真です。この手前の青いヨットから2つ目のヨットには片側に5つも窓のついたキャビンの大きなヨットも写っています。長距離の航海を大きなキャビンで快適に過ごそうという設計になっています。

2番目の写真はこれらのヨットの後ろ姿の写真です。青いヨットの船尾が斜めに切ってあり、いかにも快速艇のような設計になっています。

さてヨットの趣味をしていたおかげで何故、ヨーロッパ文化の真髄の一端を知ることが出来たのでしょうか?
今考えてみると2つの理由がありました。
一つはヨットの全ての部分品が明確な目的に合致している構造になっていることです。ヨットの上の部品は必要なものは必ず存在していて、不必要なものが一切無いのです。その上形が美しいのです。 まさに用と美の一致と言えるでしょう。
もう一つの理由は海上で強風が吹き荒れ怖い状況になると、ヨットの構造と部分品がその恐怖の状況を耐え偲び、乗っている人間を安全に港まで連れ帰ってくれるのです。
この恐怖の体験から救ってくれたヨットの構造と部品の合目的さがしみじみと理解出来るのです。この「合目的性」こそがヨーロッパ文化の真髄の一つと感じるのです。

それでは写真に従ってもう少しヨットの構造の「合目的性」を説明致します。

3番目の写真はヨットの船体の上に立っているマストの写真です。マストは船体の長さより少し長く立っています。風の力で航海するのですから高く大きな帆を上げて風を掴まけれないけません。
しかし大きな四角形の帆を上げれば船が簡単に横倒しになります。そこで三角形の帆を上げて横倒しの危険性を少なくしています。
そしてこの三角形の帆の威力は風上45度方向まで風に逆らって船が航海出来るのです。
その原理は飛行の翼が浮力を生じ空を飛べるのと全く同じです。
余談ながら日本の北前船には三角形の帆がありませんでした。風下にしか走れない大変不便な帆船だったのです。

さて三角形でも帆を上げて強風が吹けばヨットは傾き横倒しになる筈です。
その横倒しを防ぐのが船底から長く伸びたキールなのです。

4番目の写真は大きな舵とキールの写真です。この写真の右には船底に固定された深いキール
が写っています。小さいように見えますがキールは頑丈な思い鋼鉄製です。
キールの重さはヨットの全重量の半分近くもあるのです。これこそヨットの秘密兵器なのです。
またまた余談ですか日本の北前船には船底か突き出したキールはありませんでした。

5番目の写真はヨットの後ろ姿の写真です。どれも大きな舵がついていますが、風向きが小刻みに変わった場合でも舵が大きく効き、微調整ができるような構造になっています。

さてこんなにも合目的に作られているヨットでも強風が吹けば横倒しなりそうになります。その恐怖の体験は何度もしました。
しかしそんな場合は、舵にしがみついて強風は弱まるのを待つのです。
ヨットが横倒しちかくなると舵が水面から上がってしまい効きません。なすすべもなく我慢の一字です。しばらく我慢していると強風が止みます。すると重いキールのお陰でヨットが立ち上がります。すかさずエンジンをかけ、セイルを引っ張り降ろします。
セイルさえ降ろしてしまえばヨットはキールのお陰で絶対に転覆しません。後は悠々とエンジン音を響かせて帰港するだけです。

このような怖い体験をするとヨットの構造の素晴らしい合目的性に感動します。
そしてこの合目的性こそがヨーロッパ文化の真髄の一つだと思い込みます。
これは何時もの私の思い込みであり、真偽のほどは分かりません。
しかし横浜に係留、展示してある帆船日本丸の当時の船長の大西典一氏を訪問したとき、私の思い込みに賛成して頂いたので意を強くしています。
大西さんな帆船にはヨーロッパ文化の全てがあると言ったのです。そして一人のりのヨットでは分からないでしょうが多数の乗組員のいる大型帆船の人々の役割が明確に決めてありそれぞれの義務がはっきりしていると言います。その上、士官とセイラーの階級区分も明確で、ヨーロッパ社会の階級制も理解出来ましたと言っていました。
そんなわけで、私は趣味のヨットのおかげでヨーロッパ文化の真髄を知ったような感じがしているのです。皆様からご意見を頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「湘南海岸に夏が来た!」

2016年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は数日ぶりの梅雨の晴れ間です。朝から車を駆って鎌倉、江の島ヨットハーバー、茅ケ崎海岸の砂浜と遊んできました。
独りで行ったので江の島ヨットハーバーでしばらく物思いに耽ってきました。
30年前にこの江の島の「レッツゴーセイリング」というヨットスクールで帆走を習ったことが昨日のように鮮明に蘇ってきます。
そしてすぐにクルーザー型ヨットを買って25年間、それを趣味にしたことを思い出していました。25年間にはいろいろなことがありました。
今は亡き友人のことも思い出しました。
その後で鎌倉までドライブし、家内へのお土産に鳩サブレーを買い、又,茅ケ崎に戻り圏央道に乗り、中央高速道路に乗り換えて帰ってきました。
夏の太陽の輝く茅ケ崎海岸の砂浜の写真をお送りいたします。









時代とともに増加した日本人の自然葬への憧れ

2016年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教は人間の精神生活を豊かにします。愛する人々の死別の悲しみをやわらげてくれます。私自身も宗教というものが大好きです。キリスト教も仏教も神道も大好きです。
ですから最近の日本人の宗教離れ、特に寺院仏教から離れる現象を悲しい気持ちで見守っています。
悲しいことですが、社会の変化や人々の考え方の変化は冷静に客観的に見て、静かに受け入れています。

日本の経済の高度成長にしたがって先祖代々のお墓を郷里の寺から、自宅のそばの共同墓地へ移す人が増えて来ました。民間会社が開発した無宗教の大型共同墓地が全国的に流行し、そこに自分のお墓や先祖代々のお墓を作る人が急に増加したのです。
江戸幕府のキリシタン禁教政策の一つとして全ての家はお寺の檀家になっていたのです。その風習は明治、大正、昭和になっても連綿と続いていた日本の仏教的風習でした。
その仏教的風習が1970年代そして1980年代と次第に大きく崩れ出したのです。
この社会的風潮をもって日本人の仏教離れや宗教離れと判断するのは少し厳密性に欠けるかも知れません。しかし大雑把に言うと、日本人の仏教離れや宗教離れの具体的な一例と考えられます。そこでこの社会現象について少し詳しく書いてみます。

檀家制度が崩れ、多くの人々はお寺とは縁が切れ出しただけではありません。宗教抜きの葬儀を行い、宗教抜きの遺骨の取り扱いが流行のように広がり出したのです。
この宗教離れの葬儀の例は樹林葬と海への散骨葬など自然葬のことです。それは大雑把に言って1990年頃から生まれた日本の新しい社会現象でした。
1990年頃、以前は、遺骨を決められた墓地以外に埋めると、刑法190条により「遺骨遺棄罪」になったのです。この刑法を支えているのが戦後の昭和23年に出来た「墓地、埋葬等に関する法律」の規定です。しかし1991年に法務省と厚生省がこの法律をゆるめたのです。
1991年に「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県の相模湾で海への散骨をしたのです。その後、この会は全国に12の支部を作り、会員も12000人になります。
15年後の2006年までに全国で1137回の自然葬を行い、1945人の遺骨を自然へ還しています。現在は毎年100回程の自然葬を行い200人ほどの遺骨を自然へ還しています。

1991年に、法務省と厚生省は新しい解釈を発表し、「葬送の自由をすすめる会」の葬送は違法ではないという趣旨を公にしたのです。
適切な方法なら海への散骨だけでなく樹林葬や桜葬や山岳などなどへの散骨葬は違法でないという解釈です。しかし「適切な方法」は具体的に規定していません。
この法務省や厚生省の法律への新見解以後、多くの宗教団体や業者が「自然葬」を斡旋し、代行する事業を始めたのです。
このような自然葬を行ってくれる会社は急増し、現在は一つの大きなビジネス分野として育っています。
例えば株海の散骨・海洋散骨「グランブルーセレモニー」業務式会社ジール(http://www.sankotsu.net/company.html)は北海道の知床から沖縄の石垣島まで全国の都道府県に事業を展開し、海の散骨・海洋散骨「グランブルーセレモニー」業務を実施しています。
一方、樹木葬や樹林墓地の全国情報は、http://en-park.net/books/571 に掲載してあります。
それによると樹木葬とは、1999年に岩手県の祥雲寺(現、知勝院)ではじめて行われたそうです。樹木を墓標(目印)として遺骨を埋葬し、供養する方法です。そして里山型の樹林墓地もあります。
この方法では都市部から離れた山林など広い墓域で埋葬されます。自然と一体になるイメージが強く、一見するとどこがお墓にあたる場所がわからないほど自然に溶け込んでいます。里山の環境保全に繋がります。

そこで最後に東京都立小平霊園の樹木葬について説明いたします。
この都立霊園では末尾の参考資料の(3)に示したような条件で自然葬の受付をしているのです。

さてところで樹林葬式を希望している人はどの位いるのでしょうか?
都立霊園の統計によると、東京都では毎年ほぼ10万人が死亡していて、そのうち25000人位の人が散骨を希望しているそうです。
私は2012年の7月に、都立小平霊園の管理事務所を訪問し、樹林墓地の実態について取材して来ました。
管理事務所の話では、2012年3月に10700体の遺灰を埋蔵可能な樹林墓地が完成し、2012年には試しに、500人の募集をしました。それに対して5000人の希望者があったそうです。平成26年からは本格的に多数の募集をする予定だそうです。(小平霊園の樹林葬については参考資料の(3)も是非ご覧下さい。)
総合的に観察すると自然葬はますます増加する傾向があると考えられるのです。

以下に自然葬に関連する写真を示します。

1番目の写真は、2012年7月に撮って来た都立小平霊園の樹林墓地の写真です。樹林墓地の入り口の門から撮った写真です。

2番目の写真はその中の一段高くなった芝生を示しています。粉状の遺灰は水に溶ける紙の容器に入れ、この芝生の下に埋葬します。

3番目の写真は、海へ散骨するヨットの写真です。
ヨットの上から散骨してくれる会社は、風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html です。 

そして4番目の写真は海への散骨をしているある会社のモーターボートの写真です。写真の出典は、7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/ です。

さて、一般的に、1990年前後のバブル経済の崩壊から後を「伝統文化の変革期」と私は定義したいと思います。それは江戸時代から明治、大正、昭和と続いた日本人の伝統的な価値観や民族特有の文化がどんどん変化し出した時期だからです。
いろいろな新しい社会現象が起きていますが、今日はその一例として「自然葬の普及」について書いてみました。
皆様は自然葬をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料======================
(1)自然葬を行っている団体の数例:
風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html
NPO葬送の自由を進める会:http://www.shizensou.net/
家族葬の会:自然葬(海洋葬・里山葬):http://www.npo-kazokusou.net/support/nature.html
7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(2)自然葬に要求される必要な条件:
1、火葬にした遺骨は必ず米粒以下の粒子か粉にすること。一見して遺骨と判らないようにし、海水中や土中へ溶けやすい状態にすること。(遺骨はリン酸カルシュウムが主成分で水には難溶性です)

2、海への散骨は海水浴場や湾内の養殖筏の近辺はいけない。沖でも漁場に使われる海域はいけない。風評で魚が売れなくなることへ充分配慮する。

3、陸上での散骨は土地の所有者の承諾を得ること。自分の所有する山でもキノコや山菜取りの入会権へ充分配慮する。自分の別荘の庭に散骨するのは別荘が他人の手に渡った場合についても充分な配慮をする。(アメリカでその為に不動産価格が下がって裁判になった例があるそうです。)

4、国有林は広大で散骨に適しているが、管理している農水省や国土交通省の明確な見解が発表されていない。NPO葬送の自由を進める会が現在、国有林の散骨葬への解放運動をしている。

僻地の町や村の所有する山林はその役場に願い出ると許可される場合もあるそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(3)都立小平霊園の樹林葬式の詳細:
都立小平霊園の場合;費用は粉状の遺骨で持ち込めば44000円です。纏めて44000円支払えば、以後一切の費用は不要です。粉状でない普通の遺骨の状態で持ちこめば134000円です。
遺骨を粉状にするには火葬場に頼むとしてくれるそうです。設備が無くて粉状に出来ない火葬場もあるので、あらかじめ相談の上火葬を頼むことが肝要だそうです。
遺灰は水に溶ける紙製の容器に入れ、何個か纏めて樹林に囲まれた芝生の中に埋めるそうです。30年間そのままにして土中へ自然に混合するのを待ちます。30年後に残った遺灰はまとめて共同埋蔵します。
埋葬後、故人へ花や線香を供えるための献花台は用意するそうです。詳しくは管理お事務所、電話:042-341-0050へお聞き下さい。
以上は東京都の場合ですが、全国の市町村役場で管理している墓地や、お寺が管理している墓地でも急速に樹林葬墓地が普及していると想像できます。

日本でイスラム過激派のテロが起きない決定的な理由・そのことを知らな過ぎる日本人

2016年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカやフランスでイスラム過激派の残忍なテロが起きています。
日本にも多くのイスラム教徒が住んでいます。多くは中東やパキスタンやインドネシアから来た人々です。
ですからイスラム過激派によるテロが起きても不思議ではありません。
しかし日本ではイスラム過激派によるテロが起きていません。
その理由は警察当局の厳しい取り締まりが考えられます。しかしもっと本質的で決定的な理由があると私は信じています。
その決定的な理由とは、中東のイスラム諸国は実は熱烈な親日国であることです。
このことを知らない日本人が多いようなので、今日はそのことを簡単にご紹介したいと思います。

多くの日本人は知りませんが、中東のイスラム諸国は実は熱烈な親日国なのです。仕事でエジプトや中東のイスラム諸国に駐在していた日本人はこのことをよく知っています。
しかし日本のマスコミはイスラム諸国が親日的な事実をあまり報道しません。
2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロ以後、アフガニスタンを占領する戦争をしたり、イラク戦争を実行したアメリカに気を使ってアラブ諸国と日本の友好関係の報道は自粛しているのかも知れません。
兎に角、日本のマスコミはイスラム諸国の動向をあまり報道しないのが伝統のようになっているのです。
しかしエジプトやトルコをはじめ、イラン、ヨルダン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、などなどのイスラム諸国は熱烈な親日国なのです。
イスラム諸国の人々が日本人を尊敬し友好的な理由を以下のような歴史的な3つの理由があるためです。
(1)ヨーロッパのキリスト教の国々は11世紀、12世紀に十字軍を中近東に送り込み、現在のベイルート、ヨルダン、シリア、イスラエル、などなどの土地に数多くの十字軍国家を作り、残虐な統治をし続けたのです。
十字軍が築いた堅固な城が現在でも中近に残っています。
日本ははるか遠方に存在する国だったので勿論、十字軍は送れませんでした。この件に関して、日本は完全無罪です。
(2)日本は仏教国なので一神教のキリスト教とイスラム教との間の戦争には完全に中立的な存在なのです。
(3)イギリスの18世紀の産業革命以後に、圧倒的な武力を持つようになったヨーロッパ諸国とロシアが、中近東のイスラム諸国を保護国や植民地にしました。
その憎いロシアを日本は日露戦争で破ったのです。ロシアに権益を奪われていたイランをはじめイスラム諸国が拍手喝采をしたのは当然です。
そして第二次世界大戦では日本は勇敢にもアメリア、イギリスに立ち向かい、大きな損害を与えたのです。
日本は敗けましたがこの大戦争のお蔭で、インド、パキスタン、エジプト、イラン、イラク、ヨルダン、サウジアラビアなどなどの諸国が独立国家になれたのです。当然のことながら、これらの国々は日本へ深く感謝しています。

以上のよう歴史的な事情は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」という本に書いてあります。
その本の内容は岡井盛夫さんという方が要約して紹介しています。
(http://homepage3.nifty.com/morrio/back1/islam/miyataislam.html)
その詳細は末尾の参考資料に書いてあります。
ここでは二つだけをご紹介します。
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食されました。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、アラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配されたのです。 ところが、アジアの小国、日本がロシアとの戦争で勝利します。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上り、日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となったのです。
(2)イラク戦争の際、自衛隊は「人道復興支援」のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収します。現地誌「サマーワ新聞」は、自衛隊員のことを「高い倫理を保持した人々」と形容しました。他国の人々のことを尊重し、他国民家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっている」、と絶賛したのです。

このようにイスラム諸国の人々は日本人を尊敬し非常に友好的なのです。
アラブ諸国と敵対するアメリカとの関係を気にするあまりこの事実を日本のマスコミはあまり報道しません。
報道しないもう一つの理由は日本人は明治維新以来、欧米から熱心に科学技術を学び、欧米の政治体制や資本主義を導入してきた事情にもよります。
イスラム諸国の多くは部族の首長が独裁的に統治し、中世さながらの遅れた国々なのです。民主主義も資本主義も随分と遅れている地域なのです。その理由で日本人が関心を持たないのでしょう。
アメリカは2001年の同時多発テロ以来、「テロとの戦い」を宣言し、イスラム過激派への攻撃を続行しています。それに対抗してイスラム過激派は欧米諸国でテロを実行し続けています。
もし日本政府が親日的なイランやアラブ諸国と協力すれば世界に平和をもたらすことが不可能ではありません。
そのような外交努力があまりなされていない様子です。
日本国内でテロさえ起きなければそれで良いという考えだけ良いのでしょうか?
日本人がもっとイスラム教の国々と交流を深めるように祈っています。それが世界の平和共存に大きな貢献をすると信じています。
今日の挿し絵代わりの写真は3つのイランの世界文化遺産の写真です。イランには16件の世界文化遺産があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はペルセポリスの遺跡です。ダレイオス1世が建設に着手したのは紀元前520年と言われています。

2番目の写真はイランのエスファハーンにあるイマーム広場です。

3番目の写真はタブリーズの歴史的バザール施設 です。

上の3枚の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3です。
===参考資料================
以下は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」の要約の抜粋です。
「イスラム世界と日露戦争」
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食された。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、帝国は弱体化した。帝国の支配下にあったアラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配された。
ところが、中東でヨーロッパ支配が強化される一方で、アジアでは、小国日本がロシアとの戦争で勝利した。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上がった。日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となった。
(2)トルコのイスタンブールには、「乃木通り」や「東郷通り」がある。トルコは、オスマン帝国の中心であった。そのオスマン帝国の弱体化の一因は、北から進出してきたロシアであった。オスマン帝国は、露土戦争(1877-78)で惨敗した。オスマン帝国は長年ロシア帝国主義の進出に苦しめられたから、トルコ人はロシアに怨念を抱いている。そのロシアに、日本が勝利した(日露戦争)ことで、日本を称賛する感情が沸騰した。トルコ人は、日本人に対し、強い親愛の情を持った。
(3)日露戦争の影響で、トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポン」という名前を子どもにつける人まで現れた。
(4)ムスタファー・カーミメル(1874-1908)は、エジプトの民族主義者である。彼は著書『昇る太陽』の中で、「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信じる」、と書いている。
(5)エジプトの詩人・ハーフェズ・イブラホヒーム(1872-1932)は、日露戦争の従軍看護婦のことを称賛し、「日本の乙女」(長文の詩)を発表した。
(6)ロンドン亡命を終えてスエズ運河を通過中の孫文は、「おなたは日本人か」と尋ねられた。「中国人だ」と答えると、「中国は日本に近い。日本がロシアに勝ったことを我が事のように喜んでいると、日本人に伝えてくれ」、と頼まれた。
(7)タタール人のアブデュルレシト・イブラヒム(1852-1944)は、『ジャポンヤ』(日本旅行記)の中で、「日本人は改宗すれば、完璧なムスリムになれる」、と記述している。・・・・・中略・・・・・・

「イスラムの人の、日本人へのプラトニックラブ」
イスラム世界には、遊牧民の伝統がある。ラクダ、ラバを使ったキャラバンの移動の歴史である。例えばイラン人は、人懐っこく、気さくで、外来の者に親切、他人を思いやり面倒見がよい。なぜなら、酷暑の気候に暮らしていくためには、お互いが助け合って、よそから来た者をもてなす。それが砂漠の民の生活習慣であるから。彼らは見知らぬ人に向かって「今晩うちに来て食事をしないか」、と声をかける。
(1)1945年、イスラムの人は、原爆被災者への同情を示した。その後、日本の経済復興は著しく、高性能の家電製品や自動車が彼らから高く評価されている。イスラムの人にとって、日本人は「頭のよい民族」であり、ビジネスマンの礼儀に敬意を示し、倫理道徳の高さ、マナーの良さを尊敬している。イスラムの善は誠実、禁欲、慈悲である。彼らは「日本人はムスリムでもないのにイスラムの教えを実現している」、と考えている。
(2)日本人はシスティマチツクに働いている。仕事を中途半端に終わらせない。アブダビのムハンマド皇太子は「日本の教育、しつけは優れている。その手法をアブダビの教育に反映させたい」、と評価し具体化している。
(3)エジプトも親日的国家。ジャーナリストのモハメッド・ヘイカルさんは、「日本とアラブ世界の間には、プラトニックラブとも言うべき感情がある」、と語った。
(4)イランの新年は、「ノールーズ」という。都会に出たイラン人は一斉に里帰り、家族の結びつきを大事にする。衣服を買ったり大掃除をしたりする。(何か昔の日本に似ている)
(5)イランは、かってアケメネス朝、ササン朝などの古代文明が栄えた。文明の中心であつた。古代には、日本、中国、イランに至るまで文化の交流があった。
(6)イラク戦争の際、自衛隊は「人道復興支援」のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収した。現地誌「サマーワ新聞」は、自衛隊員のことを「高い倫理を保持した人々」と形容した。他国の人々のことを尊重し、他国民家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっている」、と絶賛した。
(7)1984年のロサンゼルス・オリンピック、柔道無差別級の決勝で、エジプトのモハメド・ラシゥラン選手は山下泰裕選手と対戦した。山下選手は、右足に肉離れを起こしていたが、ラシゥラン選手はその右足を攻めることはなかった。優勝は山下選手であったが、ラシゥラン選手は「國際フェアープレイ」を受賞した。・・・・以下省略します。

ブランドを過度に尊重する文化の軽薄さ、ブランド和牛もその一例

2016年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
これは私の感情的な偏見です。ですから怒らないで読み流して忘れてください。
私はかねがねブランドをやたら尊重する日本の文化は軽すぎると感じています。はっきり言えば軽薄な文化なような感じがしています。
特にご婦人方は高価なルイ・ヴィトンやシャネルやグッチなどのブランド物が大変好きです。
余談ながら家人はそうでないので助かっています。
今日は何故、日本人がブランド物を尊重するのか考えてみました。
そして一例として和牛のブランドの実態をご紹介したいと存じます。

日本人の多くは自分自身の価値観が確立されていないからブランド物を過度に尊重するとよく言われています。
自分自身の考えで価値判断が出来ないのです。何が重要なのかを考えようとしないのです。
ですから有名なブランド物や高価なものを競って買うのです。
ブランド品は確かに多くの人が認めているように品質に間違いがありません。
しかし価格が高過ぎるのです。
何故、女性用のブランド品が高すぎるのかというもう一つ理由は女性の虚栄心にあります。
ブランド品を身に着けていると心が豊かになるのです。顔の表情まで豊かになり美しくなります。
ですから女性がブランド品に目の色を変えるをあまり非難しないほうが良いかも知れません。
ですからご婦人の方々がブランド品を尊重するのは、お洒落の一つの方法なので良いことかもしれません。男性はニコニコして沈黙を守っていたほうが良いのです。

しかるに日本男児もブランド品が大好きなのです。女性を笑う資格がありません。
その実例は高価な和牛ブランドがよく売れていることです。
松坂牛や神戸牛の価格が驚異的に高価なのです。
ある時、おそるおそる少しだけ買って食べてみました。確かにいかにも牛肉の良い香りがして美味です。しかし同じ値段で仙台牛を買えば同じように上等です。なにもブランドにこだわる必然性が全然ないのです。

昔、アメリカに住んでいたころ、アメリカ人と一緒にビーフステーキを何度か食べました。彼等は骨付きの胸肉、ロース、もも肉と牛肉の部所を私に説明しますがブランドには一切関心がありません。自分が食べて味をいろいろ批評しますが、その牛がテキサスのものか南米のものかは一切話題にしません。自分が美味しいと思えばそのレストランに通うだけです。彼等はスーパーで生肉を買う時、肉を見ただけで美味か不味いか判断出来るのです。
日本人がイワシやサンマを買うとき魚の色合い、つや、弾力性などから美味しい魚を見分けて買うのと同じです。
ですから牛肉にブランドなどあるのは日本だけではないでしょうか。

そこで日本の牛肉のブランドについでに気楽に書いてみます。
1番目の写真は和牛を飼育している牧場の風景です。

(写真の出典は「和牛写真集」です。)
和牛が美味なことは本当のようです。和牛は現在は世界中に広がって飼育され、多くの外国人も和牛の味に感心しているという報道を見ました。
現在はオーストラリア、カナダ、アメリカやヨーロッパでも飼育されているようです。
始めは日本の大商社が日本へ輸入するために和牛の飼育をオーストラリアの牧場へ奨励したのがキッカケで、その後、現地の人々が好んで食べるようになったようです。

2番目の写真は和牛がオーストラリアから世界各国へ輸出されている経路を示した写真です。
3番目の写真はその和牛の肉の写真です。
 
(2番目と3番目の写真の出典は、http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2012/05/0530.html です。)

これら外国産の和牛にはブランド名がついていません。
外国では日本種の牛肉とか和牛と呼びますが、ブランド名はないのです。そこが日本と外国の違いです。

ところで、和牛と言っても、純粋の和牛など現在の市場に出回っていなのです。
三大和牛といって松坂牛や神戸牛や近江牛などをやたらに珍重していますが、それらは明治維新以来何度も体の大きい西洋牛と交配しています。要するに血統が正しくないのです。古来の和牛と西洋牛の雑種なのです。
本当に純粋な和牛を、「西洋種の牛の血が混じっていない日本古来の牛」 と定義すると、現在は2種類の牛だけになってしまいます。

萩市の沖合の離れ島の見島に生存している天然記念物の見島牛(みしまうし)と鹿児島県の離れ島に居る口之島牛だけです。
見島では7戸の「見島牛保存会」の農家が純粋種を守り続けています。食肉用として市場へ出荷されるのは年間12頭から13頭と言います。これこそが現在賞味されている全ての「霜降り肉」の元祖なのです。
4番目の写真にこの「霜降り肉」の写真を示します。

そして下の5番目の写真は昭和4年の見島牛のセリ売りの様子を示す写真です。

(写真の出典は、http://www.mishimaushi.com/mishimaushi.htmlです)

さてこの「見島牛(みしまうし)とは」というHPを見ると、「和牛の変遷」というスライドショーが右肩についています。良く出来た説明です。
それによると和牛は中国から朝鮮へ伝わり、そして見島へ伝わったそうです。やがて見島から日本全国へ伝わったと説明されています。
すると、「見島牛(みしまうし)」は「朝鮮牛」と呼んでも間違いがありません。
しかしこれも変な話です。中国の福建州や中国の東北地方の沿岸から直接日本へ運ばれてきた牛もいた筈です。それらは「中国牛」と呼ぶべきではないでしょうか?。(http://www.nrs.pref.yamaguchi.lg.jp/hp_open/a17606/00000001/misimausi.html#misima もご覧下さい。)

しかしもっと本格的に考えると日本には旧石器時代からオーロックスという野生の牛が跋扈していたのです。それを家畜化しなかったとは言い切れません。もしそうなら、それこそが本当に純粋な和牛ではないでしょうか?
ですからこそ私は和牛、和牛と騒ぐ最近の日本の食文にいささか疑問を感じているのです。
そして松坂牛や神戸牛や近江牛などをやたらに珍重している食文化を困ったものだと思っています。輸入牛でも美味しい部分を探して上手に料理をすれば良いだけのことです。

今日の題目に、「ブランドを過度に尊重する文化の軽薄さ、、、」などと大げさな題目を付けましたが内容が偏った一例だけで終わります。竜頭蛇尾でした。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカ人による銃乱射テロ、トランプ氏とクリントン氏は?」

2016年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム
また悲惨なテロ事件が起きました。アメリカの国籍を持っているイスラム教徒がフロリダのナイトトクラブで自動小銃を乱射して49人が死亡し、さらに50人ほどの人が負傷しました。すかさず中東のイスラム国がこのテロを実行したという声明を出しました。
犯人のオマル・マティーンはその場で射殺されました。
この事件で驚くべきことは犯人がアメリカ人であることです。両親はアフガニスタンから移民して、犯人のオマルはアメリカで生まれたイスラム教徒です。
彼はイスラム国と直接の関係は無く、勝手にイスラム国に忠誠を誓い、アメリカでテロを実行したのです。この事情は移民を厳しく規制している日本からは理解出来ない驚きです。
もう一つの驚きは軍隊で使うような高性能の自動小銃を市民が合法的に購入出来ることです。
以前、アメリカのホームセンターの片隅で猟銃やピストルを売っているコーナーを見たことはありましたが最近は自動小銃も売っているようです。猟銃ならハンティングという趣味の道具ですが、自動小銃は殺人兵器です。これも驚きです。
今回のテロ事件で犠牲になった49人のため欧米各地では花束を供え、人々が祈っています。
多くの日本人も心の中で犠牲者の冥福を祈っているに違いありません。
アメリカ人は大きな衝撃を受けております。

この衝撃的な悲劇を受けて次期大統領候補のクリントン氏とトランプ氏は再発防止のための方策を発表しました。
クリントン氏は銃規制を徹底すれば銃乱射によるテロは防げると主張しました。
一方、トランプ氏はそれでは防げないと言います。銃規制の厳しいフランスでさえ度々大規模なテロ事件がおきているではないかと言うのです。
それよりもかねてから言っていたイスラム教徒の入国を禁止し、移民は規制すべきだと言うのです。
今回の事件の犯人の両親はアフガニスタンからの移民でした。ですからトランプ氏は移民の審査を厳しくして移民全体を規制すべきと言うのです。

ここからは私の個人的な意見です。
私はクリントン氏とトランプ氏の両方の政策は実行困難だと考えています。
まずクリントン氏の銃規制はアメリカのライフル銃協会という強大な政治団体の反対にあって実行出来ません。この団体は銃猟の普及の他にアメリカ憲法にうたわれている個人の武装の自由を守るためにも運動しているのです。
アメリカの多くの家庭では自衛のためにピストルがしまってあります。まず使うことの無いピストルですが書斎の机の引き出しなどにしまってあります。私もそんなピストルを見たことがあります。
アメリカではピストル保持は基本的人権の一つと考えている人が多いのです。
ですから銃器規制は掛け声だけで終わってしまいます。

一方、トランプ氏のイスラム教徒入国禁止と移民規制は本当にテロを防止出来るでしょうか?
アメリカのイスラム教徒は、少なくとも200~300万人、メジャーな宗教団体の見解では600~700万人はいると考えられています。
今回のテロもそのようにすでにアメリカ国籍を持っている犯人によって起こされた事件なのです。
いくらイスラム教徒入国を禁止したり移民を規制してもテロは防止出来ません。反対にトランプ氏の考えに反発してイスラム教徒によるテロが増える可能性があるのです。
その上、自由な入国と移民は「平等と自由」を旗印にして発展してきたアメリカにとっては止めることは出来ません。その理想的な主義主張を泥の川に捨てることが出来ないと考える人が多いのです。

アメリカが、そしてNATO同盟の諸国が中東で軍事行動を続けているかぎりイスラム教徒によるテロの悲劇は避けられなのではないでしょうか。

人々が人類の愚かさに目覚め、世界に真の平和が来るように祈らざるを得ません。

今日はフロリダのテロ事件で犠牲になった方々の冥福を祈って、タチアオイの花の写真を送りします。先週、青梅市の吹上しょうぶ公園で撮った写真です。









80歳になっても夫婦関係は難しい!

2016年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
80歳になっても夫婦関係はつくづく難しいと思います。何時もは円満な関係の日々が流れていきますが、時々小さな言い争いになります。争いの原因はいろいろありますが、少し社会性のある原因の一つだけを取り出してご説明したいと思います。
それは言葉の発音と使い方です。家内は美しい日本語を大切にしています。
美しい日本語とは発音が美しく、なお且つ文章が美しくなければならないと言うのです。
そこでこの二つを区別して書いてみます。

(1)美しい発音とは何でしょう?
小生は仙台生まれの仙台育ちなので仙台弁が抜けません。一般に東北弁と言っても津軽弁は軽やかで音楽的な響きがします。仙台弁の私が聞いても美しいと思います。
しかるに仙台弁は重々しく、粘っこく、濁音が多くて自分が聞いてもなるほど美しくない方言だなと思います。例えば「雨にも負けず」は「あめっごぬも まげず」と発音します。
一方、家内は鎌倉生まれ東京育ちなので軽やかな東京弁を話ます。
東京弁は濁音が少なく粘っこくないのです。「あめにも まけず」と明瞭に発音します。
その上、イントネーションが東北弁と違います。
私は橋も箸も端も全く同じに発音しますが家内は違うと言って手本を示します。いくら手本の通り発音しても違うと言います。終いには方言には優劣が絶対に無いのだから家内が私の発音を真似るべきだと私が声を上げます。これで争いになるのです。
いきなり話は飛びますがフランス語とドイツ語の響きを比較してみましょう。意味は判りませんが、残念ながらフランス語のほうが格段に美しいと思います。少し勉強して馴染みのあるドイツ語の響きは美しくありません。ドイツ語は馬の話す言葉などと酷いことを言う人がいます。
しかしフランス語とドイツ語の間に優劣はありません。ですからこそ東京弁と仙台弁には優劣は絶対にないのです。しかし話している意味が通じない事が結婚55年経ってもまだあるのです。 家内が反省することを祈っています。

(2)日本語の文章の曖昧さが争いの原因
日本語は実に曖昧です。昔の話で恐縮ですが私は科学論文を沢山書いていた時期がありました。その折つくづく苦労したことは日本語の曖昧さです。同じ論文を英語で書くと実に明快な良い論文になるのです。
その日本語の曖昧さが夫婦の争いを起こすのです。
家内は何十年と源氏物語の勉強会を続けています。ですから話す言葉が曖昧になります。これではたまりません。意味不明なのです。
例を上げます。日本語では主語や目的語を省略します。前後の文章から誰が主語かを理解すべきなのです。主語抜きの会話が続き、意味が分からなくなって、いろいらするのは私です。大きな声で「主語をはっきり言いなさい」といいます。すると家内は主語をはっきり言わなくても分かって下さいと言います。
主語だけのことではありません。美意識は主観の相違ですが、とにかく古来の日本語を大切にしようとする姿勢には困ったものです。
私が誰が、何時、何処で何をしたかを明快に言いなさいといいます。

最近、日本語が乱れて汚い言葉や文章を使う人が増えてきました。私は敬語や丁寧語を使うのが良いと主張します。すると英語には敬語や丁寧語が無いのですから敬語や丁寧語は無くしたほうが良いと言う人がいます。これは大変な間違いです。成程、英語には敬語や丁寧語はありません。しかし相手を尊敬しているということを間接的に表現する言い方や丁寧語の相当する丁寧な言い回し方があるのです。それをあまり教えない日本の英語教育にはいささかの危惧を感じます。
英語の敬語や丁寧語に相当する言い回しについては長くなるので今日はこれくらいにして止めます。
今日の挿し絵代わりの写真は家内に敬意を表して最近、青梅市の吹上しょうぶ公園で彼女が撮った花々の写真を使いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









北極星信仰とハッブル宇宙望遠鏡の驚異・・・宗教と科学への想い

2016年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
おはようございます。今日は日曜日なので宗教に関する軽い小文を書いてみたいと思います。
今日の主題は宗教と科学は対立するものでないし、矛盾するものでもないということです。難しい屁理屈を展開するつもりはありません。
北極星信仰とハッブル宇宙望遠鏡で解明された宇宙を一例にして、宗教と科学は対立するものでないことを示したいと思います。

さて北極星信仰は日本では妙見信仰として、能勢の妙見様や各地に妙見堂があります。これは仏教とは異質の道教起源の信仰で中国から入って来たものです。
この宗教は北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰であり、日本では仏教と混淆し、北辰妙見菩薩に対する信仰に変化しました。
一方、神道と混淆したのが「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)です。
この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神すなわち天帝として崇める宗教なのです。そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。
1番目の写真に北極星の写真を示します。

2番目の写真は北斗七星とカシオペア座と北極星の位置関係を示す写真です。

この北極星と北斗七星の信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。
奈良の明日香にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代には北辰信仰が入っていたと考えられています。
この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見信仰へと変化していったのです。
私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の曹洞宗の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢妙見さんでした。本尊さんは北辰妙見菩薩なのです。 ですから能勢の妙見さんのことは昔から知っていた懐かしい場所なのです。
この妙見信仰のお寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
3番目と4番目の写真に能勢妙見の写真を示します。写真は、http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/nose-myouken.htmlからお借りしました。

 
この北極星は宇宙の中心であり、宇宙の全てを支配する最高神であるということは近代天文学では否定されています。
特に1990年に宇宙へ打ち上げられたハッブル宇宙望遠鏡は宇宙の実態を非常に広範に解明したのです。そこでこの宇宙望遠鏡について簡単にご紹介いたします。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%96%E3%83%AB%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1)
この宇宙望遠鏡は、地上約600km上空の軌道上を現在でも周回しています。
長さ13.1メートル、重さ11トンの筒型で、内側に反射望遠鏡を収めており、主鏡の直径は2.4メートルもあります。
大気や天候による影響を受けないため、地上からでは困難な高い精度での天体観測が可能なのです。
5番目の写真に地球の上を飛んでいるハッブル宇宙望遠鏡の写真を示します。

6番目の写真はこの宇宙望遠鏡で撮った星空です。

これまでにスペースシャトルが何度かこの望遠鏡を訪れ、宇宙飛行士が観測装置を補修したり、新しいカメラや分光器を取り付けるなどしてきました。
7番目の写真は宇宙飛行士がこの宇宙望遠鏡を修理している光景です。

この望遠鏡のお陰で数多くの発見がなされました。一つだけ書けば、太陽系以外の恒星の周りに惑星が存在する証拠を初めて得たのです。
そして宇宙は大きなスケールに渉り均一であることも判りました。
従って北極星が宇宙の中心だという妙見信仰は完全に否定されてしまったのです。

しかし北極星信仰をしている人々にとってはそれはどうでも良いのです。理性ではそうですかと受け入れますが、心では北極星が宇宙の中心にいて宇宙の全てを支配していると信じているのです。これは理性と心の違いです。理性は頭脳にありますが信仰はハートにあるのです。ですから科学と宗教は矛盾もしませんし、対立もしないのです。

余談ながら私はカトリックを信じています。上に書いたように科学で否定されていることでも聖書に書いてあることは全て信じています。
特に新約聖書に書いてある奇蹟は全て信じています。昔の私の職業は化学者でした。当時からカトリックでしたが、科学と宗教の矛盾を感じたことが一切無かったのです。
ご理解下さいとは申しません。ただ今日の小文を読み流してほんの少し考えて頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「梅雨の時期の貴重な晴天の日なのでドライブへ行きました」

2016年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は晴天でした。その前の1週間は雨か曇りで、今日の晴天の後はまた1週間ほど雨か曇りという予報です。今日も貴重な晴天の日なので秋川渓谷を遡り、数馬の里の手前で甲州の上野原へ抜ける峠道をゆっくりドライブして来ました。上野原からは甲州街道で相模湖に出て、そこから中央高速道路に上がり帰ってみました。
緑豊かな山道をゆっくり車を走らせていると心まで緑になりとても平和な気分になります。
秋川渓谷の写真3枚と相模湖の写真2枚をお送り致します。









ひどく時代遅れになってしまった80歳の小生

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
最近しきりに、80歳の自分が時代遅れになってしまったという想いが湧いてきます。
何故そういういうように思うのか分かりませんが、数日前に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に関する小文を書いたときつくづくそんな想いが湧いてきたのです。
一つには「銀河鉄道999」は知っているが「銀河鉄道の夜」は知らない若い人々が多くなってきたからかも知れません。その上、「銀河鉄道の夜」には現在の人々には理解困難な部分が多いような記述が沢山あるのです。そのような作品が好きな自分は間違いなく時代遅れです。
今日は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を実例にして何故、自分がひどく時代遅れになったと感じれるかをご説明したいと思います。
まずこの「雨ニモマケズ」の内容に従って私は贅沢を望まず国家のために役に立つ人間になろうと思っていたのです。それは単なる思いだけで実行は出来ませんでしたが。
この考え方は戦後すぐに文部省の中学校の国定教科書のこの詩が掲載されていたことに影響を受けたお陰と思います。
私の中学校では特攻隊帰りの教師が教えていたので「国家の復興のため」を強調し過ぎたのかも知れません。
ところで最近考えてみると、私が目標にしていた「自分は質素な生活をして国家の為になる」という考え方が古いようです。
その上、この詩の内容が現在という時代に合わない部分があちこちにあるのです。それではこの詩を読んでみましょう。

「雨ニモマケズ」  宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭の
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

上にはこの詩に続いて書いてあった賢治の信仰告白の部分をつけてあります。普通、この宗教的な部分は削除されています。

この詩の中で現在の時代とかけ離れた部分を3ケ所だけご紹介します。
(1)一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
こんな食生活は現代離れし過ぎています。
(2)ヒドリノトキハナミダヲナガシ  サムサノナツハオロオロアルキ
この部分は賢治が日照り続きや寒い夏で東北地方の農民が困るのを憂い悲しんでいる部分です。
しかし現在の米の生産量は年度にもよりますが北海道が1位で、続いて青森県そして秋田県、岩手県、宮城県、新潟県となっています。
東北地方の冷害による米の減収はあまりにも古い話です。稲の品種改良のお陰です。賢治がサムサノナツハオロオロアルク必要がなくなったのです。それは時代遅れです。
(3) ミンナニデクノボートヨバレ
現在の日本では差別用語廃止で「デクノボー」と呼ぶ人はいません。時代が違うのです。

この詩が好きな私も時代遅れなことは明白です。
何故、この詩が好きなのでしょうか?その理由はこの詩が賢治の祈りの文章だから好きなのです。この詩の内容のような人間になりたいのでお釈迦さま助けて下さいという祈りなのです。
このような解釈は、「賢治と法華経」http://matome.naver.jp/odai/2138154465952826401 に説明してありますから省略します。
皆様よくご存知のように、賢治は生涯、法華経の行者でした。24歳のときに国柱会に入信して、以来、亡くなるまで法華経を説きます。
遺言にも『国訳妙法蓮華経』を千部印刷し、周りに頒布するよう書いています。
経のお釈迦様の教えに触れて無上の道に導かれるようにするのが、自分の生涯の仕事だったのです。ですから「雨ニモマケズ」は法華経の祈りを描いたものだといわれています。
そして賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と信じていたのです。この部分は「宮沢賢治生誕百年に寄せる 「雨ニモマケズ」入門」を検索して児玉 正幸さんの説明をお読み頂ければ良いと思います。

今日の結論です。賢治の作品のいろいろな部分は時代遅れだが、その趣旨や歌い上げられている精神は決して時代遅れではないのです。
同じように私の知識は時代遅れになってしまいましたが、精神は絶対に時代遅れではないのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、青梅市の吹上しょうぶ公園で撮って来た写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「梅雨の晴れ間、今日は青梅市吹上しょうぶ公園に行きました」

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は梅雨の間の晴れ日で朝から快晴です。青梅市の郊外の山の中にある吹上しょうぶ公園に行きました。山からの風に吹かれて菖蒲の花の間を歩いていると夢幻の世界に踏み込んだような気分になります。
周囲の風景が良いので家内も満足していました。
場所については、http://www.city.ome.tokyo.jp/koen/shobu_koen.html をご覧ください。
吹上しょうぶ公園の写真を3枚お送りいたします。
JR青梅駅からタクシーで10分くらいの所です。車の有料駐車場は1日400円で入園料は1人200円です。公園内に簡単な軽食を出しているテントがあり昼食が食べれます。流石に梅ジュースは美味でした。





間も無く邯鄲の夢も店仕舞い、し残した2つの趣味

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
一生の間に一度はしてみたいという趣味があります。しかし80歳の老境に至った現在は儚い夢として終わりそうです。
そこで、せめてその趣味を2つ書き残したいと思います。
(1)スウェーデンの古民家を忠実に再現し、そこに住み込む趣味。
最近、田舎暮らしが流行のようで雑誌やテレビでよく紹介されています。
もう随分と昔の話ですが、1972年、ストックホルムの大学へ集中講義に行ったことがあります。その折に、その大学のエケトロプ教授が自宅に招待してくれました。
驚いたことに彼は田舎暮らしを満喫していたのです。
郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を造って住んでいるのです。夏の終わりに数日泊めてくれました。
学者らしく、昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはないのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてあります。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをするのです。深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなります。
大きな石造の煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。
寝室には電気が無く、灯りはローソクです。
昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけ。テレビはありませんでした。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。古い農家を再現するときの苦労話を聞きながらその強い酒を少しずつ飲みます。
夜が更ければ寝室へ引き揚げます。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていたものでした。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで昔泊めて貰ったあのスウェーデンの古民家に似た画像をいろいろ探しました。似ている古民家の写真を見つけましたので下にお送りいたします。

(写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。)

(写真の出典は、http://hanatomo31.exblog.jp/16424403 です。)
1番目の写真の古民家では外壁が板壁になっていますが、私が泊まった家は窓から上の部分は白い土壁でした。屋根は藁葺でした。
日本でも古民家を復元して住んでいる人がいます。羨ましい趣味です。しかし80歳の私には古民家を復元する元気がもうありません。
この世でし残した儚い夢として終わりそうです。
古民家をテレビで見る楽しみだけですが、見るたびにスウェーデンの古民家に泊まったことを懐かしく思い出します。
(2)8頭のサラブレット馬を飼う趣味。
これも昔のことですが、1989年、オハイオ州コロンバス郊外にサラブレットを八頭も飼っている中年女性に会ったことがありました。
彼女は大学で計測器の操作を担当していた技術者です。
毎年夏の終わりごろ、職場の教授、学生を家族連れで馬小屋前のバーベキューパーテイーに招待してくれるのです。
子供も大人もおとなしいサラブレットに乗れるので人気があるパーティです。
馬小屋といっても、中心の通路に向かい八頭の馬の個室があります。
そして通路の先は百坪ぐらいの屋内乗馬スペースになっています。冬でも馬に乗れるようになっているのです。
女性用の乗馬服に身を固めた飼い主が客の座っているテーブルを回りながら談笑します。私のテーブルにも回って来ました。
私が、「8頭とも姿が素晴らしい。馬を飼うとは良い趣味ですね」と言いました。
彼女は「とてもお金がかかるのですよ」と答えます。そして続けて言ったのです。「幸い、いや不幸と言うべきか、5年前の離婚の時、大きな慰謝料を貰ったのです。それで少女時代からの夢であった馬を飼うことにしたのです」と。何か少し淋しそうです。
「いつまでも続けるのですか?」「学科主任に契約は延長しないと言われたので、来年は馬も手放してコロンバスから出ていきます。仕事も面白かったし、念願の馬も八頭も飼えたし、この土地には楽しい思い出だけです」「お元気で引越しをなさってください」「有難うございます。またいつか会えるでしょう」
それ以来、彼女に会うことはないが、馬を見ると彼女の輝く、そして少し淋しそうな顔を思い出します。
欧米の趣味にはスケールの大きいものもあると吃驚しました。そして心にゆとりがあり無理が無いのです。
日本にも馬を飼う趣味の人がいます。
木曾の御岳山の中腹で日本古来の木曽駒を飼っているのです。その写真を下に示します。

(写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.html です。)

私は子供のころ馬に蹴とばされたことがあります。それ以来、馬が怖くて近寄れません。しかし家内が大学時代に乗馬クラブにいたので、その影響で私も馬が好きになりました。九州の野生馬や北海道の道産馬も見に行ったことがあります。九州の「都井岬」には、江戸時代の高鍋藩の藩営牧場があり、100頭ほどの「御崎馬」が野生化して自然の中に棲んでいます。
そして木曽駒は5、6回も見に行きました。ここの感動的なことは広い牧場を数頭の木曽駒が何時も走り回って、遊んでいることです。馬が遊びで疾駆している光景は感動的な光景です。厩舎に入って馬にも触れますし、乗馬もできます。家内が乗馬を楽しんでいました。それも随分と昔になったものです。
馬を飼うという趣味もこの世の儚い夢として終りそうです。
このような古民家に住む趣味と馬を飼う趣味は出来ませんでしたが、心残りはありません。そのような趣味があることを知っただけでも幸せでした。さて皆様はどのような趣味をし残したでしょうか?お聞かせくだされば幸せです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

梅雨にはアジサイの花、そして白居易の紫陽花の漢詩

2016年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨に入りましたね。これから毎日、雨や曇りの日が続き、鬱陶しい気持ちになります。
しかしこの季節には色とりどりのアジサイの花々が咲き人々の心を明るくしてくれます。その上、白、青、紫、赤などの花の色も時間とともに変化していきます。
このアジサイは日本古来の花で万葉集にも和歌があります。そしてアジサイは漢字で紫陽花と書きますが、それは白居易の紫陽花の漢詩に由来しています。
この紫陽花の原産地は日本と言われています。ヨーロッパで品種改良されアジア、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用に広く栽培されている花です。
高齢の方々は雨の中で鮮やかに咲いていた紫陽花の花にいろいろな思い出をお持ちと存じます。その思い出を回想しながらこの短いコラムをお楽しみ下さい。
そこで今日はまず紫陽花の花の写真をご覧頂きたいと思います。その後に万葉集の紫陽花の歌と白居易の紫陽花の漢詩をご紹介致します。

ここに示す5枚の写真は薬草植物園や東村山の北公園や神代植物公園で自分で今年、撮った写真です。







これらの写真の5番目の写真はガクアジサイと言います。もっと鮮やかなガクアジサイが多種あり、私の好きな種類です。
このガクアジサイは房総半島、三浦半島、伊豆半島、伊豆諸島、足摺岬、南硫黄島、北硫黄島などの海岸に自生しているそうです。
もともとは海岸に自生していたので、ハマアジサイとも呼ばれる時もあるそうです。

アジサイは『万葉集』では「味狭藍」や「安治佐為」と万葉仮名で書かれています。ですから日本では古くから「アジサイ」と似た発音で呼ばれていたようです。
万葉集の巻二十、4448に収められる橘諸兄の「味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて」詠んだ歌をご紹介します。

あじさゐの八重さくごとく八つ代にを いませ我が背子見つつ偲ばむ

アジサイが幾重にも重なって咲く様子から、そのようにいつまでも健やかにいて下さいと夫を偲んでいる様子を歌っています。

さて現在、日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易の漢詩に由来します。
彼が杭州の長官だった頃、郊外にある招賢寺という山寺を訪れると、そこにひっそりと咲く見知らぬ花を見出しました。白居易はこの花を「紫陽花」と名付けて、次の七言絶句一首を作ったのです。

何年植向仙壇上   
早晩移栽到梵家   
雖在人間人不識   
与君名作紫陽花   

何れの年に植えて仙壇上に向かう
早晩移し栽えて梵家に到る
人間に在りと雖も人識らず
君に名を与えて紫陽花と作す


いつのころに仙人の世界で植えられたのだろう
いつ、それがこの寺にまで植えられるようになったのだろう
人間の世界にありとはいえども、誰もその名前も知らない
貴方に紫陽花と言う名前を上げましょう。


しかし白居易は別の花、おそらくライラックを見て紫陽花と言ったと言われています。平安時代の学者源順がアジサイにこの漢字をあてたことから誤って広まったそうです。
現在の中国語ではアジサイのことを「綉球花」あるいは「八仙花」と書くそうです。。

皆様ご存知の通り、白居易は白楽天ともいい9世紀中国の詩人です。生涯に作った詩は膨大な数に及び彼自身の自選による「白氏文集」(845年)には3840編以上の詩がおさめられていたと言います。

さてこれから気分が滅入りがちな梅雨の季節が続きます。雨にも負けず近所の紫陽花の花を観賞したり写真に撮ったして楽しく過ごしましょう。紫陽花の花は根気よく8月まで咲いています。紫陽花のある風景は梅雨の時期の風物詩です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

参考文献:
アジサイ、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4
白居易の漢詩、http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/05da4b266036137cd5f09eec1d419526

健全なインターネット社会の発展の為にお互いが守るべき3つの事

2016年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
インターネットが普及してからもう何年になるのでしょう。周知の通り、インターネットは広い分野で様々に利用され、現在の生活には欠かせない重要なものになっています。
ブログもその利用の一つで、このgooブログでも251万人もの方々がブログを書いています。私自身は2007年11月からブログを始め、毎日、記事を更新してきました。
この間、常に健全なインターネット社会の発展を願って来ました。
私の出来ることは限られていますが、記事を書いたり、他の方々の記事にコメントを投稿する場合に心がけ守ってきたことが3つあります。
そこで今日はインターネット社会の健全な発展の為に、お互いが守るべき3つの事を簡略に書いてみたいと思います。これはあくまでも私の個人的な想いであり、間違っているかも知れません。しかし少しでもご参考になれば幸せです。

お互いに守るべき3つのこととは、言論の自由を守る、礼儀正しいコメントを送る、そして美しい日本語を使うという3つのことです。
それでは下にもう少し詳しいご説明をいたします。

(1)他人の言論の自由を守る
ブログで他人様の日記や評論記事を読んだときはその言論の自由を最優先に守るように心がけています。
インターネットでは自分の考えとは違う意見や主張を読むことがあります。特にその文章が余りにも常識を外れたものの場合は少し不愉快になります。そしてその文章を排除したくなります。私はこの考えが起きた場合は、「言論の自由」という呪文を唱えます。そして言論の自由と深く関連した「個人の尊厳」を想うのです。すると自分の拒絶反応や嫌悪感が不思議と消えてしまいます。
その結果、不愉快な文章の中にも新しい視点や問題提起が見えてくるのです。
ついでに個人の尊厳に関して言えば、他人の文書を本人の許可無しで引用しないことです。
このように書くと私が何時も確実にこれを守っているかのようにみえます。しかし時々この鉄則を守らないことが起きます。
最近もつい他人の文書を本人の許可無しで引用してしまい大変ご迷惑をおかけしたことがあります。謝罪しましたが慙愧の念が残りました。

(2)他人の文章にコメントを送る場合は礼儀正しい言葉を使う
他人の文章にコメントを送る場合には礼儀正しくします。
まず冒頭に他人の文章の内容の良い点を褒めるのが鉄則です。その後で、その文章の内容の弱点を礼儀正しく指摘し、自分の考えを明快に書きます。
このようにすると相手は感情的にならないで、建設的な議論になります。
礼儀正しい文章とは相手を尊敬して敬語や丁寧語を使うのですが、そのことは皆様ご承知のことなので省略します。
案外出来ないことは「冒頭に他人の文章の内容の良い点を褒める」ことです。どんな変な内容の文章でも書いた人が狂人でない限り必ず良い点が含まれていることです。
その良い点を発見出来なかったらコメントを送るべきではありません。読み流して忘れることが重要なのです。
インターネットでは書いてる人がほぼ全員は素人なのです。プロの評論家でもプロの小説家でもありません。他人の評価に耐える訓練を受けてないのです。健全なインターネット社会の発展の為には礼儀正しいことが非常に重要だと思います。

(3)美しい日本語を使う努力をする
上に書いた(1)と(2)はお互いに守るべき最優先事項です。3番目のこの努力目標は私の個人的な好みの問題なので皆様もご意見も分かれると思います。
大体にして「美しい日本語」とは何でしょう?私の定義では学校の教科書に使われている日本語です。それに地方地方の美しい方言を加えたものが私の考えている美し日本語です。
奇をてらったような言葉やコンピューターの絵文字を過度に多くつかった文章は好きになれません。
しかしそのような文章でも絶対に排除しようと考えないように私はしています。それは何度も書いて、くどいのですが、優先事項の(1)と(2)に反する考えなのです。
私自身はブログの他にFace Book にも文章や写真を掲載しています。そうすると外国人の方が上記の(1)と(2)を意識しているような感じを受けています。単なる感じで正否はわかりませんが、Face Bookで頂くコメントはみな実に礼儀正しいのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、神代植物公園のサツキの盆栽展で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









銀河鉄道と言えば「銀河鉄道999」か「銀河鉄道の夜」

2016年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

(上の1番目の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/rocky1010akio/folder/1148396.html?m=lc&p=5です。)

銀河鉄道と言えば松本零士の「銀河鉄道999」と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が有名です。
高齢者は宮沢賢治の作品を読んで感銘を受けましたが、最近の人々は松本零士の作品をテレビなどで見て楽しんでいます。
この二つの作品のどちらを読んだり見ているかによって年齢層が分かれるようです。
どちらが先に発表されたかと言えば勿論、賢治の「銀河鉄道の夜」です。松本零士はそれに感銘を受け彼独自の宇宙観を加えて全く新しいSF漫画を描き、テレビのアニメ番組やアニメ映画になったものです。
この松本零士の漫画は、1977年から1981年にかけて、「少年キング」の作品として連載されました。そして1977年度には小学館漫画賞を受賞しました。連載中にテレビアニメ化や劇場アニメ化されて大ヒットしてアニメブームの原点になった歴史的な傑作です。そして『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』とともに昭和50年代の松本零士ブームをも巻き起こした。
このSF漫画は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』をヒントにしています。
全体的に寓話性や教訓性がやや強いものの、物語や登場人物の印象的な描写によって多くの人々を魅了したのです。
物語の枠組みは『銀河鉄道の夜』に登場する銀河鉄道をもとにしていますが、列車や運行システムの細部は日本の旧国鉄をモデルとしているそうです。
このような背景があるので銀河鉄道と言えば松本零士の「銀河鉄道999」を思い出す人々が多いのです。そして宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が少しずつ忘れ去られて行くのでしょう。
そこで今日は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を私が理解した範囲でご紹介したいと思います。
宮沢賢治は法華経を信じていました。そして一方では日本の近代文学に名を残す数多くの童話を書いたのです。
この世の全ての人が幸福にならなければ自分は幸せになれないという信仰を実行して、悩んで、生きて、死んだのです。1896年(明治29年)に生まれ、1933年(昭和8年)に亡くなりました。享年38歳の短い人生でした。

宮沢賢治の作品は彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから「銀河鉄道の夜」も読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。
筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。
第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。

この作品のあらすじです。
夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。一方ザネリは助かるのです。
カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。

その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いてありませんが、私はそのように想像しています。

最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。

この作品のキーは死んでしまった愛する人と再開するという奇蹟です。再開出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。

カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。
行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。
ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねばなりません。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は難しくて自分には分からないと言う人が多いものです。
しかし非常に感動的で、内容の深い、そして美しい作品であることには間違いありません。

この作品の難解な部分は、
七、北十字とプリオシン海岸、
八、鳥を捕る人、
九、ジョバンニの切符、と終わりまです。
この銀河鉄道は軽便鉄道をモデルにしたそうです。そして銀河鉄道の客車がこの世のものでなく、あの世の列車だと描きたかったためにいろいろ不思議なエピソードを長々と書き込んだのでしょう。
車窓から見える風景もこの世の常識では理解されないものです。それは夢幻の世界なので脈略がありません。一貫したストーリがありません。その上、登場人物も風景も数が多過ぎます。

そして、(十)の友との訣別とジョバン二のこの世への帰還で終わります。
カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。
「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」
その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。

それはそれれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


(2番目のの写真の出典は、http://gensun.org/pid/86817 です。)

(3番目の写真の出典は、http://www.voiceblog.jp/ilmuffin/car36.html です。)