Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

テクストが弱い?

2025年01月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「英国バレエ界の鬼才マシュー・ボーンが手掛けた、ティム・バートンの名作『シザーハンズ』(90)の魅惑的なダンスバージョンは、2005年の初演以来、世界中の観客の心を掴んできた(来日公演:2006年8月16日〜9月3日)。2024年3月にカーディフのウェールズ・ミレニアム・センターでライブ収録され、大絶賛を受けた舞台が、ついに日本のスクリーンに上陸する。・・・
 風変わりな発明家によって作られた、丘の上の城に住む人造人間エドワード。発明家が亡くなり、エドワードは未完成のまま、両手がハサミの状態で一人取り残されてしまう。ある日、親切な女性キムに出会い、彼女の家族と共に暮らすよう誘われる。エドワードの奇妙な見た目に戸惑いながらも、彼の持つ純粋さや優しさを見つけようとする人々の中で、果たしてエドワードは自分の居場所を見つけることができるのだろうか――。

 私は、通常、ダンスはライブで観るようにしているのだが、マシュー・ボーンの作品のうち、日本公演がなさそうな作品については映画で観ることがある。
 例えば、当分日本で上演されそうにない「くるみ割り人形」(ミックス作品)がそうである。
 「シザー・ハンズ」も同様で、おそらく日本で上演されることはなさそうな気配なので、映画館に観に行った。
 ところが、正直に言うと、ちょっと期待外れだった。
 というのは、オリジナルの映画を観たことがないせいかもしれないが、インパクトがやや弱いように感じたのである。
 例えば、
 「エドワードの奇妙な見た目に戸惑いながらも、彼の持つ純粋さや優しさを見つけようとする人々の中で、果たしてエドワードは自分の居場所を見つけることができるのだろうか――。
というところは、「美女と野獣」の方が分かりやすい。
 「いや、それにフランケンシュタイン的な要素をミックスさせたのだ」という声もあろうが、グロテスクなのは指だけなので、これも中途半端である。
 それに、エドワードとキムが結ばれてハッピー・エンドとなったのかどうかも、判然としない(ぼんやりと観ていたせいか?)。
 要するに、パンチが足りないようなのだ。
 この感覚に私は既視感を覚え、アルベール・カミュの「誤解」についてボーヴォワールが述べた、
 「テクストが弱い
という言葉を思い出した。

 「登場人物としては、兄ヤンと妹マルタ、ホテルを切り盛りする母の三人を中心に、最初と最後に少しだけあらわれるヤンの妻マリア、そしてせりふを2つだけ与えられた老召使、実にシンプルな構成だ。故郷に戻った息子ヤンが、ほんの気まぐれから他人を装ったため母親と妹に殺されてしまうという、運命の不条理を主題にした作品である。この筋立てを、カミュは新聞記事から得た。」(「アルベール・カミューーー生きることへの愛」p81~82)

 息子を母と妹が殺して金品を奪うという、実話に基づくこの戯曲は、当初はあまり評価されなかった。
 読んでみると分かるが、実話であるにもかかわらず、ちょっと入って行きにくいシチュエーションなのと、セリフによる盛り上げ方がいまいちなのである。
 私見では、これは、カミュが実際の事件に引きずられすぎてしまったことによる失敗で、もっと一般人の共感を得やすい設定に変更すべきだったのだろう。
 これに対し、「エドワード・シザーハンズ」はダンスなので、「テクスト」ではなく「ストーリー」と言い換えるべきかもしれないが、テーマが浮き上がりにくく、かえって、「手を封印したダンス」という、一般人にとってはその難しさが分かりにくいところに焦点が持って行かれたように思う。
 ・・・鬼才といえども、全作品が傑作というわけではないようだ。
 
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満員御礼

2025年01月20日 06時30分00秒 | Weblog
春の声
雷鳴と稲妻
皇帝円舞曲
芸術家の生活
鍛冶屋のポルカ
美しく青きドナウ 
スケーターズ・ワルツ
ラデツキー行進曲 
ほか

 2年前に行ったときは「外出控え」のせいかお客さんが少なく、今回もやや心配していたのだが、それは杞憂だった。
 「東京公演は6800円、武蔵野なら2800円」「2時間で味わえるコスパ最強天国」というキャッチ・コピーのおかげもあって、ほぼ満席の盛況である。
 オーケストラのほかにバレエ・ダンサーと歌手が参加するのだが、今回はウクライナ出身のナタリア・ステパンスカさんというソプラノ歌手が(おそらく)初出演。
 指揮者のサンドロ・クトゥレーロさんが言う通り、“Strong Voice”で喝采を浴びていた。
 バレエの方は、オーケストラの手前・舞台前方の幅2メートルほどのスペース内で正確に踊らなければならず、結構大変そうに感じた。
 ともあれ、盛況に気をよくしたのか、サンドロ・クトゥレーロさん「来年も来るよ!」と言ってくれたのは良かった。

曲目・演目
前半(ピアノ・ソロ)
バラード 第3番 変イ長調 作品47
ポロネーズ 第5番 嬰ヘ短調 作品44
ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53「英雄」
ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61「幻想」

後半
ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8
<アンコール曲>
・木枯らしのエチュード
・ピアノ協奏曲第1番・第2楽章(トリオ・バージョン)
出演
亀井聖矢(Pf)、東亮汰(Vn)、佐藤晴真(Vc)

 こちらは今もっとも勢いのある若手ピアニストの一人、亀井さんのソロと室内楽トリオのコンサート。
 やはり、ほぼ満員の盛況である。
 それにしても、「オール・ショパン」と銘打っているのは、やはり次のショパン・コンクールを照準に入れているからなのだろうか?
 前半は、昨夏のツアーとやや曲目がかぶっているが、今回は若干ミスタッチがみられ、パフォーマンスはツアーの方がやや良かったという印象である。
 前半ラストの幻想ポロネーズについて言えば、私見では、ラストが最も重要と考えており、特に「和音が割れないかどうか」を見ている。
 というのは、各指の力の配分がおかしかったり、タッチが弱すぎたりすると、どうしても和音が「割れて」聞こえてしまい、台無しになってしまう曲なのである(音と音のケンカ祖国の曲)。
 その難所を、亀井さんはクリアーした。
 どうやったかというと、アンジェラ・アキのようにピアノからときどき立ち上がってしまうくらいの力を込めて、鍵盤を叩いた。
 つまり、「力で押し切った」のである。
 確かに、これだと和音が割れなくて済むが、仮に審査委員の中に「力で押し切る奏法」を毛嫌いする人がいたりするとかなりの減点になるのではないかと、老婆心ながら思ったりもする。
 もっとも、(ときおり「横審」でもみられる)こういう類の「趣味の問題」で優劣を決めてしまうところは、コンクールの良くないところだろう。
 ともあれ、「日本人初のショパン・コンクール優勝者」の誕生に期待したい。
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安心を与える人(4)

2025年01月19日 06時30分00秒 | Weblog
「ジゼル」
全2幕(約2時間10分)
音楽:A.アダン 振付:V.ヤレメンコ

「プレミアム・ガラ」
(約2時間10分)
第1部
「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」よりパ・ド・ドゥ
振付:F.アシュトン
イローナ・クラフチェンコ/ニキータ・スハルコフ
「ジゼル」よりパ・ド・ドゥ
振付:V.ヤレメンコ
カテリーナ・ミクルーハ/ヤン・ヴァーニャ
「海賊」第1幕よりパ・ド・トロワ
振付:V.ヤレメンコ
エリーナ・ビドゥナ/ヴォロディミール・クツーゾフ/オレクサンドル・オメリチェンコ
「ゴパック」
振付:R.ザハロフ
ヴォロディミール・クツーゾフ ほか
「マーラー交響曲第3番」
振付:J.ノイマイヤー
菅井円加/アレクサンドル・トルーシュ
第2部
「スプリング・アンド・フォール」
振付:J.ノイマイヤー
イローナ・クラフチェンコ/ニキータ・スハルコフ ほか

 この10年くらい、年始にウクライナ国立バレエ団の公演を観に行くのが習慣となっているが、今回は、アリーナ・コジョカルが客演するというので、彼女が出演する日のチケットを初日に買っていた。
 ところが、彼女は怪我で降板となり、代役として菅井円加さんが出演することになった。
 もっとも、どちらもお気に入りのダンサーなので、私的には問題ない。
 ノイマイヤー振付の「マーラー交響曲第3番」は、菅井さんにとっては十八番だが、なんともスリリングなダンスである。
 ちょっとでもタイミングがずれると大けがしそうなコリオだが、相方:アレクサンドル・トルーシュと完璧に息が合っており、軽々とこなしている。
 他方、「ジゼル」では清楚で折り目正しいクラシカル・バレエを披露し、何でも出来るダンサーであることを示している。
 有吉京子先生も指摘しているように(自分の価値)、「自分を信頼している人」を見ていると、私などはこの上ない安心感を覚えるのである。
 まさしく、「安心を与える人」と言うべきだろう。
 ところで、ウクライナ国立バレエ団のダンサーにとって、試練が続いていることは言うまでも無いが、今回知ったのは、「ウクライナを背負うダンサー」として見られることが、実はダンサーとしての自由を制約するものだということである([NHKスペシャル] “それぞれの物語を踊れ”ロシア生まれの振付家×戦禍のウクライナバレエ | 闇からの飛翔~ウクライナ国立バレエ~ | NHK:12分35秒付近~)。
 「本当は踊ることそのものに喜びを見いだしたい」というニキータ・スハルホフさんの言葉は、本心からのものだろう。
 そういう意味では、カテリーナ・ミクルーハさん(21歳)の「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」でのダンスは、純粋な喜びそのものが現れていたと言ってよい。
 これは難しい問題で、ラトマンスキー氏が言うように(自由への抑圧に対し)「声をあげる」ことはもちろん必要だが、それと併せて「日常を守り続ける」ことも行う必要があるのだろう。
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背景的情動としての「無気力」(16)

2025年01月18日 06時30分00秒 | Weblog
 その小説は、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」(「稲垣足穂コレクション 4 ——ヴァニラとマニラ」に所収)である。
 「稲生物怪録」をモチーフにした短編小説で、そのあらすじは、「物怪が取り憑くと言われる古塚に触って、日夜化物の来襲を受けることになった勇敢な16歳の少年:稲生平太郎(後の稲生武太夫)が、変幻果てない化物の執拗な脅しにもめげず、ついに一ヶ月を耐え通したのを見て、その健気さに感心した化物のボス:山ン本五郎左衛門が姿を現し、一挺の手槌をのこして立ち去る」というもの。
 だが、山ン本は、一体なんのために「脅し」をしていたのだろうか?

 (怪物が)「扨々御身、若年乍ラ殊勝至極」ト云ウノデ、「其ハ何者ゾ」ト口二出スト、「余ハ山ン本五郎左衛門ト名乗ル。ヤマモト二非ズ。サンモトト発音致ス」・・・。
 「・・・御身当年、難二遭ウ時期ヲ迎エタリ。コハ16歳二限ラズ、大千世界総テノ人々ノ上二有ル事ナリ。ソノ人ヲ驚カシ恐レサセテ行クヲ我業トスルナリ。コレ、ワタクシノ所為二非ズ。」(p201~203)

 山ン本は、人々に恐怖を与えることを仕事としているが、自ら進んでやっているのではなく、目的があってやっているのである。
 山ン本は、恐怖を克服した平太郎をたたえた後、「怪事があればこの槌を叩くとよい、私が助けに来るから」と述べて手槌を渡し、大空に飛び立つ。
 では、山ン本は何を目的としていたのだろうか?

 主「・・・一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている。だから主人公たちは大抵身を持ち崩してしまう。若し稲生武太夫が至極平穏な生涯を送ったのだったら、それは又それでよいでないか。」(p206)

 ラストの一節が、この小説の肝である。
 平太郎による語りのパートが終わると、唐突に「主」と「客」が登場し、この逸話について論評し始める。
 いわゆる「メタ化」である。
 「主」(=作者:稲垣足穂の分身)は、様々な怪事によって「恐れ」を与え、平太郎の勇気を試みた山ン本の行為を、「愛」と表現している。
 なぜなら、山ン本は、16歳の平太郎少年が社会に出る前に、ありとあらゆる類のこの世界のデフォルメされた姿=「物怪」を見せつけて、それに対する「恐怖心」を見事に取り去ってやったからである。
 一見すると「恐怖心」を植え付けるかのような手法のようだが、効果は全く反対だったのだ。
 この「『愛』の通過儀礼」を経た平太郎の目には、社会のどんな恐ろしい姿も全て虚妄であり、単なる虚仮威しに過ぎないと映るはずである。
 森嶋先生は、「現代の若者は「愛」を知らない」と嘆いたが、平太郎(と山ン本)は、「愛」を知っていたのである。
 私は、山ン本のような、「恐怖心」を克服するテクニックを教えてくれる人物の力で、平太郎のような「恐れを知らない若者」を、毎年100人ずつ養成することを提案したい。
 つまり、「稲生平太郎100人計画」である。
 そして、これと「黒い狩人100人計画」とが、森嶋先生のいわゆる「唯一の救済策」に代わることを期待したい。
 そうすれば、日本の政治・社会を蝕んできた「競争的独裁」は一掃され、ベートーヴェンのような「心の中に持っているものを(自由に)外に出すことが出来る人間」(背景的情動としての「無気力」(1))が次々と社会に現れ、活躍する時代が到来すると思うのである。
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背景的情動としての「無気力」(15)

2025年01月17日 06時30分00秒 | Weblog
 とはいえ、森嶋先生の問題提起---「『10歳台後半の若者の教育』は死活的に重要である」---は正しいと思う。
 その対策として、まず、森嶋先生にイメージ的に近いところでは、かつてのナンバースクールがそうであったように、秀才を集めて全寮制の学校で教育するシステムが考えられる。
 今でも、一部の私立高校には、これに似たシステムを採用しているところもある。
 だが、その実態を聞く限り、森嶋先生やかつてのナンバースクールのような、(自由時間における)友人同士の知的な議論・自主学習が広く行われているとは言い難いようである。
 また、「世界的な人、本当の知識人」を養成するという観点からは、かつて故大江健三郎氏が提唱した「加藤周一10万人計画」というものも考えられる。
 だが、これも実現性が低いと思うのは、今では長くて難しい本を読む若者自体が減少しているからである。
 つまり、ダイレクトに「知」の方向から入っていくのでは、残念ながら成功の見込みが乏しい。
 それでは、どうするか?
 私は、「知」から入るのではなく、「恐怖心」→「背景的情動としての『無気力』」→「集団的独裁」という悪魔のスパイラルを断ち切ることを真っ先に行うべきと考える。
 つまり、若者から「恐怖心」を取り去ってやるのである。
 具体的には、子どもに「恐怖心」を植え付けるのではなく、子どもの自発性を最大限に尊重する教育方式、例えば「モンテッソーリ教育」などを幼児教育の段階で取り入れ、その方向性を初等・中等教育でも継続する方法が考えられる。
 もっとも、これも、藤井聡太竜王・名人のような人材が出現すればよいが、それなりの負担等が指摘されており、活用出来る家庭はある程度限られるようである。

 「モンテッソーリ教育を行うにあたり、一番多く声が上げられているのがこの『環境』を整えることが難しく、後悔につながってしまっているようです。モンテッソーリの環境とは、どこまでのレベルを求めるかにもよりますが、通わせる施設によってもモンテッソーリ教育のレベルは様々です。
 とはいえ、モンテッソーリ教育をする上で、施設となるべく同じ環境を家でも整える必要がある為、仮に施設がモンテッソーリ教具を多く揃えている場所であれば、家でも少なからずの教具を揃える必要はあります。しかし、モンテッソーリの教具はどれも単価が高く、通常のおもちゃとは比にならないほどの金額がかかってしまう為、金銭面での負担が大きくなってしまいます。

 そこで、歴史を繙いてみると、古代ギリシャのアテネで行われていた若者の通過儀礼「黒い狩人」がヒントになりそうなことに気付く。
 ざっくり言うと、成人前の若者を、辺境の地で、たった一人で防衛の任務に当たらせるのである。
 一種の通過儀礼であるが、その狙いは、「徹底的に『孤独』を経験させ、その中で生きぬく術を自ら考え出させること」にある。
 つまり、日本で明治期以降採用されてきた「集団の力によって『恐怖心』を克服する」タイプの通過儀礼(軍事化イニシエーション:Japan's Game Of War)の真逆を行くのである。
 もちろん、これを現代の日本でそのまま実践するわけではなく、例えば、「高校卒業後、外国(出来るだけ日本人がいないところ)に1年間公費で留学又は就業させる」制度をつくり、この制度を利用した若者は、帰国後優先的に大学に入学できるようにするのである。
 当然のことながら、費用が必要なので、たくさんの若者に適用することは難しいかもしれない。
 だが、こうした若者が毎年100人くらい出てきて、社会のトップに立つようになれば、かなり状況は変わるのではないだろうか?
 つまり、「『黒い狩人』100人計画」である。
 ところで、「黒い狩人」は、通過儀礼であり、一種の「ショック療法」のようなものであるが、この種の「ショック療法」をテーマにした小説が存在する。

 

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背景的情動としての「無気力」(14)

2025年01月16日 06時30分00秒 | Weblog
 森嶋先生の主張に戻ると、「没落」の帰結として先生がもっとも懸念していたものは、「失業」だった。

 「こういう倫理的混乱がもたらす、一番深刻な問題は失業問題であるだろう。それは目下第一級の大問題の取り扱いを受けていないが、近い将来に日本の最大の問題となるであろうと思われる。そして日本が今までの繁栄から転げ落ちるのも、現在の見かけではそれほど大きくない失業が、やがて雪ダルマのように拡大するからである。・・・日本は労働市場をつくっていくことから始めねばならないが、そのためにはいわゆる日本型雇用システムを改修ないし破壊することをしなければならない。」(前掲p65)

 失業問題の対策---「ただ一つの救済策」---として、先生は、「東北アジア共同体」の創出を提案した。
 中国、韓国、北朝鮮、台湾、そして日本で「共同体政府」をつくり、かつてのEUのように、まず資源開発をし、それをコントロールして有効利用をし、産業を建設するというものである。
 産業建設の中心は、やはり資源を豊富に有している中国、次いで朝鮮半島ということになる。

 「共同体政府の下で建設プログラムを立て、日本は資本と技術を提供すれば、仕事は大量に創造され、雇用はどんどん増える。もちろん朝鮮半島にも建設候補地はあるだろう。多くの人は北朝鮮は加入しないというかもしれないが、中国と韓国と日本が説得すれば、早晩は必ず加入する。」(前掲p154)

 だが、先生の「救済策」は、少なくとも、近い将来実現出来そうにない。
 残念ながら、現時点において、「救済策」は採用出来ないというほかない。
 「民族国家は解体し、『広域共同体』となる」という先生の見立てが、東北アジアでは必ずしも妥当しないというのが根本的な問題であることは明らかだろう。 
 もっとも、他方において、日本が「失業問題」を別の安易な「救済策」に依存してしまったことも、(その時点では既に亡くなっていた)先生にとっては予想外だったと思われる。
 すなわち、日本は、「失業問題」を、「少子高齢化」に加え「雇用の非正規化」及び「フリーランス化」によって、表見上乗り越えてしまったのである。
 要するに、この20~30年間で、「簡単に首が切れる(又は関係を断てる)、しかも安上がりな労働力の担い手」という、新たな階層(社内と社外)を創り上げてしまったのである。

 「非正規雇用労働者は、正規雇用労働者に比べ、賃金が低いという課題があります。

 「ランサーズ株式会社は11月12日、「新・フリーランス実態調査 2021-2022年版」を発表した。2021年10月時点でフリーランス人口は約1577万人、経済規模は約23.8兆円であることが分かった。調査を開始した2015年と比較すると、フリーランス人口が約640万人、経済規模が約9.2兆円増加している。推移を見ると、2020年に一旦減少したものの、2021年1月に人口・経済規模がいずれも大きく増加。「コロナ禍でフリーランス市場は大きく拡大したことが分かる」(ランサーズ)としている。

 「非正規化」と同時並行して、かつて正社員であった人たちが「業務委託」などによって“社外化”される動き(生保業界(勧誘員)などは顕著だし、弁護士業界(ノキ弁、タク弁)も例外ではない)が進んできたが、これにコロナ禍が拍車をかけた形である。
 なので、次期経団連会長(経団連 十倉会長の後任 日本生命の筒井会長が内定)であれば、「『東北アジア共同体』なんかに頼らなくてもOK!」と言うのかもしれない。
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背景的情動としての「無気力」(13)

2025年01月15日 06時30分00秒 | Weblog
 森嶋先生の分析がユニークだと思うのは、マクロの観点とミクロの観点を組み合わせているところである。
 特に、ミクロの観点からの分析は興味深い。
 圧巻だったのは、既に引用した「物質主義的な教育を受けた若者」が自由時間の大半をテレビ鑑賞に費やしているという指摘である。
 これに対し、10歳代後半のころ、先生は、「友人との相互の刺激」を通じた“教育”を実践していた(p126~133)。
 これによって、世界的な経済学者が生まれたのである。
 そして、この先生の見解を敷衍すると、「10歳代後半の人間が、自由時間をどうやって過ごすか」という点に着目すれば、その国の将来が大体予見出来ることになる。
 というわけで、社会のトップに立つ人たちが「無気力」に陥る原因を、ミクロの観点から考えてみる。
 幼い頃から「恐怖心」を植え付けられてきた彼ら/彼女らには、「戦う」か「逃げる」かという2つの選択肢があったと思われる。
 念のため触れておくと、「隠れる」(社会から隠遁する)という選択肢がないわけではないが(2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(5))、非常に稀だと思われ、おそらく参考にならないのでここでは除外する。
 「戦う」というのは、実際に戦闘するという意味ではなく、例えば、某政治家のように、「常に相手に対してマウントを取り続ける」というものが挙げられる。
 もっとも、単発的な「恐怖心」であれば、「戦う」ことによって対処することが可能かもしれないが、恒常的な「恐怖心」に対しては、「戦う」だけだと行き詰ってしまう。
 なので、残された選択肢は、「逃げる」しかないということになる。
 かくして、多くの若者たちが「恐怖心」から逃げ続ける日々を送るということになる。
 だが、これには当然副作用がある。
 恒常的な恐怖心から逃げ続けている人、例えば、パワハラ・セクハラやDVの被害者から相談を受けているとすぐ気づくのだが、被害者の多くは「抑うつ状態」に陥ってしまう。
 そのメカニズムは、医学的にははっきり分かっていないそうであるが、例えば、フロイト先生的な説明をするとすれば、「脅威にさらされたリビドー備給が最終的に対象を捨て、リビドーがもっぱらそこから出てきた自我という場所に戻る」(「メタサイコロジー論」p150~151)という風になるだろうか?
 つまり、本来であれば「愛」(又は「憎しみ」(=攻撃衝動))という形で対象に向かうべきリビドーが、対象を失って自我へと内攻してしまう、というお話である(これが正しいかどうかは専門家ではないので分からない)。
 ちなみに、アントニオ・ダマシオによれば、一次的(普遍的)情動としての「恐れ」のほかに、「背景的情動」(ややこしいが、これが意識化されると「背景的感情」と呼ばれる)というものがあった。

 「顕著な背景的感情には、たとえば、疲労、やる気、興奮、好調、不調、緊張、リラックス、高ぶり、気の重さ、安定、不安定、バランス、アンバランス、調和、不調和などがある。背景的感情と欲求や動機との関係は密接だ。欲求は背景的情動の中に直接現れ、最終的に背景的感情によりわれわれはその存在を意識するようになる。背景的感情とムードとの関係も密接だ。ムードは、調整された持続的な背景的感情と、一次の情動――たとえば、落ち込んでいる場合は悲しみ――の、やはり調整された持続的な感情とからなっている。」(「意識と自己」p371~372)

 つまり、一次的(普遍的)情動としての「恐れ」が、「疲労」「やる気の喪失」「不調」「緊張」「不調和」などの持続的情動と調整されると、森嶋先生が言うところの「無気力」というムードが立ち現れるのかもしれない。
 そして、「抑うつ」に陥っている人は、一見しただけでは「無気力」と見分けがつかない。
 森嶋先生がやや酷だと思うのは、「無気力」という言葉で一括りにしてしまったところである。
 私見では、中には同情に値するような「社会的抑うつ状態」の人たちも多いのではないかと思う。
 さらに悪いことには、「社会的抑うつ状態」の人たちが増えれば増えるほど、「独裁者」が出現しやすいと思われる。
 「独裁者」が繰り出す恐怖と「戦う」人間が減ってしまうからである。
 これは直観的に理解しやすいし、森嶋先生も気づいていたようだ。

 「私は日本は独裁者の国であると思う。しかしそれは前述したように、ヒトラーやムソリーニのように自分用の体制に、それまでの国をつくり変えてしまうという独裁者支配の国の意味ではない。いくつかの集団が国内に存在して、互いに暗闘を繰り返し、その内の一つが勝利を占めて独裁を勝ち取った国、いわば競争的独裁の国なのだが、どの集団のトップも独裁者でなく集団内競争の勝利者に過ぎない。スターリンは党内の競争者を倒して独裁者となった典型的な例だが、彼の党は平和的競争的に他の党を倒して独裁的な党になったのではなく、革命が党に独裁的地位を付与したのである。だから東条は似ているスターリンとも異なっている。
 だから西欧の人達によって顕著に独裁者と見られた昭和天皇や東条英機は、東欧や西欧の意味での独裁者ではない。東条は自分の官僚的才能を駆使して、独裁集団となろうとする集団の一つで地位を昇りつめた人であり、集団間の争いはクーデターなどを常にちらつかせたとはいえ、一応平和的な競争の範疇のなかに入れることができる。また昭和天皇はその血筋のゆえに独裁集団に眼を付けられて、彼らの言う通りに行動させられた人である。」(前掲p171~172)

 この分析はさすがに的確であり、「私」による「公」の僭奪 という樋口陽一先生の見立て(「私」による「公」の僭奪(1))とも一致する。
 私見ではあるが、この「競争的独裁の国」(おそらく韓国も同じと思われる)を成り立たしめているのが、「恐怖心」及びこれから生じる背景的情動としての「無気力」あるいは「社会的抑うつ状態」に陥った大多数の人々ではないかと思うのである。
 逆に言うと、トランプ次期大統領のように、死をも恐れない、気力みなぎる人物が大多数を占める国であれば、「競争的独裁の国」は存続出来ないだろう。
 
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背景的情動としての「無気力」(12)

2025年01月14日 06時30分00秒 | Weblog
 全国展開していないカイシャを含め、より広く社員に「恐怖心」を植え付けるために用いられている手段の最たるものは、「ノルマ」である(「インテリ」などと並んで『日本語化したロシア語』の筆頭に挙げられる:ロシア語由来の外来語2 ノルマ)。
 日本のカイシャが「ノルマ」を導入するようになったのは戦後と言われているが、これによって破滅したカイシャは枚挙にいとまがない。
 その「破滅ラッシュ」の第一弾が、90年代、主に金融業界に訪れた。
 これについての森嶋先生の指摘は的確である。

 「銀行は遮二無二営業活動を拡大した。それはノルマ制の強行である。ノルマ制は日本の企業では銀行を含めてかなり前から実施されていたが、八〇年代の銀行は危機意識の下で、過重のノルマを行員に課した。たとえば、「××円の融資を今年上半期に達成せよ」とノルマが指示されると、それは行員の至上命題となった。ノルマを達成できなかった者は出向という名で関連子会社に出され、永久にその銀行に戻ってこれないからである。」(p77)

 あくまで私見だが、「ノルマ」の存在は、イエ原理をビルトインした組織(=「カイシャ」)のメルクマールである。
 森嶋先生が「危機意識」(当時における「エクイティ・ファイナンス」の興隆による間接金融の需要減退)という言葉を用いたところから分かるように、「ノルマ」は、顧客の需要に応じて設定されるものでは全くない。
 では、何のために「ノルマ」が設定されるのか?
 「ノルマ」は、顧客の需要とは無関係に、当該組織の「存続」を目的として設定される。
 「存続」(「存続」の主体が何であるかはひとまず措くとして、)こそが、「イエ」である当該組織の究極の目的だからである(カイシャ人類学(8))。
 おおざっぱに言うと、自己目的化である。
 ・・・ところが、「破滅ラッシュ」は1回では終わらなかった。 
 その第二弾は、約10年前に始まったと私は見ている。
 今回は、金融業界に限定されず、しかも「公的資金」などによる救済もないため、事実上のカイシャの消滅も起きている(今後も起こるはずである)。
 
 「東芝、スルガ銀行、かんぽ生命およびビッグモーターの調査報告書を見ると、各不正の原因として次の共通点が顕出されます。
①上層部のコンプライアンス意識の欠如
②過剰なノルマによるプレッシャーの存在
③ガバナンスや内部統制システムの問題
が共通して指摘されています。

 この分析がやや甘いと思うのは、①②③が発生する根本のところに、「組織存続」を至上命題としてしまう思考・行動(「イエ」原理から発している)がある点を見逃しているからである。
 ・・・だいぶん話が逸れたが、初等・中等教育→高等教育→カイシャを通じて、森嶋先生が言うところの「社会のトップに立つ人たち」に植え付けられてきたのは、何よりも「恐怖心」だった。
 森嶋先生が四半世紀ほど前に見た大学生たちは、ありとあらゆる局面で「ラット・レース」に巻き込まれ、脱落すると生きていけないという「恐怖心」をさんざん味わった状態で、社会人になった。
 しかも、その後はカイシャ内部において、「ノルマ」や「転勤地獄」に直面しながら日々を過ごしてきた。
 こうして生きてきた人間が陥るのは、「無気力」であり、森嶋先生もそのことに気付いていた。

 「日本では二十数年前には浅間山荘に閉じこもった左翼学生は、武装警官隊に銃撃戦を挑んだ。・・・学生の多くはそのような学園に背を向けて、そのあと全てに無関心になった。このような日本の学生気質は、1989年にベルリンの壁が取り壊された時にも---依然として左翼思想をもち続けていた人達を除いて---変らず、ほとんどが無関心組だった。
 こういう年齢層は現在20歳代から40歳代の後半までを占めている。こういう世代がデモクラシーを育むことはありえない。彼らは選挙で投票することはないであろうし、政府の経済運営に反対することもないであろう。」(p115)
 「徳川末期に欧米の使節が日本にきて下した採点は、文化的にも経済的にも程度は高いが、政治的には無能であるということであった。そして彼らは、朝廷も幕府もともに世襲だから日本はいつまでも政治的に幼稚なのだと判定した。幕府はつぶれた。朝廷もシンボルだけの役割しかしなくなった。そして徳川末期に世襲制であったものは、最大限に打破してしまった。にもかかわらず、日本は依然として、政治的に無能であることを世界にさらけ出している。そういう意味で1998年末は徳川末期とほとんど変わることはない。
 しかし人は言うかもしれない。今でも政界は、二世議員が示すように、世襲ではないか。世襲だから悪いので、世襲でなくすればよくなるのではないか。確かにそうであるが、世襲状態が続いているのは制度の故ではなくて、そういう状態を打ち破る勢力が、既成政治グループの外に現れてこないからである。これは政治グループのせいではなくて、政治グループ外の人の政治的無気力のせいであろう。政治が悪いから国民は無気力であり、国民が無気力だから政治は悪いままでおれるのだ。」(p145~146)

 このあたりはスーッと読んでしまいそうだが、大きな誤りがいくつかある。
 例えば、「政治的無気力」というが、「無気力」の原因が「恐怖心」にあり、それをシステム化してしまった教育体制やカイシャの思考・行動にあること、それゆえ「無気力」はそもそも政治の領域に限られないことが見落とされている。
 前に指摘したとおり、これは、森嶋先生が当時の初等・中等教育の状況を余りご存じなかったためである可能性が考えられる。
 もっと大きな誤りは、徳川末期に世襲制であったものは、最大限に打破してしまった」というところである。
 これが誤りであることはもはや言うまでもないだろう。
 それにしても、森嶋先生が「財界の世襲制」について一言も触れないのはどういうことなのだろうか?
 まさか、サントリーとトヨタに共同出資してもらってSTICERD(The Suntory and Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines)を作ったことが理由だなんて、言わないよね?


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背景的情動としての「無気力」(11)

2025年01月13日 06時28分00秒 | Weblog
 一般の人は意外に思うかもしれないが、裁判所の内部では「恐怖心」による統制が行なわれている。

 「最高裁長官、事務総長、そして、その意を受けた最高裁判所事務総局人事局は、人事を一手に握っていることにより、いくらでも裁判官の支配、統制を行うことが可能になっている。不本意な、そして、誰がみても「ああ、これは」と思うような人事を2つ、3つと重ねられてやめていった裁判官を、私は何人もみている。 
 これは若手裁判官に限ったことではない。裁判長たちについても、前記のとおり、事務総局が望ましいと考える方向と異なった判決や論文を書いた者など事務総局の気に入らない者については、所長になる時期を何年も遅らせ、後輩の後に赴任させることによって屈辱を噛み締めさせ、あるいは所長にすらしないといった形で、いたぶり、かつ、見せしめにすることが可能である。 
 さらに、地家裁の所長たちについてさえ、当局の気に入らない者については、本来なら次には東京高裁の裁判長になるのが当然である人を何年も地方の高裁の裁判長にとどめおくといった形でやはりいたぶり人事ができる。これは、本人にとってはかなりのダメージになる。プライドも傷付くし、単身赴任も長くなるからである。

 全国展開しているカイシャの場合、「転勤地獄」を見せつけて「恐怖心」を煽る手法が可能であり、裁判所はその手本といってよい。
 なお、「事務総局」という言葉に惑わされやすいが、これはかつての司法省における「大臣官房」と考えると分かりやすい。
 行政学を学ぶと必ず出て来るが、「官房」はプロイセンの官僚制を明治期に日本に導入したもので、ピラミッド型官僚組織における最上位の内部組織を指す。
 「官房三課」と言うように、通常「人事」「総務」「会計」を担当し、ヒト・モノ・カネの全てを差配する。
 民間企業で言うと、人事部・総務部・経理部がこれに相当する。
 全国展開しているカイシャだと、とりわけヒト=人事を差配することによって社員をコントロールしようとする傾向が強い。
 瀬木先生も指摘するとおり、「もう二度と関東には戻さないぞ!」などという威嚇が簡単に出来てしまうからである。
 明治維新の負の遺産だと思うのだが、官民問わず多くの官僚主義的なカイシャがこれを真似てしまい、いまだに社員に「恐怖心」を植え付けるための「アメとムチ」(あるいは、主としてムチ)として使っているわけである。
 なので、この種のカイシャの社員の家では、今頃は奥さんや子どもから、

 「お父さん、次はどこに転勤?もう私たちは付いて行かないからね

などという厳しい言葉が発せられているはずだ。
 かくして、社員はカイシャでも家庭でも「恐怖心」と戦いながら日々を送ることになる。
 
 

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背景的情動としての「無気力」(10)

2025年01月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「弁護士任官して驚いたのは、裁判官同士の親類縁者が実に多いと知ったことである。
 珍しい高貴な名字の明らかな名家の出身者同士であれば、一目瞭然で推測できるのだが、最近は、裁判所でも婚姻後も旧姓の通称使用がほぼ認められていることもあって、氏名だけでは気が付かない。ここは、キャリア裁判官の間では、それまでの見聞で大体知られているようだが、門外漢の弁護士任官者にとっては鬼門である。会話の中で、そこにいない裁判官の批評も迂闊にはできない。目の前の裁判官が親族かもしれないからである。・・・
 それはさておき、裁判官が裁判官の子どもという例は最近目立つように思う。かつての寺田治郎最高裁長官の息子さんも最高裁長官になったのが代表格であるが、数えれば一体何組あるのか分からない。」(p62~63)

 世間には余り知られていないが、裁判所内部には「親族」が多い。
 弁護士業界はもっと多いのだが、検察官はちょっと違うように思う。
 検察官の場合、世襲よりも「閨閥をつくる」例が多いようで、「閨閥組」なる言葉が存在する。
 いずれにせよ、法曹界全般が「イエ」原理に侵蝕されてしまっていることは間違いなさそうだ。
 こうした「ラット・レース」と「イエ」化は、一見すると矛盾しているかのようだが、そうではない。
 「信用崩壊」から生じた「自己犠牲の強要」の一表現である「ラット・レース」と、日本の伝統的な集団組成原理である「イエ」とは、完全に両立するからである。
 むしろ、この半世紀くらいの間で、この両者が車の両輪となって、「新階級社会」をつくり上げたというのが実態だと思う(カイシャ人類学(17))。
 分かりやすい例として、医師の業界を挙げてみる。

 「日本の大学の医学部入試では必ず面接が行われている。一体なぜなのか。医師の和田秀樹さんは「たった数十分の面接で医師の適性があるかないかを見抜けるとは思えない。実際は、医学部の教授たちが、自分たちの地位を脅かしたり、メンツを潰したりするような異分子となりそうな人物を排除する手段なのではないか」という――。・・・
 教授たちに迎合することで無事に面接を突破した受験生たちが医学部生となり、やがては教授たちの思惑通り「共感脳」だけがやたらと高くて周りに合わせられる医者として育っていきます。これでは古い常識がいつまでもまかり通り、進歩もしないし、変革も起こらないのは当たり前でしょう。すべての医学部の入試に面接を課すことは、自分の子どもを医学部に入れたいと考える多くの医者の口を封じるうえでも有効です。何せ入試の面接官は医学部の教授が務めるわけですから、彼らの機嫌を損ねるようなことをするのは、とても勇気のいることなのです。

 医者になるまでの過程が「ラット・レース」であることは周知のとおりである。
 だが、他方において、世襲化の傾向は外交官並みに著しい。
 これはどういうことだろうか?
 和田先生は、やや遠回しな表現で、「面接が行なわれるのは、『自分の子どもを医学部に入れたいと考える医者』のためでもある」ことを示唆している。
 「外交官試験」と同様、「ラット・レース」の中に、ペーパー・テストだけでなく面接を挿入し、「よそ者」を排除している可能性があり得るのである。
 要するに、「ラット・レース」と「イエ」化とが見事に両立しており、これによって「世襲貴族」という階級が盤石に築かれたのである。
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