明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

色彩  


壁に飾るのは、銅版画のコロタイブによる複製だけのつもりでいたが、どうも色彩が欲しい。部屋に花を飾る、というのはこういう心持ちなのだろうか。サボテンだろうと何だろうと枯らしてしまう私には良く判らない。   エクタルアという印画紙が製造中止になり、以来モノクロ写真は辞めた。それに今はモノクロは、被写体に自ら着彩しなくて良い人のためにある、と思っている。自分で色を塗っておいてモノクロで撮るなんて馬鹿なことは出来ない。 ジャズ、ブルース時代、岡山のファッションビルの口開けイベントに人形を展示した。知り合いの陶芸家がいたので山の中に遊びに行った。目の前は常緑樹の緑一色で、色が欲しいと花壇を作っていた。お袋さんの入院時の見舞いにもらったポピーを植えていたら、見回りに来た警官がそれを見て慌てて抜きに来たという。どういう訳なのか、アウトなポピーが混ざっていたらしい。抜いても抜いても生えて来るといっていた。



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高橋幸宏さんの『EGO』(1988)のレコードジャケットのオブジェを制作した。アートディレクターとコーディネーターによると東芝EMIに移籍ということもあり、コンセプトは〝死と再生”だったと思う。何故私の所に話が来たのかは覚えていないが、説明が抽象的で要領を得ない。二つほど首を試作したが、そういうことではない、と。背中を押すつもりか「0か100で行って下さい。」 地元の先輩である陶芸家の工房に泊まり込んで1メートル角のベニア板の上に、作品として使うものでなく、窯の中の作品を支えたりする道具土で顔を作り、後は石膏で、地中より現れ出でるというイメージであった。   レコードの中のパンフレット撮影のため、湾岸で撮影後、撮影の山口ゲン氏、他大勢のスタッフと共に高橋さんも我が家に。お礼を言っていただいたが、目が合うことなく、非常な緊張感を残したまま帰られた。おかげで記念写真を、とも言い出せず。残ったアートディレクターに軽口のつもりで「やり過ぎですか?」といったら「やり過ぎですね。」 後で聞くと社内的に説得が大変だったようだが無事に発売となった。当時唯一レコードジャケット評が載る、ミュージックマガジンに立花ハジメ氏によりアルバムサイズで観たい」と書かれていて嬉しかった。当時はアナログが消滅するかのような時代だったので、アナログLPに間に合った。と思ったのも覚えている。タイトルはピーター・バラカン氏の命名と聞いていたが、後年お会いする機会があり確認したが覚えていないようであった。最も追い詰められた制作として記憶に残る。安らかに。合掌。



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一日  


コロナには殆ど関心が無く、世間のああだこうだにも無関心である。良い歳をして人見知りにはマスクもかえって良いくらいの話である。呼吸が苦しくなるほど動かないし。そういう事を言ったり顔をするな、と母は言っていたはずである。 余計なことを考えたりしている時間はない、なんていうのも、それなりに不自然で無くなって来て、かえって真面目にやるべきことに集中しているように聞こえるかもしれない。この逃げ口上?は若いうちには使えない。 夜観る夢は僅かな時間らしいが、ストーリーからキャスティングまで、一体誰が考えているんだ、と思うが、同じように、考えていないつもりでも、どこかで何かやるべきことが、まとまりつつあるような気がする。気のせいと言えなくもないが、こういう予感だけは意外と外れないものである。例えていえば、台所から夕餉の支度の香りが漂って来て、次第にオカズは好物のアレだな?という、あの感じに似ている。 毎日ブログを書いているが、特に書くことがないなら書かなくても良いだろ、という話である。



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幼い頃から興味、関心のあることとないことが極端だった。こんなつまらないものが、大人になって必要になる訳がない。なのに子供だからといってやりたくもないことをやらされる。母は治らないなら、せめてそれを顔や口に出すな。後は、挨拶をちゃんとして、約束守っていれば最低限、なんとかなると伝えたかもしれない。 物心ついて以来、自分が一番好きで得意だったものを学校で否定され、中、高と美術部にも入らず、もっぱら本ばかり読んでいた。もう少しの辛抱である。 小学校で暗記させられた宮沢賢治のアメニモマケズ。私に言わせれば、世の中の役に立とうというならともかく、世の中に無くて良い物を作り続けようとするならば、あれでは〝注文が多過ぎる” あれもこれも、といっていられるほど人間の一生は長くない。身をもって示してしまった宮沢賢治。



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1月10日、ジェフ・ベック亡くなる。実をいうとロックではジェフベック、ジャズではソニー・ロリンズ、作家は三島由紀夫は、縁の問題か、ハマるまでに時間がかかった。三大ギタリストと言われて来たが、変わらなさでは一番だったろう。 ネット配『YAWARA!』全124話バルセロナに出発するところで終る。2001年の猪熊功自刃事件が先にあったら、当然名字は違っていただろう。神永柔では語呂は悪い。 イメージが湧いて、ボンヤリしたところからピントが合うまで数秒間。ピントが一度合ってしまったら、もう逃れられない。   構図の左右など決まってしまうし、変更が効かない。なのでスケッチをまったくしない。最初の一枚を超えられず、ゴミ箱の反故紙をあさることになる。一瞬で構図など決まるのだから悪いことは何もないように思えるが、常にニの矢三の矢の可能性を失っているという思いを払拭出来ないでいた。しかし昨日は寸止め出来たおかげで構図など熟考が出来る。



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一つイメージが浮かぶ。岸壁の上部で、寒山が、身体を丸めるような、いい加減な体勢のまま筆を持ち、巻紙に寒山詩を書きつける。巻紙は岸壁を伝い流れる滝水のように、S字を描きながら岩に沿って垂れ下がる。数メートル下では、傍に箒を立て掛け、岩を硯に墨を摺る拾得。 山中でところ構わず詩を書きつける寒山と墨を摺る拾得は、数多く描かれて来たモチーフであるが、アクセントとして、巻き物を滝の流れに見立てて配してみたい。この程度のアイデアは過去にあったろうが私は知らない。 棚からぼた餅が落ちて来るように思い付いた時、私はいかにも思い付いた、という顔をするそうだが、いきなりドスンとピントピッタリ受け止めてしまうと、そこから融通が効かず、左向きを右向きにさえ変えられなくなるところがある。なので目を細めるようにボンヤリ受け止め、細かいイメージまで至らぬようにした。最初のイタズラ描きを超えられず、ゴミ箱の反故紙を何度漁ったろうか。なので今は滅多にスケッチはしない。



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岩窟の寒山。本来最初にイメージしたものだった。房総にでも背景を撮影に行こうと考えていたはずだったが、何を思ったか、急遽自分で作る事に決めてしまった。外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写の一環だとでもいうのか。確かに主役の被写体はおろか、背景まで作れればいうことはない。決めたは良いが策が見つかったのが個展の一月前であった。 岸壁の制作法は二つあり『慧可断臂図』で用いた一から自作する方法。これは達磨大師が座した台座状岩場も自由に造形出来る利点があった。もう一つが『虎渓三笑図』の自然石、岩を画像加工する方法。大きいも小さいもなく、切り取り結合自由である。ただし陰影がないことが前提である。以来、ヤフオクで石の出物があると、つい手を出したくなるが、居もしないカミさんに〝石だけはやめて”とすがりつかれる思いがする。水は買っても、石は買ってはならないだろう。せめて拾って来いという話である。いずれにしても、石を集める私、妙に似合ってそうなのが癪に触る。  つげ義春『無能の人』あれを読んで私同様、複雑な気分になった人は少なからずいただろう。



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篠山紀信版『男の死』の出版のガセ情報に怯えながら、一日でも先に発表を、と三島の命日を含む期日が、たまたま大地震でキャンセルになったのを知り、無理を承知で開催を決めたのが2011年の『三島由紀夫へのオマージュ男の死』(ギャラリーオキュルス)であった。寝床に本をばら撒き寝心地を悪くして睡眠時間を削ってまで決行した。篠山紀信版の企画者である、元薔薇十字社社主内藤三津子さんにも一文をいただき、鈴木邦男さんにも来ていただいた。その後鈴木さんとは雑誌で対談をさせていただき、三島の人形を持ってトークライブにまで呼んでいただいた。 先に登壇したのは最近亡くなった人食った佐川一政氏、一緒に登壇したのが、オウムの村井秀夫刺殺の徐 裕行氏。客は人形制作者より、徐氏の話を聴きたいに決まっているから壇上では端に座りたいのに、氏があまりに遠慮深く、差し手争い?に負けて、端の席は取られた。そんな珍しい経験もしたが、その後展示の可能性など無いと思いながらやり残した背中に唐獅子牡丹の三島を作り足し、市ヶ谷に向かう車中「ヤクザ映画ならここで唐獅子牡丹が流れるところだ」といって隊員と共に唐獅子牡丹を歌った三島に捧げることができた。そして築地より移転するふげん社で『三島へのオマージュ椿説男の死』が決まった時は、ボーッとして帰宅したが、聴き違いではないのか、と移転後確認に出かけたくらいであった。 私が40年間で、やり尽くしたと言えるのは三島だけだ、と書いて、新しいことをやり続けることは大事だが、やり尽くすことがさらに大事だ、と寒山拾得の新作に取り掛かることに、ようやく決めた。



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おかしなもので、寒山拾得に集中していた時は目に入らなかったのに、未撮影の葛飾北斎が目につき、やり残すと後悔する、という気がして来た。確かに男の種々相を描くには羅漢図は究極のように思えるが、K点を超えたジャンプそのままの勢いで行ってしまうのは急ぎ過ぎのように思われた。 座りっ放しのせいでの足腰の衰えはともかくとして、個展開催でサボったクリニックでの数値もすでに取り戻している。    個展の一月前に、『虎渓三笑図』によりようやく、それも突然に中国の深山風景の作り方を思い付いたので、最初に考えていた、寒山と拾得の日常を描くことなく、月を指差したり、象徴的な姿しか描けなかった。まずはその辺りを作り足したい。曾我蕭白の、岩窟に棲まう寒山のもとに訪ねて来たような拾得。あの結晶のような奇岩は気持ち悪いが。より私のイメージにしたい。 考えてみるとこの40年、新しいことを、とやって来たが、やり尽くした、と言えるのは、唯一2回行った三島由紀夫ヘノオマージュ展だけである。ここを良く考えなければならない。

 



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田村写真の田村さんに、寒山拾得展のプリントを何点かお願いした。いずれ東京以外で展示出来ないか、と考えている。最初期のジャズ、ブルースシリーズで岡山と京都で展示したくらいで、後はせいぜい神奈川止まり、一度やったらそれっきりで来た。写真家など、結構同じ物を何年にも渡り、あちこちで展示しているのを知り、たまたま都合が合って来てくれた人だけに見せて終わりとは、とずっと思っていた。口の悪い連中に言わせると酔狂な物好きは東京にしかいないだろ? 手漉き和紙の用紙が急な値上がりで、簡単には使い難くなった。田村写真で仕入れてもらった用紙は、私しか使わないだろうから、この際、三島由紀夫のプリントもお願いしておいた。 寒山拾得を手掛けるようになり、以来、座禅一つ未経験の私ではあるけれど、横尾忠則さんのツイッターにはとみに一々ごもっとも。と思えている。その横尾さんの寒山拾得が9月に国立博物館で披露されるという。それに合わせて寒山拾得の歴史的名品も公開とのこと。10年単位で美術館に足を運んでいないが、これは行かずにはおれないだろう。また三島の篠山紀信『男の死』は本来三島由紀夫と横尾忠則さんの2人の写真集として企画されていた。

寒山百得展

 
 


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写るところしか作っていない作品は、一カットの写真作品のために作られているので、それ以上の作品は生まれようがない。特に使い回し不可の、特定のポーズをしていたらなおさらである。独学無手勝流の私は、前面を作り、ひっくり返して後面を作る、という特技?がある。それはかつて前面に集中してほとんど出来てしまい、我にかえって背面を作るなんて、恥ずかしいことを繰り返していたせいである。なので冷酷なくらい、撮影時、ほんの数度も振ることが出来ないくらい背面を作らず、それでも背面を作り足して問題は起きない。上半身だけで、と作っていたら欲が出て来て下半身を作り足した、なんてこともあった。書いていて、自慢にもならないことを、と思うのだが、一眼であるカメラで撮り、初めて成り立つ手法も生んだ。あらかじめ遠近感を強調して作ってあり、普通に作られた被写体では生まれない効果を生んだ。 という訳で、鯉にまたがった琴高仙人など、他に使いようのない作品の、首だけ引っこ抜いて、身体部分は廃棄処分とした。

 



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一日  


やってみて判ったことだが『寒山拾得展』は古くからの友人らさえ後ずさりさせた大ジャンプで、想定より飛距離が出過ぎたとしか言いようがない。改めて自分の出自、性質を思い返すこととなったし、5年ほど取り掛かって来た私の大リーグボール3号たる、陰影を無くす手法も手の内となり、人生上の最突端となる出来事であったのは間違いがない。しかし、想定を超えた飛距離に対して、どう対処して良いのかが判らず。酒を飲んでもお茶を飲んでるようで、こんな酒量の少ない正月は初めてである。今まで〝考えるな感じろ”で来たが、肩凝りの原因でしかなかった頭も、少しは悩ます必要があるのかもしれない。まぁこの種類の起きたことがない事は、起きないよりはマシではあるだろう。



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興味がないことについて考えたりしてる無駄な時間はもうないよな。というと、何がもうだよ、昔からそうじゃねぇか、と言われる。さすがに幼馴染は私の演技プランは通用せず、全てお見通しである。父親が亡くなり個展に来られなかった友人にパンフレットを見せた。   ようやくイメージした程度のことはしばらくすると目の前に現れるようになったが、小学校低学年の頃は眼高手低にも程があり、学芸会のたび、二人で考えた事はことごとく企画倒れになった。彼の家の台所で新聞紙を煮て紙粘土を作ろうとして失敗。多くは材料の面で挫折した。そのくだらなさを思い出しては腹を抱えて笑うのだが、彼には『寒山拾得展』がいかにあの頃同様の、私らしいニュアンス満載だということが判ったはずである。思えばイメージしたことが目の前に現れるようになるには膨大な時間がかかった。そうと知っていたら絶対出来なかったろう。何とか展などとテーマ立てするから寒山拾得の隣に葛飾北斎があっては変だ、となるので、あの頃のように、その時一番やりたいことをハジから作って行き、作り残しのないようにしたいものである。



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考えるな感じろばかりでなく、少しは考えるべきである。暮れから正月にかけ、独身のダラダラ飲酒生活で鍋ばかりだが、鍋で煮た具を小鍋に移してから味付けするべきだと、ようやく気付いた。そうすればおでんだシチューだカレーだ、と日によってアレンジ出来る、とカレー粉を投入して気付いた。制作においては頭は使わなければ使わないほど良い方向に向かうが、生活においては多少は使うべきであろう。 小ぶりなお銚子にお猪口でチビチビ、というのは風情もあり良いものだが、昔から疑問なのは、あんな小さな猪口では忙しくて話にならないだろう。と工芸学校の卒業制作が二升徳利だった私は思う。巨乳の女子が可愛い下着が無いのを嘆くようなものかもしれない。ところがそれに関しては、秘策を得ていた。飲み会の場で、誰だったかある関取が、お猪口でウォッカを飲んでいた、というのを以前ネットで知った。   今年は多少なりとも、重くてただ肩こりの原因にしかならない頭を使って行きたい。



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二日  


私のようなタイプの常で、興味があることとないことでは極端である。常に通信簿に書かれ続けていたし、母はその極端な所を、どこかなおかしいのではないか、と心配した。私からすれば、興味のないものに関心を向けたり学んだりすることは、まったく無駄な事だと生まれつき知っていたが。 直接言われた訳ではないけれど、母は、治らないなら、せめてそれを顔や態度に出すな、と私に伝えたと思う。 幼い頃、どこかの王様に石の塔に幽閉され、算数、宿題しなくて良いから、ここで一生好きなことをやっておれ、なんてことを夢見たものだが、コロナ禍に乗じ、まるで王様に幽閉されているかの調子で、むしろ罪悪感を感じることなく三島由紀夫へのオマージュ、寒山拾得展と続き40周年を迎えた。当ブログは、制作に関した事だけを書いているように見えて(るかどうか判らないが)出て来ないことは殆ど興味がないと言っても良い。 日本で独学者が好きなことを続けるのに、母の教えが必要だったのは不幸な事だと思うが、こうして正月早々、九代目團十郎で陰影深い仁木弾正を、なんて考えていられているのは何よりであろう。



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