明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



死の床で“陰影のない鎌倉、室町時代の人間にこそ陰影を与えるべきだった!”と気が付くことを想像するとゾッとする。一休和尚は私にとってマッチポンプのようなものである。和尚にいわせれば”陰影さえなくせばなんとかなる、と思い込んでいるようだから、良きところでポンプで水をぶっかけたのだ“というかもしれない。 こうなったら途中挫折の可能性を低めるためには、作戦を変え、作るべき人物は熟考に熟考を重ねなければならない。昔は余計な物を作っては、そんな物が道を作ってきたのは確かではあるけれど、今となれば状況は違う。“もし私が一遍上人を作ったなら?“などと考えてはならない。 一休和尚自身は相反するものを抱えながら、そういう顔をしていない。禅というものの奥深さなのか一休個人の特質なのか、座禅ひとつしたことのない私には判らない。



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昨年考えもしなかったこと、出来なかったことを成したか?でなければただ一年冥土の旅に近づいただけである。ずっと死の床で、あれも作りたかった、これも作るべきだった、と後悔に身を捩って苦しむことを恐れて、毎年、大晦日のブログで確認することにしている.その恐れの原因が小4で読んだ『一休禅師』の門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし、だと、その場面の一休を作っていて気付いてしまった。そこで長期の予定は立てず、制作予定は3体に限る。という名案を立てた。おかげで初めての検査入院は、まったく動じず。 それがこれまた一休のせいで鎌倉、室町の人物にこそ、陰影を与えるべきだと気付かされてしまい。冠動脈の手術を来月に控え、作るべき物が一列縦隊で並んでいる始末である。〝どうするんだよ!”地元の先輩に同手術を経験した人がいるので、念のため、その手術がいかに大した手術でないかを、もう一回聞くことにしよう。



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昨日の続きである。人間を撮った実写と間違われたことをきっかけに、まことを写すという意味である写真に、ずっとあらがい続け、この期に及んで写真のない鎌倉、室町時代の人物であれば、人間を撮った実写と間違われようと何も問題ないではないか。と昨日気が付いた。いや気が付いたのは、もっと大きな因縁である。 紙幣に選ばれる人物の条件は詳細な写真が残されていることだそうである。私としてもそれは似たようなものである。となると、写真が登場以前に、写真に匹敵するリアリズム表現を日本で探すならば、臨済宗の頂相しか存在しないと私は考えている。つまり私が写真登場以前の人物を作ろうと考え、制作上のこだわりを全うしようとするなら、結局、選択肢は一つ。ということになりそうである。



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96年ジャズやブルースをモチーフにした写真を発表した時に、被写体が目の前に並んでいるのに、写真作品は人間の実写と勘違いされた。そんなつもりで作った訳ではない。以来、廃れた古典技法を手がけてみたり、まことを写す、という写真に、長い間あらがい続けることになった。 そして長い旅路の果てに、写真から陰影を廃したことにより、夜の夢こそまことな私もついに終着点に至った。そう思ってきた。ところが陰影が描かれることがなかった鎌倉、室町時代がモチーフならば、むしろ陰影を与えるべきではないか?これがここ数日の話である。 待てよ?写真など存在しない鎌倉、室町時代の人物であれば、実写と間違われたところで問題などなく、むしろあり得ない分面白い、という話ではないか?熱いお茶でも飲んで一旦落ち着くことにしよう。

 



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〝日本人が何故陰影を描かなかったのか。光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる。その数八百万という。陰影など出来ようがない“などといっていたのはごく最近の話である。写真に浮世絵やかつての日本画の自由さを取り入れるために陰影を排除した。これなら寒山拾得も手掛けられる。その流れから気がついたら鎌倉、室町の高僧を作っている。 我が胸中に、亡父のデータが3Dで自由自在に動かせるほどあるせいで、都内に墓があるのに骨片が埋まっているだけの墓参りに行く気になれない。こんな不信心者に、日本に初めて本格的禅をもたらせた人物を作らせるには、他にどんな方法があっただろうか? ところが気が付いてしまった。陰影なき鎌倉室町の住人には、逆に陰影を与えるべきではないのか?やってみてようやく気付く。やらないと気付かない。独学我流者はこうしてずっとやって来た。



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蘭渓道隆を最初に興味を持ったのは、国宝の頂相が、技術的に日本ではなく、中国で描かれた説があったほどの説得力に圧倒されたことが一番だったが、唯一生前に描かれているし、本人の賛まで書かれている。これが実像でないという理由がない。ところがだとすると、これが正面を向いたなら、と考えた時、納得出来る作品がなく、全国には噂話だけで作られた、あるいは噂話さえ聞かずに作られたような像まであって、これは自分で作って360度見てみたい。これが最初であった。    法然開宗850年の今年、大きな法然展があったが、観に行かなかった。法然の最古の肖像画が実像だと想定した場合、おそらく私とは意見を異にする作品しかないだろう、と思った。『ミステリと言う勿れ』の第一話で菅田将暉が語った〝真実は人の数だけあるが事実は一つ“に納得させられた。なので歴史に残る他人の作った像を見て、あの顔が正面向いてこんな顔になるかよ、なんていわず、私なりの真実だけに集中することにしている。

 蘭渓道隆

 



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法然最古の肖像画はお馴染みの斜めを向いて数珠を手にしているもので、以降の肖像画、立体像はその一点がおおよそ元になっている。 本人を知らない、という意味ではどんな名工だろうと私と条件は一緒である。参考になるのはその原画一点のみである。 私のロバート・ジョンソンやマイルス・デイヴィスや泉鏡花や永井荷風と人間の共演も可能だが、そんなことを考える人はいないので、谷崎潤一郎や江戸川乱歩と義太夫三味線の鶴澤寛也さんや30年以上通った煮込み屋の女将さんと太宰治や、文庫の表紙でドストエフスキーと著者の共演を試みたが、法然の背後で法然像を収める予定の寺の住職が南無阿弥陀仏を唱えている。なども可能だな、と頼まれもしない余計なことを思いつく私であった。

 



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浄土宗の寺のため、法然の頭部の制作の準備。今年は法然上人開宗850年だそうだが、年内完成は無理である。迫真の頂相が残されているのが臨済宗の特徴であり、私は仏像には全くといっても良いほど興味がなく、人間が作りたいだけなので、モチーフが臨済宗関連になるのが正直な所である。紙幣に使われる人物の条件が、詳細な写真が残されているのと同じである。 法然はコピーが繰り返された最古の肖像画を元にするが、その解像度は臨済宗の頂相とは比ぶべくもないが、私にも人間は最低でも“こうなっていないとならない“という渡世上のラインがあるので、ディテールアップが必要である。この場合モノをいうのが人の顔相の記憶のデータである。なんとかそこまで持って行きたい。明日には蘭渓道隆の立ち姿制作の準備も始めたい。華奢な割に肩幅がある。



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昨日、佐野史郎さんに私の『ゲンセンカンの女』にサインをいただいている時、あることを思い出した。 『月刊ガロ』はたまたま書店で立ち読みして『カムイ伝』のハレンチ学園』と次元の違うくノ一のエロい場面をきっかけに、おそらく67、8年辺りから小学生の分際でガロ誌上の名作漫画を目にすることになった。好きだったのは、つげ義春と佐々木マキ。特に『ゲンセンカン主人』は土俗的エロティシズムに圧倒された。深夜聾唖者である女将が浴場内で拝んでいるのを見て、客である男は襲いかかる。抵抗する女将、男があるハンドサインを示すと、女将は抵抗をやめ指で壁に〝へやで“。私が制作したのは、部屋で女が男を待つシーンである。 思い出したというのは、佐野さんも映画内でやっていたであろうハンドサインを、小学生の私は母の面前に、これって何?と突き出したことである。



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『写楽』を観る。人物をリアリズムで描いて疎まれ消えた男。私も気を付けよう?続いて出演者の佐野史郎さんのトーク。小津安二郎はシュールレアリズムに納得。今はなき銀座並木座で小津作品を観たそうだが、私は高校生の時、並木座で『東京物語』が耐えられずに退出した。終演後楽屋にお邪魔し拙著『乱歩 夜の夢こそまこと』『Objectglass12』『貝の穴に河童の居る事』をお持ちする。佐野さんが参加した阿佐ヶ谷のジャズバーの自主制作盤CDの『ASAGAYA FRIENSE』のジャケット写真を制作したことがある。   トーク。小津組の撮影監督であった兼松熈太郎さん。最後の小津組スタッフ。「誰もいないから何いってもわからない。」貴重なお話。『彼岸花』を観る。ホームドラマの中に、赤い薬缶他、異常性横溢。桜むつこが冨永愛に激似。

 

 

 



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写真において、一番偉いのは写真家ではなく被写体である。と考えている。その被写体も私が作っている訳だが、一休和尚は単に制作上のモチーフというだけでなく、作る私に問い掛けて来る。それは予想通りで、手法を変えると以降それで通すべきだ、と融通の効かない私に〝細かいことは気にするな“と。 思えば三遊亭圓朝に寄席から漏れる灯りや、『ゲンセンカンの女』の半裸の女に行燈の光を当てる誘惑と戦ったり葛藤をして来たが、何をやろうと私が作ったものである。これからは鎌倉、室町の人物に存在しなかった陰影(立体感)を与えるぞ、と。 ただ一つ問題が生じた。何かある場合に備え、先の制作予定を立てず、せいぜい3体まで、という途中挫折を最小に抑える策が、ここに来てご破算になってしまった。その策を立てさせた原因も一休和尚だったのだが。



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建長寺には蘭渓道隆の径行像という立ち姿が残されている。明らかに生前描かれた国宝の頂相を元に描かれている。つまりあれが実像だ、という私と想いは同じである。そこで私が制作するとこうなる、という意味でも径行像で行くことにした。鎌倉時代の人物に陰影がある。つまり立体感を伴っている。それでもう充分である。 石塚式ピクトリアリズムだ私の大リーグボール3号だ、と散々はしゃいでいた私であるが、10年あまりの間の話であり、写真から陰影を排除した自由は充分味わった。そもそもそれまで人物像を使って“夜の夢こそまこと”などと言いながら、嘘ばかり描いて来た訳で、それを鎌倉や室町時代を舞台に観て来たような顔をして制作するだけの話である。 それに陰影のない3号を止める訳ではない。『巨人の星』を観ながら、一人に打たれただけなら大リーグボールを使い分ければ良いのに、と小学生の私は思った。



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今月に入って〝一休はモチーフとして今までの誰とも違うところがあり、いずれ何かをもたらすだろう。私の勘がそういっている“と書いたばかりである。問われるけれど受け入れる。とでもいえば良いのか。そう思いながら一休に陰影を与えた。 写真に浮世絵やかつての日本画の自由を取り入れるため陰影を排除し〝石塚式ピクトリアリズム“私の大リーグボール3号だ。などといっていた。確かに自由を得た。特に構図に関してはやりたい放題といって良い。しかし現在のモチーフ、鎌倉や室町時代の人物にとって陰影がないのが当たり前である。ならばむしろこれら仏教美術の中の人々に,逆に陰影を与えるべきではないのか?と一級和尚がいうのである。この期に及んで何を。と一日何も手に付かず。
 
 
 

 



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日本人は陰影を描いてこなかったので、当然仏教絵画にも陰影はない。であれば私の現在の手法はごく当たり前である。今度は逆に陰影を与えられたことのない時代の人物に陰影を与えるべきではないのか?一休を手掛けることにより、何かが起きることは予想していた。 陶芸をやっていた二十代。4キロ四方人が住まない廃村に先輩と3人で暮らしたことがある。ある日粘土の仕入れに2人は出かけた。残るは私と犬1匹。ところが予定を過ぎても2人は帰って来ない。若い陶芸家の連中と楽しくやっていたのだろう。言われた仕事は全て済ませ、やることもない。ごくたまに山菜採りか猟銃を持った人が上がってくるぐらいなので、全裸で地べたに寝転がって犬と日向ぼっこをしていて、フト思った。生まれてから肛門に太陽光が当たったことないな?。人間ヒマだとロクなことを考えない。 食料も尽きた頃、おそらくバツが悪かったのだろう、知り合いの陶芸家から2人は明日帰ると言ってると電話があった。



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大覚禅師こと蘭渓道隆は全部で3点おおよそ完成している。しかしどうもモソモソする。昼食をとりながら原因に気付く。そもそも陰影を排除したのは浮世絵、かつての日本画の自由を写真作品に取り入れるためである。おかげで構図は自由自在、そうでなければ寒山拾得など手掛けなかった。だがしかし、枝葉をのばし日本人が陰影を描かなかった時代の人物を制作してみると、それは逆にごく当たり前である。であれば一点ぐらい七百数十年前の禅師に、あえて陰影を与えてみるのはどうか?そんな物は存在しない。という訳で、蘭渓道隆師に陰影を与えた作品を制作することに。せっかくだから地球上で初めて発音されるであろう言い方をしてみる。〝大覚禅師の写真を屋外で撮ってみよう”



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