明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



○○からすべてを学んだ的ないい方があるが、その例えでいえば、私の場合、作って来た人物に学んだ、といってもいい過ぎではない。小学校で図書室と出会って以来の人物伝好き。始業のチャイムが鳴っても出て来ず騒ぎになった。見て来たように書いてあるから、現場を見ていた人が書いている、と思い込んでいた。昭和30年代の木造の図書室には戦前教育の残り香があり、大分騙されたが、そこらを歩いているような大人とは違うキャラクターに夢中になった。    長らく続けた作家シリーズでは、この世にいない人物ばかりだったが、本人に見せてウケたい、と思って制作していた。創作とはいえ失礼があってはならず〝対話“が不可欠であった。このおかげで単に制作上のモチーフとはならなかったように思う。 禅宗関連の人物を手掛けるようになり、〝自分とは何か“をダイレクトに問われる機会が増えた。特に一休和尚には。

 

 



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蘭渓道隆の立ち姿を制作している。作りながらどういう画にするか考えるのだが空を背景に、中国の山の頂上と思しき鋭角的岩の先端に立ち、遠くを見つめる姿を思い付いた。日本は文化は発展してはいるが、未だ本格的禅が伝わっていないことを日本からの留学僧に教えられ、日本へ禅を伝える意を固め遠い国に思いを馳せている。あるいは真理について。そんなイメージである。 陰翳を排除するようになってから、どうしても長焦点レンズ的画面になっていたが、陰翳を与える、と決めた途端、カメラを手にして七百数十年前の高僧を撮影したなら?という去年の年末まで考えもしなかった単純にして明快なことに。 巳年というのは新たに脱皮するという意味があるそうだが、それにしたって脱皮し過ぎな気がしないでもないが“考えるな感じろ“で行くことに決めているので、臍下三寸辺りの私に従うだけである。



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ついこの間まで、かつての日本人は、何故陰翳を描かなかったのか、と考え“光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる多光源の国である。その数八百万といわれ、これでは陰翳のできるはずがない“といっていたはずだったが、今は七百数十年前に、宗時代の中国より日本に初めて本格的禅を伝えた人物に、陰翳を与えようとしている。 人間、変化してこそ生きている証となる。とは思うものの、長い旅路の果てにようやく目的地にたどり着いた。と思うと砂漠の逃げ水のように遠ざかる。これはどうも私がずっと恐れてきた、死の床で、あれを作りたかった、これも作れば良かった、と後悔に身を捩って苦しむことは避けられない、ということらしい。江戸時代の長命だった某絵師も、あと十年生きられたら、と未練を抱えて死んでいった。

 

 



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大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた国宝の坐像を見ると華奢なようで肩幅が広い。そのバランスで全身を作ると、すらっとした人物に作りたくなる。建長寺には『径行図』という立ち姿が残されている。それを見ると背は低い。頭部の感じから、私同様、国宝の頂相をもとに後年描かれた物だろう。しかし頂相が描かれ七百数十年経っている私と違い、容姿、背の高さなどについて伝わっていただろう。つまり背の高さのわりに肩幅が広い人物と判断し、芯材を大きくカットした。 ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時、長らく黒人のバランスに馴染んできたので、澁澤龍彦を作りながら、これは昭和3年生まれの日本人なのだ、といい聞かせながら、脚を3回ほど切断したのを思い出した。



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昨年暮れに母が亡くなって予定より遅れてしまったが、蘭渓道隆師の立像、法然上人の頭部を同時に制作を始めている。蘭渓道隆は何気なく立っている図であるが、写真作品として陰翳(立体感)を与えることで充分であり、極シンプルに行きたい。 法然上人はおそらく座像にすると思うが『二祖対面図』というものが残されている。善導大師と法然上人の夢の中での出会いの場面で、法然上人が念仏往生の教えを継承した証を描いている。昨晩、これを立体で描けないか、とよぎってしまった。前触れもなく棚から落ちるボタ餅のように、イメージが頭上から降るのを防ぐ、雨傘のようなものがあるなら私は四六時中さしたままで生活するだろう。



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肝心なことは後回し、ぐずぐずしている私だが、作ることになると決断は早く、先週まで、ほとんど考えもしなかった人物を今週は作る気になっていたりする。一休和尚が尊敬した人物に大徳寺の開山、大燈国師がいる。一休の横目でこちらを見ている肖像画は、おそらく大燈国師の横目の頂相をミーハー的に真似たのではないか?さらに悟りを開いた後に20年間、五条橋あたりで乞食の中で暮らしたという。それを知った時点で大人物の予感にその気になる。〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“ 私はずっと他人ばかり作って来たが、その原動力は自分とは何か?であったことにようやく気付いた。



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正月も何もないのは相変わらずである。しかし世界情勢や景気がどうの、外側の世界がどうあろうと、体内に自分で快感物質を醸成することができるおかげで笑っていられる。子供の頃も、鉛筆やクレヨンを与えておけば大人しい、といわれていた。反面、温かい家族に囲まれた団欒を想像すると、ひどい孤独感に苛まれ続けることになっただろう。人は実にそれぞれである。 中学校の休み時間、小説を読んでいる間中映像が浮かび続ける私は、誰しもそうでないことを知って非常に驚いた。人間が頭に浮かんだ物を作るように出来ている、とするならば、浮かばなければ、作り残しで後悔することを恐れる必要はなくなる。2時間ぐらいその感覚を味わってみたい気もするが、ひきかえに件の快感物質も醸成されなくなるとなれば、まっぴらということになる。



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暮れから浄土宗の開祖法然上人を作っていて思った。紙幣に選ばれる人物の条件は詳細な写真が残っていることだそうだが、私もそう思って選んだ人物は、迫真の肖像を残す臨済宗の人物ということになった。しかし葛飾北斎、松尾芭蕉を作った時に思ったのは、線描画の方が、ディテールが描かれていない分、作る側の想像力を発揮する余地がある面白さがある。法然上人も同様である。となれば臨済宗に限ることもないような気がしてくる。 残された時間、いかに作るべき物を絞るべきか、と心がけているのに、新年早々、一体何を考えているのか。結局、私が恐れてきた、あれも作りたかった、これも、と後悔に苦しむのは仕方がない、ということなのだろうか。



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以前作った臨済宗の開祖臨済義玄だが、この怒目憤拳の姿は中国で創作され、日本に伝えられ相当流布したらしく、様々な絵師が手がけている。私が作った時は調べても実像が判らなかったが、大徳寺に残されているものが実像とされているなら、全く別人で穏やかな表情である。蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純を作ってみると、怒目墳拳版は並べるには違和感がある。並べるなら大徳寺版を立体化するべきだろう。来年の課題である。だいたい頂像というものは、無背景で記念写真のように斜め45度向いて座っているのが定型である。なので開祖臨済義玄も陰翳を与え、誰も見たことがない正面を向いてもらいたい。正面を向いたり立ち上がってもらいたい人物はいくらでもいる。



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最初に写真を発表した際、人間の実写と間違われ翌年作家シリーズに転向した。わざわざ人形作って腐るほどあるジャズ写真を模倣した人間にされてしまったからである。もしジャズミュージシャンでなく、写真どころか陰翳も存在しない鎌倉、室町時代の人物だったらどうだったろう?こうだっただろう、というのが浮かばない。何かと間違う人がいたとして、一体何とどう間違えることになるのか。 一度だけ人間を撮ったように試してみたのが古今亭志ん生だったが、老人があんな大きな太鼓を担ぐわけがない、或いは志ん生があんなことするわけがない、という面白さだけである。それは”実写“に見えるからである。これを鎌倉、室町時代の人物でやったなら。それは一体何だ、ということになるのだろう?

 

 



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小4の時に、大人向けの『一休禅師』をねだった私に、判る訳ない、と止めたのを覚えていた母が昨日の早朝亡くなった。95歳。コロナに2回罹患も無症状で、とにかく痛い苦しいがまったくなく逝ったのは何よりであった。一休禅師は買い物帰りに書店の店先で、店主の前で、拒否しにくい状況でねだったのは間違いない。あの時読んでなかったら何が変わっただろう。 口うるさい母だったが、最初の子育てが私だったら、と思うと今ならその苦労は判る。父が早々に脱サラし、鍵っ子にしてしまったことにも気を揉んだだろう。その鍵っ子時代に私の妄想、空想空間が作られたと考えているけれど。子供が口を開けたまま東の空でも眺めていたら、ロクなことは考えていない。手遅れになる前にアンモニアでも嗅がせるべきだろう。 母に対する意趣返しは、訪れるセールスマンに「ウチにありますので間に合ってます。」という母の背後から「それウチにないよ!」。嘘をついてるのは母なので、叱られることはなかった。 叱られた時太ももに線香を押し付けられた記憶があり、ひどいことしたな、というとそう見せかけて爪でつねっていた。お隣のおばちゃんに教わったと聞いたのは今年だった。

台風一過、お隣との記念写真

 

 

 

 



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97年、初めての作家シリーズ個展会場に、日本に一台立体をスキャンする機械があって、それで私の作った作家を映像で動かしたい、という人が来た。しかし当時ワープロすら触ったことがなかったし、まだデジタル映像は現実感に乏しく、聞く耳を持たなかった。 昨日友人がYouTubeを始めた。何気なく見ると、ちょっと緊張した面持ち?後でAIだと聞いた。口も発音に合っているではないか。 これが可能なら、一休禅師に“門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出たくもなし“法然上人に“南無阿弥陀仏“一遍上人に踊ってもらうことさえ可能だろう。こういう面白い情報は、私の手術が終わった後に教えろ。まだ死にたくない、なんて私にいわせるんじゃない!」という話である。



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小学生の時『巨人の星』を観ていて、一人に撃たれただけなんだから大リーグボールを使い分ければ良いのに、と思った。今後私が多投することになるのは、背景と人物を別撮りし合成する私の大リーグボール2号だろう。最も応用が効き、最も使用期間が長い。 蘭渓道隆を作ってみて、陰影のない平面画像を立体化するのは非常に時間がかかった。葛飾北斎の自画像や松尾芭蕉の門弟が残したようなような描法だとむしろ想像力を発揮する余地があるので楽だが、臨済宗の頂相の精細な描写は下手な想像力を挟む余地はない。作品化するには熟慮を要する。 陰翳を与えられたことがない時代の人々に陰翳(立体感)を与える。本当にこれが私が最後に成すべきことなのだろうか?何度も裏切られて、その度に先がある。まあ良い。私の良いところは需要など考えないところである。需要がある物はおおよそつまらないと決まっている。かみさんがいたらそんなことは絶対書かないが、いないから平気である。



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写真の創作上の自由を得るため陰影を排除しよう、と思った時、何が躊躇させたかというと、立体を制作するということは、陰翳を作り出すことに他ならない。良かれと思ってやってきたことを否定することになってしまう。しかし、立体として制作した人物を、私にはこう見えている、というところまで表現するには、立体作品だけではどうしても届かず、創作上の最終形態は写真作品となるので飲み込んできた。 90年代、廃れたピクトリアリズム写真技法に夢中になったことがあったが、晩年それまで制作してきた作品をオイルプリント化して終わるためにやっていたのだ、と思った。ところが違った。陰翳を排除し石塚式ピクトリアリズム、私の大リーグボール3号だ。もういい加減止めてくれよな、と思ったがこれも違った。 鎌倉、室町時代の人物に陰翳を与えよ。一休禅師の御託宣である。



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死の床で“陰影のない鎌倉、室町時代の人間にこそ陰影を与えるべきだった!”と気が付くことを想像するとゾッとする。一休和尚は私にとってマッチポンプのようなものである。和尚にいわせれば”陰影さえなくせばなんとかなる、と思い込んでいるようだから、良きところでポンプで水をぶっかけたのだ“というかもしれない。 こうなったら途中挫折の可能性を低めるためには、作戦を変え、作るべき人物は熟考に熟考を重ねなければならない。昔は余計な物を作っては、そんな物が道を作ってきたのは確かではあるけれど、今となれば状況は違う。“もし私が一遍上人を作ったなら?“などと考えてはならない。 一休和尚自身は相反するものを抱えながら、そういう顔をしていない。禅というものの奥深さなのか一休個人の特質なのか、座禅ひとつしたことのない私には判らない。



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