後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「真冬でも花が咲き、緑濃い八丈島への独り旅」

2022年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
離れ島への独り旅は私の憧れでした。独りで淋しい心に自然の美しさが沁み込みます。人情の温かさが強く感じられます。それは男のロマンです。
ついに2009年1月28日、船に独り乗って八丈島へ渡りました。
八丈島は真冬なのに島全体が熱帯性の植物で覆われていました。天然の植物園です。そして花々が咲いていたのです。
そんな八丈島の冬から春先にかけて自分で撮った風景写真をお送りいたします。
1番目の写真は八丈島に繁茂している熱帯性の植物です。島は平野と火山で出来ていますが山地は全てこのように熱帯性の植物で覆われています。
2番目の写真は自動車道のそばに咲いていた熱帯性の植物の花です。
3番目の写真も自動車道のそばに咲いていたブーゲンビリアの花です。至る所にハイビスカスの花も咲いていました。真冬でもこのように熱帯性の花々が咲いていたのです。
その八丈島では早春になると「フリージア祭り」が行われます。そこで八丈島のフリージア畑の写真をお送りいたします。
4番目の写真は島の西にある山の麓にあるフリージア畑です。
5番目の写真はフリージア畑にいろいろな色彩の花を美しく混栽してある様子です。

6番目の写真はフリージア畑にある真紅と底の黄色いの
花です。

7番目の写真は混栽の仕方を列状にした風景です。フリージア畑の混栽の仕方を種々変化させて多様な美しさを演出しているのです。
このような八丈島は東京から約300Kmの海を隔てた太平洋上にあります。300Kmもの海を隔てているので八丈島は本土とは大変違う歴史と文化を有しています。
海路は明治以後の蒸気船やジーゼル機関のある船なら簡単に行き来出来ますが、それ以前の帆船では非常に困難な航海だったのです。「鳥もかよわぬ八丈島」と言われていたのです。
従って島民は東京都23区内ほどの広さの島で農産物と魚貝類だけで自給自足の歴史を築きあげてきたのです。独特の信仰と島特有の方言を持っていたのです。
その上、5000年以上前の縄文時代の石器や土器も多数出土しているのです。
この八丈島の厳しい生活条件を象徴しているのが1969年の八丈小島の全島民91人の離島、移住です。八丈小島は八丈島の西にある小島で、江戸時代から島の北西部に鳥打村、南東部に宇津木村の2村が置かれていたのです。この二つの村が1969年(昭和44年)に完全に廃村になったのです。
兎に角、八丈島は別世界なのです。
最後に八丈島の人々の暖かい人情について書いておきます。1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓のことです。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあるのです。八丈島の人々が毎日、切り花を供えていがのです。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。
秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。そして八丈島へ流されたのです。宇喜多一族は島の人々に大切にされました。
秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。
島の人々は流人たちを暖かく迎えました。流人たちはカイコや、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えました。サツマイモや焼酎の作り方を伝えました。
八丈島の人々は人情の篤い人々だったのです。
離島では周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。とくに海を渡って来た人々を大切にしたくなります。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。

今日は八丈島は真冬なのに島全体が熱帯性の植物で覆われ、ブーゲンビリアやハイビスカスの花が至る所に咲いている様子をご紹介しました。そして八丈島の人々は人情の篤い人々だという実例を幾つか書きました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「冬寒い鰺ヶ沢町も春になると花が咲く」

2022年01月13日 | 写真
冬には日本海からの強風が寒い鰺ヶ沢町にも春になると花々が咲くのです。

1番目の菜の花の写真の出典は、
https://gazoo.com/drive/mura/18/04/24/ です。

2番目も菜の花の写真です。出典は、https://gazoo.com/drive/mura/18/04/24/ です。

3番目の写真は岩木山と咲く桜です。出典は、
https://summerhill.at.webry.info/200804/article_3.html です。

4番目の写真はアジサイです。
出典は、https://seasonal-photo.blog.jp/archives/57059209.html です。

「あの世にいるK君へ妻からの感謝の手紙」

2022年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
大学時代の友人のK君が昨年10月に亡くなった。享年85歳。そして12月に奥さんからその知らせの手紙が来た。少し長い文章がついていた。
一読してその文章はあの世にいるK君への妻からの感謝の手紙であると感じた。下に奥さんからの手紙を了解を得て転載する。

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「今まで本当にありがとう⋯」 
青森県の鯵ヶ沢町に生まれ、厳しい日本海の風に
吹かれながら育った夫です。冬になれば猛吹雪に
耐えるため、後ろ向きで歩きながら学校へ通ったと
聞いています。そうした環境を生き抜く中で培われた
強さなのでしょう。どんな時も弱音や愚痴一つこぼさ
ないようなとても頑張り屋で辛抱強い人でした。
 田舎から東北大学へ進学し、卒業後は「伊藤忠
商事」で来る日も来る日も忙しく働く日々でした。
出張で海外のあちこちを飛び回り、朝早くに家を
出て日付が変わった頃に帰ってくるのが当たり前
でした。外国駐在中は家族も一緒だったので高校生の
末っ子は勉強面で大変な思いをしたのですが、仕事の
合間を縫って夫がサポートしてくれましたこと、
本当に感謝しています。
 夏休みになれば皆を連れて旅行に出かけ、紡いだ
思い出は数え切れません。義理人情に厚く自身の
両親のことも大事にし、またまっすぐな人柄を部下
にも慕われておりました。七十歳まで海外等で
働いた後は成田国際空港でボランティアとして励み
やがて足を悪くしてしまったのは八十歳頃のことです。
以降は入退院を繰り返すものの、最近は楽しみに
していたオリンビックを観ながら慣れ親しんだ
我が家で過ごすことが出来ましたので、きっと悔いは
ないと思います。
 急な別れは残念ですが、向かう先でゆっくり
休んで私を待っていてくれるのなら、それ以上の
慰めはありません。どうかこれからも私や子供達の
歩みを見守って欲しいと願い、静かに両手を合わせます。
夫は、令和三年十月六日、満八十五歳にて生涯をとじました。
  戒名 正道院釋超久
最後になりましたが、夫が今日まで頑張ることが
出来ましたのも支えて下さった方々のお蔭に他なり
ません。病院関係の方をはじめ、ご厚情を賜りました
全ての皆様へ深く感謝を申し上げます。
 尚、通夜と葬儀は家族葬で執り行いました。略儀
ながら書状をもってご報告申し上げます。
令和三年十月十一日(通 夜)
    十月十二日(葬 儀)
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最後に奥さんの住所、氏名が書かれていました。

大学時代のK君は本当に人情篤い熱血漢でした。東北大学の金属工学科を一緒に1958年に卒業しました。同級生は30名だけだったのですぐに親しくなりました。育った鰺ヶ沢町の冬の寒さを何度も話していました。ある時、同級生30名が一緒に郊外の小さな山にハイキングに行きました。K君が先頭になって登ります。「お山の大将俺一人~」と歌いながら登って行った姿を鮮明に思い出しています。
卒業研究の実験も大変熱心にしていたことが記憶に残っています。社会人になってもクラス会で何度も会いましたが大きな声で商事会社の面白さを快活に話していました。

最後になりますが上記の手紙の件でいろいろお世話になったK君の娘さんのあずささんへ感謝の意を表します。

今日の挿絵代わりの写真は青森県の鰺ヶ沢町を通る五能線と日本海の冬の風景写真です。4番目の写真は 鰺ヶ沢町から見た冬の岩木山 です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1、鰺ヶ沢町を通る五能線と日本海の冬の風景写真です。
(Foto Stock 《五能線が走る風景(冬)》青森県深浦町 | Adobe Stock  )

2, 日本海沿いの五能線から見た夕日です。
(https://18kipper.com/aomori_gonoline/ )

3、五能線の深浦付近の冬の風景です。

4, 青森県 西津軽郡 鰺ヶ沢町から見た岩木山 です。

「台湾の冬の花売り場の華やかな写真」

2022年01月12日 | 写真
台湾の北は台北から南の高雄まで多様な気候を持つ台湾は、1年を通じて、美しい花を咲かせます。 いまや台湾新幹線で、北から南まで最短で2時間ちょっとで移動できるのに、この気候の多様さは、花好きの人にとっては天国といってよいでしょう!
写真と文章の出典は、https://sekainohanaya.com/archives/2622 です。






「台湾政府は16民族の原住民を手厚く保護している」

2022年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
台湾には現在でも16もの異なる民族が住んでいる興味深い国です。台湾の中華民国の政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その総数は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増加しています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい
それでは早速、現在の台湾の原住民の4枚の写真をご覧ください。
上の写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。
台湾を代表する美女を選出する「第8回ミス台湾」決勝大会が2015年7月下旬に高雄市内で行われ、台湾原住民のアミ族出身の陳海琳さん(21歳)がグランプリに選ばれたのです。 そしてこの女性がミス世界コンテストへ中華民国代表として参加したのです。
台湾には少数民族への差別の無い証拠ではないでしょうか?
上の写真の出典は、http://taiwan-blog.com/60 です。
この原住民の写真の出典は、http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress/index.php?cat=18 です。

の原住民の写真の出典は、http://newhoshu.blog.jp/archives/4513845.htmlです。 

さて私は世界のいろいろな民族の観光客向けの写真を多数見てきました。多くは失われた祖先の文化を悲しみながら踊りを見せている写真です。観光客のために笑顔を作っていますが何か悲しそうにしています。
ところが上の4枚の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。現在、このような屈託の無い顔をしている少数民族は珍しいと思います。台湾の政府が彼等を大切にしている証拠です。

以下は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 からの抜粋です。

1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されました。そして民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年には「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしたのです。
さらにその後、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められました。台湾では少数民族は差別されず手厚く保護されいるのです。

台湾では現在、平地原住民と山地原住民(高山族)に分けられております。
2008年6月末、高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占めています。その後の10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高いのです。
以下は政府認定16民族と人口です。
各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、

アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人
そして下の地図に各民族の主な居住地を示しています。

この図面の出典は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 です。

さてこれらの台湾の原住民は何処から来て、何処へ移住して行ったのでしょうか?
この謎は、「台湾資料」、http://www.gicas.jp/taiwan/index.htmlに明快に解明されています。しかし今回は長くなり過ぎるので続編に譲ることにします。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



「清い湧水の泉が沢山ある武蔵野の美しさ」

2022年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野という地名にはロマンチックな響きがあります。国木田独歩が武蔵野の美しさを書いた本が有名になったせいでしょうか。
武蔵野とは荒川と多摩川に挟まれた広大な台地です。そこには美しい雑木林や畑が広がっています。この武蔵野台地は決して平らでなく丘や崖があちこちに散在しています。大岡昇平の「武蔵野夫人」にも描かれているハケの道は国分寺から武蔵小金井に続く心地よい散歩道です。その丘や崖の下には泉が湧いているのです。
私はこの武蔵野に住みその自然の魅力に心惹かれています。何気ない雑木林が美しいのです。清冽な水が湧き出ている泉があちこちにあります。不思議に年中、泉の水が一定しています。湧水で出来た池が青空と白い雲を写しています。私はそんな泉のほとりを歩くのが好です。湧水で出来た池の回りを静かに散歩します。老境のかけがえのない楽しみです。

今日はそんな泉や湧水で出来た池の写真をお送りいたします。すべて自分が撮ったものです。
まず近くの国分寺市の恋ヶ窪に崖のある湧水で出来た「姿見の池」の写真から始めます。

1番目の写真は湧水で出来た「姿見の池」です。
この姿見の池には湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えています。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったのです。
平成10年度東京都と国分寺市は、池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 としました。
次は国分寺市にあるお鷹の道の湧水で出来た「真姿の池」です。
2番目の写真は現在の武蔵国分寺の東にあるお鷹の道の「真姿の池」です。
3番目の写真は鷹の道沿いに流れる湧水です。
お鷹の道の名前来です。1748年(寛延元年)から国分寺は徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となりました。
武蔵野台地の崖下の泉と清流の脇に小道が整備され、これを「お鷹の道」と呼ぶようになったのです。
さて次は小金井の貫井弁天の湧水出来た池です。

4番目の写真は貫井弁天と湧水で出来た池の風景です。池の水は流れ出て下流で野川に流入し多摩川へ合流しています。
小金井貫井神社の裏手には幾つかの泉から湧き出している貫井神社湧水群があるのです。国分寺崖線が小金井まで延び、その崖下からコンコンと湧き出しているのです。
縄文時代はこの泉の付近に環濠集落があったことが分かっています。
そして畑作や稲作の時代になると湧水群の周囲に農地が出来、集落も出来ました。国分寺でも小金井でも崖線の下側に昔から農村が出来ていました。崖の上の台地には開発されない時代が長く続いたのです。

次に善福寺公園や武蔵関公園や石神井公園や井の頭公園について書きます。皆湧水で出来た自然の池を中心にしています。

5番目の写真が善福寺池の風景です。
善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、江戸時代には、貴重な水源ででした。またこの池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は別名遅野井村とも言わていました。
善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来していますが、江戸時代に廃寺となっています。しかし近所に「善福寺」という寺が現在ありますが、それは福寿庵という元々違う名前だった寺で、後年地名をとって改名したお寺であり、池の名前の由来にはなっていません。

6番目の写真は武蔵関公園の富士見池の風景です。
武蔵関公園は大正時代に私設公園としてボート場や遊具施設などが整備され、1938年10月に東京市立公園としています。
池には西側と東側に「葦の島」と「松の島」という島があり、葦の島は春先に紫色の花ダイコンのような花が一面に生えてきれいです。
冬は青空ながら寒い北風が吹いていたので人影も少なく、静かな池の風景です。
湧水で出来た池を中止にした公はは善福寺公園や武蔵関公園の他に石神井公園や井の頭公園がありますが長くなるので割愛いたします。

今日は泉や湧水で出来た池や公園をご案内いたしました。国分寺市や小金井市や石神井にあり電車の便もあります。都区内などにお住まいの方が静かに散策すると良い所です。晴々とします。気分爽快になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「やはり南房総の花畑は凄い!、真冬でも華やかに咲いています」

2022年01月10日 | 写真
南房総の花畑は凄いものです。真冬でも華やかに咲いているのです。
周辺にはいくつも花畑がありますが、今日は大規模な白間津のお花畑の写真をお送り致します。
出典は、https://garden-vision.net/garden_visit/siramadu_f.ht です。





「26歳で亡くなった金子みすずの詩の世界」

2022年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、日本の文学作品を簡略にご紹介してきました。宮沢賢治と夏目漱石の代表的な作品です。
そこで今日は金子みすずの詩の世界をご紹介したいと思います。
金子みすずは山口県長門市の仙崎に住んでいました。26歳という若さで亡くなった悲しい生涯でした。服毒自殺でした。
まず作品をお読みください。

   「大漁」
朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

  「星とタンポポ」
青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

 「不思議」
わたしは不思議でたまらない
黒い雲から降る雨が
銀に光っていることが
わたしは不思議でたまらない
青いクワの葉食べている
蚕が白くなることが
わたしは不思議でたまらない
たれもいじらぬ夕顔が
一人でパラリと開くのが
わたしは不思議でたまらない
たれに聞いても笑ってて
あたりまえだということが

 「みんなをすきに」
私は好きになりたいな
何でもかんでもみいんな
ねぎもトマトもお魚も
のこらず好きになりたいな
うちのおかずはみいんな
かあさまがお作りになったもの
私は好きになりたいな
だれでもかれでもみいんな
お医者さんでもカラスでも
残らず好きになりたいな
世界のものはみいんな
神様がお作りになったもの

その他の詩は、https://iso-labo.com/labo/words_of_MisuzuKaneko.html にあります。

作品には生きている魚や鳥に対する慈しみと憐れみをうたった美しい作品が多いのです。そして上にある「星とタンポポ」のような透徹した自然観が詩になっています。読んでいて心地よい詩となっています。
作品には、小さく弱い生き物への憐みの心が美しい命の響きになっています。私は金子みすずの作品のようなものが西洋にはあまり無いと思います。
私は以前からこの詩人は仏教の生類憐みの気持ちを豊かに持っている仏教徒と感じていました。彼女は決して仏教を宣伝しないのですが、立派な信者だと思っていました。
しかしその事は今まで人には言いませんでした。
しかし以前にBS朝日の「金子みすずの故郷の風景」という番組を見てやっぱりそうだったのかと思ったのです。
彼女の住んでいた山口県の仙崎湾の港町は日本海に面していて、江戸時代から明治初年まで、毎年多くの抹香鯨が回遊して来ました。その鯨を毎年数十頭も捕って藩の財政を豊かにしていたのです。
その仙崎港にあるお寺に「鯨の過去帳」があることをBS朝日の番組が報じていました。江戸時代末期に捕った鯨240頭の亡くなった日月と戒名が書いてある鯨の過去帳なのです。これには驚きました。鯨をお寺さんが供養しているのです。人間の生活を支えてくれたことに感謝しているのです。
このような文化の色濃くある仙崎港に住んでいた金子みすずが人間のために殺される生き物へ慈しみの心を持っても不思議ではありません。
そうです。仏教の心を無意識のうちに童謡詩にしていたのです。
この世で一見、不幸そうだった彼女はお釈迦様の教を感じて生きていたのです。無意識に感じて心が満たされていたに違いありません。
それが仙崎港の伝統文化だったのでしょう。
ここで私は宮沢賢治の仏教を考えています。彼は意識的に仏教を信じ、他人へも信仰を勧めました。

それはそれとして、賢治の作品やみすずの作品が我々の心に響くのは我々も仏教徒だからかもしれません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は金子みすずが住んでいた山口県の仙崎の風景です。
1番目の写真の出典は、https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/kanko/photo/H_nagato/nagatosenzakifukei.html です。
その他の写真の出典は、https://tripnote.jp/yamaguchi/osusume-spot-at-misuzu-street です。
1番目の写真は山口県の仙崎町の風景です。
2番目の写真は金子みすずの胸像と「大漁」の記念碑です。
3番目の写真は「みすゞ通り」です。みすゞが生まれた長門市仙崎にある、約1キロメートル延びる通りのことです。仙崎駅から海までの一本道で、昔ながらの風情が残る町並みが続いています。

4番目の写真は金子みすゞ記念館です。みすゞの実家跡に建つ記念館です。二階にはみすゞの部屋があります。記念館では、みすゞの生涯についてパネル展示してあり、当時の様子を詳しく知ることができます 。
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金子みすずの生涯:
山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。

上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。
1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭の宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。
みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、夫はみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1933年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。



「カトリック関口教会、主の洗礼のミサと新成人の祝福の風景写真」

2022年01月09日 | 写真
今日は主の洗礼のミサの中で新成人の祝福があり教会からの贈り物が6人の新成人へ渡されました。
そんな風景写真をお送り致します。
自宅でミサにあずかり、PCの画面を写した写真です。






「教養としてのキリスト教、そして復活祭とは?」

2022年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。
今日はそのキリスト教とやがて来る復活祭のことを簡単に説明したいと思います。今年の復活祭は4月17日の日曜日です。

キリスト教は簡単に言ってしまえば、「神の子」であるイエス・キリストの教えを信じる宗教です。その教えは「聖書」に記されています。聖書には『旧約聖書』と、イエス・キリストによる新しい『新約聖書』があります。
この宗教のテーマとは、「神・罪・救い」です。信者は神のことを、「今も生きて働いておられる『真(まこと)の神』」という言い方をよくします。罪とは間違ったあり方ということです。そして、救いは、イエス・キリストによる救いです。
新約聖書には、真の神が人間を罪から救うために救い主のイエス・キリストを送ってくださった事実が書かれています。しかしイエスはローマ総督ピラトの裁判で処刑されます。一旦死にますが3日目に生き返り弟子たちの前に現れます。これをイエスの復活と言います。
復活祭とはキリストが金曜日に十字架にかけられ処刑され、3日後にに生き返ったことをお祝いするお祭りです。
一方、キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。
しかし復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のキリスト教の関係者だけが祝っています。
復活祭の期日は春の到来を祝う原始宗教のお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。
しかし、「一旦、死んだ人が生き返る」という不自然さ、不合理さがあるので日本では受け入れらなかったのでしょう。

キリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。クリスマスよりも非常に重要な祭日です。
その理由はキリスト教信仰の中心をなすのが、キリストが生き返り、その後、天に登って神の右の座に着いたという事実を信じることなのです。そして最後の審判の時が来ると、キリストは再び帰って来ます。そして全ての死者の肉体も蘇り、復活するのです。
復活祭とはイエス自身の生き返りを祝い、全ての死者の生き返りを祈る重要な祭日なのです。
上に書いたことはあまりにも荒唐無稽なことですね。少なくとも大部分の日本人には受け入れられない空想に過ぎません。私も本物の日本人ですから復活祭が日本へ受け入れらなかった事情は痛いほど良く分かります。なにせ仏教にはそんな空想論は皆無なのです。
さてそれはそれとして少し復活祭に関連した写真を見てみましょう。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD です。

1番目の写真の絵画は生き返ったキリストが弟子たちの中心に立っている光景です。ある弟子は本当に生き返ったキリストなのかと疑って眺めています。トマスはキリストの脇腹の傷跡に指を入れてみて、「これは本物の生き返ったキリストだ!」と納得します。

さて欧米人は本当にキリストの復活や全ての死者の肉体の生き返りを信じているのでしょうか?
これこそ欧米人の心の裏にある迷いなのでしょう。ある時は信じ、ある時は疑います。私はカトリックなのである時は確かに信じています。
100%そのまま信じている欧米人もいます。60%信じている人もいます。20%信じている欧米人もいます。しかしここで重要なことは欧米人なら皆が以上に書いた復活の話を知っているのです。

南米の有名な革命家のチェ・ゲバラでさえ、聖書の一句の「愛が無ければ、」を使った「愛が無ければ、革命家になれない」というセリフを言っていたのです。
昔のソ連のスターリンも知っていたのです。なにせ彼は若いころ神学生だったのです。そして聖書よりも共産主義が人々を救うと信じて転向したのです。
ですから共産主義はキリスト教の裏返しだと言われています。
このように欧米の文化や政治や社会現象の下敷きに、キリスト教があるのです。無意識のうちに欧米人はその影響を受けているのです。
それは我々日本人が仏教の影響を無意識のうちに受けているのと同様です。カトリックの私も仏教の影響を深く受け、仏教が好きです。

以上はキリスト教とやがて来る復活祭のことを簡単に説明です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「カトリック教会、2022年1月9日の主の洗礼のミサ動画配信」

2022年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  1月9日 10時
カトリック関口教会、主の洗礼のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=FaegvIiU8Ds
司式 天本昭好神父(主任司祭)
新成人の祝福
入祭の歌 典147 天は神の栄光を語り
あわれみ・栄光の賛歌 カ典405・406
答唱詩編 典68①⑤ 神よあなたのいぶきを
アレルヤ唱 主の洗礼
信仰宣言 使徒信条(2)
奉納  典322 愛といつくしみのあるところ
感謝・平和の賛歌 カ典 407・408番   
拝領  カ典22 この水を受けた 
閉祭  聖霊の息吹をうけて

聖イグナチオ教会、主の洗礼のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=I81z564DM8M
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵は主の洗礼の油彩画です。
絵はチーマ・ダ・コネリアーノ作の1493年制作です。
「貴方も洗礼を施し、悔い改めよ」と告げているかのようなキリストの表情が描かれています。

出典は、http://mementmori-art.com/archives/26181607.html です。

・・・ キリストが30歳になった時、ヨルダン川のほとりに預言者が現れたという噂が立ちました。その預言者は人々に「神の国は近付いている、準備しなさい」と告げ、洗礼を授けているそうです。
 キリストは出番が近付いていることを悟り、川へと向かいました。預言者の正体はキリストの親戚であるヨハネ。彼は不信仰者に与えられる恐ろしい滅びと、救世主の到来を民衆に告げていました。キリストはヨハネの元へ歩いて行くと、「私に洗礼を授けてください」と言いました。ヨハネは彼が神の子であることを感じ、「恐れ多いです」と辞退しようとしましたが、キリストは「やっていただきたいのです。正しい事は行うべきです」と言い、ヨルダン川に降りて行って、ヨハネに洗礼をしてもらいました。この時、天から鳩の姿をした聖霊が舞い降り、「私の愛する子よ・・・」という神の声が聞こえて来たそうです。・・・

「嗚呼、驚きです!台湾では今コスモスが咲いている!」

2022年01月08日 | 写真
嗚呼、驚きです!台湾では冬にコスモスが咲いているのです。
冬の野原にはコスモスの花が一面に咲いているそうです。
その写真をお送り致します。
出典は、
https://jp.123rf.com/photo_92774188_%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%80%82.html 
と並びに、
https://jp.123rf.com/photo_70323736_%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E5%86%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%80%82.html です。






「絶滅寸前のヨーロッパのサーミ民族の悲しみ」

2022年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
独自の言葉を話し固有の文化を持っている少数民族は世界中に沢山住んでいます。しかし年々絶滅し、どんどん数が減りつつあります。少数民族は消えて行く運命にあるのでしょうか。悲しい運命です。
少数民族は日常その固有の言葉で話し合ってる民族と定義されます。すると日本のアイヌは絶滅したことになります。日常アイヌ語を使っているアイヌ人がいないのです。確かにアイヌ民族の文化を保存しているアイヌ人の末裔の団体は存続していますがその民族は絶滅したと考えるのが現実です。
以前の2018年1月3日に掲載した記事では台湾に住んでいる16の少数民族を紹介しました。台湾政府が保護し、原住民専用のテレビ局も所有しているのです。

今日は絶滅寸前のヨーロッパのサーミ民族をご紹介したいと思います。ヨーロッパにも我々の知らない少数民族が沢山住んでいるのです。
民族の厳密な定義は難しいものですが上に書いた「固有の言語を持っている」ということに限定します。
すると西ヨーロッパには以下のように13ほどの少数民族が住んでいるのです。
1、サーミ人(北欧およびロシア北部)
2、カタローニィア人(スペイン)
3、フリース人(ドイツ・オランダ)
4、ソルブ人(ドイツ)
5、コーンウォール人(イギリス)
6、スコットランド人(イギリス)
7、アイリッシュ・トラヴェラー(アイルランド)
8、ガリシア人(スペイン)
9、メルチェーロ(スペイン)
10、南チロル人(イタリア)
11、 ジュラ人(スイス)
12、 フリーウリ人(イタリア)
13、 ラディン人(イタリア)
(以上は、http://reki.hatenablog.com/entry/171024-West-European-Minority を参考にしました)
さて今日は人口も多く居住地も北欧からロシア北部へと広範囲に住んでいるサーミ民族(ラップランド民族)の暮らしと文化を簡単にご紹介したいと思います。

1番目の写真はサーミ民族のテントと民族衣装を着た家族の写真です。
写真で示したテントはトナカイの放牧地の休憩用で、中で焚火をして弁当を食べたりコーヒーを淹れます。現在のサーミ人はテントではなく近代的な家に住んでいます。

2番目の写真はサーミ民族を主題にしたある映画の場面です。少女達は色鮮やかな衣服でお洒落をしています。

3番目の写真は民族衣装で着飾った女性の後ろ姿です。

4番目の写真はトナカイの放牧風景です。トナカイからは乳を搾り、肉を食べ、毛皮で服を作り、骨でいろいろな道具を作ります。トナカイはサーミ民族の命を支えるもっとも重要なものなのです。

5番目の写真は固い北方の木をくり抜いた器です。水飲みにも使い、熱いスープも入れて食器としても使えます。大きさもいろいろあります。

さてサーミ民族は、スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部に紀元前から居住していた先住民族です。
フィン・サーミ諸語に属するサーミ語を話します。サーミ人同士はサーミ語だけを使います。フィン・サーミ諸語に属するサーミ語を話します。
しかしスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルです。
ちなみにサーミの別名のラップランドとは辺境の地を呼んだ蔑称であり、彼ら自身は、サーミと自称しています。
もともとは、狩猟と遊牧を行なってきた原住民族でしたが、現在ではほとんどのサーミはトナカイ牧場を所有して定住生活をしでいます。

人種はフィン人とともに北ヨーロッパ系の特徴である金髪碧眼のゲルマン系でコーカソイドに属します。しかしモンゴロイド系の父系遺伝子も多分に見られるそうです。この特徴は紀元前の中国東北部にある遼河文明人からも発見されているそうです。

さて何故サーミ人が絶滅しそうになっているのでしょうか?
原因の一つにサーミ民族の精霊信仰がキリスト教に駆逐されたことがあります。
サーミ人の信仰は、昔から森羅万象に宿る様々な精霊を対象とした精霊信仰でした。季節、人間や動物の健康や繁栄、自然がもたらす様々な災害や恩恵、これらのあらゆるものが精霊の力によるものと信じていたのです。
そのため、全ての事象の根源である精霊の声を聞くシャーマンの存在は、サーミ人の宗教において必要不可欠なものだったのです。
聖霊や太陽や大地と交信し、森羅万象の原因を突き止めるために存在していたのがシャーマンであったのです。シャーマンは極めて稀な才能であり、それ故に、彼らは常に尊敬と畏怖の対象であり続けました。

こうした精霊信仰も16世紀に入り、キリスト教の布教がラップランドまで及んだ時、弾圧の対象となったのです。
現在サーミ人の大多数がルーテル教会、もしくは正教会に属しています。この流れに抵抗し、精霊とシャーマンへの信仰を忠実に守り続けたサーミ人も、決して少なくはなかったのですが、宣教師たちは彼らを迫害し、特にシャーマン自身の改宗、撲滅に努めたのです。
キリスト教布教の動きが最も高まったのが、19世紀、サーミ人であるラエスタジアス牧師が、サーミ人の改宗に訪れたときでした。
彼が創始したラエスタジアス派はノルウェー、スウェーデン、フィンランドで現在でも広く信仰されているそうです。

このキリスト教のサーミ人への布教は、サーミ固有の文化の破壊を意味します。
その上、サーミ人は北欧とロシアの諸国家へ分割帰属してしまったのです。
こうしたキリスト教化の流れの中で、それでもシャーマンは19世紀半ばまで生き残っていました。
精霊についての知識や薬草を用いての民間療法の方法は現在でも伝承されています。しかしそれと信仰が結びつくということは完全になくなってしまったのです。

考えてみると少数民族の消滅とは避けることの出来ない歴史の必然なのでしょう。それにしてもある文化が失われることは人類の文化がより貧しくなることです。淋しいです。悲しむべきことです。

今日は人口も多く居住地も北欧からロシア北部へと広範囲に住んでいるサーミ民族(ラップランド民族)の暮らしと文化を簡単にご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「『坊ちゃん』にちなんで松山の道後公園の花の写真」

2022年01月07日 | 写真
今朝、「夏目漱石の『坊っちゃん』は今読んでも痛快!」という記事を掲載しました。坊ちゃんは松山の中学校の教師をしていました。それにちなんで松山の道後公園の花の写真をお送り致します。

写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01801020679 です。