明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



見上げたボーイズプロデュース公演『五人衆』(博品館)を観にMさんと出かける。舞台の背後に和楽器奏者が控えている。5人が立ち回りをするには一杯の舞台で、いかに動きまわれるかに挑戦しているような芝居であった。スペシャルゲストの今拓哉さん、先日より明らかに痩せており、舞台のハードさが窺えるが、精悍さを増し迫力を出しつつ可笑しい。 私がもし再び江戸川乱歩を手がけるとしたら二代目の明智小五郎を、酒場で飲酒中のどさくさにお願いしてみたい。実は『貝の穴に河童の居る事』に参加してもかまわないといってくれたのであるが、K本の常連席に今さんが混ざっているのを見て“蛾の中に蝶が一匹”と評した人がいたが、今回は女性連を除けば、蝶の出番はなく、残念ながら必要なのは蛾だけであった。 観劇後、せっかく博品館だというのでMさんに誘われ『りかちゃん』を見学。その後着物好きのMさんと、工芸の専門学校時代の先輩、染色家、石原実さんの個展に出かけるが、方向音痴のくせに住所だけをたよりに迷った挙句に会期は来週から、というおそまつであった。ついでに某画廊に寄る。在廊作家の気持ちが判るので、どうしても2周は眺めることになる。 喫茶店で小説家の話などする。Mさんから草森紳一と随分飲んだ、という話を聞き、大嫉妬する。その後K本へ。遅れて母も来る。ちょうど先日のお祝いの会の様子を、出演者Mさんの奥さんにアルバムにしていただいたので、皆さんに見てもう。その後、Mさんと焼き鳥のK越屋へ。奥さんも合流。話は家族や親子の話になる。何か妙にしみじみとしたところで母が、私が難産で、立ち会った祖母の初めて聞く話をする。なんでこんな所でこのタイミングでそんな話をする。不覚にもウルッと。

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先日ブログを見た知人から、玄米なんか食って、なに健康に気を使っているのだ。といわれた。自分たちサラリーマンと違って、私がそれでは駄目だろう、というのである。なんだか良く判らないが。 某所で飲んでいると、店主が自分の検査結果が入った分厚い封筒を取り出し、私のもろもろの数値はいくつだ、と聞く。そんなこと誰がいうかよ、と答えたが、実際は数字が覚えられない私は何も覚えていない、というのが本当のところである。人間の体温もだいたいこのぐらいだ、とうる覚えだし、覚えているのはトツキトオカくらいなものである。 店主は同窓会で、健康の話ばかりが盛り上がって、とこぼしていたが、どこでもそんなものである。もうこんな話はよそう、といって30分後にはまた戻ったりして。よほど深刻な状況でないかぎりは、みな笑顔で、どう考えても不健康を自慢しているようにしか見えない。先日書いた、男性はボロボロな物に惹かれる、ということと何処か通じる部分があるのだろうか。弾き倒して塗装の剥げたロリー・ギャラガーやスティービー・レイヴォーンのギターや、戦場などの取材で磨り減り凹んだニコンのように、我が身のダメージも愛おしく感じる、ということなのであろうか。 女性が女性同士で不健康自慢、というのはあまり聞かないが、駄目男や駄目亭主自慢というのは良く聞く話である。男性の駄目女房の話を聞くことは勿論あるけれども、自慢しているように聞こえることはない。

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昨晩T千穂に行くと、K本から流れてきた常連のメートルが上がっていた。拙著に登場願った3人を含め、全員が出版のお祝い会に集ってくれた人たちである。そのときの話でひとしきり盛り上がったらしい。スライドを上映しながらの朗読の時、スライドを操作している私が最後の1カットというところで尿意の限界がきて、横にいて急に託されてしまったKUMAさんはあれ以来である。まったく痛恨のできごとであった。ゴールが見えたところでの尿意というものは格別であるが、考えてみたら上映は本を配る前の方が効果的だと考えたので、私以外、誰も内容を知らない。託された方も困ったろうが、私にしても前日に最後の前に1カット加えていたのを忘れていたので、さらにオチが決まらなかったことであろう。 その他、せっかくK本の女将さんが天の岩戸からお出ましになったというのに、出席者全員で写真を撮らなかったし、お酉様の時のように、手打ちでシメることなく終わったなどあったが、そんな様々含めて面白かった、と喜んでいただいたようである。まあこうして酒の肴になりさえすれば、何でも良いというところであろう。 それにしても、芝居の稽古の合間に朗読を録音してくれた今拓哉さんが素晴らしかった。編集者は途中で飽きてしまうのではないか、といっていたし、私も当初酒を飲む前に上映した方が、と思ったが、実際は全員がじっと画面に見入ってくれていた。これはいずれ正式にイベントとしてやってみたい。 本来、鏡花生誕140周年の年内にやれれば良いのであるが、当ブログをご覧の方はご存知であろうが、完成前のついこの間、この調子だと出版は来年にしたほうが、と編集者が陰鬱な表情でいったくらいで、出版後の予定を考える状態ではなかった。一応来年開催に向けて動いている。その時は私のために手持ちのオムツをくれるという人がいるが、花火大会の時、オムツからあふれ出させてもらしてしまった人からいただく気にはなれない。

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一日  


私の場合、最初に浮かんだイメージに修正を加えるのが難しいところがある。イメージスケッチをしないのはこの為である。うかつに描いてしまうと最初に描いたその通りになってしまうからである。ファーストインプレッションで決まる。というと聞こえは良いが、問題もある。悩まされたのは私が鏡花の文章を誤読している場合である。あとでそれが判ると、すでに頭に浮かんでしまったイメージが焼き付いてしまっており、変更するのが実にやっかいなのである。 潔癖症の鏡花は、実際こんな生臭い河童がそばにいたら嫌だが、描くぶんには平気、とばかりに嬉しそうに筆を飛ばしている。鏡花作品の中でも鏡花の幼児性が炸裂した作品であろう。完成度については頓着せず、筆に任せて一気書いたような作品である。そのせいかどうか、クライマックスに向けて急激にテンポがはやまり、急転直下の大団円を迎える。このくだりは正直いって、あまりな展開に、どう描いてよいか解決策が浮かばないまま追いつめられた。ようやく策を見つけた時には、寝不足も加わり、そうとうなハイテンションで、道ばたをヒョコヒョコ這い出して来た小ネズミを撮影し、お前も出演したいの?とすぐそのシーンに加えてしまった。そろそろ展示が始まるであろう金沢の泉鏡花記念館には、河童のカットとともに、この大団円シーンを選んだ。 こうやって拙著の内容について書き続けていると、当ブログをお読みの方は、いったい何のことを書いているのだ?とつい『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)を注文してしまわないものであろうか。

※作者として書店に並んでいるところをまだ観ていない、というのも悪いのであるが、本当に売っているの?という気がしないでもない。読んだ方がいらしたら、ご意見ご感想をコメント欄やメールで、是非いただきたいものである。

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拙著が届いたメールはいただくが、読む前にとり急ぎお礼を、という人が多く、読後の感想が存外聞こえてこない。ご近所のアルコール消毒友達のよしみで買っていただいた方など、朗読を聴いたので読まないで済む、なんて本音を漏らされる方は別にすれば気になるところである。私としては観たことのない書籍に、なんと評してよいか判らないのだ、と良いように解釈しているのだが。そこに『小説推理』“今月のベストブック”幻想と怪奇に、東雅夫さんに書評を書いていただいた。力を入れたところを的確に取り上げてもらうことほど嬉しいことはないが、さらに私ならでは、と試みた部分を“思わず呵々大笑い”と評してもらったところがまた嬉しい。なにしろ感心されるくらいなら呆れられたいと願う私は、江戸川乱歩を手掛けて以来、笑いというのは重要な位置をしめている。 そもそも男性というものは懸命に生きるほど自動的に哀しかったり可笑しかったりする奇妙な生き物で、私が男ばかり作っている理由はそこにある。女性制作に触手を動かされないのは、女性がそうではないからである。懸命に生きる女性に笑える要素などどこにもない。女性の噺家に無理があるのは当然のことであろう。女性の場合、そうとうな婆アに至って、ようやくちょっと可笑しい場合があるようである。

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