Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

背景的情動としての「無気力」(9)

2025年01月11日 06時30分00秒 | Weblog
 「青田買い」を究極まで突き進めると、「種籾(たねもみ)買い」になる。
 つまり、世襲、あるいはより広い意味で言うと「イエ」を判断基準とした採用が行われることになる。
 いわば「ゲノム買い」であり、おおざっぱに言うと、その人物の資質などではなく、「血筋」で採用を決めるやり方である。
 今もそうなのかもしれないが、民間企業でこの種の採用が露骨に行われていたのは金融機関である。
 試しに、石破茂首相(石破 茂(いしばしげる)オフィシャルブログ:旧三井銀行)と岸田前首相(旧長銀時代の失敗は血肉に、岸田首相「人生に無駄なものない」:旧日本長期信用銀行)の前職を見てみるとよい(ちなみに、私は人事部長面接で、「家族全員の職業」を聞かれた。)。
 官公庁も例外ではなく、特に外交官の世襲率は尋常ではないレベルである。
 明治期から薩摩藩出身者による事実上の寡占状態にあったが、それと似た状況がいまだに続いており、「四世」まで発生する有様らしい。

 「外交官には、二世どころか三世、四世というケースもざら。
 では、なぜ、外交官は世襲されやすいのだろうか?
 最大の理由は「外交官試験」だといわれる。
 中央省庁のキャリア組のなかで、外交官だけは特別扱い。試験は外務省内で行われる。
 つまり外交官を選ぶのは外交官というわけで試験官が受験者の身内や知り合い、という場合もある。

 この悪名高い「外交官試験」は2001年に廃止されたのだが、その前から既に行き詰っていた。
 30年ほど前のこと、東大法学部の学生課(?正式名称は忘れたが、学生の進路情報を担当している部署)を、外務省の人事担当者が訪ね、こう質問したらしい。

 「外交官試験を受ける東大法学部生が激減しています。原因は何でしょうか?

 学生課(?)の担当者は、こう答えたようである。

 「『丙案』の導入で、法曹を目指す学生が増えているからではないでしょうか?司法試験一本に絞り、留年せずに卒業する学生も増えています。

 「丙案」というのは、「優先合格枠制度」 のことである。

司法試験の受験回数の制限(西野法律事務所)
 「過去に「優先合格枠制度」がありました。「丙案」と呼ばれていました。
 平成8年の司法試験から、論文式試験合格者の約7分の2を受験期間3年以内の者だけから決定する制度が開始され、平成11年より約9分の2になり、平成16年に廃止されています。
 公務員試験と異なり、司法試験に定年制はなじみません。
 現実に実施されたことはありません。
 ただ「採用側」が、比較的若い人を司法試験合格者としたいという意思は一貫しているようです。
 裁判所と検察庁は、あまり歳をとっている人の採用には消極的です。
 例えば、期が上で年齢が下の裁判官と、期が下で年齢が上の裁判官とを、同じ合議体に入れたくはないのです。

 学生課(?)の分析によれば、それまでは外交官になっていた人材が、「丙案」の導入により、法曹(裁判官、検察官)を目指すようになったということのようなのだ。
 ”若くて優秀な人材”の採用を巡る「クソな競争」において、外務省は裁判所・検察庁に負けたということらしい。
 だが、その裁判所も、実は「ゲノム買い」の例外ではなかった。




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背景的情動としての「無気力」(8)

2025年01月10日 06時30分00秒 | Weblog
 30年ほど前は、「就職協定」なるものがあって、10月1日が「採用内定開始日」、一般企業では7月1日が「会社訪問開始日」とされていた(ネットで検索してもなぜか「7月1日」という日が出て来ないが、間違いない。)。
 要するに、7月1日より前は採用を目的とした接触を禁じるという内容の、大学と経団連との紳士協定が存在したのである。
 だが、これを遵守する企業の方はごく僅かであり、現在のヨンダイが行なっているような「青田買い」が横行していた。
 ちなみに、民間企業の中で最も人気が高かったのは金融機関であり、とりわけ長期信用銀行(特に興銀)は都市銀行(今でいうメガバンク)を上回る人気を誇っていた。
 金融機関を含む大手企業は、おおむね5~6月中に内々定を出した後、7月1日(及び8月1日)に学生を召集し、10月1日に内定式を開催するところが多かった。

 「1950年代半ばに大型景気が到来すると、早い時期から就職・採用活動が活発化しました。これがいわゆる企業による学生の青田買いと言われるものです。景気が良くなるにつれ企業の選考早期化に拍車がかかり、制定された就職協定は遵守されることはありませんでした。
 このような企業の採用活動に対し、1961年に就職問題懇談会は新たな就職協定の改定を決議しましたが、青田買いの勢いは衰えることはありませんでした。大手企業は7月末に採用活動を終了しているような状況だったのです。
 就活解禁日には、学生を拘束し、他社の応募を阻む動きをする企業も現れました。1970年代~90年代も採用企業の学生の青田買いは続き、文部省は経済団体や企業に協定遵守を申し入れましたが、事態は元には戻らず就職協定では企業の採用活動を制御できませんでした。

 こうした状況なので、「就職協定」を順守して「会社訪問開始日」以降に会社訪問をすると、「うちは今年の選考は終了しました」と門前払いを食らうか、「採用する気のない、形だけの面接」を受けて無駄に時間を費やすか、ということになってしまう。
 つまり、正直者が馬鹿を見るのである。
(これを止めることが出来たのは国(政府)しかないと思われるのだが、官公庁も「青田買い」に奔走しており、毎日学生を深夜まで拘束するのも珍しくなく、「就職協定」を守っているのは(旧)文部省、(旧)労働省と(試験を主宰する)人事院だけといった状況である。)。
 当然のことながら、学生は、「青田買い」に協力しなければ就職先を失うという「恐怖心」を抱くことになる。
 同時に、「表向きルールが存在しても、それを厳格に守ると馬鹿を見るので、裏で抜け駆けする」という”大人のやり方”というか一種の世間知を学ぶこととなる(実際、これは入社後も至るところで実践されている。)。
 ところが、これによって学生は、意図せずして、社会における「クソな競争」にエントリーしてしまうのである。
 
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背景的情動としての「無気力」(7)

2025年01月09日 06時30分00秒 | Weblog
 私見だが、80~90年代の状況は、現在の法学部・ロースクール(法学部における犠牲強要とクソな競争)と大きく違っていなかったと思う。 
 まず、先に現在の状況(ちょっと古い情報もあるが・・・)を見てみる。

 「この統計を見ると、西村あさひ法律事務所と森・濱田松本法律事務所の予備試験出身者が6割を超えています。長島・大野・常松法律事務所も予備試験出身者が約4割を超えており、法科大学院出身者と比べて割合は多くなっています。
 これらの統計から分かるのは、四大法律事務所の予備試験合格者の採用率がとても高いということです。
 四大事務所の予備試験合格者の採用率が高い背景には、予備試験合格者の司法試験合格率が高いという点があげられます。
 上記の表をみると明らかですが、予備試験合格者の司法試験合格率が93.5%と、圧倒的な合格率を誇っています。
このことから、採用側である四大事務所からみれば、予備試験合格者は高い確率で司法試験に合格することを見込めるため、早い段階で採用したいという意図があるのでしょう。
 また、予備試験合格者は比較的若い世代が多いことから、若い人を雇いたいというのもあるのあるのかもしれません。

 予備試験が、ヨンダイに入るための「王道」ルートとなっている。
 もう一つのルートは、「サマー・クラーク」ルートである。

 「規模の大きい法律事務所が主に開催しており、これらの事務所はサマークラーク参加者を中心に採用する傾向にあります。中には、サマークラークに参加しないと就職が難しい事務所もあるので注意しましょう。・・・
 また具体的には、以下のような書類の提出が求められます。
  • 大学の成績証明書
  • 法科大学院の成績証明書(参加時期による)
  • 大学・法科大学院のGPAまたは席次が記載された資料
  • 予備試験の成績資料もしくは受験票(該当者のみ
 「研修生からの情報ですと、東京や大阪の大事務所では、サマークラークの結果を受けて、既に内定がでていると聞きましたが、私は、司法試験の結果もでていないごく一部の人達を、学歴やロースクールの成績で選別してサマークラークに呼び入れて、その結果だけで内定をだすということが理解できません。うちのような事務所では、人を採用するにあたっては、色々な人の意見を聞いて慎重に採用するかどうかを決めますから、修習も始まっていないような段階で、採用を決めるようなことは絶対にありません。

 かくして、ヨンダイに入るためには、「大学在学中に予備試験に合格するか、サマー・クラークに”合格”するため大学又はロー・スクールで「良い成績」を取らなければならない」ということになる。
 なので、入学した瞬間から必死に「試験のための勉強」をすることになる。
 注意深く見ていると分かるが、この種の学生たちの心の底には、程度の差こそあれ「恐怖心」が根付いてしまっている。
 そうしなければ、数年後にラット・レースで「脱落」してしまうからである。
 これに対して、昔はどうだったのだろうか?
 30年ころ前のことだが、教官の中に、「相対評価」を厳格に適用し、3割の学生に必ず「不可」を付ける人がいて、追試でも同じやり方をとっていた(らしい)。
 悪いことに、それが必修科目だったりすると、追試で「不可」を食らうと卒業出来ないこととなる。
 これはさすがに教授会でも問題とされたようであるが、これだけでも、学生に「恐怖心」を植え付けるのには十分だったと思う。
 他方、(一部の)法学部生が「優」の数にこだわるのは、実は昔も同じだった。
 昔からそうだが、ヨンダイに入った後で留学する際に大学時代のGPAが重要となるし、業界によっては「優の数が二けた以上」という基準で採用の足切りを行うところもあった。
 就職希望先としては、当時もやはり法曹が一番多かったという記憶だが、それ以外のルートとして、公務員と民間企業があった。
 だが、このルートも「クソな競争」の例外ではなかった。
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背景的情動としての「無気力」(6)

2025年01月08日 06時30分00秒 | Weblog
(ここで、私が出た高校について弁護しておくと、勉強一辺倒ではない「文武両道」の校風を強調しており、例えば、ラグビー部は何度か花園に出場したことがある。
 かつては新体操部もあって、OBの中にはNDTを日本に招聘した方もいらっしゃる。
 つまり、「受験競争」の一方で、それなりに自由な空気もあったことを付け加えておく。)
 さて、大学に入ると、入学式の会場で予備校のパンフレットが次々に配布される。
 内容は、司法試験や公務員試験の受験対策に関するものである。
 寮に入ると、図書ルームには、先輩たちが置いて行った予備校本の類が沢山並べてある。
 そう、これが「法学部における犠牲強要とクソな競争」の序曲だった。
 「ラット・レース」は終わっていなかったばかりか、更に激化していたのである。
 入学して半年~1年のうちに、多くの学生が予備校に通い始める。
 かくいう私も、某司法試験予備校の「入門講座」を受講した。
 バブル崩壊で先行き不透明な中、やはり資格を持っておかないと生きていけないのではないかという「恐怖心」が芽生えたからである。
 こうした「恐怖心」のためか、バブル崩壊後の1994年頃から司法試験受験者数はどんどん増えて行く。

 「受験者数は、1992年までは2万人をやや上回る水準で推移した後、1993年(17714人)には2万人を下回る。その後は増加がはじまり2003年は45372人で最多となった。

 私が通っていたところには、ある日、「在学中合格者」と称する人がやってきて、「短期合格の秘訣」を披露した。
 今でも覚えているのは、選択科目についての次の説明である。

 「やっぱりおすすめなのは『国際私法』です。答案24通丸暗記でOK!

 「問題」は既知のものの中から与えられるだけなので、「解答」は予備校が事前に準備したものを暗記して吐き出せばよい。
 「何だこれは?まるで『国会』じゃないか!茶番じゃないか!」
 ・・・というわけで、予備校通いは「入門講座」でやめにして、映画館通いを始めた(ちょっとだけ言い訳すると、外国の映画を見ることは語学の勉強の一環とも言える。)。
 当時、東京にはいくつもミニシアターがあり、比較的安い料金で良質の映画を上映していたのである(90年代東京ミニシアターガイド(1))。
 一種の現実逃避なのかもしれないが、それほど「クソな競争」は激化していたのである。
 
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背景的情動としての「無気力」(5)

2025年01月07日 06時30分00秒 | Weblog
 文部科学省の「大学基本調査」によると、戦後、18歳人口は、「団塊の世代」が18歳を迎えた1966年に249万人のピークを迎え、その後、いったん減少したあと盛り返したが、団塊ジュニアの多くが高校を卒業した1992年の205万人から、2014年には118万人まで減少した。
 森嶋先生が見た約25年前の大学生は、「団塊ジュニア」前後に当たるが、彼ら/彼女らは、「団塊の世代」と並び「受験競争」が最も熾烈な世代であったと思われる。
 なぜなら、1980年代後半から1990年代前半は、18歳人口は多いのに大学進学者が増えない時期だったからである(受験マニアックス2020年9月号 変わりゆく大学進学の意義と求められる人物像)。 
 この「受験競争」のすさまじさとその弊害については、時代は遡るが、この人を例にとるのが分かりやすい。

 「「まだ財務省の役人だった片山さつきが『鳩山先生は高校時代、全国模試で1位、1位、3位、1位だったそうですね』と聞くと、邦夫は自慢そうに『そうだ』と答えた。すると片山さつきが『私は1位、1位、1位、1位でした』と勝ち誇ったように言ったというのです。さすがに邦夫は、あとから『あの女はなんだ!』とカンカンだったといいます」

 「常に相手に対しマウントをとり続け、自分の優位性を確認しなければ気が済まない」というメンタリティーがどこから生まれたのか、これでよく分かるだろう。
 このメンタリティーがプラスに作用すれば、官僚→政治家として国民のため身を粉にして働く人間が生まれるのかもしれない。
 だが、根底で彼ら/彼女らを駆動しているのは承認欲求及びそれと一体化した「恐怖心」なので、ひとたび帰属集団内での評価が低下するや、理解困難な言動が出てくる。
 何より「群れ(の先頭)からはぐれること」が恐ろしいからである。

 「片山は上に媚びるのが苦手なタイプです。でも、隣には取り入るのがやたらとうまい稲田や小池がいる。さらに自分以外の女性議員はどんどん出世して大臣になる。
 片山は焦るわけです。自分は元大蔵官僚で、しかもミス東大なのになぜ出世できないのか。稲田が安倍さんに重用されるのは右派だからだ。それなら私も右に行けば出世できるのではないか──結果、在特会のデモに参加してしまう。

 私が入った高校は地方の公立校なので、都内の超有名進学校(筑波大学附属など)ほど苛烈ではなかったものの、やはり異常な「受験競争」は間違いなくあった。
 テストのたびに職員室の入口の壁に「成績優秀者」(数十名)の席次、名前、点数が張り出され、下宿生は親元に学校から成績表が直接郵送されるシステムをとっていた。
 一学年は約500人だが、成績が450番以下の生徒のことを、生徒たちだけでなく教師たちも「死後の世界」と呼んで揶揄していた。
 程度の差こそあれ、多くの高校生がこうした「ラット・レース」に否応なく出場させされ、その中で、今でいうところの「スクール・カースト」が形成されていた。
 しかも、一部の高校では、それを教師たちも承認していたのである。
 こうしたやり方が陰湿だと思うのは、「その人の存在そのものを透明化、周辺化する」、つまり、かつて欧米列強が植民地の人たちに対してやったことと同じだからである(「愛」を語る前になすべきこと(1))。
 こうなると、「次のテストで自分の名前が消えるのは怖い」、あるいは「自分は死後の世界には行きたくない」という恐怖心が芽生えるのは自然なことであり、かくして優等生も劣等生も「恐怖心」に支配されることとなる。
 ・・・さて、大学入学によって「受験競争」から脱出出来た、めでたしめでたしと喜ぶのは甘い。
 「ラット・レース」はまだ続いているからである。
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背景的情動としての「無気力」(4)

2025年01月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感」、「抽象的なプリンシプルに対する畏怖心」という言葉からすると、森嶋先生は、(知的階層を含む)日本社会のトップに立つべき(立っている)若い人たちについての、「モラル・フィロソフィー」(倫理(学))の欠如を指摘しているように思える。
 これにはいくつか反論が可能であり、真っ先に思いつくのは、「モラル・フィロソフィー」以前の問題として、そもそも「クリティック」が成り立っていないではないかという批判である(3月のポトラッチ・カウント(2))。
 もっとも、この分野について、私は読書が進んでいないので、これ以上確かなことは言えない。
 次に考えられる反論は、当時の若い人たちは、「神」を筆頭とする超越的なものに対する「畏怖心」ではなく、帰属集団に対する「恐怖心」に支配されていたというものである。 
 私見では、森嶋先生は、どうやら大学に入る前の若い人たちの状況を余り重視していなかったか、または時代の境目にあって死角が生じていた可能性がありそうだ。
 どういうことか、分かりやすく説明してみる。
 約25年前の大学生(概ね1975~1980年生まれ)の小・中学校時代、学校教育においては、地域格差はあると思われるものの、体罰が猛威を振るっていた(笑う人・笑わない人)。
 例えば、小学校では、宿題を忘れた生徒には、教師がホウキで尻を叩く「百叩きの刑」が待っていた。
 「ファニーとアレクサンデル」のヴェルゲルス主教が、「教育」と称してアレクサンデルに「ムチ」で行ったのとほぼ同じで、違いはパンツを脱がせるかどうかである。
 外国人が称賛する日本の「学校清掃」だが、教師には(ムチに代わる)体罰の道具を提供してくれているのである。
 中学校でも同様で、公然と体罰が行なわれていたし、「部活」の開始と共に、閉鎖集団内で、体罰に加え上級生による下級生に対する暴力も横行するようになる。
 こういう状況だと、生徒たちは「恐怖心」に支配され、その行動は、ひとえに「先生・先輩から怒られないか」という基準によって左右されることとなる。
 ここでのポイントは、体罰・暴力が、原則として生徒たちの面前で行われることである。

 「「とくに1970年代の後半から80年代終盤にかけて、体罰は正当性をもって使用されました。当時はいい大学に入り、いい企業に就職するのを第一目標とする傾向が今より強く、学校側も進学率を非常に重要視していました。生徒に学びのおもしろさを理解してもらうことは二の次だったのです。
 これが何を引き起こしたのか。それは中高生の非行です。これは80年代にヤンキーブームが加速していたことからも頷けるでしょう。そうした状況のなか、一部の教員が生徒をコントロールするための解決策として見出したのが、体罰だったと私は見ています」
 「体罰行為には、人を従わせる効果が確かにあるからこそ危険」だと内田氏は続ける。
「体罰はたいていほかの生徒や部員が見ている場で行われることが多いです。これは“見せしめ”として、他の生徒を萎縮させる効果があるからですね。組織をコントロールしやすくする効果は確かにあるのですが、背景にあるのは反抗的な態度を暴力で支配するという反社会的な思考であり、肯定する理由にはなりません」

 このため、生徒たちが抱える「恐怖心」には、「みんなの前で『恥』をかかないか?」という「恥」に基づく不安がブレンドされることとなる。
 つまり、江戸時代の武士などと同じメンタリティーが生まれる。
 高校に入ると、さすがにあからさまな体罰・暴力は部活などに限定されるようになるが、進学校では、代わって「受験競争」という新たな「ムチ」が現れる。
 
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背景的情動としての「無気力」(3)

2025年01月05日 06時30分00秒 | Weblog
 森嶋先生の”予言”はまだまだ続くのだが、ここで既に大きな地雷がいくつか出て来たので、今のうちに処理しておくのがよいと思う。
(1)「日本は儒教国家」、「日本人が無宗教である」、「なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感」、「抽象的なプリンシプルに対する畏怖心
 森嶋先生がクリスチャンであったかどうかは分からないが、ここで念頭に置かれているのは、明らかに「神」のことである。
 イギリスを始め西欧には「神」という超越的な存在があり、それに対する「義務感や責任感」が労働者ひいては社会全般に浸透しているという見方である(「社会的な義務」は、おそらく「神」に奉仕する限りで正当化されるということなのだろう。)。
 これに対し、森嶋先生は、日本にはプロテスタンティズムの「倫理」の代わりに「儒教」の倫理があるというようだ。
 だが、私見では、この見解は正しくない。
 「日本人が無宗教である」というのは明らかな誤りであり、「なにか超越的なものに対する義務感や責任感」は、おそらく常に存在してきたからである。
 「超越的なもの」というのは、一言で言えば「祖霊」であり、日本人においてマジョリティを占める宗教は、(森嶋先生が指摘した「儒教」(但し、先生は「宗教」に含まれないと考えている模様)ではなく、)「イエ」である(カイシャ人類学(8))。
(2)「では彼らは家に帰って何をするか。テレビの前に座って、多少なりとも気紛れにボタンを押してチャンネルを選ぶ。」、「夕食後の家庭生活も、多かれ少なかれ似通っている。ここでもまた、機械のために、家族員相互間に疎外現象が生じる。家族員同士の会話が殆どないからである。
 ここには、真面目な人ほど陥りやすい、「若い人々を押し潰す、 réciprocité の抑圧スパイラル」という落し穴がある(若い人々と抑圧スパイラル)。
 若い人々のことを批判するのは生産的でないし、知らないうちにレシプロシテ原理の罠にはまっているおそれがある。
 そもそも、「テレビ鑑賞」は、息抜きとしては有意義なのかもしれないし、「息抜き」の時間は、どの世代の人間も必要としていたはずだ。
 例えば、かつての知的階層が「息抜き」の時間を持たなかったかと言えば、全くそうではない。
 一つだけその例を挙げてみる。

 「三田での講義は、どれを聴いてもそれまでとは違って、やはり「大学」の味を感じたが、特に慶應義塾大学には経済史の特殊講義として、日本経済史の他、産業別の講義があり、他のどの大学より多くの講義が並んでいたのではなかろうか?・・・こうなると、予科時代と違って講義をサボることはせず、出席するのが当たり前の学生になっていた。あれほど熱中していた麻雀熱もいつしか醒めていったし、雀友のE君も、千葉大学の医学部に入学していたから、麻雀どころではなくなっていた。」(p140~141)

 わが国における歴史人口学の泰斗、速水融先生ですら、十代後半のころは、講義をサボって麻雀に熱中していた時期があるのだ。
 もっとも、森嶋先生の指摘を受けて改めて発見したのは、「日本の若者は、どんどん”自発的な”読書をしなくなってきている」ということである。
 麻雀に耽溺したという速水先生も、他方において、自分の部屋で行う読書やレコード鑑賞を「息抜き」(!)と考えていた。 
 つまり、読書の中には「息抜き」となるような、愉しみを与えてくれるものもあったのである。
 この点に関して言えば、私は、いわゆる現在のエリートたち(大手法律事務所のパートナー、中央官庁の幹部など)の若い頃のライフスタイルについて、100%確実な証言をすることが出来る。
 「100%確実」というのは、現に見ているからである。
 大半のエリート(の卵)たちは、一日のうち最も多くの時間を学校の勉強や(自宅・予備校での)試験勉強に充てるが、睡眠・食事などを除いたそれ以外の自由時間の大半を、「マンガ本を読む」、「テレビを視る」、「コンピュータ・ゲームをする」ことに費やすというものだった。
 同世代でよく見たのは、時代を反映してか「マンガ本を読む」である(なので、中央官庁の審議官・課長クラスの人間が自分の知らない分野・業界の情報を入手する際に真っ先に行うのは、たいていの場合、関係のありそうなマンガ本を読むことである。)。
 つまり、「本を読む」時間は極めて少ない。
 したがって、森嶋先生のいわゆる「超越的な存在」に接近することはまずないということになる。
 ・・・あと、もう一つ、大きな地雷が埋まっているようだが、それは何だろうか?

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背景的情動としての「無気力」(2)

2025年01月04日 06時30分00秒 | Weblog
いや、カリキュラムのせいにしてしまうのはおそらく正しくない。
やはり、根底には「人」の問題があるはずだ。
この点で参考になるのは、約四半世紀前に森嶋通夫氏が「なぜ日本は没落するか」の中で行なっていた、十代後半の日本人のライフスタイルの描写である。

 「・・・日本は儒教国家であり、国の存続のために知識人が主導的役割を演じるようにつくられた国家であるからだ。日本は、底辺からよりもむしろ頂点から崩れていく危険が大きいが、そういう事態は、現在の学生や子供たちが社会のトップになった二十一世紀中頃にやってくるであろう。・・・
 日本では性的なモラルが他国より桁はずれに退廃していると見てよいであろう。このことは、日本人が無宗教であることと密接に関係しているであろう。十六世紀に日本にきたキリシタンの宣教師が驚いたように、中世の日本婦人には貞操観念が希薄であった。現代の日本の女子高生も、自分の性的な楽しみのために、また自分が欲しいものを買う金を得るために、簡単に売春に走るのである。このことは、日本のティーンエイジャーの性欲と物欲がいかに強いかを示している。そしてこれらの欲の比重がバランスを失して大きくなれば、近代資本主義の原理にふさわしい健全な労働倫理を未来の国民が持つことはまずありえないであろう。」(p46~47)

約25年前の日本社会の説明なので、今日ではやや妥当しない面(いわゆる「低欲望社会」への変化など)もあるだろうが、こうした世代が今や社会のトップに立とうとしているということは間違いない。
何も手を打たなければ、恐ろしい社会になる(なっている!?)ことは確実である。
森嶋先生の批判はまだ終わらない。

 「・・・競争経済の労働倫理は具体的な雇用主や会社に対する忠誠心を強要するようなものではない。労働者が尊重し従うべき忠誠心は、もっと抽象的なものである。労働者に、なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感を持たせるためには、現代日本の教育環境は標的外れで不毛である。あまりにも物質主義的な教育がなされているからだ。・・・物質主義者・功利主義者になるための教育を受けた彼らは、倫理上の価値や理想、また社会的な義務について語ることに対しては、たとえ抽象的な論理的訓練としてさえ、何の興味も持たないのである。例えば日本の若者たちは「愛」を知らない。」(p47~48)

いや、「若者に限らず、日本人の殆どは「愛」を知らない」という声が聞こえてきそうなところだが・・・。
極めつけは、次のくだりである。

 「コンピュータ化、機械化、ロボット化は、さまざまな産業分野で進行している。・・・最終的には、労働者同士が疎外され、言葉も交わさなくなる。労働者自身も、一種の機械と化してしまうのである。このような生活が、大学を卒業したら待っているのである。そこには高次元のものへの忠誠心---抽象的なプリンシプルに対する畏怖心---は一切ない。
 では彼らは家に帰って何をするか。テレビの前に座って、多少なりとも気紛れにボタンを押してチャンネルを選ぶ。放送されている番組はどのチャンネルも似たり寄ったりであるから、選ぶという行為に意味はない。・・・夕食後の家庭生活も、多かれ少なかれ似通っている。ここでもまた、機械のために、家族員相互間に疎外現象が生じる。家族員同士の会話が殆どないからである。・・・
 けれどもこのような家庭生活でも、コンピュータ化と機械化の時代の生産様式によく適合した、社会構造の一環であることを忘れてはならない。だからこういう家庭のあり方は、将来簡単に変わると期待できないであろう。・・・」(p48~49)

「AIの導入」を追加し、「テレビ」を「スマホ」に置き換えれば、現代日本の中流層のライフスタイルの描写として通用するだろう。
私は、これは全く他人事だとは思えない。
私自身も、これに似た生活を送っていた時期があるし、こうした人たちや家庭をたくさん見てきたからである。
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背景的情動としての「無気力」(1)

2025年01月03日 20時21分21秒 | Weblog
ベートーヴェンは、「なぜ作曲するのか?」という問いに対して、次のように答えた。
なぜ私は作曲するか?---〔私は名声のために作曲しようとは考えなかった〕私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。」(ゲーリングに)

これを読んで、「やっぱり天才は違うな~」と感じる人も多いだろうが、「天才」の一言で片づけてしまうのは、おそらく間違いである。
あらゆる天才について言えることだが、やはり「環境」も大事であり、これが「天才」を殺してしまうこともあるのである。
例えば、仮に、ベートーヴェンが現在の日本の一般家庭に生まれ育ち、正規の教育を受けたとしてみよう。
その場合、彼の音楽的才能は十全に開花し、彼は「楽聖」と呼ばれる域に達していただろうか?
彼が、日本の小学校・中学校の義務教育を受けて、一般的な高校の普通科に入学したとしてみよう。
そこでは、「芸術」は別として、これでもか!これでもか!といわんばかりの、たくさんの科目を「詰め込まれる」のである(文部科学省 高等学校学習指導要領について)。
このカリキュラムで3年間を過ごした人物が、後に「楽聖」となる可能性は、限りなくゼロに近いのではないだろうか?
もっとも、ベートーヴェンの“初等・中等教育”が、理想的なものであったというわけではない。
ロマン・ロランも指摘するとおり、
つらい子供時代---そこには、いっそう幸運なモーツァルトの幼時を取り巻いていたような家庭的な愛情の雰囲気が無かった。最初からしてすでに彼にとっては人生は悲しく冷酷な戦いとして示された。父は彼の音楽の才能を利用して、神童の看板をくっつけて子供を食いものにしようとした。」(「ベートーヴェンの生涯」p25)」
からである。

ベートーヴェンは1770年12月16日、ドイツ中西部のボンで、宮廷のテノール歌手だった父ヨハンと、母マリア・マグダレーナのもとに生まれた。ヨハンはモーツァルト父子を理想として、3歳から息子を教育。その甲斐あって、ルートヴィヒは7歳にして演奏会を開き、11歳で作品を初出版するなど、幼少から類稀な楽才を発揮した。 その一方、息子が曲を弾き通せるまで、食事も与えずに部屋へ閉じ込め、暴力も厭わなかった父親は、やがてアルコール依存症で失職。ルートヴィヒや3歳年下の弟カスパルら子供たちに、いっそう辛く当たるように。そんな生い立ちが、その後のルートヴィヒの人格形成へ、暗い影を落とすこととなる。 11歳からは、作曲と鍵盤楽器を大家クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに学んだ。16歳の時にはウィーンへ赴き、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの前で即興演奏。これを聴いた天才作曲家は感嘆し、「諸君、注目し給え! 彼はやがて、世間を驚かせるだろう!」と叫んだとも伝わるが、これを事実と裏付ける証拠はない。 その5年後の1790年末。20歳を迎えたばかりのベートーヴェンは、1回目のロンドン訪問の途中にボンへ立ち寄った、ヨーゼフ・ハイドンと知己に。1792年の夏に再会した折り、若き楽聖は大作曲家に弟子入りを志願して認められ、秋にはウィーンへ移住。師弟関係は、ハイドンが2度目のロンドン訪問へと旅立つ、2年後まで続いた。

ちなみに、不幸なことに、ベートーヴェンは父のアルコール依存症を受け継いいたようで、後に酒精飲料の過剰摂取から宿痾ともいうべき腸カタルを発症しているので、「健康法」などの科目(現在の高校では必修科目ではないが・・・)を学んでおいたら良かったのかもしれない。
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Es muss sein!(そうでなければならない!)

2025年01月02日 06時30分00秒 | Weblog
ほのカルテット
  弦楽四重奏曲 ヘ長調 Op.59-1「ラズモフスキーNo.1」
  弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.59-2「ラズモフスキーNo.2」
  弦楽四重奏曲 ハ長調 Op.59-3「ラズモフスキーNo.3」
クァルテット・エクセルシオ
  弦楽四重奏曲 変ホ長調 Op.127
  弦楽四重奏曲 変ロ長調 Op.130
  弦楽四重奏曲 変ロ長調 Op.133「大フーガ」
古典四重奏団
  弦楽四重奏曲 嬰ハ短調 Op.131
  弦楽四重奏曲 イ短調 Op.132
  弦楽四重奏曲 へ長調 Op.135

 べートーヴェン三昧のもう一つは、「ベートーヴェン 弦楽四重奏曲【9曲】演奏会」。
  会場は東京文化会館の小ホールで、弦楽四重奏曲にはうってつけだと思う。
 というのも、この種の「横に広い」中小規模のホールは、ピアノだと両端に音が届かないものの、弦楽器だとほぼ全体に音が届くのである。
 だが、この形状のホールは意外にも少ない。
 ちなみに、大ホールでは、コバケン先生による「第22回ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏会」が開催されており、この建物全体がベートーヴェン一色に染まっていた。
 さて、トップバッターの「ほのカルテット」は若いメンバーで、中期の作風を代表する「ラズモフスキー」を演奏。
 ときおりモーツァルトのエコーが響くように感じるのは、ベートーヴェンがまだ若さを保っていた時期の曲だからなのだろうか?
 次は、「クァルテット・エクセルシオ」による12番、13番と大フーガ。
 晩年の曲ということもあり、「ラズモフスキー」とは曲想が全く違っている。
 13番の「カヴァティーナ」は、安らぎの極致のような曲で、こういう曲を書いてしまうと、作曲家の死は近い。
 1791年6月17日に「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を書きあげたモーツァルトは、同じ年の12月5日に死んだのだ。
 トリは「古典四重奏団」による14番、15番、16番。
 全曲暗譜で、しかも息がピッタリ合っている。
 7楽章まである14番はやや奇をてらい過ぎたところがありそうだが、15番は完璧というほかない。
 特に、3楽章は、「天界の現前化」という言葉がピッタリくる。
 ワーグナーが、
 「人間はこのように非地上的なものを聞く資格があるかどうか、疑問にさえ思われる。
と言ったのもむべなるかな(バッハ発、ワーグナー行き(7))。
 譬えて言うと、(ベートーヴェンが大好きだった)森に空から金色の雨が降る中で、天に延びる虹の橋を昇って行くようなイメージである。
 なので、曲想は、「天界から地上を見下ろす」というものに思える。
 ところが、4楽章ではうって変わり、再び地上に戻って天界を見上げるというイメージ。
 私見では、16番でもこの構成が踏襲されており、3楽章は天界を、4楽章は地上をそれぞれあらわしていると感じる。
 4楽章には、
 Muss es sein? (そうでなければならないのか?)
 Es muss sein!(そうでなければならない!)
という2つのモティーフが頻繁に登場し、最後は、
 Es muss sein!(そうでなければならない!)
で締めくくられる。
 こうしてべ―トーヴェンは、天界に昇る前に地上に戻り、人類に音楽を遺してくれたのである。
 
 
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