後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

オバマ大統領とトランプ大統領候補のあまりにも違うものの考え方

2016年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム
オバマ大統領の広島訪問と核兵器廃絶の演説は多くの日本人に感銘を与えました。
それからしばらく考えていたのですが、オバマ大統領とトランプ大統領候補のあまりにも違うものの考え方について気楽に書いてみます。
間違っているかも知れませんが読み流し楽しんで頂ければ嬉しく思います。
結論を先に書けばオバマ大統領は理想を語ることを大切にしている理念型の大統領です。かたやトランプ大統領候補は理想を語らず、あくまでもアメリカが得をする現実的な政策のみを考える現実主義型の大統領候補です。
この二人の考え方は非常に対照的で興味深い考え方です。
この違いをもう少し明確に描くために核兵器廃絶、差別主義、安保体制の3項目の3つに絞って両者の違いを整理してみましょう。

(1)核兵器廃絶に関する両者の考え方の違い
オバマ大統領は核兵器廃絶の主張を大学生の頃から持っていたそうです。それは、「付け焼刃」ではないのです。2009年のプラハで行った演説を読むと核兵器廃絶への信念と情熱が胸に迫った来ます。彼自身、その核廃絶は非常に困難であり、彼が生きている間には実現出来ないということを知っています。この演説は非常に高く評価され、ノーベル平和賞を受けました。
オバマさんを非難する人は彼自身何も実行しなかった。核兵器は少しも減っていないと言います。
しかし彼は世界中の人々が真剣に考えるべき問題を力強く提起したのです。それを受けて今回の広島演説があったのです。
アメリカ大統領であるオバマさんが、人類の理想を語り、世界の多くの人々の心の中の希望のともし火を消さないようにと訴えたのです。それは現実主義ではありませんが、アメリカが世界に影響を与えるリーダーシップの一つとして考えられます。

かたや一方、トランプ氏は各国が勝手に自分の力で核武装するなら、それで良いという考えです。アメリカの核戦力が他国に比べて圧倒的に強ければそれで良いのです。実現不可能な核廃絶など考えないで現実的な政策をとるべきだという考えのようです。
このトランプ氏の核武装に関する考え方はオバマさんの考えと正反対ではないでしょうか。

(2)差別主義に関する両者の考えの相違
オバマさんは黒人としてアメリカ社会で育ち大統領にまでなった人です。黒人差別は無くなったというアメリカ社会でも心無い人々の差別が必ずあったと想像できます。オバマさんは全ての差別主義的考えを悪いと思っているに違いありません。それが証拠には大統領就任以来、オバマさんは差別主義的な発言を一切していません。

一方、トランプ氏は差別主義の権化のような発言を繰り返しています。イスラム教徒はアメリカへ入国を禁止する。メキシコ人は悪いことばかりするから国境に壁を作ってアメリカへの密入国を完全に防ぐ。こんな発言を繰り返しています。
ここで注目すべきはトランプ氏は絶対に黒人差別を公言しないことです。それは選挙戦で致命的なマイナスになると考えているのでしょう。
しかし差別を気楽に公言する人は全てのことで差別をすることが好きなのです。一旦大統領になったら従来の黒人優遇政策はかなり弱体化すると思われます。
そしてトランプ氏はイスラム教徒を差別したいのかもしれません。もし彼が大統領になったら中東地域の反米勢力を壊滅させる強い政策を実行する可能性があります。まさか核兵器は使わないでしょうが、大規模な地上軍を送り込むも知れません。
トランプ氏は損得勘定に長けた人です。アメリカの得にならない日本人や外国人の永住権申請は厳しく審査されるようになるでしょう。

(3)日米安保体制に対する両者の考え方の違い
オバマさんは従来の日米安保の歴史を重視し、それを一層強化しようとする考えです。例えば今回の広島訪問の前に日米共同利用の岩国基地を訪問して、日米両国の3000人の将兵を前にし日米安保の重要性を述べたのです。そして日米の軍隊が良く協力して任務を遂行すべしと演説したのです。

一方、トランプ氏は日米安保はアメリカの得にならないので全面的に見直すべきだと何度も公言しています。
彼の考えはアメリカが一方的にお金を出しているのにアメリカの得が少なすぎると言っているのです。
彼はあくまでも損得勘定で日米安保体制を考えているのです。この両者の違いは歴然としています。

以上はあくまで私の個人的感想です。正しいと主張する気持ちは毛頭ありません。
今日の挿し絵代わりの写真はあやめ(しょうぶ)の花の写真です。1番目の写真のあやめは潮来から持って来て庭で育てているあやめです。今年、はじめて咲いた花です。2番目と3番目の写真は先日、東村山市の北公園で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





江戸時代250年の隠れキリシタンの歴史を世界遺産へ

2016年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム
よく言われることですが、江戸時代の禁教政策は 日本が欧米の植民地になるのを防いだといいます。そのお陰で明治維新で自らの手で近代国家を作りあげることが出来たのです。
このようなキリシタン禁教の歴史の評価は間違っていないでしょう。
その一方で隠れキリシタンの歴史は日本民族の精神力の強さを証明しています。従って隠れキリシタンを精神文化の視点から評価すると日本民族が誇りに思えるような素晴らしい歴史的事実だったのです。
そこで政府は昨年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産認定の候補としてユネスコへ申請書を提出しました。しかし認定の基準に合わない点が出て来たために一度取り下げることにしました。不備な点を補強して再度提出することになったのです。
今日は日曜日なので、隠れキリシタンの歴史を簡略にご紹介いたします。
ご承知のように、長崎県の隠れキリシタンは250年の禁教を耐え忍びました。そして幕末の1865年にフランス人の神父の前に突然現れて、はじめて信仰を告白します。しかしそれは時期が早過ぎたのです。幕府も、その後の明治政府も禁教令を明治6年まで墨守し、その間の8年間にキリシタンが多数捕縛され各地へ流され、拷問され、殺されたのです。それは浦上崩れとか五島崩れと呼ばれるキリシタンの流刑と処刑です。
そして明治6年になってやっと晴れて信仰が公に認められ自由になったのです。
ローマ法王のもとに帰り、カトリック教徒になった信者たちはかつての辛酸をきわめた歴史の反動で熱狂的な宗教活動を繰り広げたのです。それは禁教の250年の間に溜まったエネルギーが一挙に爆発したようなものです。それは長崎県全域で起きました。しかし何と言っても隠れキリシタンが仏教徒を装って多数住んでいた五島列島で激しく燃え上がりました。
現在、五島列島にはる50ケ所ものカトリック教会hがあるのです。
(http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htmです。)
現在、五島列島の北半分の島々は新上五島町となり下五島は五島市という2つの自治体になっています。
この50の教会はすべて長崎大司教区に属し、その上のフランシスコ法王に直結しています。50もの教会にすべて常住の主任司祭はおけないので幾つかずつに分けて巡回教会のグループをつくり、時間をずらしてミサを行っています。

上の1番目の写真は昨年の4月に訪れた堂崎天主堂で、内部は隠れキリシタン関連の展示場になっています。
延べ幾万人の足裏ですり減った踏み絵の青銅のキリスト像があります。ここの祭壇や柳天井、そしてステンドグラスは創建当時のままです。
長崎県の古いカトリック教会は初期に多くのフランス人神父の指導で作られたのでフランスの田舎の教会のような雰囲気を持っています。

2番目の写真は日本最古のルルドの泉の上に立っているマリア様の像です。福江島の井持浦教会の左わきにありました。

http://gigazine.net/news/20111017_lourdes_japan/の資料によると以下のようです。
「1858年にフランスのルルドで聖母がベルナデッタという少女の前に姿を現し、そこの場所がルルドの泉と言います。バチカン市国も認定したので、現在でも当地を訪れる巡礼者は後を絶ちません。
1891年に当時のローマ法王レオ13世が自らバチカンにルルドの泉の模型を造らせたことから、世界中で「ルルドの泉」が造られるようになったのです。五島列島では、その8年後の1899年(明治32年)に、日本で初めて福江島の井持浦教会にルルドの泉が造られました。」

3番目の写真は磔にされた聖ヨハネ五島の等身大の彫刻です。堂崎天主堂の入り口の向側にありました。聖ヨハネ五島は日本二十六聖人の一人です。
以下は、(http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/nihontabi/nagasaki4.html)から抜粋しました。
ヨハネ五島はこの五島の出身ですが、どこで生まれたのかははっきりわかっていません。両親ともキリシタンの家庭で育ち、長崎と天草のセミナリヨで学びました。
その後大坂に出てモレホン神父の同宿(どうしゅく)になり、一緒に暮らして手伝いをしていたのですが、神父を逮捕しようとして役人がやってきた時に、素早く神父を隠れさせ、代わりに自分が捕まりました。
モレホン神父は二十六聖人の殉教の様子を詳しい報告書にしてローマへ送ります。
神父はその後追放令にあってマカオに行きますが、そこで遺骨となってマカオの修道院に送られてきたヨハネ五島と再会します。

4番目の写真は堂崎天主堂に展示してあった五島列島出身の司祭さんたちの写真です。展示ではこの3倍位の人数の司祭さんたちの写真が並んでいました。一生独身をとうし神に仕え信者の世話をした神父さん達です。それは現在でもカトリック集落の信仰の支えになっています。

観光バスの車窓から見るとキリシタン墓地もあります。五島列島で多数見られるのは仏教風の墓地です。江戸時代から目立つところに作られ仏教徒をよそう必要があったのです。幕府の役人が検分しやすいように道端や丘の上に仏教風の墓場がありました。江戸時代のキリシタンはお葬式を仏式とキリシタン式の2回したそうです。

5番目の写真は頭ケ島教会の下にあったキリシタン墓地です。
政府が用意している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の全体については参考資料で示しました。
このような日本民族の精神力の強さを示す世界の文化遺産として 認定されることを祈っています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=======
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)

そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
 大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市

(2)出津教会堂と関連施設
 禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
 ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
 出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(3)大野教会堂
 ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
 山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
 自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市

(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市

(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
   その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)

(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町

(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町

(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。

過疎地域と獣害地域の重なりが深刻な悲劇

2016年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
人々は都会に住んだり静かな農村や漁村に住んだりしていろいろなライフスタイルで日々を過ごしています。
ところが山地が近い農村や山が迫った辺鄙な漁村では過疎化が進み、さらにイノシシやサルやシカによる作物の獣害が重なり深刻な問題になっています。
猪や猿や鹿を駆除しようとすると都会に住んでいる人々が動物が可哀そうだと反対します。過疎地域に住んでいる人々の窮状が理解出来ないのです。
過疎化や獣害に関しては人それぞれ異なった意見を持っています。それも仕方のない事ですが、今日は山梨県を一例として過疎化や獣害について書いてみようと思います。観念的で主観的な文章ですがお許し下さい。
読み流して少しだけこの問題をお考え頂ければ嬉しく思います。そしてご自分がお住まいの県ではどのうようになっているかをお教え頂ければ感謝いたします。
それでは写真に従ってご説明いたします。

この1番目の写真は山梨県の西部にある甲斐駒岳です。写真には写っていませんが右手に八ヶ岳があり、この2つの山の山麓が北杜市になっています。この北杜市の旧武川村などの地域が過疎地域になっています。その上、ここでは猪や猿や鹿が跳梁し獣害が酷い地域です。

上の2番目の写真は甲斐駒岳の山麓にある私の小屋です。手前の小川の傍はイノシシのヌタ場になっています。1974年に建ててから毎月2度ほど通っています。ですから付近の集落の過疎化の進み具合がよく分かるのです。乳牛を飼っていた人が山を下りました。養鶏業の人が亡くなりました。その周囲の家々がいつの間にか廃屋になっています。

上の3番目の写真はこの小屋の周囲の雑木林の写真です。実はこの写真の代わりにイノシシに荒らされヌタ場にされた小川の岸辺の写真を示そうと思ったのですが、写真が暗くて汚過ぎたので雑木林の木漏れ日の写真にしました。
この小屋で遊んでいるとサルの群れがやってきます。早く走れない私に気兼ねなく10mくらいの傍までやって来ます。カメラを持つと一斉に走り去ります。写真を非常に嫌がります。
この小屋の周りはイノシシやサルだけでなく鹿や狐や雉がいます。春セミが鳴いて良い場所ですが永住出来る場所ではありません。
こういう場所を過疎地域と言います。そして過疎地域の多くは獣害が酷い地域なのです。
それでは全国の過疎地域はどのように分布しているのでしょうか?
その答えは「全国市町村過疎地域マップ」、http://www.kaso-net.or.jp/kaso-map.htm にあります。
その中から山梨県の部分のマップを示します。

この4番目のマップは山梨県の過疎地域を示す地図です。緑色の所が過疎市町村でピンクの場所が過疎地域を含む市町村です。白は過疎地域の無い甲府盆地の平地地域です。
私の小屋は北杜市の旧武川村にあるので過疎地域になっています。そして獣害が酷いのです。成程と納得します。

それでは全国の過疎地域はどのようになっているでしょうか?
総務省が指定している過疎地域を示すと下記のようになっています。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E7%96%8E%E5%9C%B0%E5%9F%9F)
平成22年の過疎地域面積は国土の57.3%にあたる216,000平方km、過疎地域人口は8.8%の1120万人となっています。
神奈川県を除く全ての都道府県に、過疎地域に指定された市町村が存在するのです。

東京都は奥多摩地域と伊豆諸島に過疎地域があります。(檜原村、奥多摩町、大島町、新島村、三宅村、青ヶ島村)。
大阪府は長い間、神奈川県とともに過疎地域に指定されている市町村が一つもなかったが、2014年4月1日付で南河内郡千早赤阪村が過疎地域に指定されました。

過疎化の背景として若者の都市部への流出や雇用の場の不足等があり、その結果高齢化が進んでいるのは皆様ご存知の通りです。
この対策として政府は過疎地域自立促進特別措置法の他に「特定農山村地域における農林業等の活性化のための基盤整備の促進に関する法律」や「山村振興法」等を制定してきました。しかしそれも焼け石に水のようです。

例えば山梨県では下のように実に多くの市町村が過疎地域になっているのです。
甲府市(旧上九一色村)
山梨市(旧牧丘町、旧三富村)
南アルプス市(旧芦安村)
北杜市(旧須玉町、旧白州町、旧武川村
甲州市(旧大和村)
笛吹市(旧芦川村)
富士川町(旧鰍沢町)
富士河口湖町(旧上九一色村)
以上簡明に書けば富士山、甲斐駒岳、八ヶ岳の周囲は過疎化していて甲府盆地は過疎化していません。
しかも過疎化や山村だけでなく山が迫った辺鄙な漁村でも全く同様なのです。
その詳細は岡 敬三著、「港を回れば日本が見える」2009年、東京新聞出版局に書いてあります。
あまり長くなるので今日はこの辺で失礼いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

梅雨入り前の爽やかな風景のいろいろ

2016年06月03日 | 写真
間も無く梅雨に入る季節になりました。晴天の日が何となく貴重に思える今日この頃です。
昨日はブログ記事を書いてから、ブラリと家を出ました。山梨県の甲斐駒岳や八ヶ岳の梅雨入り前の姿を写真に撮ろうというつもりです。
田植を終わった水田には稲も伸びて美しい緑になっている筈です。
山にわけ入れば空を覆う雑木の梢からの木漏れ日がやがてやって来る夏の日々を想わせるでしょう。
そんなことを考えながら、いつものように中央高速道路を走りました。
何度も通っている道なので道路の曲がりや凸凹を知っています。走る多数の車の走り癖も知っています。気楽なドライブです。
周囲の山並みの上に白い雲が乱舞しています。快晴ですが雲の形が梅雨入りが近いことを暗示しているようです。
途中の初狩サービスエリアに車を入れてまず富士山の写真を撮りました。
下にそんな梅雨入り前のいろいろな風景写真をお送りします。

上の1番目の写真は初狩から見た富士山です。梅雨に入ると残雪が次第に融け、真夏には完全に消えてしまいます。

2番目の写真は甲斐駒岳です。風の強い日でしたので白い雲が山稜の上を舞い乱れていました。

3番目の写真は私の小屋の近所から見た八ヶ岳です。残雪が消えてしまっています。手前の草原は昔の牧草地でした。夏草が茂り始めています。

4番目の写真は黄色に実のった麦畑です。強い風に麦穂が波のように動いています。麦秋という季語の風景を久しぶりに見ました。

5番目の写真は山林に分け入る道路に入る手前の水田の光景です。前回ここを通ったときに田植え機で盛んに植えていた稲がもうかなり伸びています。水田の向こうの雑木林が風に揺れて輝いています。

6番目の写真は山林に分け入る道路の光景です。緑の雑木林のトンネルです。

7番目の写真は山林の中の小屋を囲んでいる雑木林の写真です。雑木の梢からの木漏れ日がやがてやって来る夏の日々を想わせます。

8番目の写真は山林の中の小屋も庭を流れる小川です。冬の間は何も無かった両岸に夏草が茂り始めていました。家内が例によって熊手で川の中を綺麗にしました。川底の白い砂が木漏れ日で美しくみえます。

こんな写真を撮りながら小川の岸で持参の弁当を食べました。
このようにして昨日も一日が過ぎ行きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

高齢者の輝くような生きがい

2016年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は久しぶりに快晴です。碧い空が広がり、庭の木々の緑が風に揺れています。
こういう光景を見ると、嗚呼、今日も幸せだなあという想いが沁々と胸に広がります。
そこで数日まえに趣味人倶楽部の「きみさん」という方から頂いた宿題の答えを書くことにしました。
まずその方のコメントをご覧下さい。
・・・極く一般の人達の この いばらの道を生きて行く為に 何を信じて日頃 生きる事に精根を使っておられるか?、が知りたいのです。 若い時は体も元気で気力も旺盛、趣味にもボランティアにも力を注げる。 そしてそれが生き甲斐にも繋がり 生きる充実感を体得出来ます、何もこれと言う悩みや困難な問題が無ければ 毎日を自分のやりたい事でおおかた充足した人生を送る事は可能です。
こんな場合ばかりが一生概続けばいいんですが、そうはいかないのが現実の人生というものの実態です そこで・・生きると言う事は まァそんなもの!と悟った人は それはそれでいいんじゃないですか。しかし その ”生きる” と言う事には何かこれと言う『自分の信じるもの』が無いと何の為に毎日あくせくしているのか??と立ち止まって考えてしまう事が普通では出て来るのではないかと思うのです。
 そう云う意味で ”何を信じて毎日を暮らし生きて居られるのでしょう?” とお尋ねした次第です。・・・
このようなご質問に答えを出すために一週間ほど考えました。
その結果、自分が生きていて良かったと感じる場合の一つの例を書いてみたいと思います。
そのような感じをもつことが高齢者の輝くような生きがいなのだと信じています。
そしてそのように感じることが宗教と関係が有るのか否かという問題を書いてみたいと思います。
まず下の写真をご覧ください。 

この1番目の写真は森の中の小屋へ上っていく道の左右にある田圃の光景です。田植えの終わった水田の水面に向こうの雑木林の影が静かに映っています。
このような光景を見ると幸せを強く感じます。同時に輝くような生きがいを感じるのです。
このような感じ方は若い時はありませんでした。高齢になってから感じるようになったのです。

2番目の写真は田圃の傍で自然に茂って咲いていアカシアの花です。眺めると 幸せを感じます。アカシアも人間と同じように生きているのだと感じるのです。

3番目の写真は道路をさらに森深く上って行った所に咲いていた藤の花です。人間が世話をしなくても雑木に絡んで上の枝に垂れ下がりながら美しく咲いています。人間が見なくても森のあちこちに咲いています。

4番目の写真は野生のウツギでしょうか?森影に何気なく咲いています。

5番目の写真は鮮やかな色合いの山ツツジの写真です。ツツジやサツキはよく盆栽でなっていますが、このうように自然林に中に咲いているのを見ると沁々と幸福感につつまれます。そして上の5枚の写真にあるような風景をみると輝くような生きがいを感じるのです。
さてこのように自然の風景を見て喜び、幸せを感じ、それが生きがいになることは宗教と関係があるのでしょうか?
答えは簡単です。無いのでしょう。あるいはあるのかも知れません。
宗教を信じている人にとっては関係があると感じることでしょう。仏教の悟りの境地に時々なれる人は自然の美をより一層強く感じるかも知れません。風景の美しさの向こうに観音様が見えるかもしてません。
キリスト教を信じている人は自然の美しさを見て神の偉大さを感じるでしょう。太陽も星も山も川も全て神様が創ったのです。そうすれば自然の美の向こうに神を見ます。神の永遠の命を感じます。そういう風に感じれば風景の美と宗教は関係があるかも知れません。
無宗教と自称している人も風景を美しいと感じます。それは無意識のうちに自然信仰と関係があるかもしれません。
このように書くと不思議な感じがします。書いたことは全て観念論です。私の主観的な思い込みです。
ですから野暮な批判は勘弁してください。読み流して忘れて下さい。「きみさん」のご質問の答えてになっていなくてご免なさい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北海道は本州とはあまりにも違う歴史の異文化圏

2016年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム
始めに写真をご覧下さい。北海道の雄大な風景です。

上の1番目の写真は富良野の写真です。出典は、 http://turnthetide.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18 です。

上の2番目の写真は昨年の10月に帯広で自分で撮った写真です。
写真のような北海道では動植物が本州以南と非常に違います。猿もイノシシも棲んでいません。クマはヒグマですし鹿も蝦夷鹿です。
北海道はこのように動植物が違うようにその歴史も本州以南と非常に違います。
今日は北海道の歴史を簡単にご報告したいと存じます。

日本の本州、四国、九州の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
しかし北海道の歴史は旧石器時代と縄文時代までは本州北部とまったく同じでしたが、それ以後の弥生時代や古墳時代は存在せず縄文時代が続きます。やがてオホーツク文化の影響の強い擦文模様の土器の時代になります。そしてオホーツク文化が北海道北半分に栄えます。特に網走地方にはモヨロ文化という特徴のあるオホーツク文化が栄えます。
そしてその後、鎌倉時代の頃になるとこの北海道北部のオホーツク文化が擦文土器文化と融合しアイヌ文化へと発展したと考えられています。その上、江戸時代では北海道南端の松前藩以外は藩閥体制が存在せずアイヌ民族の集落が栄えたのです。

北海道の歴史を本州以南の歴史と比較すると次のような特異性があります。
(1)本州以南にあった弥生時代や古墳時代は存在せず、縄文時代がそのまま続いた。
(2)3世紀から13世紀にかけてシベリア沿海や樺太や千島のオホーツク沿岸の文化が北海道の北部に栄え、オホーツク文化時代が出来たのです。
(3)オホーツク文化に平行して、北海道中央と南部では擦文式土器を特徴とする擦文文化が栄えたのです。本州の土師器の影響を受けたものでした。
(4)鎌倉時代ころに上のオホーツク文化と擦文文化が融合し、土器は衰退し、煮炊きにも鉄鍋を用いるアイヌ文化になって行ったと言われています。
(5)このアイヌ文化は明治時代まで和人の文化と融合せずに独自の文化圏を維持したのです。
以上のように北海道の歴史にはオホーツク文化や擦文文化やアイヌ文化が存在し、本州以南と比較すると随分異なった歴史を歩んだことになります。

それではオホーツク文化について少し詳しく見てみましょう。
オホーツク人は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点がありました。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられています。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われます。アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの海獣も冬に得られます。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかったようです。遺物に描かれた絵や船の土製の模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっています。
また、弥生時代以降になると本州と同様に家畜である豚と犬を飼い、どちらも食用にしていました。道東では豚飼育は少なく、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩っていたようです。毛皮獣の捕獲が多く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられます。

有名な網走のモヨロ貝塚からは多数のオホーツク文化の遺物が発掘されています。
発掘された大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていました。貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかっています。多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀(直刀・蕨手刀・毛抜形太刀など)や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などもあったのです。土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られ、牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もあるそうです。道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されています。

擦文文化やアイヌ文化についてはよく知られているのでここでは省略いたします。
北海道の特徴は本州以南のような大きな民族の移動が無く、石器時代からアイヌ文化時代になっても同じ北方民族だったと考えられています。
それではここで縄文時代に作られたストーン・サークルの写真を示します。
下の3番目の写真がその北海道のストーンサークルです。

これは北海道の森町にあるストーンサークルです。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。
さて縄文時代は北海道も北東北も同じ文化圏だったということを示すために秋田県のストーンサークルの写真を示します。



この4番目と5番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。
この2枚の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。
このように独自の歴史を持つ北海道の明治維新のころの北海道人、すなわちアイヌの人の写真を示します。

この6番目の写真は稗や粟のような雑穀を栽培するための畑をアイヌの婦人が耕している様子を示しています。縄文時代から彼等は雑穀のおかゆを食べていたという説もあります。
北海道民族の写真はアメリカに多数あるのです。
大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが昔からの衣装を着ていたアイヌ人の写真を撮影しています。ボストンの近くのセイラムという港町にあるピーボディー博物館に展示してあるそうです。6番目の写真はエドワード・モースの撮ったアイヌの人が畑を耕している写真です。

さて、北海道の歴史については北海道教育委員会のHP(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm)で明快に説明してあります。その内容は末尾の参考資料をご覧ください。

以上、北海道の歴史を要約すると以下のようになります。
大和朝廷が宮城県の多賀城まで領有するまでは、北海道と東北地方の北部は続縄文時代とそれに続く擦文文化時代だったと理解できます。
その頃の人々は日本という言葉も知らず、現在のような意味での国家と言う概念も無かったのです。
あるのは大和朝廷に従う人々と従わない蝦夷という区別でした。当時はまだアイヌ人という言葉すらなかったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料============
(1)北海道教育委員会のHPの抜粋文;http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm
北海道には、弥生時代や古墳時代という時代区分がなかった。
 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照 PDF)を迎えていました。
 北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
 北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
 北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。

1  埋蔵文化財包蔵地数一覧
2  埋蔵文化財保護のための事前協議
3  重要文化財  ママチの土面
4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど
5  埋蔵文化財 Q&A
6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館
以下省略。

(2)擦文時代(さつもんじだい);https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%A6%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。

この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。

時代と分布;
擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。

擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。

生活:
擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけてサケ、マスなどの獲物をとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。わずかだが米も検出されており、本州との交易によって得ていたと考えられる。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工の道具として用いられたと考えられている。他に斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられた。銅の鏡や中国の銅銭も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。また青森県五所川原窯で作られた須恵器が北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

伸展葬の土坑墓が一般的な埋葬形態である。8世紀後半から9世紀(奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯(石狩平野西部と勇払平野)に作られた。東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。