明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

訃報  


昨晩、専門学校時代の先輩から電話があり、同期のSが、昨年の夏に亡くなったと訊いた。骨髄性白血病だったという。 Sと会ったのは高校を出てすぐ、18の時であった。ボート部出身の頑丈な男で、クソ真面目で、煙草のポイ捨てを注意しては、自分で拾うような男であった。私の実家に遊びに来たときも、照れもあり、私が母にぞんざいな口を利くと、「お母さんに向かってなんだ」と本気で怒っていた。 ある昼休み、もう1人、同い年の山形から出てきたTと、学校の隣りの寺の石段に呼び出された。何かと思ったら「お前等キスしたことあるか?」Tはよせばいいのに「飲み会のたんびだよ」とホラを吹いた。思いつめた顔で「そうなんだ・・・。」そのせいではないだろうが、ほどなく煙草をむせながら吸い、無理して酒を飲むようになり、雰囲気が変っていく。2年目の夏、突然、卒業したら結婚するといった時には驚いた。おかげで私は初めてスーツを着るハメになった。私もまだ若く、「何がメデタイか判らないので、オメデトウなんていわねェよ」(未だにそう思っているが、今はさすがに口からでまかせをいえる)  その後岐阜にいた私は、瀬戸で某作家の工房に務めているSの所へ遊びに行った。その頃は常に酒を飲んでいる状態で、事故を起し、顔に傷を作り、他人の作品をくさし、屁理屈のような陶芸論をふっかけ、喧嘩。まさに酒乱であった。瀬戸にはいられなくなったと訊いた。奥さんは二人目に替わっていた。それからまた随分たち、出身地の川口で作品展をやっているというので、何で知らせないんだとみんなで集まった。しかしさらにヒネクレた人間になっており、なにより作品の覇気のなさに、大口叩いたあげくがこれか、と陰鬱な気分にさせられた。その日集まった連中とは、以来Sは決別することとなる。子供を2人作った2人目の奥さんとも別れ、3人目の奥さんと群馬にいる、というのは訊いていた。山形のTとは、Sがああなったのは昔、お前が吹いたホラが原因だ、と会うたび笑っていたのだが。 ここ20年会っておらず、その間どう生きていたかは判らない。知りたいとも思わないが。しかしこれだけ時間が経ってみると、想い出すのは、私に無駄に目をキラキラさせてんじゃない、といわれていた頃のSであり、何かを観て描くのが苦手な私に、真面目にデッサンやれ、と説教をしたSである。みんなで集まりカレーを食べた時、遅れてきて、残った手のひらに満たないカレーで、ドンブリ3杯食べていた。着ていたセーターから毛糸の帽子、舌ったらずの喋り方、未だに想い出すことができる。 合掌。

過去の雑記
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