後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「バイデン大統領来日、日米豪印会談、中国にある日本企業の運命」

2022年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
バイデン大統領は中国の世界の覇権指向の政策へ対して厳しく対抗しています。そして今朝の新聞によると彼自身が来日し、日米豪印の4ケ国会談をする予定であると岸田首相が発表しました。日米豪印の4ケ国の中国包囲網を強化し中国に一層厳しく対抗しようとしています。
一方、中国には1万3千社以上の日本企業があります。この数多くの日本企業はバイデン大統領と中国の厳しい対立の影響を受けるのでしょうか。政治と経済は別と言いますが日本企業にとっては難しい局面になります。
今日は中国の経済活動を観ながら数多くの日本企業への影響を考えてみたいと思います。
中国の覇権指向の脅威をバイデン新大統領は以下のように対抗しています。
(1)バイデン大統領の外交政策。
バイデン氏の発言および見解を考えると具体的な外交・安全保障政策には、以下のように想定されます。
 1. トランプ政権が大きなダメージを与えた同盟諸国との関係修復・強化にただちに着手する。できるだけ早期に日欧主要国首脳との会談を行う。
 2.NATOおよびアジア太平洋における日本、韓国、オーストラリア同盟諸国については、引き続き防衛分担の増強を求めるが、これらの諸国に対するアメリカのコミットメントを(前政権のような)金銭的取引の対象としない。
 3.中国の存在を最重要視し、中国の世界経済に対する挑戦に対処していくため、価値観を共有する「世界の民主主義国間の連帯構築」に早急に着手する。
 4.世界各国との通商においては、アメリカ国民の利益を守るため、相手国に対し「公平・公正なルール」の順守を求めていく。
 5.米軍事力の投入は目先の短期的目的のためではなく、長期的で戦略目的に合致したものでなければならない。「世界の警察官」となるのではなく、資源配分を厳格化する。
 6.北朝鮮核問題については、切迫した脅威であり、中国含め近隣関係諸国と緊密な連携の下に「非核化」実現に向けて協議していく。トランプ前大統領の時のような米朝首脳会談に安易に応じるつもりはなく、経済制裁強化を含め北朝鮮に対し厳しい姿勢で臨む。

以上のようにバイデン大統領は中国の脅威を最重要視していることは明らかです。
それでは中国の脅威とは何でしょう?
それはアメリカ攻撃を目的にした強大な軍事力と高度な工業技術に支えられた巨大な経済力です。幸い現在の時点でこの2分野では中国はアメリカよりも劣っています。しかし中国は成長しているのです。大きな脅威です。
そこで高度な工業技術の一例をご紹介したいと思います。

(2)中国の高度な工業技術の例
中国の工業技術の発展はめざましくコンピューター技術をはじめ全分野で世界の先端に立っています。しかし鉄鋼製錬技術や自動車製造技術は地味でマスコミであまり取り上げられていません。そこで今日はこの2分野についてご紹介いたします。

例えば鉄鋼製錬技術について見れば、2019年の中国の粗鋼生産量は長年連続で世界一なのです。
以下は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54931090Y0A120C2X93000 からの抜粋です。
世界鉄鋼協会が発表した2019年の世界粗鋼生産量は、前年比3.4%増の18億6990万トンと3年連続で過去最高だった。米中貿易戦争の長期化で世界の鋼材需要が鈍化する一方、中国は景気刺激策を背景に生産を拡大した。
中国の粗鋼生産量は8.3%増の9億9634万トン。4年連続で前年を上回り、過去最高を更新した。

1番目の写真は中国の鉄鋼製錬工場の写真です。

2番目の写真は1番目の写真と同じで中国の鉄鋼製錬工場の写真です。
さて中国の地方都市の保定市の様子をご紹介します。北京から南へある河北省の州都で以前私自身が何度か行ったところです。

3番目の写真は保定市にある自動車製造会社の「長城汽車」の本社です。

4番目の写真は「長城汽車」で作った車の一例です。
「長城汽車」の本社は北京~開封高速を南西へ3時間程走って、保定南という高速道路の出口を出たら、5分足らずの所にあります。長城汽車は中国ナンバーワンのSUVメーカーです。
この会社は27年前、従業員が60人にも満たず、巨額負債を抱きぼろぼろの小さかった自動車修理工場でした。それが試行錯誤を繰り返し紆余曲折の道を歩み、現在では7万人の従業員を擁する、年間100万台の車を製造する大会社まで成長したのです。
このようなを「長城汽車」を支えたのが保定市にある河北大学の卒業生でした

5番目の写真は河北大学の一部です。
河北大学は現在河北省唯一の全国総合重点大学です。学部在校生は18951人 大学院生は3350人で、外国からの留学生も162人います。
そして河北大学は中国で最も古書を沢山保存している大学として中国古書保護大学に指定されているのです。

バイデン大統領は外交政策の中で中国の脅威を強調しています。
そこで私は中国の脅威を具体的に考え、その一例として地方都市の保定市の発展ぶりをご紹介しました。このような保定市の発展は中国全土で進行しているのです。中国の経済活動は間違いなく世界一になる勢いなのです。
アメリカの外交で中国を最重視しているのは当然です。この点ではトランプ前大統領もバイデン大統領も同じです。
この中国に1万3千社以上の日本企業があり活動しているのです。
このことはマスコミにあまり出ていませんがこれが実態なのです。米中が激しく争っているのに日本は中国の経済成長に貢献しているのです。この事実どう考えたら良いのでしょうか?

日本と中国の経済交流の実態や中国に進出している日本企業の数についは、https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p200208.html に掲載されています。抜粋いたします。

1 中華人民共和国(以下「中国」、香港・アモイを除く)に進出している日本企業は、2020年1月時点で1万3646社判明。2019年の調査時点から39社減少したほか、過去の調査で最も進出社数が多かった。2012年(1万4394社)からは748社減少するなど、中国に進出する日本企業数は引き続き減少した。

2 業種別では、最も多かったのは「製造業」(5559社)で、全体の約4割を占める。次いで多いのが「卸売業」(4505社)で、全体の約3割を占め、2019年(4495社)からは0.2%増加した。他方、「小売業」(443社)などでは前年比減少となった。

3 中国への進出地域では、最も多かった地域は中国東部の「華東地区」で9054社に上る。なかでも「上海市」は6300社と最も多く、中国全土でも最多。中国全土で3番目に多い「江蘇省」(1900社)などと合わせ、進出する日本企業の多くが上海経済圏に集積する。次いで多いのは「中南地区」で2252社。大規模港湾を有する広州市や、ハイテク産業が集積する深セン市などを擁し、中国全土で2番目に多い「広東省」(2036社)のほか、多数の自動車産業が集積する武漢市を含む「湖北省」(242社)で進出企業が多くみられた。

続いて日本の輸出相手の移り変わりを見てみましょう。そのためには、「3. 日本の主な貿易相手国 - 日本貿易会」を検索すると出て来ます。それを以下のように抜粋します。

・・・2008年までの50年余りはアメリカがだんぜん1位でしたが、この年にアメリカで金融危機が起こり、アメリカをはじめ世界中の景気が急激に悪くなり需要が落ち込みました。しかし、中国は政府のいろいろな経済対策により景気の落ち込みが少なく、引き続き高い経済成長を遂げたことから、2009年から日本の最大輸出相手になっていました。2013年以降はアメリカが再び1位となった後、2018年に中国が6年ぶりにトップへ返り咲きましたが、2019年はアメリカが中国を上回り、トップになりました。

3位以下の輸出先は、韓国、台湾、香港、タイなどのアジア諸国や地域が多くを占めています。
アメリカ向けでは自動車が多いのに比べて、アジア向けの輸出品は半導体などの先端技術を活かした機械類や部品、電気製品などと、鉄鋼や非鉄金属などが多くを占めています。これはアジア各国・地域に半導体などを使用した製品を組み立てる産業が多いことと、経済成長にともないビルや工場、道路などのインフラ(産業基盤と生活関連の社会資本)設備のための原料を必要としているからです。・・・以下省略します。

以上を要約すると、
1、日本企業の数が2020年1月時点で1万3646社。
2、日本の輸出相手は米中が1位を争っている。

中国は日本の脅威だと言いながら日本は中国に頼っているのです。いろいろな国の中で中国が日本にとって一番重要な国なのです。この変な状態は次のように言えば矛盾がありません。
「中国は軍事的に大きな脅威だが経済的には友好国だ!」
すなわち軍事と経済は別だという考え方です。しかしはたしてこの考えは正しいのでしょうか?疑問や不安が残ります。現世とはこういうものなのでしょうか?

挿絵代わりの写真として地方都市の瀋陽の写真を示します。私が1982年に瀋陽へ行った時はこんなに立派な街ではありませんでした。中国の地方都市の発展ぶりに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

6番目の写真は瀋陽市の遠景です。写真の出典は、http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2012-09/25/content_486080.htm です。

7番目の写真は瀋陽市の中心街です。写真の出典は、https://ieny.jp/post/536 です。

8番目の写真は瀋陽市の故宮です。ここが清朝を始めた皇帝ヌルハチとホンタイジの皇居でした。
北京の故宮と並んで、保存状態の良い後金時代の皇居です。建築様式は漢民族・満州民族・蒙古民族の様式が融合しています。規模は、北京の故宮の12分の1です。1625年に建てられ、清朝が北京へ引っ越した後は引き続き離宮として用いられてきました。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%8B%E9%99%BD%E6%95%85%E5%AE%AE です。

「南の國、台湾の冬の花屋さんの写真」

2022年01月21日 | 写真
今日の東京は寒いです。庭の最高気温は5度でした。朝はマイナス4度でした。
南の國、台湾の冬の花屋さんの写真を見て暖かい気分になって下さい。
写真の出典は、

「思い出多い多摩川ものがたり」

2022年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は思い出の多い多摩川について書いてみたいと思います。
多摩川のお世話になったのは、1962年に東京に住むようになって現在までの60年間です。東京の西郊の小金井市に住み始めたので、週末は必ずのように娘と息子を連れて多摩川上流に行き、川遊びや焚火や釣りを楽しんだのです。当時は川原で焚火をするのが普通で、子供たちに枯れ木にマッチ一本で火をつける方法を教えたものです。
一番、足しげく通った場所は御岳駅のそばにある国際マス釣り場の川原でした。川原が広がっていて流れも浅く子供の水遊び適していたからです。3歳の息子が浮き輪に乗って流れてしまい、家内が必死に追いかけた光景が忘れられません。
そして御岳駅のそばの玉川屋というソバ屋にもよく行ったものです。高い場所にある茅葺の昔風の家です。近くには多摩川に沿って幾度も訪れた玉堂美術館や古風な旅館の河鹿苑があります。
玉川屋からは山が見渡せて気分の良いソバ屋です。玉川屋の下に東華園という中華店もありました。
多摩川の面白さはその支流の川原にもあります。例えば都立養鱒試験場の脇の荒れた山道を根気よく車で登って行くと小さな盆地に出ます。真ん中を多摩川の支流が流れています。浅いので車をそのまま入れて渡ると焚火の跡があちこちにある小さな盆地に出ます。大げさに言うと自分達だけの桃源郷のような感じがする場所なのです。何度も、何度も行きました。焚火をして持参のオニギリを食べます。
このように多摩川は私共家族の遊び場であり週末を楽しむ場所でもありました。青梅にあった室内スケートリンク、御岳駅の傍のリンクや沢井の天然氷のスケート場などは家内が60歳になるまで通ったものです。
よく行った奥多摩湖、玉堂美術館、御岳神社、そして鳩ノ巣渓谷についてもご紹介しようと思います。
さて多摩川の水源です。山梨県の笠取山を源とし、上流部では柳沢峠から流れ込んでくる柳沢川と合流し、そこから下流は丹波川(たばがわ)と呼ばれ奥多摩湖に注いでいます。
多摩川と呼ばれているのは奥多摩湖の湖水の出口である小河内ダムより下流からなのです。
多摩川は両岸に堤防のない部分が多いので、野草や野鳥が数多く自然豊かな昔のままの川なのです。それこそが多摩川上流の一番の魅力なのです。

さて奥多摩湖ですが、この山奥の大きな湖は第二次大戦をはさんで困難な工事の末、1957年、小河内ダムの完成により出来た人造湖なのです。

1番目の写真は一昨年、自分で撮った奥多摩湖の写真です。
巨大なダムの上を歩いていると周囲の山々の緑が碧い湖面に映って素晴らしい景観を見せてくれます。
湖岸をさらに奥に行くと、左手に奥多摩周遊道路があり、そのまま直進すると柳沢峠を越えて甲府盆地に抜けられます。

奥多摩にある美術館は多摩信用金庫が作った多摩美術館と御岳駅の下の河合玉堂美術館があります。
玉堂美術館には大作が展示してあるので何度も行きました。

2番目の写真は玉堂美術館の入り口の写真です。
川合玉堂は日本画壇の巨匠です。昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10余年を御岳駅のそばに住んでいました。

3番目の写真は彼の作品の一例です。私の好きな絵を勝手に選びました。
玉堂は自然を愛し、人を愛し、その人柄は土地の人々からも慕われました。
玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和にわたって作品をえがいて来ました。
次は御岳神社をご紹介いたします。

4番目の写真は御岳神社です。この御岳神社の奥の御岳山頂に登ったり尾根の縦走もよくしました。その他の奥多摩の山々にも登りました。
御岳神社は文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納されています。
ケーブルの山上駅から武蔵御嶽神社へ続く参道、門前町の集落には、天然記念物「神代ケヤキ」、二十数軒の宿坊、御岳ビジターセンターがあります。奥に奥の院、その奥に大岳山があります。
次は鳩ノ巣渓谷です。

5番目の写真は鳩ノ巣渓谷です。 JR鳩ノ巣駅で下車、青梅街道を渡って下に降りると、そこは清流が縫う鳩の巣渓谷があります。多摩川の上流部です。
都内とは思えないほど美しい自然に恵まれた観光地です。
全くの余談ですが、1960年の夏に婚約時代に家内と初めて小さな旅をしたところがこの鳩ノ巣渓谷でした。もう62年も昔の話です。
写真にもっと奥多摩の風景をお送りいたします。自分で撮った写真です。
6番目の写真は御岳駅の近くの國際マス釣り場上流の多摩川です。
7番目の写真は御岳駅の近くの國際マス釣り場です。多摩川そのものに多量のマスを放流して釣り客に楽しんでもらっています。
8番目の写真は中流の羽村の堰の丘の上から見た多摩川と奥多摩の山波です。羽村の堰から江戸まで玉川上水があり江戸へ生活用水を供給してました。

9番目の写真は羽村の堰のすぐ上流の多摩川です。見晴らしが良いのでよく行った所です。
今日はあまり長くなるので多摩川の支流の秋川渓谷の観光地は省略しました。しかしそちらには養沢の鍾乳洞や払沢の滝や数馬の里のような観光地が沢山あります。その方面はJR五日市駅からバスで入ります。

今日は思い出の多い多摩川について書きました。娘と息子を連れて川遊びや焚火や釣りを楽しんだ清流の川でした。
皆様にもそんな川遊びの楽しかった思い出があると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「チマチョゴリの歴史」

2022年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
「チマチョゴリ」は朝鮮民族の伝統的な服装です。
チマは長いスカートでありチョゴリは上着のことです。
現在の女性用の「チマ・チョゴリ」を写真に示しました。
この「チマチョゴリ」の歴史は青 木 愛 子先生によって以下のように研究論文が発表されています。
是非ご覧下さい。

『民族衣装の確立』(韓国編) 
青 木 愛 子
http://www.nihonkaigaku.org/.../05_minzokuisyou_20160113.pdf
・・・韓国では女性のチマチョゴリ、男性のパジチョゴリ、
子供のセクトンチョゴリなども含めて民族衣装全体
を広く韓服と呼び、北朝鮮では同様に朝鮮服と呼ん
でいる。日本で言えば和服に相当する民族衣装である。・・・
・・・韓国(朝鮮)の民族衣装チマチョゴリの歴史について 
チマチョゴリは三国時代に始まったとされている。高句麗時代の王や貴族の墓の壁画からチマチョゴリの痕跡が発見された。
三国時代(新羅、高句麗、百済の勢力争い)は、日本が「倭国」と呼ばれ、大和朝廷の
豪族たちが権力闘争に明け暮れていた古墳時代から飛鳥時代に該当する。・・・以下省略。





「日韓友好と朝鮮の歴史と文化」

2022年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の隣国、韓国や台湾や中国との友好は日本のさらなる経済発展と安全保障にとって非常に重要なことは明白です。いたずらに過去の感情にこだわらず未来志向で日本の現実的な発展を考えるべきです。
この立場から今日は朝鮮の歴史と文化を簡単に書いてみます。朝鮮とは現在の韓国と北朝鮮のことです。

我々日本人が学校で習う朝鮮との関係の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。
しかし朝鮮に花咲いた文化についてはは一切教えません。多くの日本人は朝鮮文化について盲目なのです。
日本の学校では朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に古事記や日本書紀、万葉集があったように朝鮮にも同じような文学作品や歴史書があったのです。これを知ることが友好関係を築く第一歩です。
さて朝鮮文化を気軽に知る第一歩として、韓国の世界遺産を知ることから始めてみましょう。
そしてその次に韓国の古典文学を概観してみます。萬葉集や源氏物語に相当するような文学作品をご紹介します。そして最後に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」、「沈清伝」、「薔花紅蓮伝」などの小説のあらすじご紹介します。

さて韓国の世界遺産です。以下にその一覧を示します。
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年認定)
海印寺大蔵経板殿- (1995年認定)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)

李朝朝鮮の歴史;
以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。朝鮮王陵は、韓国と北朝鮮にある李朝の朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。2009年6月27日に朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。

朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
王級は鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されたのです。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。

1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり王宮は焼失したのです。

さて次に朝鮮の古典について概観してみましょう。
その為にいろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から,古代前期、後期,中世前期、後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。

碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音とも併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
末尾に「春香伝」の粗筋を示しましたのでお楽しみ下さい。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。
これを知れば日本人は韓国と北朝鮮に親近感を感じるはずです。これが友好関係を築く第一歩です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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挿絵代わりの写真として韓国の風景写真を4枚示します。




(1)春香伝とは、
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子・李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘・成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の任期が終わり、夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。新たに赴任した卞府使は、春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすますが、春香は夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は春香を拷問し投獄します。都に帰った夢龍は科挙に合格して官吏となり、南原に潜入します。夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し、春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D

(2)「帝釈本解」の内容、
裕福な家に1 人の娘がいて,大切に扱われていた。ある日両親は娘を置いて出かけなければならない用事ができ,娘は一人家で留守番をしていた.
そのとき道僧が尋ねてきて布施米を請うた.娘は米を袋に入れるが,穴が開いていてなかなか米がたまらなかった.こうしているうちに夜遅くなり,僧は娘の家に一晩泊まることになった。道僧が帰った後,娘がはらんだことを知った両親は激怒し、娘を家から追放する。
娘は僧を訪ねて行き,そのまま住みつき3 人の息子を生んだ。道僧はそれが自分の息子であることを確認するために試練を課し、父子関係を認めた。
このような内容は,超現実的方法によって父母の承諾もなしに妊娠し追い出される点や,息子と父親との出会いと親子関係の確認が行われる点で,李圭報(1169-1241)の『東国李相国集』などに共通しています。

(3)この欄に掲載された朝鮮の歴史と文化に関する記事の一覧、
2014年11月4日から6回にわたって以下のような連載記事を掲載してきました。
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(6)完結編:豊かな朝鮮文化(2014年11月15日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(5)革命的な磁器焼成と李朝の白磁(11月11日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(4)日本人に感動を与えた朝鮮の少女」(11月9日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(3)朝鮮の古典文学(11月7日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(2)朝鮮の歴史の概略(11月5日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう」(1)韓国の世界遺産(11月4日掲載)



「飢餓時代の野鳥と『不良のあんちゃん』の思い出」

2022年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には考えられないことです。
戦後の日本は食料難の時代でした。餓死する人も絶えませんでした。飢餓の時代だったのです。
その飢餓の時代には野鳥はすべて捕って食べました。鴨や雉や山鳥は勿論、罰当たりの人は神社の鳩まで捕って食べました。
私にはシジュウカラやメジロやスズメを焼き鳥にして食べた強烈な経験があるのです。
少しそのいきさつを話しましょう。
戦後すぐの頃、少年だった私は近所の「不良のあんちゃん」に可愛がられていました。不良のあんちゃんの子分だったのです。
この「あんちゃん」は裏山でシジュウカラやメジロやスズメを捕る名人でした。
棒の先に強いねばり気のあるとりもちを巻きつけます。それを囮の鳥の入った篭に固定します。その仕掛けを裏山の雑木の枝に取り付けるのです。そうするとシジュウカラやメジロやスズメが囮の鳥につられて、とりもちを巻きつけた棒にとまるのです。シジュウカラやメジロやスズメが簡単に沢山捕れるのです。

「不良のあんちゃん」は小鳥の羽を取り去って、割いて、竹串に刺してイロリの火で醤油をつけながら焼くのです。気前よく子分の私にもくれました。飢餓時代なので、それは実に美味しいものでした。特にスズメは美味しかったのです。

私を可愛がってくれた「不良のあんちゃん」は美味しい焼き鳥を食べさせた後、何処かに消えてしまいました。それ以来、杳として消息がわかりません。器用で、その上子分を可愛がる性格ですから、それなりに幸せな一生だったと信じています。

私の家の庭に来て花の蜜を吸い、実や小虫をついばむメジロ、スズメ、シジュウカラ、ヒヨドリなど小鳥の姿を見るたびに「不良のあんちゃん」に可愛がられた少年の頃を思い出します。イロリの火で醤油をつけながら焼いた小鳥の美味しかったことを思い出すのです。
その経験は私に不良少年に対する暖かい気持を持たせたのです。この世の不良少年は必ず優しい気持ちを持っていると信じているのです。

親鸞は歎異抄のなかで、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」と書いています。
不良少年は学校の成績が悪くて非行をするものです。先生の敵です。しかし私は不良少年に恩義を感じています。この世に元来悪い人などいないのです。
美しい小鳥の姿を見るたびに不良のあんちゃんの一生が幸多かれと祈っています。

1番目の写真はシジュウカラです。写真の出典は、
https://degibird.com/yacho/sijyukara.html です。

2番目の写真はスズメです。

3番目の写真はメジロです。写真の出典は、https://orbis-pictus.jp/article/mejiro.php です。

4番目の写真はキジです。
写真の出典は、https://mirusiru.jp/nature/animal/kiji です。


「外国人が日本を絶賛する5つの理由、しかし・・・」

2022年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
最近テレビで外国から来た観光客にインタビューして日本の感想を聞く番組がありました。観光客は日本を褒めています。絶賛する人もいます。社交辞令にしても日本には良い点があるのでしょう。
しかし戦前、戦後の食糧難を体験し戦災で焼き尽きされた街々の光景が脳裏に焼き付いている私にとっては外国人の絶賛が信じられないのです。
私の個人的な感想は別にして、今日は何故日本の評判が良いかの理由を虚心坦懐に客観的に考えてみました。
その結果、次の5つの理由によって日本の評判が良いと考えられます。
(1)いろいろな差別が消え、平等な社会の国。
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った人の住んでいる国。
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国。
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国。
(5)1945年以来77年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国。
さて上の5つの理由をもう少し詳しく考えてみましょう。
外人観光客の6割、7割は台湾、中国、韓国などの東アジアから来ます。欧米人は遠方なのでアジア人よりも少なくなります。
従って上の5項目の評価は自国の台湾、中国、韓国、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシアなどの国と日本を無意識的に比較して評価しています。自分の國と比較しているのです。
共産党独裁の中国の社会と日本を比較して中国人観光客がインタビューに答えているのです。
台湾や韓国の民主国も同様に自国の社会と日本を無意識的に比較し評価しているのです。
さて外国人観光客の評判が良い一番本質的な理由は(1)「差別が消え、平等な社会の国」だと思います。これをもう少し詳しく考えてみます。
昔はアジアからの観光客は欧米人より大切にされなかったのです。以前外人と言えば欧米人を意味していました。昔とは高度成長以前の時代です。
しかし現在は日本人の差別感が無くなったので、外人と言えば、欧米人、アフリカ、南米、オセアニア、ロシア、アジアなど全てを意味するようになったのです。日本人の意識が大きく変わったのです。
アジアから来る観光客はこのことに敏感です。かつて欧米の植民地だっただけに一層敏感です。
テレビのインタビューではこのような深層の大切な理由は言いません。「人々が親切だ」と差しさわりの無い表現で答えます。
このように日本から差別が消え、個人が平等になったのは一朝一夕でなったのではありません。
それには敗戦後の苦しみに満ちた歴史があったのです。
敗戦の後でマッカーサーが乗り込んできて、「日本を民主化し、アメリカのように自由で平等な社会にする」と言って、大きな改革を命じたのです。
日本政府は唯々諾々と命令に従い民主化のための種々の制度改革をしました。そして学校では民主化教育をします。個人の自由と平等の重要性を強く教えました。私も先生方が何度も自由と平等が大切だと言っていたことを忘れていません。
しかしそれが本当に分かり身に着くのに戦後の何十年もかかったのです。
江戸時代から続く封建制度が身に沁みていた日本人の多くは、生まれた家の格式や自分の身分を無意識のうちに考えていたのです。
その上、明治維新以後の軍隊の強化で軍隊内の階級制度が世の中全体に深い影響を与えていたのです。
放浪画家の山下清さんは戦後ずいぶんたってからも全ての人を、「兵隊の位でいうとどの位の人?」と聞いていました。
そして民間会社の中でも重役は将官、部長は佐官、課長は尉官、平社員は兵隊のような処遇を受けていたのです。要するに社会のいろいろな組織の中では役職や階級による差別が当然として受け入れらていたのです。
組織の中で働いていた人々は上役の理不尽な職務命令で、時々、悲しい思いをしたのです。
このような精神的風土の社会では学歴差別、職業差別、男女差別、そして身体障害者への差別は当然のようにあったのです。
私自身も間違いなくいろいろな差別をしていました。恥ずかしい限りですがそんな時代だったのです。
このいろいろな差別が消えたのは経済の高度成長とそれに続くバブルの崩壊の時代と考えられます。
それまでは大会社が多くの子会社を隷属し、独裁的に振舞っていたのです。その経済界の差別体制が1990年ころに一挙に崩壊したのです。子会社は親会社から独立し自由になったのです。もう子会社だからといって差別されなくなったのです。
そしてその頃、アメリカから「差別用語廃絶の思想」が日本へ上陸して来たのです。
この頃から日本の社会からいろいろな差別が急速に消えて行ったのです。
人々は差別が消えると幸せな気分になることに気がついたのです。
差別されない社会。差別しない自分。これこそが本当の幸福だと日本人が信じるようになったのです。
ですから観光客が何処の国から来たかによって日本人は差別しません。
観光客が日本に来て居心良く、楽しく日本の各地へ旅が出来るのは差別されないで大切にされるからです。愛されるからです。この理由が一番重要な理由ではないでしょうか?

最後に事実を書けば、日本では差別は少なくなりましたが完全に無くなったわけではありません。

今日の挿し絵代わりの写真は日本の春の菜の花畑の風景写真です。
写真は「菜の花畑の風景写真」を検索してインターネットからお借りしたものです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





「コロナで孤独に死んだある修行僧のはなし」

2022年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナは最近また感染数が増え3年目になっても終息する気配がありません。日本ではもう1万8444人もの人がコロナで亡くなっています。
今日はコロナで孤独に死んだある修行僧のはなしを書いてみたいと思います。
ある修行僧とは東日本大震災の犠牲者を弔い続けていた、望月崇英のことです。新型コロナで突然死にました。死ぬ時、家族や親族がいない孤独な死でした。
しかし一人の少女がこの修行僧の死を嘆き悲しんだのです。
少女の母親から私が貰った投書をご紹介します。私が書いた、「ある修業僧へ送る梅の花の和歌と写真」(2021年01月20日掲載)という記事のコメントとして送られて来たものです。
===ほうげつ志音さんからのコメント(2021年1月23 日)=======
いま10歳の娘の志音は毎週お坊様、望月崇英師にお会いしたくて銀座へ参っておりました。
望月崇英師とは娘が2歳頃の時に知り合いました。そして漸く昨年互いに連絡先を交わし、さていよいよこれからもっとずっと御縁を... と思っておりました。
そんな矢先に御闘病中であられることを知り、そしてその後すぐにご臨終と伺いました。
娘は悲嘆のあまり泣き崩れしました。気が違えたと思うほど声を出して「絶対にイヤだ!」と泣きしました。
お坊様の背景を何も尋ねなかったことを私は居た堪れないほど後悔しています。
もっと早くこのブログの記事を存じ上げていたになら娘共々生活をもっともっと切り詰めて少しでも望月崇英師のためにお役に立てたと思います。悔やんでおります。
志音は本日、銀座和光の一角へ参って、そこでもかける声もないほどずっと泣いておりました。手袋を外して傘も畳んでずっと手を合わせておりました。
志音には、「命に長いも短いもなく、どれだけ心を込めて生きようとしたか」と伝えました。
このお坊様のことを少し詳しく教えて下さったこのブログ記事に心より感謝申し上げます。勝手ながらこの記事を印刷させていただきました。お坊様と一緒に写った写真数枚と共に志音の宝箱へ収めたく存じます。 ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。(終わり)
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母親の娘の志音さんへ対する暖かい愛情が胸を打ちます。素晴らしい母親です。
そして志音さんがの仲良しだったお坊さんの死を悲しみ泣き崩れる場面に感銘を受けます。志音さんは他人の愛が分る情感豊かな少女です。嗚呼、この人は一生幸せな人生を送る人だと思いました。確信しました。この母娘に幸せ多かれと祈ります。

望月崇英さんの写真は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html にあります。

最後に感じたことを一行だけ書きます。1番目の写真の望月崇英師の写真を見ると顔が実に良い雰囲気をかもし出しているのです。穏やかさに感動します。

今日の挿絵代わりの写真は亡き望月崇英師へ供える花々の4枚の写真です。神代植物公園の温室で私自身が撮った写真です。温室では冬でも睡蓮やベコニアなどの花々が咲いているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






参考記事、
「身元不明遺体の土葬に読経をする僧侶」
https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2011年06月13日 掲載記事、

高野山で修業をし、お寺に属さないで托鉢しながら被災地を支援している修業僧がいます。高野山真言宗僧侶の望月崇英さんです。
4月上旬にはじめて行った被災地の東松島市での事です。身元不明の遺体を30体土葬にする場面に申して出て、読経をしたのです。そして一人一人を埋葬するとき丁寧にお経を唱え、引導を渡したそうです。もちろん身元不明ですから誰もお布施を出しません。
土葬には東松島市の環境課の相沢俊明さんが立ちあいました。相沢さんが言っています。「あの混乱の中でお一人ずつ丁寧に見送っていただき、ありがたかった。私たちも救われる気がしました」と。
修業僧の望月崇英さんは銀座で托鉢しながら、アルバイトをして、週末には被災地へ行くのです。
被災地へ行くと、瓦礫で埋もれた民家の前や海岸に独り立って、お経を唱えます。心を込めて犠牲者の冥福を祈ります。誰も近づきません。遠くから家族を失った人々がソッと一緒に手を合わすだけです。
いろいろな支援の仕方があるという話です。それだけの話です。昨日の読売新聞35ページに載っていた話です。
思い出します。昔、清朝の時代に北京では毎晩、赤子が街路に捨てられていたそうです。寒い冬には、朝まで凍った小さな遺体が幾つかあったそうです。当時、北京にいたイエズス会の神父たちが遺体を教会へ集め、お葬式をしてから埋葬していたそうです。不幸にして幼いまま死んだ子供達へ神様のいつくしみが豊かにあるように祈ったのです。神様が子供達を天にやさしく迎えてくれるように祈ったのです。清朝に仕えていたイエズス会のマッテオ・リッチ神父がローマ法王に送った書簡に書いてある話です。これも、それだけの話です。
しかし、上に書いた2つの話は何か似通っているような気がいたします。
つまらない話かも知れません。でも何か考えさせる話ではありませんか?(終わり)

「武蔵野という名前の都立公園」

2022年01月16日 | 写真
家から3Km位離れた所に武蔵野という名前の都立公園があります。都立武蔵野公園です。
広い芝生を囲んで武蔵野の雑木林があリます。芝生と雑木林だけで他には何もありません。雑木林が美しいので時々行っては風景を眺めてきます。
今日の午後にも行きました。撮った写真をお送りいたします。
此処は遊水地になっています。

柳のたいぼくの向こうは「くじら山」です。
「野川」は大岡昇平の『武蔵野夫人』にも描かれています。左側の林に沿って『はけの道』があります。

武蔵野公園の南は東八道路に面しており、公園の北部を野川が西から東に流れています。野川沿いに東へ細い市道を越えると東京都立野川公園に出ます。
公園東部に駐車場や噴水があり、中心部に苗園があります。
中央部の野川南側の雑木林内にバーベキュー場があります。公園西部に小高い「くじら山」という丘があり、これは、公園の西に隣接する小金井市立南小学校を作ったときに出た土砂を積み上げてできたものです。

「函館の観光名所、カトリック元町教会の写真」

2022年01月16日 | 写真
●起源 1859年(安政6年)、フランス人メルメ・カション神父が来函、高台に小聖堂を建築
●宗派 ローマ・カトリック
●現建物の建築 1924年(大正13年)

私は沢山のカトリック教会へ行きました。私が好きだと感じ、印象の深かった教会は次のようにいろいろあります。

長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、五島列島の古風な教会、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そし何回も訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。

函館には何度か行きましたがそのたびにこの教会を訪問しています。
私が撮った函館のカトリック元町教会の写真をお送りいたします。








「カトリック教会、2022年1月16日の年間第2主日のミサ動画配信」

2022年01月16日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  1月16日 10時

カトリック関口教会、年間第2主日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=ltzScoB5K_c

1月16日10:00 司式 ホルヘ神父(助任司祭)
入祭の歌 典45 神の栄えをほめ歌い
あわれみ・栄光の賛歌 カ典405・406
答唱 典148①②⑤ 遠く地の果てまで
アレルヤ唱 典271 年間第2主日    
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納の歌 カ典10 神の霊が
感謝・平和の賛歌 カ典407・408
拝領  典123 主はわれらの牧者
閉祭の歌 カ典307 空の手で


聖イグナチオ教会、年間第2主日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=5Ghrr6iQm0Y

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
イザヤの預言(イザヤ 62:1-5)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 12:4-11)
福音朗読
ヨハネによる福音 (ヨハネ 2:1-11)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵はシスレー(Alfred Sisley)の雪景色の風景画です。


「昔うたった北原白秋の童謡の歌詞」

2022年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昔うたった北原白秋の童謡の歌詞をお送りいたします。詩人、北原 白秋(1885-1942)の問題の多い実生活と作品は別個のものなので作品だけを示します。出典は写真も含めて,http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/lyricist/kitahara-hakushu.htm です。

「この道」
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘は いつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道は いつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲も いつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂れてる 


「城ケ島の雨」
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓(ろ)でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ


「ペチカ」
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔 昔よ 燃えろよペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ 表は寒い
くりやくりやと 呼びますペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
今にやなぎも もえましょペチカ

雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ だれだか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ


雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよペチカ


「さすらいの唄」
1.行こか戻ろか
北極光(オーロラ)の下を
露霊(ロシア)は北国 はて知らず
西は夕焼け 東は夜明け
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に

2.泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠いあかりも チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(あお)よ
明日の旅路が ないじゃなし

3.燃ゆる思いを 荒野(あれの)にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし わが身はいとし
町の酒場は まだ遠し


その他は、http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/lyricist/kitahara-hakushu.htm  に出ています。
砂山(海は荒海 向こうは佐渡よ) 、からたちの花 、ゆりかごのうた、あめふり、ちんちん千鳥、待ちぼうけ、あわて床屋、曼珠沙華、かやの木山の、などなど。