後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本への憎しみをいましめる本が韓国のベストセラー

2019年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログに私はいい加減なことを書いています。毎日感情のおもむくまま勝手なこと書いています。それでも真剣に読んで下さる方々がいるのです。有難いことです。感謝しています。
さて今日の読売新聞に現在、韓国で10万部を越えるベストセラーになっている本が紹介してありました。
驚きました。本の内容が日本を憎むことは間違っているといましめているのです。韓国人が日本を憎むことには根拠が無いと言っているのです。
著者の代表の歴史学者の李榮薫が言ってます。「韓国社会の集団的な偏見を打ち破ろうとした。非科学的な歴史認識のままでは韓国の将来に希望はない。」

この本は6人の歴史学者が共同執筆した「反日種族主義」という学術書なのです。
とても詳細な研究結果が書き込んである理論的な内容のようです。
このような本がたちまち10万部以上売れる韓国の社会の健全さに安心します。
この本は日本の植民地支配の実態を客観的に研究し、徴用工問題、慰安婦問題、竹島問題、日韓請求権と経済協力協定などの問題を取り上げ客観的に記述してあるようです。

この本で日韓の感情問題が解決するわけではありません。しかし韓国社会の健全さを示す重要な本です。
同時に韓国を憎む感情的な一群の日本人にとっても反省をうながしています。
日本社会の集団的な反韓の偏見を打ち破るべきです。感情的な韓国認識のままでは日本の将来に希望はないのです。

この本は日本でも翻訳、出版されるようです。きちんとした書評はそれを読んだ後で書きたいと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は韓国のお盆、すなはち「秋夕」の風景です。
韓国のお盆は旧暦の8月15日、新暦では9月の満月の日に先祖の霊を迎えます。
ご馳走を作って家族が伝統衣装を着ます。
そして揃って墓参りをします。
日本の盆踊のような踊りも楽しみます。
韓国では秋夕がお正月と同様に一番重要なのです。国民の祝日として長い休暇があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







我が故郷、山梨県の驚異的な縄文時代と農耕

2019年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。山林の中の小さな小屋です。45年以上通っているとその北杜市が自分の第二の故郷のようになりました。第一の故郷は生まれ育った仙台市です。仙台市の歴史は詳細に調べ幾つかの記事を掲載してきました。

そこで今日は、北杜市の縄文時代の驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
その前に北杜市の位置を簡略にご説明いたします。山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、小淵沢、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。私の小屋はその北杜市の中の旧武川村にあります。

1番目の写真は甲斐駒岳です。手前の山の向こう側の甲斐駒岳の山麓の林の中に私の小屋があります。

2番目の写真は小屋へ登って行く雑木林の中の道です。このような道を2Km位登った淋しい森の中に小屋があります。
さてその小屋から北西に30Kmくらいの所に井戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。
八ヶ岳の西南麓には伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。題目に「・・・驚異的な縄文時代・・・という表現を用いましたが、それは誇張ではなく私の実感なのです。
それらの縄文土器は井戸尻考古館(http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html )に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。

3番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
写真で示した派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。縄文時代の神秘的な宗教儀式が想像出来ます。

4番目の写真は神人交会文深鉢です。

5番目の写真は蛇文装飾深鉢です。
この他に四方眉月文深鉢や毎日、煮炊きに使用する土器など多数が発見されているのです。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていました。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたのです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。畑で作った粟や稗や蕎麦などの穀類や豆類を煮て柔らかくして毎日食べることが出来るようになったのです。
縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたのです。
井戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して展示しています。
畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像される石器も多数発見されています。
また畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)と考えられる石器もあります。
井戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。

・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。
しかし井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略

縄文人は少なくても駐機以降は畑作農業をして粟や稗は蕎麦などの穀類を生産していたのです。
そして畑の周囲にはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えられています。
そして当時はイノシシや鹿が現在よりも非常に多数棲んでいたので獣肉を土器で煮て日常的に食べていたと推定出来ます。
自分の山林の中の小屋の周囲で現在でもイノシシシや鹿は沢山棲んでいます。
このように農業は縄文時代から発達し農業を中心にした集落が北杜市に散在していたのです。
一方水稲栽培をする弥生時代は甲府盆地の東部の富士川や笛吹川流域から始まりました。
その豊かな水稲栽培が大規模な権力を生み、やがて甲府盆地の東部の古墳群を作ったのです。
大和朝廷時代になると甲斐の国の国府と国分寺も甲府盆地の東部に置かれました。
甲斐の国の国分寺跡は発掘、調査が終わり公開されています。

分かり易く結論を書きます。
畑作農耕を中心にした縄文文化は山梨県の西部の甲斐駒岳と八ヶ岳の山麓に発達していました。
その後水稲栽培を中心にした弥生文化が富士川を遡って甲府盆地の東部に入って来たのです。
その結果、西部の縄文文化と東部の弥生文化が併行して存続していたのです。
歴史の教科書には縄文時代と弥生時代の時代区分が明記してあります。しぁしその時代区分は日本全国の地域の実態には合致したものでないことは明白です。

文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則なのです。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり混合していた時代があるのです。

今日は我が第二の故郷、山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文文化とその後の歴史をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「秋の草花の写真をお楽しみ下さい」

2019年09月09日 | 写真
台風が通り過ぎましたが南の熱い空気を連れ込んで来たので今日の東京は猛暑です。
気分だけでも涼しくなろうと秋の草花の写真を眺めています。
以前に小金井公園で撮ったオバナ、オミナエシ、ハギなどなどです。
皆様も秋の草花の写真をお楽しみ下さい。









今年は太宰治の生誕110周年、家族の苦悩と悲しみの深さ

2019年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は太宰治の生誕110周年です。39歳で亡くなって71年になります。
6月の桜桃忌にはお墓のある三鷹市の禅林寺は今年も多くの太宰ファンが参拝に訪れました。
桜桃忌、6月19日は俳句の季語になっているくらい有名なのです。
生誕110周年にあたる今年は「人間失格 太宰治と3人の女たち」という映画作品やアニメーション作品の公開が予定されています。https://www.youtube.com/watch?v=4YLU0m2vHGk

彼の有名な作品は次のとうりです。
『富嶽百景』(1939年) 『走れメロス』(1940年) 『津軽』(1944年) 『ヴィヨンの妻』(1947年) 『斜陽』(1947年) 『人間失格』(1948年)などです。
上の小説は現在でも多くの日本人に読まれている文学作品なので改めてご紹介する必要はないと存じます。

そこで今日は太宰治(本名、津島修治)を取り巻く家族たちの悲しみを書いてみようと思います。太宰治は文学の世界では高く評価されていますが、彼を取り巻く家族にとっては苦しみや悲しみの原因だったのです。
それでは写真にしたがって話を進めて行きたいと思います。

1番目の写真は銀座のバー・ルパンで撮った元気だったころの彼の写真です。この写真は有名な写真なので皆様もよくご存知だと思います。写真家、林忠彦の代表作です。

私は以前に太宰治(津島修治)を取り巻く家族たちのことを書いたことがあります。
今日取り上げる人々は太宰の結婚の仲人をした井伏鱒二と兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そして妻の美知子と、愛人の太田静子のことです。
それでは以前に掲載した記事の抜粋を順々にお送りいたします。

(1)「太宰治が死んで悲しむ5人、その一;恩人、井伏鱒二の悲しみ」(2013年06月03日に掲載)
・・・昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
太宰治を親身に世話してきた井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について次のように書いて悲しんでいます。
「それにしても、やけっぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう・・」と太宰治は悪い女に玉川上水へ引きずりこまれたと言っています。公平な書き方ではありません。

井伏鱒二は太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んであげ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
大学を退学になり行きづまった太宰を郷里へ連れ帰ろうとした兄の津島文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の、荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。その結婚は太宰にしばしの間、幸せな家庭生活を経験させたのです。

2番目の写真は井伏鱒二です。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。太宰治には太田静子と山崎富栄と2人の愛人がいたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
以下はその太宰の遺書です。
======妻美知子に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」・・・
遺書では恩人の井伏鱒二を悪人と書いています。

(2)「太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ」(2013年06月04日掲載)
・・・かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていました。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。
越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
・・・それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
・・・両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。・・・

3番目の写真は晩年の越野タケさんです。

4番目の写真は青森県の小泊にある太宰治と越野タケさんの銅像です。

(3)「太宰治が死んで悲しむ5人、その三(完結編);妻、美知子、長兄、文治、愛人、静子、それぞれの苦悩と悲し」(2013年06月05日 掲載)

このブログでは 「太宰治が死んで悲しむ5人」という題目で井伏鱒二、子守だった越野タケ、兄の津島文治、妻、津島美知子、そして愛人だった太田静子について私自身の断片的な感想を書いています。なるべくそれぞれの立場から見た太宰治への想いを書きたいと思っています。
津島家の当主としての長兄、文治は太宰の数々の恥じさらしな事件の後始末に翻弄されました。
昭和23年に太宰が死んで一番ホッとしたのは文治だったと思います。 ホッとしながら悲しんだのです。苦労をかけた弟だったのです。

しかし自分が青森県知事として、あるいは衆議院や参議院の議員として活躍し、年月が流れるにしたがって不幸な弟への想いは変わっていった筈です。
嫌なことは年月とともに次第に忘れ、39歳の若さで夭折した実弟の憐れさを感じた筈です。なにせこの弟ほど自分を頼りにした人はいなかったのです。
可愛いと思うからこそ最後までその生活の面倒をみたのです。その可愛いさを思い出すと他人へは言えない悲しみを感じていたに相違ありません。その悲しみは年月とともに深まった筈です。

5番目の写真は若い頃の津島文治さんです。
兄の津島文治さんの知事時代の写真と素晴らしい業績は「青森県の初代民選知事・津島文治 」藤本一美、(https://core.ac.uk/download/pdf/160795168.pdf)に紹介さいてあります。

(4)「太宰治記念館、「斜陽館」と兄・津島文治の苦悩」(2013年06月02日掲載)
斜陽館は太宰治が生まれ東京帝国大学に入学するまで住んでいた青森県の津軽平野にある総ヒバ造りの大きな家です。
占領軍の農地解放、小作人制度廃止で大地主の津島家が没落し、昭和23年に当主の津島文治氏が同じ金木町の角田唯五郎氏に売り渡しました。
昭和22年、太宰治の「斜陽」という小説が大ベストセラーになったので買い取った建物を、角田氏は昭和23年に斜陽館という名前の旅館にしました。
小説、「斜陽」の甘い、そして悲しい男女の物語と、太宰治の文章世界に魅了された人々が宿泊し、併設されてあった太宰治展示館を見て帰りました。
この経営方針は始めは成功しましたが、その後、次第に客足も減り、最後は、斜陽館は廃屋同然になっていました。
その後、昭和51年に黒滝氏が買い取りました。
平成8年には、金木町が地域の活性化のためにこの家を買い取り、1億5千万円をかけて復元工事を完成し、太宰治記念館として一般公開しているのです。
この金木町の企画は大成功のようで、この「斜陽館」を訪れる観光客が後を絶たないのです。
私も2013年5月30日に訪れました。

6番目の写真はその時撮った斜陽館です。

7番目の写真は斜陽館の内部の様子です。
さて太宰治(津島修治)は家族にとってどんな人間だったのでしょうか?
それは1923年の父の死後、津島家の当主になり、兄として太宰治の共産党シンパ活動を諌め、金銭の支援をし続け、4回もの心中事件の後始末をした当主の島津文治氏の生涯を見ればよいと思います。
太宰治は中学校入学以来、数々の問題を起こし、津島家から勘当されていました。それが許されたのは母が昭和17年に亡くなった後でした。そして結婚して家族を持っていた太宰治一家は昭和20年7月に金木へ疎開してきたのです。
生活の上では「失格者」だった太宰を終始温かく世話をしたのが兄の文治だったのです。
勘当しても世間は津島家の息子と言いますから面倒を見ないわけにはいかなかったのかもしれません。この兄、文治の保護は太宰治が昭和23年、玉川上水へ身投げして愛人と心中するまで続いたのです。
この兄は、政治家として立派な人だったようで青森県知事として1947年に当選し、3期9年間も知事をつとめました。
知事になる前の1946年には衆議院議員になっていますし知事辞任後の1958年から衆議院議員として2期務め、1965年から参議院議員として2期半務めました。
いろいろな業績を残しましたが十和田湖畔の3人の裸婦像、「乙女の像」は文治氏が青森県知事のとき高村光太郎氏に依頼して製作されたものです。
尚、太宰治は1946年の兄の衆議院選挙運動にはリュックサックを背負って駈けずり回ったそうです。それは世話になった兄への唯一つの恩返しでした。津島文治氏は1898年生まれ、1973に亡くなりました。・・・
太宰と奥さんの美知子の娘の津島佑子さんは作家として良い作品を残しました。山梨県の母、美知子の実家のことを書いた「火の山ー山猿記」という名作を残しました。
さて、最後に、一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。
この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。
私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。
何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸ほど悲惨なものはありません。見合いをさせ、自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。
この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。
一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。
太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。
そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。

太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑子)と、愛人の娘、太田治子も作家として世に出ております。
太宰治の孫の淳さんは自民党の衆議院議員です。
いろいろありますが、あまり長くなるので止めます。

今年は太宰治の生誕110周年です。亡くなって71年になります。
そこで太宰治を取り巻く家族たちの悲しみを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

今日のカトリック小金井教会のミサの風景写真

2019年09月08日 | 写真
今日のカトリック小金井教会のミサの風景写真をお送りします。
聖書の朗読は次の通りでした。
知恵の書、9・13-18
答唱詩編(詩編90)
使徒パウロのフィレモンへの手紙
ルカによる福音、ルカ14・25-33

ミサの後で長寿を祝う会がありました、77歳以上が参加しました。
帰りに十字架の飾りとクッキーをお土産に頂きました。最後の写真はこのおみやげの写真です。
=========================
参考までに第1朗読で読まれる「知恵の書」の説明をお送りします。
旧約聖書の「知恵の書」は、キリスト前50年ごろ、ギリシア語で書かれました。
 当時のユダヤ人は、多神教のギリシア文化の影響で、神以外のものを神とする危機にさらされていました。
多神教のギリシア文化の影響を受け、迷っているユダヤの人を励まし、信仰の道を歩ませるために、唯一の神のはからいの深さ、神の業の偉大さなどを述べ、本当の知恵に立ち返るように努めることが書かれています。
第1朗読 知恵の書 9章13~18節
 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、
わたしたちの思いは不確かです。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。
地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、
まして天上のことをだれが探り出せましょう。
あなたが知恵をお与えにならなかったなら、
天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、
だれが御旨を知ることができたでしょうか。
こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、
人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われたのです.









ローマ法王と中国との和解、そして瀋陽の教会での思い出

2019年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教カトリックの総本山バチカン(ローマ法王庁)が、長年対立してきた中国と司教任命権問題で暫定合意した。
対中関係改善については、「バチカンは地下教会の信者を中国共産党に売り渡そうとしている」と、カトリック内部からも批判が噴出しています。
フランシスコ法王が改善に舵を切ったのは、中国が信者数拡大に貢献し、さらに法王が進める改革に反対する保守勢力との権力闘争を有利に進めようとの思惑もあるとの意見もあろいます。
(以上は岡田充 [共同通信客員論説委員]Oct. 18, 2018の意見です。)

中国のカトリック教会には共産党独裁を非難しない中国天主教愛国会に所属する大多数の教会と中国天主教愛国会に所属しない地下カトリック教会があります。
バチカンと中国の関係改善は地下カトリック教会の切り捨てを意味します。
それをテコにして中国政府は全ての地下カトリック教会が中国天主教愛国会に入るように圧力をかけているのです。難しい問題で一朝一夕には解決しません。
日本の信者は地下カトリック教会の信者に心を寄せるべきではないでしょうか?

以下に現在活動中の中国のカトリック教会の写真をお送りします。

1番目の写真は農村部のカトリック教会です
2番目の写真は中国の東北部の瀋陽にあるカトリック教会です。瀋陽南関天主堂です。

3番目の写真は北京の王府井にある王府井カトリック教会です。

4番目の写真は北京の西安門のそばにあるカトリック教会です。天主教西什庫教堂です。

5番目の写真は上海にあるカトリック教会です。徐家匯天主教堂です。徐家匯聖イグナチオ大聖堂とも言います。中国のカトリック教会の写真です。

1981年2月ヨハネ・パウロ2世は日本の殉教者をとむらうために長崎まで来て、浦上天主堂でミサをした。
その次の年、私は中国の瀋陽市の天主堂で現地の人々のミサへ出席した。外側は煉瓦作りの立派な教会だが、内側には大きな落書きや、破壊の跡がなまなましく残っている。椅子も撤去されていて床板があちこちで剥がれている。満員の中国人信者がその床に膝まづいていて祈っている。毛沢東政府の文化大革命の間、徹底的に弾圧、破壊されたのだ。勿論キリスト教だけではないが。
1982年当時は信者は皆人民服を着ている。ミサの後、背広姿の小生を取り囲んで、何処から来た?何しに来た?と少し話合いをした。連れて行ってくれた東北工学院の金応培教授の通訳で。
「ヨハネ・パウロ2世が巡礼の旅と称して日本へ来たことを知っていますか?」と聞いて見た。全員が大声で、知っている!と答える。「中国の天主教(カトリック)が何故ローマ法王傘下の組織にならないのですか?」、皆んなの顔が氷のようになり誰も声を出さない。

帰路、金応培教授の説明を聞く。全員、即刻、ローマ法王傘下に戻りたいのだが中国政府が厳しい条件を要求しているという。「台湾のカトリック教会を破門にすれば中国全土の天主教をローマへ返す政策」をとっているのだ。ローマ法王は理由もなしに台湾を絶対に破門はしない。

あれから茫々37年、私はローマ法王庁と中国共産党の和解に胸を熱くしています。しみじみと嬉しいのです。それにしても一方では、地下カトリック教会の信者のことが心配です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「武蔵野の昔の屋敷林の写真を撮りに行く」

2019年09月07日 | 写真
東京都東久留米市の柳窪の集落は江戸時代そのままです。広大な屋敷林に囲まれた豪農の家があります。そして集落の道は東京都によって「屋敷林の道」と選定されているのです。
随分と以前から私はその屋敷林を国木田独歩の武蔵野の世界と信じて何度も散策していました。
久しぶりに今日の午後その武蔵野の昔の屋敷林の写真を撮りに行って来ました。撮って来た写真をお送りいたします。









その豪農の家は村野家と言います。この村野家は巨木の鬱蒼と生えた深い林に囲まれています。
名残りのミンミン蝉が鳴いている森です。

村野家の主屋は、市内で唯一現存する茅葺(かやぶき)の屋根をもつ家屋で、江戸時代の天保9年(1838)に建築されたものです。幕末期の武州一揆(ぶしゅういっき)の痕跡が残る歴史的な価値も有しています。
 3つの蔵は、江戸時代末期建築の「土蔵」と「穀蔵」、明治38年建築の「新蔵」で、漆喰仕上げの外観をもつ美しい姿を木立のなかに残しています。
 この村野家は当時の農家建築の典型的な姿を示すものとして文化財保護法の規定により有形文化財として登録されています。
また柳窪地域は東京都の「雑木林の道」における「屋敷林の道」にも選定されています。美しい景観が保全されている場所です。

「香港の武力鎮圧は起きるか?ローマ法王は動くか?」

2019年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の6月から3ケ月にわたって香港では大規模なデモが続き騒然としています。
デモの大規模さを示す写真をご覧下さい。

1番目の写真は6月のデモの様子です。以前の民主化デモの雨傘運動の延長だと主張するために皆が雨傘をかぶっています。
騒乱が3ケ月も続いているのでいよいよ中国本土の軍隊が香港を占領し鎮圧するのではないかと懸念されています。

今日は香港の武力鎮圧は起きるのかという問題を考えてみました。
数週間いろいろ調べたり考えたりしました。
結論を先に書けば次のような種々の理由で武力鎮圧は起きないと考えています。

(1)デモの目的は犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを認める「逃亡犯条例」の改正案に反対するためでした。しかし林鄭月娥行政長官は「逃亡犯条例」改正案の正式な撤回を表明した以上、デモの目的は無くなってしまったのです。

(2)デモの参加者はおもに若い学生であり経済活動を中国本土に依存している中年以上の香港人は参加していない。日本にもあった学生の安保反対デモのようにやがて鎮静化すると思われる。

(3)習近平主席は武力鎮圧をすれば第三の天安門事件として国際社会の激しい非難を浴びるので香港の警察力による鎮圧を待つのが賢いと考えていると思われる。
なお第一次天安門事件とは1976年の周恩来の追悼デモを武力鎮圧した事件で第二次天安門事件とは1989年の胡耀邦の追悼デモを武力鎮圧した事件です。

(3)日本や台湾における香港デモへの支援活動は弱小で頼りにならない。
日本では「香港の自由と民主主義を守る緊急行動」という活動があるが昔のベトナム反戦運動のような大規模な運動ではない。

(4)アメリカのトランプ大統領は人権よりも金儲けに興味がある傾向が強いので何もしない。
アメリカの有識者達がトランプ大統領に香港デモ隊への支援を求める公開提言を提出したが反応が無いままです。日本政府はノーコメントの静観です。

(5)香港には人口の10%のカトリックが約37万人います。ローマのフランシスコ教皇が動けば香港情勢に大きな影響があります。しかし中国本土のカトリック教徒も守らなければいけないので動きがとれないのです。
その上、林鄭月娥長官は熱心なカトリック教徒なのでフランシスコ教皇が不用意に動くと林鄭月娥長官を窮地に落とし入れることになります。要するにフランシスコ教皇の立場は微妙で動きがとれないと考えられます。

今日は上記の(3)(4)(5)に関してもう少し説明を加えます。

(A)日本の於ける香港デモ支援の様子
日本では香港からの留学生が中心になって「香港の自由と民主主義を守る緊急行動」という活動をしています。詳しくは、https://kosugihara.exblog.jp/239314385/ をご覧下さい。

2番目の写真は6月13日に行われたデモの様子です。デモは九段下の香港経済貿易代表部前と渋谷ハチ公前で行われました。九段下には300人以上、渋谷には2500人(主催者発表)が集まり、香港や台湾からの留学生による切実なスピーチも含めて盛り上がったそうです。しかしこの運動は中年以上の日本人には広がりませんでした。小さなデモで終わったのです。

(B)アメリカでの香港デモ支援の様子
アメリカでは人権問題の専門家組織が香港デモ隊への支援を求める公開提言をトランプ大統領に提出しました。そして香港政府高官への制裁や香港デモ隊の「5大要求」に対する公式支援などを求めたのです。
しかしトランプ大統領からは反応がありません。
提言は、以下のような書き出しで始まっています。
「我々は、自由と極東におけるアメリカの国益にとって重要な瞬間である今、あなた(トランプ氏)に向けて書いています。あなたもご存じの通り、香港の人々は、香港がイギリスの植民地でなくなった時に中華人民共和国が尊重すると約束したはずの、自由と自治を守るために奮闘しています。我々は、彼ら香港の人々を助ける機会に面しています」
詳しくは、https://the-liberty.com/article.php?item_id=16212 をご覧下さい。

(C)ローマ法王は何故動きがとれないのか?
香港のキリスト教人口はプロテスタントが約48万人、カトリックが約37万4000人と(2014年の政府統計)、全人口の約10%です。
そして小・中学校の約40%、社会福祉機関の約30%をキリスト教系が占めているなど、社会全体にキリスト教が根づいている社会なのです。
香港の抗議活動でカトリックが担う役割についてはイタリアの宗教学者のイントロヴィーニャ氏が詳細な持論を展開しています。
詳しくは、https://jp.bitterwinter.org/hong-kong-protests-the-catholic-factor/?gclid=EAIaIQobChMIvvnaq8a75AIVi6qWCh18dAVwEAMYASAAEgJvgvD_BwE をご覧下さい。
イントロヴィーニャ氏の主張は、「バチカンは中国共産党と国際社会に対し香港の民主主義を支持していること、そして人権問題を重視してることを早急に表明すべし」というものです。
しかしローマ法王は沈黙を守ります。香港の現地の司教だけが林鄭月娥行政長官へ「逃亡犯条例」改正案を廃案にするように助言してるだけです。

3番目の写真は香港の聖母無原罪司教座堂の天主堂です。

4番目の写真はヨハネ湯漢(トンホン)枢機卿です。

5番目の写真は湯漢司教と陳日君枢機卿と香港教区の聖職者達です。

今日は「香港の武力鎮圧は起きるか?ローマ法王は動くか?」という題目で香港デモに関する日本、アメリカ、ローマ法王の反応を分かり易く書いたつもりです。
皆様からのご批判をお待ちしていうます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標

2019年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログのサービスを提供している会社は幾つもあります。私はNTTが経営しているgooブログの有料会員になって毎日記事を投稿しています。
そのブログは、「後藤和弘のブログ」(https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)です。
このNTTのgooブログでは毎日のアクセス数や訪問数を送ってくれます。私のブログの訪問数は平均すると一日あたり約1100人です。
そして昨日アクセス数の多かった過去の記事も1位から10位迄送ってくれます。
昨日の順位は以下のようなものでした。

「昨日アクセスされたページの5位までの順位」(6位以下省略)
1位 トップページ
2位  日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標
3位  タイタニックが描きだした当時のイギリス社会の暗黒と栄光
4位  月別記事一覧
5位  縄文時代は北海道と東北地方は同じ文化圏でした

ブログの良いことは過去何年前の投稿記事でも読んで下さる方々が多いということです。
それは投稿した記事が各種の検索ページに紹介してあるからです。例えば上記の記事の題目だけをコピーしてhttps://www.google.co.jp/の検索ページに貼り付けて、検索すると昔の記事が出て来るのです。これは私にとって大変便利です。
昨日1位だった「日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標」は何度も10位以内に入っています。多くの方々の関心の強い記事のようです。

そこで今日はこの記事を少し改訂して以下にお送りいたします。原文は2018年10月05日に掲載されています。
「日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標」
今日は日本の山岳遭難を振り返って見ようと思います。まず写真をご覧下さい…

1番目と2番目の写真は上高地の帝国ホテルの傍の梓川の岸辺から撮った穂高連峰です。

1番目と2番目の写真は以前、何度も散策したおりに自分で撮った写真です。

3番目の写真は上高地にある山岳遭難者慰霊碑、「山に祈る塔」です。
写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/hz0326/m/201706 です。

4番目の写真は梓川沿いのカラマツ林の中にひっそり眠る数多くの慰霊碑です。
みな遺族や山仲間が遭難者を慰めるためにたてた碑です。亡くなった者への想いが刻み込んであります。

5番目の写真は谷川岳の岩壁ある遭難者のレリーフです。谷川岳では800人近くの若者が命を落しているのです。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/28744478.html です。

さて山岳遭難の一覧表はこの記事の末尾の参考資料にあります。この表は戦後の昭和時代に限って、3名以上の犠牲者のあった遭難事故だけを示しています。1名あるいは2名の事故は含まれていないのです。
その表を見ると谷川岳の遭難が多いのに気づきます。そこでまず谷川岳に焦点をあてて紹介します。文章の出典は5番目の写真と同じです。

谷川岳の標高は2,000mにも満たないのですが、急峻な岩壁と複雑な地形の上天候の変化も激しいのです。そのため遭難者の数は群を抜いて多いのです。
統計が開始された1931年(昭和6年)から谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名の死者が出ています。
この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定もされているのです。

1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を収容したこともありました。
谷川岳の宙吊り遺体収容のTVニュースを憶えている人も多いと思います。
また、一ノ倉沢で1943年(昭和18年)9月8日に、2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死します。
しかし遭難場所がわからず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置されました。
30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見します。
ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明したのです。
山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰ったのです。
急激な気象の変化による遭難が後を絶たないので、谷川岳は「魔の山」とも呼ばれ、遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されているくらい特別な山なのです。

日本の山岳遭難は谷川岳だけではありません。
北海道の大雪山、東北の蔵王、北アルプス、南アルプス、そして四国や九州の山々に山岳遭難者の慰霊碑があるのです。
遺された家族や友人の悲嘆の山並みが続いているのです。下に4つだけの山岳遭難の例を示します。

1、松本深志高校遭難事故
1967年8月1日の気象状態は、本州を挟む形で高気圧が2つ並んでおり、南海上には台風があったため、大気の不安定な状態となっていました。
長野県松本市の県立深志高等学校二年生の登山パーティーは、北アルプスの西穂高岳にて教員の引率による集団登山を行なっていたのです。
この集団登山は希望者を集めて毎年学校が主催している学校行事でした。
参加人数は教員5人を含む計55人で、日程は、31日に松本市を出発、上高地で一泊し、1日の朝から西穂高に登山して、翌日下山、松本市に帰る予定でした。
参加者のうち46人の登頂後、正午過ぎから天候が悪化し、大粒のひょうまじりの激しい雷雨となったためパーティーは避難を開始します。下山途中の13時半頃、独標付近のガレ場を一列で下っていたところに雷の直撃を受けたのです。
これにより生徒8名が即死、生徒・教員と会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となったのです。
事故発生の連絡を受けた西穂山荘からは従業員と東邦大学医学部による西穂高診療所の医師ら二十余人が現場に向かい、遺体と負傷者を山荘に収容します。
登山の伝統がある深志高等学校が多人数の犠牲者を出た悲しい遭難事故でした。深志高等学校にはむなしく慰霊碑が建っていて、穂高の山並みを見上げています。

2、富士山大規模落石事故、
1980年8月14日午後1時50分ごろに富士山の山頂付近で落石が発生、吉田ルートの登山道を転がった落石が八合目から六合目にかけて多数の登山者を巻き込んだ事故です。
この事故による死者12人、負傷者は29人を数え、国内の落石事故史上最悪の惨事となったのです。
落石は、頂上の八神峰のひとつ、久須志岳付近の岩場で二度にわたり発生。直径1~2mの巨石5~60個が左右に広がりながら一直線に滑り落ち吉田大沢に向かったのです。
雪崩のように広がった落石は本八合(標高3300m)付近で吉田砂走りの下山道を直撃し、八合目(標高3100m)にかけて多数の登山者を巻き込みながらなぎ倒したのち六合目と七合目の中間付近で再び登山道に合流し、ここでも下山者を襲ったのです。
落石は吉田砂走りの小石を巻き込みながら、最終的に標高差1400mを転げ落ち五合目付近まで達しました。
被害は拡大し、死者12人、重軽傷者29人を数えたのです。
当日の気象は好天で風速は6m程度であり、また地震や火山活動など落石の引き金となる明白な事象はなかったのです。落石は人為的に引き起こされることもありますが、最初の崩落が発生した場所は登山道から離れていたため自然発生によるものとみられているのです。

3、御嶽山噴火による63名死亡事故
御嶽山噴火は、2014年(平成26年)9月27日11時52分(日本時間)に発生しました。
長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(標高3,067m)の火山噴火です。噴火警戒レベル1(平常)の段階で突然、噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡し、5名が行方不明になりました。 避難する時間も無く無防備の登山者に巨大な噴石が降り注いだのです。多くは即死でした。

4、山小屋もろとも土石流で流された遭難事故
昭和44年8月5日、神戸市立御影工業高校ワンダーフオーゲル部の教師2名、生徒5名が長野県飯田市松川にて、山小屋もろとも土石流に流されました。捜索の結果、2名発見、5名は行方不明のままです。詳しくはhttp://menosaito.blog100.fc2.com/blog-entry-457.html にあります。その後のことは「長野県飯田市遭難慰霊碑」を検索して下さい。

以上のように山岳には想像もつかない危険に満ちているのです。いくら経験豊かな登山家でも避けられない山岳遭難が起きるのです。
登山は冒険です。危険です。危険だからロマンがあります。
悲しむのは遺された家族や友人たちです。・・・・
最近、私にも富士山の山頂に登り、荒天のなかで下山中に行方不明になった親友がいます。
そのせいでこんな記事を書く気になりました。まだ発見されていません。(2018-09-15、掲載記事に経緯が書いてあります)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料;岳遭難事故一覧=============
seesaawiki.jp/book-wiki/d/%BC%E7%A4ʻ%B3%B3%D9%C1%F8%C6%F1%BB%F6%B8ΰ%EC%CD%F7%A1%A1%A2%A8%BE%BC%CF%C2
最終更新: 2012年01月16日(月) 03:26:13履歴

【主な山岳遭難事故一覧】 ※昭和(戦後) ※大量遭難=3名以上死亡 のみのリストです。
昭和25(1950)年11月 平標山遭難事故(平標山)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和25(1950)年12月 佐野高校山岳部雪崩事故(谷川岳/西黒沢尾根)5名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-30.html
昭和26(1951)年 5月 法政大学山岳部崩落事故(谷川連峰/一ノ倉沢) 4名死亡
昭和29(1954)年11月 日大/慶応大山岳部・東大スキー山岳部雪崩事故(富士山)15名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和29(1954)年12月 戸山高校山岳部遭難事故(北アルプス/西穂高岳)3名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和32(1957)年 3月 明治大学山岳部雪崩事故(北アルプス/白馬鑓ヶ岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和33(1958)年12月 慶応大学山岳部雪崩事故(北アルプス/中岳)4名死亡 ※他日大山岳部2名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...

昭和33(1958)年12月 早稲田大学山岳部雪崩事故(北アルプス/明神岳)4名死亡
http://www.geocities.jp/oriental_com/ogura/now/myo...
昭和34(1959)年10月 東大山岳部他雪崩・遭難事故(北アルプス/北穂高岳)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和34(1959)年12月 立命館大学山岳部雪崩事故(北アルプス/剱岳)6名死亡
http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?word=%C...
昭和34(1959)年12月 専修大学山岳部雪崩事故(北アルプス/槍ヶ岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
←◎参照 昭和35(1960)年 9月 谷川岳宙吊り遺体ザイル銃撃事件(谷川連峰/谷川岳)2名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5...
昭和35(1960)年11月 早大/東京理科大山岳部他雪崩事故(富士山)11名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html

昭和36(1961)年 1月 富山大学山岳部遭難事故(北アルプス/赤谷山)6名死亡
http://yamamemo.seesaa.net/article/151883513.html
昭和36(1961)年12月 剱岳池ノ谷遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 五竜岳遭難事故(北アルプス/五竜岳)5名死亡  
昭和37(1962)年 1月 甲斐駒ケ岳遭難事故(南アルプス/甲斐駒ケ岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 久住群星生山遭難事故(久住連山/群星生山)7名死亡
http://www.nan-nan.jp/lib/unpyou02a1.pdf
昭和37(1962)年11月 穂高岳遭難事故(北アルプス/前穂高岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和37(1962)年11月 成城大WV部遭難事故(南アルプス/間ノ岳)4名死亡
http://www.minamialps-net.jp/data/article/202.html
昭和37(1962)年12月 北海道学芸大学函館分校山岳部遭難事故(大雪山系/旭岳)10名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和38(1963)年 1月 愛知大学山岳部遭難事故(北アルプス/薬師岳)13名死亡 ※1パーティーとしては近代登山史上最大
http://dankai.akimasa21.net/index.php?%E6%84%9B%E7... 
昭和39(1964)年 1月 大館鳳鳴高校山岳部遭難事故(岩木山)4名死亡
http://blog.goo.ne.jp/kitsunekonkon/e/1515ca32334a...
昭和40(1965)年 3月 北海道大学山岳部遭難事故(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)6名死亡
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20.jiken/9.htm...
http://www.geocities.jp/kyyamamoto2/dcyukinoisyo1....
昭和40(1965)年 3月 横尾雪崩事故(北アルプス/横尾)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...

http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和41(1966)年11月 富士山連続滑落事故(富士山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 涸沢雪崩事故(北アルプス/涸沢)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 大日山遭難事故(大日山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 剱岳遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和42(1967)年 1月 谷川岳二重雪崩遭難事故(谷川連峰/谷川岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 4月 山形市立商業高校山岳部遭難事故(朝日連峰)3名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和42(1967)年 8月 松本深志高校遭難事故(北アルプス/西穂高岳)11名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9...
昭和44(1969)年 1月 剱岳大量遭難事故(北アルプス/剱岳)19名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-70.html
昭和45(1970)年 7月 福岡大学ワンゲル部羆襲撃事件(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)3名死亡
http://seesaawiki.jp/book-wiki/d/%ca%a1%b2%ac%c2%e...
昭和45(1970)年12月 同志社大/中央大他天狗平遭難事故(北アルプス/天狗平)7名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和47(1972)年 3月 富士山大量遭難事故(富士山)24名死亡
http://blog.goo.ne.jp/yukiyuki-tei/e/498c94ac51a8d...
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和49(1974)年 3月 白馬大雪渓雪崩事故(北アルプス/白馬岳)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和49(1974)年 3月 鹿島槍ヶ岳雪崩二重遭難事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
http://www.argos-net.co.jp/nadare_bunkakai/nadare_...
昭和52(1974)年 1月 鹿島槍ヶ岳雪崩事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
昭和52(1977)年 3月 都立航空高専山岳部遭難事故(中央アルプス/将棊頭山)7名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和55(1980)年 8月 富士山大規模落石事故(富士山)12名死亡
http://univ.ygu.ac.jp/kasai/fujirakuseki/FUJISTONE...
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html

昭和55(1980)年12月 逗子開成高校山岳部遭難事故(北アルプス/八方尾根)6名死亡
http://www.zushi-kaisei.ac.jp/history/100history/1...
昭和57(1982)年 3月 八ヶ岳阿弥陀岳雪崩事故(八ヶ岳/阿弥陀岳)12名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history06/top...
昭和57(1982)年 8月 黒部渓谷土石流事故(北アルプス/黒部渓谷)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
←◎参照 昭和58(1983)年 9月 富士見平小屋OL殺人事件(奥秩父/富士見平小屋)1名死亡※殺人
http://www.chichibu.ne.jp/~elf/3/field/file1.htm
昭和61(1986)年 1月 岩木山雪崩事故(青森/岩木山)4名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
昭和62(1987)年 1月 常念岳遭難事故(北アルプス/常念岳)3名死亡
http://homepage2.nifty.com/m_hayaka/book/bn1863.ht...
昭和62(1987)年 9月 穂高岳屏風岩落石事故(北アルプス/穂高岳)4名死亡1名不明
======================================

秋の都立薬草植物園の花々をお楽しみ下さい

2019年09月05日 | 写真
夏の間は暑くて行けなかった薬草植物園に久しぶりに行って来ました。
秋の花々が咲いています。少し涼しい中を花々の写真を撮って来ました。ミンミン蝉がしきりに鳴いていました。
秋の都立薬草植物園の花々をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

1番目の写真はトロロアオイです。

2番目の写真はケチョウセンアサガオです。

3番目の写真はミソハギです。

4番目の写真はオミナエシです。

5番目の写真はコガネバナです。

6番目の写真はニラです。

7番目の写真はオオケタデです。

秋になりました、コスモスの花の写真をお楽しみ下さい

2019年09月04日 | 写真
私はコスモスの花が大好きです。以前にいろいろな所で撮った写真が沢山あります。
その中から今日の曇り日にふさわしいような写真を5枚お送りいたします。
コスモスの花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









受けた恩を絶対に忘れなかったある韓国人の思い出

2019年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム



今日は恩を絶対に忘れなかったある韓国人の思い出を書いてみたいと思います。
それは韓国浦項製鉄所の技術研究所の所長をしていた金鉄佑さんのことです。
私を韓国へ招待してくれた人でした。2013年の暮れに亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。

話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。私もその雀部教授の研究室によく遊びに行っていました。

金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。常日頃、弱きを助ける雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。

署名はしましたが長く釈放されなかったのです。そのうち私も東大を離れたので、その後の金鉄佑さんとは一度も会ったことがありませんでした。そして20年近い月日が流れました。
1984年に、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。

そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大邱やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。
浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。

私は始めて韓国を訪問したのでしたが人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとは雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
そして雀部教授から受けた恩を縷々話したのです。私を招待したのは今は亡き雀部教授への恩返しをしたかったのです。

韓国は儒教の国で、人々は恩義を絶対に忘れないのです。
それ以来、私は韓国人に親しみを感じるようになりました。

我々夫婦を招待して案内してくれた慶州のお寺や古墳群は日本と非常に似ています。その文化が日本へ渡来したのです。懐かしい故郷に帰ったような錯覚を覚えました。
大邱ではカトリック教会のミサにでて韓国の信者と一緒の祈りました。
浦項製鉄所で泊まったゲストハウスには朴正煕大統領も泊まったそうです。
朴正煕大統領は佐藤栄作総理と日韓基本条約を作り日韓両国の国交を正常化し、日韓友好を推進したのです。
ソウルでの韓国金属学会の総会は大規模なものでした。招待講演をしたことも思い出になりましたが、それ以上にそこで見た光景に感銘を受けたのです。
お昼の休み時間です。外の広い芝生の上に幾組ものグループが輪になって弁当を食べているのです。そして話合いの雰囲気に旧懐の情に溢れていてのです。案内してくれた韓さんに聞くとそれぞれのグループは幾つかの大学の金属工学科を出た同窓生だそうです。
金属学会の総会で久し振りに会った旧友たちが集まって弁当を食べながら昔の思い出を語り合っているのです。何時もは違う会社で働いていてなかなか会えないのです。
この光景を見て、私は何故か非常にほのぼのとした気分になりました。
韓国で見た忘れ得ぬ光景の一つになったのです。

これだけの話です。日韓友好の一助になるようにと祈っています。
今日の挿し絵代わりの写真は印象深かった韓国の慶州の海印寺の写真です。
出典は、https://4travel.jp/travelogue/11414370です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






唐の長安の宮廷にあった百日紅の写真を撮りに行く

2019年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
夏に長い間咲いているサルスベリは百日紅(ひゃくにちこう)とも言います。
鮮やかな紅色や薄紫やピンク、白などの花が咲きます。
中国原産の花であでやかな花なので、唐の長安の宮廷に沢山植えられていました。中国語では紫微(宮廷の意)と言うそうです。
中國人が好きな花なので江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、四川省自貢市、台湾基隆市などで市の花とされています。
日本に渡来した時代は明確に分かっていませんが、おそらく遣隋使や遣唐使が持って来たに違い無いと私は想像しています。
そんないにしえのことを想いながら昨日午後に紫微の花の写真を撮って来ました。近くの都立武蔵野公園に満開になっています。写真をお送りいたします。






このサルスベリが謳われた和歌と俳句をご紹介いたします。
和歌:
足引のやまのかけぢの猿滑りすべらかにても世をわたらばや 藤原為家『夫木和歌抄』

藤原 為家は、鎌倉時代中期の公家・歌人です。
そして『夫木和歌抄』は、鎌倉時代後期に成立した私撰和歌集です。選者は地方武士の藤原長清でした。
例句:
袖に置くや百日紅の花の露     貞室 「玉海集」
籠らばや百日紅の散る日まで    支考 「菊の香」
散れば咲き散れば咲きして百日紅  千代女 「松の声」
百日紅ややちりがての小町寺    蕪村 「夜半叟句集」
百日紅ごくごく水を呑むばかり   石田波郷 「鶴の眼」
さるすべり美しかりし与謝郡    森澄雄 「游方」

サルスベリの花言葉です。
『雄弁』
サルスベリの花言葉の中でも、木の外観に由来するものが「雄弁」です。枝先に花が群生する姿が華やかで堂々としていることから、この花言葉が生まれました。
『愛嬌』『不用意』
「愛嬌」「不用意」はサルでも滑りそうなほどツルツルとした幹にちなんでつけられました。
『あなたを信じる』『潔白』
「あなたを信じる」という花言葉は、漢字名の由来にもなった朝鮮半島の伝説からついたとされています。

昨日の午後はこの百日紅の写真を撮って来て初秋の一日を過ごしました。まだまだ残暑が厳しい日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)