明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



夜中に一時間ほど、アリゾナの友人K子さんとスカイプでTV電話をした。起き抜けだか仕事の前だとかで、化粧前の顔はやはり映してくれず、室内や窓の外、日の出の景色を見せてくれた。  昨年亡くなっていた友人のことを知らせるため、各地で陶芸家となっている友人等と久しぶりに話をした。全国に散らばっているので、そう簡単には会えない。そこで思いついたのが、モニターの前に酒と肴を用意し、遠く離れた連中と酒を酌み交わしたらどうだろう、ということである。それなら男同士見つめあっても、間がもたないということもないし、ビデオ会議のように、複数の連中の顔を観ながらでも可能であろう。特に陶器を作っている連中は、飲み始めた頃に出会っているので懐かしい。何故あの頃、あれほど飲む必要があったのか、という謎について、話し合ってみたいものである。モニターを見ながら、その手前にある肴はなんだ?とかいいながら飲むのも楽しいであろう。しかし、昔から、私が面白がっても周りが乗ってこない、というのはよくあることで、また始まった、喜んでいるのはお前だけだ、という顔をされるのがオチである。だいたい、私と同年輩で、土をこねているような連中は、みんなアナログなデジタル音痴である。かくいう私も、かつてはそうだったからよく判る。メールをするようになったと思ったら、いつの間にか返事が来なくなる。メールが着てたのは判ってたけど。とみんなそんな調子である。 糸電話の糸は長いほうが楽しいように、遠く離れてた人とやったほうが良いだろうが、近くの人で良いから、とにかく、一度やってみたい。だったら会って飲めばいいじゃないかと、娘の長電話に呆れる親のようなことをいってはいけない。
頭部ができて、さて一気に胴体を作ろう、と意気込んだところで、粘土が足りないことに気付いた。それならばと、今日は両手を作ることにした。ノラ・ジョーンズがラヴィ・シャンカールの娘だとは知らず驚く。

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