後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京に初雪、うっすらと庭につもりました」

2022年01月06日 | 写真
午後1時頃から初雪が降り出しました。現在は庭にうっすらと積もっている程度ですが雪がドンドン降り続いています。
明日朝まで10cm位の積雪になるという予報です。
初雪なので雪が庭にうっすらと積もっている写真をお送り致します。





「インドの花々の写真」

2022年01月06日 | 写真
ここに示した4枚の写真は「インドの花々の写真」を検索して、美しいものを選びました。
特に1番目の写真の出典は、https://www.asahi.com/and/article/20201203/300302248/。 です。
そして4番目の写真の出典は、https://www.saiyuindia.com/dom_tour/IFD57/ です。






「不幸な人へ心寄せた賢治そしてその救い」

2022年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治は本質的に優しい人間でした。この世で不幸な人、不運な人に心を寄せ、その救いを書きました。
「よだかの星」もそうです。醜く生まれた人の悲しみを「よだか」という醜い鳥になぞらえて描きました。しかしこの世で不幸だった鳥はあの世では永遠に幸福になったのです。夜空に美しく輝き続ける星になったのです。すぐとなりはカシオペア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。 美しい話です。
今日はこの「よだかの星」のあらすじをお送り致します。

・・・「よだかは實にみにくい鳥です。顔は味噌をつけたやうにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。」と始まるこの童話は姿が劣るだけで差別される者の悲しみ、辛さを現在の私たちに語っています。「鷹」はその名前をたいそう嫌がって顔さへ見ると名を変えろといふのでした。ある日「名前を『市蔵』と変へろ。首から名札をぶら下げろ」「しなければつかみ殺すぞ」というのです。

よだかは巣から飛び立ち空を飛び回ります。大きく開いた口に羽虫が沢山飛び込みます。甲虫も入りのどをひっかきながら呑みこまれました。その時、夜だかは大声で泣きながら空を回り「ああ、かぶとむしや、沢山の羽虫が毎晩僕に殺される。僕はもう蟲を食べないで飢えて死のう。いやその前に鷹に殺される。遠くの遠くの空の向ふへ行ってしまはう」

よだかは遠くの空に行く前に弟のカワセミを訪れます。別れを告げ、「どうしてもとらなければならない時のほかは魚をとらないようにしてくれ」と頼みます。

翌朝昇る太陽に向かい矢のように飛んで行き「お日さん灼け死んでも良いからあなたの所へ連れて行って下さい」と頼むのですが、「夜の鳥だから今夜星に頼んでごらん」と言われます。

夜になり西の空のオリオンに連れて行ってくださいと頼みましたがてんで相手にしません。南の大犬座に頼むと「馬鹿を云ふな」北の大熊座は「頭を冷やして来なさい」東の星は「星になるには金もいるのだ」と言うのです。

よだかはすっかり気落ちして羽根を閉じて地に落ちて行きました。地に着く寸前俄かにのろしのやうに空へ飛びあがり、キシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。夜だかはどこまでも、どこまでもまっすぐ空へのぼって行きました。

寒さや霜が剣のやうによだかを刺しました。なみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。さうです。これがよだかの最期でした。

血の付いたくちばしはたしかに少し笑って居りました。しばらくたってよだかはまなこをひらきました。からだが燐の火のやうな青い美しい光になって燃えているのを見ました。そしてよだかの星は今でもまだ燃えつづけています。
すぐとなりはカシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。・・・

死んで美しい星になる。これは宗教の世界です。そうです。賢治は法華経の信者だったのです。この世の不幸はあの世では必ず救われると信じていたのです。
しかし一方、宗教を信じない人でも人間は死ぬと星になるという美しい話は聞いたことがあるでしょう。それは童話の世界です。
賢治の文学には童話と宗教が重なっていると思います。それが強みであり弱みでもあると私は考えています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵代わりの写真は冬に美しくなる木の実の写真です。
出典は、https://www.mantentosa.com/nature/flower/winter.html です。
1番目の写真はフユイチゴです。果期:11~1月【バラ科】フユイチゴ(冬苺)の名前は、果実が冬に赤く実ることに由来。 別名寒苺(カンイチゴ)とも呼ばれてる。果実は、甘酸っぱくそのままやジャムなどにして食べられる。 
2番目の写真はヒメヤブランです。果期:11~1月【キジカクシ科】日当たりのよい草地や林下に生育する小型の多年草。 根出葉の間から花茎を直立させた上部に花序をつけ、淡紫色~白色の小さな花を咲かす。 花の後に小さい種子が果実から裸出し黒く成熟する。 
3番目の写真はヒヨドリジョウゴです。花期:8~9月、果期:11~12月【ナス科】ヒヨドリジョウゴは、山野に自生するつる性多年草。 夏に葉と対生するように花序を出し、白~紫色の花を咲かす。 秋に球形で赤く熟した果実をつける。全草を酢漬けにし帯状疱疹に効能。 
4番目の写真はサネカズラです。果期:晩秋~冬【マツブサ科】別名ビナンカズラ(美男葛)。大きいキイチゴのような実が特徴的な常緑つる性木本。 ビナンカズラの由来は茎などに含まれる粘液を整髪料に使っていたため。実は滋養強壮などに効く生薬として利用できる。 
5番目の写真はセンリョウです。果期:10~2月【センリョウ科】一年中日光の当たらない日陰に自生する。 マンリョウと共に正月飾りには欠かせない縁起物。小鳥がこの実を好んで食べにくることが多い。 

6番目の写真はキミノセンリョウです。果期:10~2月【センリョウ科】こちらは黄色い実をつけるセンリョウの変種。 その見た目から近縁種と思われがちだが、マンリョウとセンリョウは全く違う種類に属している。 


「南国、台湾に冬咲く花の写真」

2022年01月05日 | 写真
南国、台湾に冬咲く花々の写真です。流石に台湾では冬に桜や枇杷の花が咲いています。
4枚の写真出典は、https://floweryseason.com/fuyu-hana-ki/ です。

1番目の写真は冬至梅です。

2番目の写真は桜です。

3番目の写真は冬椿です。

4番目の写真は枇杷の花です。


「宮沢賢治の作品をもう一度気楽に読う!」ー注文の多い料理店、風の又三郎、オッベルと象、ドングリと山猫、よだかの星ー

2022年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治は近代日本が生んだ文学者としての天才です。
この世の全ての人が幸福にならなければ自分は幸せになれないという信念を実行して、悩んで、生きて、死んだのです。享年38歳の短い人生でした。
1896年(明治29年)に岩手県現在の花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。
幸せは何か?どうすれば東北地方の貧しい農民が幸福になれるのか?悩んで、悩んで、いろいろな事を実行しました。
彼の文学作品はその悩みの中から滴り落ちる清冽な水の雫のようなものです。
私は東北地方の生まれなので昔の東北の貧しさを知っています。昭和の初め頃ですが。賢治の作品に共感して宮沢賢治全集を折りにふれ幾度と読みました。
正月休みに久し振りにもう一度彼の童話を読み直してみました。そして考えました。
一般的に童話とは若い母親が自分の子供に話して聞かせます。字が読めるようになれば挿絵付きの童話の本を買って子供に与えます。そして子供たちは成長するに従って自分で読むようになります。
しかし現在の母親が賢治の童話を読んで感銘を受ける作品は少ないのではないかと心配になりました。
現在童話はストーリーが明快で楽しい話でなければなりません。暗い悲しい童話は敬遠されますが感銘が深いと私は信じています。
賢治の作品は童話と言われていますが、私は大人が読む文学作品と思います。
私が感銘を受けた作品は注文の多い料理店、銀河鉄道の夜、風の又三郎、オッベルと象、ドングリと山猫、よだかの星などです。
みな非常に独創的で感動的な作品です。
宮沢賢治の作品が分かり難いのは心象風景がたくさん書き込んであるからです。心象風景は本人以外の他人には理解するのが難しいものです。
特に彼の詩や歌や、散文には心象風景がさかんに描かれています。そのせいで難解な作品が多すぎます。例外は妹、トシの死を悼む詩、「慟哭」は明快で、読む人の心を強く打ちます。
何故、彼の心象風景が理解しにくいか、もう少し詳しく書きます。
彼は周りの森や山、空の雲や星、そして動物達を尊敬し、直接会話をするのです。それも心象的会話なのです。他人に分かる筈がありません。

ヒョッとすると、「よだかの星」は彼自身の一生を短く描いた童話なのかも知れません。
醜い「よだか」という鳥が、その醜さ故に周りからいじめられるのです。そうして最後に よだかは天に登って星になるのです。
星になる前後を賢治は次のように書いています。
・・・・もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少し笑って居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。・・・・
考えてみると賢治自身が輝く星になりたかったのかも知れません。
宮沢賢治は星になって今でもカシオペア座のそばに燃えているのか知れません。
宗教を信ずる全ての人は宮沢賢治の信仰心に興味を持ちます。もう一度、「雨ニモ マケズ・・・・」の詩を思い出して下さい。
しかし宗教を抜きにして宮沢賢治の作品を気軽に読むほうが良いと思います。宗教と文学は別なのです。
正月休みに宮沢賢治の童話をもう一度読んで感じたことをあれこれ書きました。脈絡のないものになりました。
宮沢賢治の作品をもう一度気楽に読んででみましょう。注文の多い料理店、風の又三郎、オッベルと象、ドングリと山猫、よだかの星などの童話は気楽に読めます。それにしても昔の東北の農村は貧しかった。そこへ疎開した私は賢治の作品の原風景が分るような気がするのです。

挿絵代わりの写真は賢治に関係した幾枚かの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は羅須地人協会の建物です。賢治はここで農民の肥料や土壌改良の相談にのっていました。私どもも以前ここを訪れ賢治を偲びました。

2番目の写真は賢治と妹トシです。

3番目の写真は盛岡高等農林高等学校時代の賢治です。

4番目の写真は花巻農学校で働いていた頃の賢治です。
===賢治の略歴==========================
  • 1896年(明治29年)
        岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。家業は古着商。
      
  • 1903年(明治36年) 7歳
      花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。

  • 1909年(明治42年) 13歳
      県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。
     

  • 1911年(明治44年) 15歳
      このころより短歌創作を始める。

  • 1914年(大正3年) 18歳
      3月 盛岡中学卒業。
  • 1915年 (大正4年) 19歳
      盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。

  • 1917年 (大正5年) 21歳
      同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。

  • 1918年 (大正7年) 22歳
      3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。
      5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。

  • 1919年 (大正8年) 23歳
      4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで)

  • 1921年 (大正10年) 25歳
      1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。
         この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。
      8月  妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。
     12月  稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。

  • 1922年 (大正11年) 26歳
      童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。
      11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。

  • 1926年 (昭和元年) 30歳
      花巻農学校依頼退職。
      羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。
      干ばつと水害が多い。

  • 1927年 (昭和2年) 31歳
      このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。
     
  • 1931年 (昭和6年) 35歳
      以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。
      病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。
      「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。

  • 1932年 (昭和7年) 36歳
      病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。
     
  • 1933年 (昭和8年) 37歳
      9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。
      9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。
      午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。



「昨年に閉園した京王フローラルガーデンを懐かしむ」

2022年01月04日 | 写真
過去20年も足繁く訪問した京王フローラルガーデンが昨年突然閉園しました。残念です。悲しいです。
この花園は2002(平成14)年に開園しました。
東京ドーム1.5倍の敷地に趣が異なる15のガーデンを配置され、季節の草花が楽しめたのです。欧風庭園でした。
懐かしいので以前に冬に自分が撮った写真を掲載したいと思います。






「幸せに老境の日々を送るための気持の持ち方」

2022年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
気持の持ち方で人生は変わります。人間の幸不幸は気持の持ち方次第です。違うかも分かりませんが私はそのように感じています。特に老境に至ると一層そう思います。

今日は老境の心のあり方を書いてみたいと思います。私が日頃心がけてていることを書きたいと思います。

人間は老いると元気が無くなります。体が硬くなって若い時のように活発に動けません。自然の摂理です。
しかし心や精神は若い時のように活き活きとして生活することが出来るのです。
それでは活き活きと生きるにはどうすれば良いにでしょうか?
私が実行していることを具体的に書いてみたいと思います。

(1)熱帯の花々や植物を見て情熱を貰う
活き活きとして生活する第一の方法はいろいろな所にある温室を訪れて熱帯の植物を見ることです。
温室の中ではこんな寒い冬でも花々が咲き、実をみのらせ、緑濃い葉が茂っています。それらを見ると人は自然に情熱を感じ、その情熱が自分の体に乗り移ってきます。もっとも近頃は出歩くことが困難になって遠方の温室まで行けません。インターネットで「温室のある植物園」を検索して大きな温室を見つけては楽しんでいます。
独立行政法人筑波実験植物園の温室です。シンガポールのイギリス人が作った熱帯植物園も素晴らしいです。その植物園には大きな熱帯の花々が咲き、空を覆う巨大な樹木が繁っているのです。

(2)外国のことに好奇心を燃やし続ける
情熱的に生きるとはどういう生き方なのでしょうか?それは毎日、すべてに対して疑問を感じ、何事にも好奇心を持って活き活きと考える生活を送ることだと思います。考える問題は文化的に意義があり、また社会的に新しい考え方を示唆出来るような問題を取上げたいものです。
ここで重要なことは外国のことを善意で考え建設的に描くことです。意地の悪い好奇心ははいけません。最近の私のブログ記事の実例をあげます。
「韓国理解のために(1)まず朝鮮の歴史を知る」、2021年01月04日、から「韓国理解のために(8)恩を絶対に忘れなかったある韓国人」、2021年01月18日、などが例です。
韓国のことを善意で考え建設的に描くと自分が活き活きとなるのです。これは韓国に限ったことではありません。中国、アジア諸国、いや全ての国々のことを善意で考え建設的に思うと私は情熱的になるのです。
しかし皆様はどんな国にも悪いところがあるのだから悪いところを書かないのは客観的でないと言うでしょう。公平でないとお考えでしょう。それは分かります。しかし私は外国の悪いことは書きません。それが私にとって元気になる方法なのです。

(3)日本の四季の移ろいと自然の花々を大切に思う
上の第1の方法として温室の中に繁茂する熱帯の樹木や花から情熱を貰うことを書きました。
しかしそれだけでは充分ではありません。日本の四季の微妙なうつろいや季節ごとに自然に咲く花の静かな美しさを見ることも大切なのです。そして日本の自然から情熱を学び取るのです。現在は遠方までドライブ出来ませんが、昔は関東地方の花々のある山野や公園を何度も、何度も見て来ました。車のドライブが大好きだったので、自宅から半径200Km位で日帰り出来る範囲はかなり詳しく知るようになりました。
例えば「府中郷土の森博物館公園」で、真冬に毎年一番早く咲き出す蝋梅(ロウバイ)の満開の様子を何度もしげしげと眺めて来ました。そこへは1月に毎年行く所です。甘く清らかな香りが一帯に漂っています。そしてロウバイの花園の向う側には多摩川の光る川面が見えるのです。
そして私は花々だけではなく武蔵野の雑木林が大好きです。何故か雑木林の風景を眺めると情熱的になるのです。近所の公演の四季折々の自然の風景を見て活き活きしています。また自宅の庭に活力ある色の花や葉の木を植えたり、室内に植木鉢を置いて自然の花々を大切にしています。

(4)神道や仏教やキリスト教のことを考え元気になります
日本には古来から民族宗教として神道がありました。西暦6世紀にインドの大乗仏教が中国から入って来ました。そして西暦1549年にザビエルによってキリスト教が伝承されます。
仏教と神道は混淆され明治維新までは仏教と神道は一体として人々に信仰されていたのです。現在でも神社とお寺は並んで存在している風景は珍しくありません。それらは同じものとして一体化されていたのです。
一方キリスト教は250年の禁教時代がありました。長崎の外海地域のキリシタンは表面上、寺の檀家となって暮らしていたのです。
少し深く考えると潜伏キリシタンが厳しい禁教の下で250年も生き残ったのは神道信者や仏教徒の目に見えない保護や支援があったからなのでしょう。幕府の権力者を恐れない農漁民の崇高な勇気が250年の潜伏キリシタンの歴史を作ったのです。
そんなことを考えると勇気が湧いてきます。活き活きと生きていけるのです。

今日は死が訪れるまで活き活きと情熱的に生きる4つの方法を具体的に書いてみました。皆様はどんどんな方法をとっていらっしゃいますか?

今日の挿絵代わりの写真は紅梅と白梅の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




弥生時代から平安時代の初期まで日本人は桜の花より梅の花を愛し尊重していたそうです。その後、平安朝中期からは山桜の花の美しさ、散りぎわの潔さがもてはやされるようになりました。特に江戸時代には桜の品種改良が盛んになり様々な桜の花が持てはやされるようになります。私はは若い間は華やかな桜の花の方が好きでした。それが老境になると桜花より梅の花が好きになったのです。それが老境なのでしょう。

「消えてしまった旧正月、日本文化の軽さ」

2022年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦まで地方では旧正月が重視されていました。私の祖母は旧正月にご馳走を食べ雑煮やお汁粉を食べていました。宮城県の農村地帯の登米の出身でしたから旧暦を使っていたのです。
つい何年か前まで使っていたカレンダーは新暦でしたが小さな字で旧暦が併記されていました。嗚呼、今日は旧暦の何月何日だと昔の桃の節句や端午の節句を思い出して懐かしい気分になっていました。
それなのに最近は旧暦が併記されたカレンダーが少なくなりました。
旧暦が消えてしまったのです。旧正月も消えてしまったのです。何故か日本文化の軽さを感じます。

今日は旧暦や新暦にまつわる話を書きたいと思います。
旧正月は大陰暦に基づく旧暦の1月1日でです。今年の2022年では2月1日です。
この旧正月は中国大陸・香港・ベトナム・台灣・モンゴル・ブルネイ等では最も重要な祝祭日の一つです。新暦の正月よりずっと盛大に祝われているのです。
 日本では沖縄と奄美に現在も旧暦が使われています。それから日本の神社や寺では旧正月に祭が開催される所が多いのです。初詣客が参拝する正月と旧正月と二度行うところも多いのです。
奄美や沖縄では旧暦が残り沖縄のカレンダーは、「旧暦カレンダー」と銘打ったものでなくとも旧暦の記載が当たり前です。「旧暦カレンダー」は年中行事や吉凶の判断などに重要な役割を果たしています。
そのような沖縄のカレンダーの中でも、とくに代表的なものに東洋易学学会総本部編纂の「沖縄琉球暦」というものがあります。
日本の農村地帯では終戦まで沖縄ほどではありませんが旧暦が重視され農作業に利用されていました。
新暦への 改暦は明治5年11月9日に布告し、翌月に実施されましたが社会習慣は一気には変わらなかったのです。特に農村地帯では終戦まで旧暦が重視されていたのです。
 日本人の季節感にも合っていて長年慣れ親しんできた旧暦に基づく生活サイクルは簡単に切り替えられるものではありません。
現在のように新暦が人々の生活に定着したのは、高度経済成長期を始まった昭和30年代以降のことと私は考えています。 
一方、韓国は旧正月を現在でも盛大に祝います。(https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=436)
韓国の旧正月(ソルラル)は陰暦の1月1日です。
韓国では西暦の1月1日よりもソルラルのほうを重要な行事として盛大に祝います。日程は毎年変わりますが、大体1月の終わりから2月の中旬頃です。今年は2月1日です。当日と前後の2日をあわせて、3日間前後が連休になります。2022年の旧正月連休は土日を含めると1月29日(土)から2月2日(水)までの5連休になります。
写真で韓国の旧正月の様子をご紹介致します。
1番目の写真はチマチョゴリ(韓服、ハンボッ)を晴れ着として着た子供です。ソルラルを迎えると気分新たに出発するという意味をこめて新しい服や靴、靴下などに身を包みます。
2番目の写真は伝統の形式にのっとり老人へおじぎをする 人形です。年配の人や目上の人に順におじぎをしていき、徳談(トッタン、祈りやお祝いの言葉)を交わします。 挨拶が終わると子どもたちにセベットンといわれるお年玉を渡します。 
3番目の写真は旧正月を祝う茶礼の供養物です。韓国では祭祀(チェサ)という法事を行い神や先祖をまつります。ソルラルの際は、それを簡易化した茶礼(チャレ)が開かれます。儀式の際に茶礼床(チャレサン)と呼ばれる特別な供養物を用意します。
4番目の写真は正月遊びのシーソーです。
お正月遊びは子どもだけでなく大人も一緒に楽しみます。
民俗遊びの中でも特に親しまれているものは、ヨンナルリギ(凧揚げ)やペンイチギ(こま回し)、ユッという木の棒を使ったユンノリ、細長い板の端に乗った2人が交互に飛び上がるノルティギなどがあります。
ソルラル連休中の古宮や文化体験広場ではこれら民俗遊びや伝統体験に参加できるイベントも開かれています。
旧正月のは食べられる料理の1つがトックッがあります。うるち米で作ったトッ(餅)と野菜などを煮たスープです。元来は厳粛な心をもつため、餅以外は何も入れなかったといいます。
以上のように韓国では旧正月の伝統文化を現在でも守っています。何故か文化の厚さや重厚さを感じます。
私個人は日本ももっと伝統文化を大切にすべきと考えています。西洋化も良いのですが伝統文化を大切にすべきと考えています。

今日は旧暦や新暦にまつわる話を書きました。特に韓国の旧正月をかなり詳しくご紹介致しました。欧米化も良いのですが伝統文化も大切にしたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「印象派シスレーの風景画」

2022年01月02日 | アート・文化
 印象派シスレーの風景画を4点お送り致します。 どの作品もフランスの田舎町の風景画です。のどかな田園風景を描いた作品です。作品を通して、その当時の空気感も感じられるような作品です。 出典は、http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=506 です。

 1番目の写真はシスレーの【アルジャントゥイユのエロイーズ大通り】です。 

2番目の写真はシスレーの【サン・マメスの眺め】です。 

3番目の写真はシスレーの【ヴァルヌーヴ・ラ・ガレンヌの橋】です。 

4番目の写真はシスレーの【モレのポプラ並木】です。

シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、人物、室内画、静物といった他のジャンルは全て合わせてもおそらく20点に満たない。
スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。
シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。

「カトリック教会、2022年元旦のミサ動画配信」

2022年01月01日 | 日記
カトリック教会、2022年元旦のミサ動画配信は以下の通りです。

2022年  元日 10時

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=shO-xzJ6KxQ

聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=mSfwnPKcC4A

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「謹 賀 新 年」

2022年01月01日 | 日記
謹 賀 新 年

新年にあたりご一家のご健康と平和をお祈りいたします。
今年も皆様にとって幸多い年になりますようにお祈りいたします。

今年もよろしくお願いします。  後藤和弘(藤山杜人)

写真は近所の公園の蝋梅と梅の花です。