元Jリーガーの八十祐次さんは、司法研修所でバーディーの同期となるはずである。それにしても、元プロサッカー選手が司法試験に合格するとはすごい。八十さんによれば、サッカーも司法試験も「基本を繰り返す」ことが重要とのことである。まったく同感である。
八十さんは経営学部出身なので、法律は予備校で学んでいる。伊藤塾の入門講座が彼のいわゆる「基本」で、辰巳法律研究所の答案練習会をその確認の場として使っていた模様である。Jリーガーの練習も、大部分は基本の確認にあてられているとのこと。かつて弱小西武ライオンズの監督に就任した広岡達朗も、正確で丁寧なキャッチボールの励行や、「一塁まで全力疾走」「すきあらば次の塁を」などといった基本に立ち戻った練習で日本一に導いたことを思い出す。
それにしても、ロースクールの法学未修者に対する教育体制はお粗末であり、学生に気の毒というほかない。この点に限れば予備校の方が圧倒的に優れている。これはおそらく、ひとつには、多くの学者が「教育」という労働を蔑視しているからであり、ひとつには、「基本」を軽視しているからであるように思われる。
私の先輩に、大学をほぼ全優で卒業した人がいた。研究室に誘われたものの固辞し、一流官庁に入省した。ところが半年で退官し、司法試験を目指した。だが、4~5回受験したようだが受からず、結局研究者となった。やはり研究者が向いていたのだろう。
私のみるところ、研究者タイプの人に共通にみられるのは、予備校の商業主義に対する嫌悪と、意外にも基本を軽視する姿勢である。前者は理解できなくもない。私もかつてはそうであった。ところが、問題は後者である。たとえば、司法試験受験生にとって、判例六法の一気読みは骨が折れる力仕事だが、避けては通れない「基本」のひとつである。だが、このような勉強をしたことのある研究者がどれだけいるだろうか。こんな「低レベルな」作業をするよりも、自分の専門分野の文献を読む時間の方が大事だと考えるに違いない。実際、わがロースクールでも、法学未修者に対して、はじめから「法学協会雑誌」(極めてハイレベルな専門雑誌である)を参考文献として読ませる教官がいた。もちろん、評判は最悪である。ピアノでいえば、バイエルも弾いたことないのにショパンの練習曲を弾かされるようなものだからである。
・・・それにしても、どこの世界でも基本が大事であることを痛感する今日このごろ。
八十さんは経営学部出身なので、法律は予備校で学んでいる。伊藤塾の入門講座が彼のいわゆる「基本」で、辰巳法律研究所の答案練習会をその確認の場として使っていた模様である。Jリーガーの練習も、大部分は基本の確認にあてられているとのこと。かつて弱小西武ライオンズの監督に就任した広岡達朗も、正確で丁寧なキャッチボールの励行や、「一塁まで全力疾走」「すきあらば次の塁を」などといった基本に立ち戻った練習で日本一に導いたことを思い出す。
それにしても、ロースクールの法学未修者に対する教育体制はお粗末であり、学生に気の毒というほかない。この点に限れば予備校の方が圧倒的に優れている。これはおそらく、ひとつには、多くの学者が「教育」という労働を蔑視しているからであり、ひとつには、「基本」を軽視しているからであるように思われる。
私の先輩に、大学をほぼ全優で卒業した人がいた。研究室に誘われたものの固辞し、一流官庁に入省した。ところが半年で退官し、司法試験を目指した。だが、4~5回受験したようだが受からず、結局研究者となった。やはり研究者が向いていたのだろう。
私のみるところ、研究者タイプの人に共通にみられるのは、予備校の商業主義に対する嫌悪と、意外にも基本を軽視する姿勢である。前者は理解できなくもない。私もかつてはそうであった。ところが、問題は後者である。たとえば、司法試験受験生にとって、判例六法の一気読みは骨が折れる力仕事だが、避けては通れない「基本」のひとつである。だが、このような勉強をしたことのある研究者がどれだけいるだろうか。こんな「低レベルな」作業をするよりも、自分の専門分野の文献を読む時間の方が大事だと考えるに違いない。実際、わがロースクールでも、法学未修者に対して、はじめから「法学協会雑誌」(極めてハイレベルな専門雑誌である)を参考文献として読ませる教官がいた。もちろん、評判は最悪である。ピアノでいえば、バイエルも弾いたことないのにショパンの練習曲を弾かされるようなものだからである。
・・・それにしても、どこの世界でも基本が大事であることを痛感する今日このごろ。