阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

作家 吉村昭の死   2006年10月03日(火)の阿智胡地亭の非日乗に掲載

2020年02月26日 | 音楽・絵画・映画・文芸

かってこのブログに彼の書いた「大黒屋光太夫」の読後感を掲載しましたが、その著作者吉村昭さんが7月31日に亡くなられました。

追悼の言葉が各誌に掲載されましたが、そのなかでも一番吉村昭の人となりを伝え、深い哀悼の意を表していると思った記事の一部を以下に抜粋します。

================================================

追悼 吉村昭

昭和2年、東京の日暮里に生まれた吉村昭さんは根っからの町ッ子であった。ちょっとした言葉の言い回しや気の遣いかたに東京人特有の気質がうかがえた。

・・・中略・・・

敗戦まもなく20歳の吉村さんは肺結核の末期患者であった。半年間で60㌔の体重が35㌔まで減少した。
そんな大病の経験をしたせいか、吉村さんには生きるうえでの自分なりの流儀があった。

みずからの真情をあからさまに吐露することを嫌い、はにかみや、謙虚さや、少々のことなら我慢する、といった、古い東京人の培っていた節度をわきまえていた。

対人関係においても、なるべく相手のよい点を強調して、全体を容認しようとした。しかし、物事や人間関係の基本に関しては、理非曲直がはっきりしていた。

その二,三の現場に立ち会った私は、吉村さんのけじめのつけかたのきびしさに、むしろたじろいだ。吉村さんなりの好き嫌いの基準はいろいろあったのだろうが、
相手の立場を考えない、手前勝手な人間には、一番我慢がならなかったに違いない。

われわれはまた一人、昭和の戦前、戦後を生きた、さわやかな東京人を失った。

文壇というものが今あるとして、吉村さんはそれまでの文壇が作り上げた良質な美学やモラルをだいじにした。

そして文壇人と生きることに誇りを持ち続けた人、と思う。だが、作家は作品がすべて、と割り切って、孤独な創作作業に徹し、文壇付き合いというのを余りしなかった。
畏敬するあまたの作家を持ったが、自らちかづくということはなかった。

・・・・以下略。

筑摩書房月刊PR誌「ちくま」10月号
[哀悼 吉村昭] 大村彦次郎より抜粋引用。

なお畏敬する吉村昭さんは自らの生命をこのようにしておえました。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「大阪ことばあそびうた」か... | トップ | 伊予の国から春の便り 土筆... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
吉村昭さん (愛読者)
2020-02-26 10:44:29
読みました.
我が人生に悔い無しと行きたいですが? 可能でしょうか?ノー天気な私には.一寸先が分からない日々を過ごしています。小説の様なレベルでは無いですが、切実な心を感じました。いつも良き知識をありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

音楽・絵画・映画・文芸」カテゴリの最新記事