明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日、佐野史郎さんに私の『ゲンセンカンの女』にサインをいただいている時、あることを思い出した。 『月刊ガロ』はたまたま書店で立ち読みして『カムイ伝』のハレンチ学園』と次元の違うくノ一のエロい場面をきっかけに、おそらく67、8年辺りから小学生の分際でガロ誌上の名作漫画を目にすることになった。好きだったのは、つげ義春と佐々木マキ。特に『ゲンセンカン主人』は土俗的エロティシズムに圧倒された。深夜聾唖者である女将が浴場内で拝んでいるのを見て、客である男は襲いかかる。抵抗する女将、男があるハンドサインを示すと、女将は抵抗をやめ指で壁に〝へやで“。私が制作したのは、部屋で女が男を待つシーンである。 思い出したというのは、佐野さんも映画内でやっていたであろうハンドサインを、小学生の私は母の面前に、これって何?と突き出したことである。



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『写楽』を観る。人物をリアリズムで描いて疎まれ消えた男。私も気を付けよう?続いて出演者の佐野史郎さんのトーク。小津安二郎はシュールレアリズムに納得。今はなき銀座並木座で小津作品を観たそうだが、私は高校生の時、並木座で『東京物語』が耐えられずに退出した。終演後楽屋にお邪魔し拙著『乱歩 夜の夢こそまこと』『Objectglass12』『貝の穴に河童の居る事』をお持ちする。佐野さんが参加した阿佐ヶ谷のジャズバーの自主制作盤CDの『ASAGAYA FRIENSE』のジャケット写真を制作したことがある。   トーク。小津組の撮影監督であった兼松熈太郎さん。最後の小津組スタッフ。「誰もいないから何いってもわからない。」貴重なお話。『彼岸花』を観る。ホームドラマの中に、赤い薬缶他、異常性横溢。桜むつこが冨永愛に激似。

 

 

 



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写真において、一番偉いのは写真家ではなく被写体である。と考えている。その被写体も私が作っている訳だが、一休和尚は単に制作上のモチーフというだけでなく、作る私に問い掛けて来る。それは予想通りで、手法を変えると以降それで通すべきだ、と融通の効かない私に〝細かいことは気にするな“と。 思えば三遊亭圓朝に寄席から漏れる灯りや、『ゲンセンカンの女』の半裸の女に行燈の光を当てる誘惑と戦ったり葛藤をして来たが、何をやろうと私が作ったものである。これからは鎌倉、室町の人物に存在しなかった陰影(立体感)を与えるぞ、と。 ただ一つ問題が生じた。何かある場合に備え、先の制作予定を立てず、せいぜい3体まで、という途中挫折を最小に抑える策が、ここに来てご破算になってしまった。その策を立てさせた原因も一休和尚だったのだが。



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建長寺には蘭渓道隆の径行像という立ち姿が残されている。明らかに生前描かれた国宝の頂相を元に描かれている。つまりあれが実像だ、という私と想いは同じである。そこで私が制作するとこうなる、という意味でも径行像で行くことにした。鎌倉時代の人物に陰影がある。つまり立体感を伴っている。それでもう充分である。 石塚式ピクトリアリズムだ私の大リーグボール3号だ、と散々はしゃいでいた私であるが、10年あまりの間の話であり、写真から陰影を排除した自由は充分味わった。そもそもそれまで人物像を使って“夜の夢こそまこと”などと言いながら、嘘ばかり描いて来た訳で、それを鎌倉や室町時代を舞台に観て来たような顔をして制作するだけの話である。 それに陰影のない3号を止める訳ではない。『巨人の星』を観ながら、一人に打たれただけなら大リーグボールを使い分ければ良いのに、と小学生の私は思った。



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今月に入って〝一休はモチーフとして今までの誰とも違うところがあり、いずれ何かをもたらすだろう。私の勘がそういっている“と書いたばかりである。問われるけれど受け入れる。とでもいえば良いのか。そう思いながら一休に陰影を与えた。 写真に浮世絵やかつての日本画の自由を取り入れるため陰影を排除し〝石塚式ピクトリアリズム“私の大リーグボール3号だ。などといっていた。確かに自由を得た。特に構図に関してはやりたい放題といって良い。しかし現在のモチーフ、鎌倉や室町時代の人物にとって陰影がないのが当たり前である。ならばむしろこれら仏教美術の中の人々に,逆に陰影を与えるべきではないのか?と一級和尚がいうのである。この期に及んで何を。と一日何も手に付かず。
 
 
 

 



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日本人は陰影を描いてこなかったので、当然仏教絵画にも陰影はない。であれば私の現在の手法はごく当たり前である。今度は逆に陰影を与えられたことのない時代の人物に陰影を与えるべきではないのか?一休を手掛けることにより、何かが起きることは予想していた。 陶芸をやっていた二十代。4キロ四方人が住まない廃村に先輩と3人で暮らしたことがある。ある日粘土の仕入れに2人は出かけた。残るは私と犬1匹。ところが予定を過ぎても2人は帰って来ない。若い陶芸家の連中と楽しくやっていたのだろう。言われた仕事は全て済ませ、やることもない。ごくたまに山菜採りか猟銃を持った人が上がってくるぐらいなので、全裸で地べたに寝転がって犬と日向ぼっこをしていて、フト思った。生まれてから肛門に太陽光が当たったことないな?。人間ヒマだとロクなことを考えない。 食料も尽きた頃、おそらくバツが悪かったのだろう、知り合いの陶芸家から2人は明日帰ると言ってると電話があった。



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大覚禅師こと蘭渓道隆は全部で3点おおよそ完成している。しかしどうもモソモソする。昼食をとりながら原因に気付く。そもそも陰影を排除したのは浮世絵、かつての日本画の自由を写真作品に取り入れるためである。おかげで構図は自由自在、そうでなければ寒山拾得など手掛けなかった。だがしかし、枝葉をのばし日本人が陰影を描かなかった時代の人物を制作してみると、それは逆にごく当たり前である。であれば一点ぐらい七百数十年前の禅師に、あえて陰影を与えてみるのはどうか?そんな物は存在しない。という訳で、蘭渓道隆師に陰影を与えた作品を制作することに。せっかくだから地球上で初めて発音されるであろう言い方をしてみる。〝大覚禅師の写真を屋外で撮ってみよう”



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『蘭渓道隆天童山坐禅図』すっかり完成した気でいた.これは唯一縦長で、長辺2メートル超の予定だが、そもそも天童山というのは中国の栄西や道元も修行したといわられ、蘭渓道隆来日前の坐禅図という設定である。岩山の全てを手に乗るサイズの石で作った。松の木は盆栽である。なのに滝だけは以前撮影した実際の滝である。それで良いのか? 頭に浮かんだイメージを、眉間にレンズを当てる〝念写が理想”なのであって本物とみまごう物を作ろうというのではない。なので主役の人物のディテールは一貫して粘土丸出しである。不必要なことはしない。長い間、真を写すという写真に抗い続けて来た。97年作家シリーズ第一回の個展タイトル『夜の夢こそまこと』は宣言だったはずである。

(部分)

 



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ヤフオクで模造刀落札。三島由紀夫制作のために関の孫六の模造刀を持っていたが、三島以外に使い道はないだろう、と引越しの際捨てて来た。一回目の三島由紀夫へのオマージュ展の時、個展会場を探していた時、ある会場を知人から紹介された。ただ会場の担当者がおらず、全て自分でやらねばならない。これは無理だと思っていたら、そこの先代社長が事件に使われた関の孫六を三島に進呈した人物だったことを知る。こんな偶然は良く起きるが、これは格別と決めたが、何をやっても良いが、三島だけはやめてくれ、と。事件当時、孫六が使われたことに「残念だ」との発言が、名誉なことを残念とは何事だ.」当時右翼の抗議が殺到したらしい。事件直前に『右翼の奴ら今に見ていろ』と三島が発言していたことが理解出来ない、三島に便乗しただけの輩は多かった。 一休は朱塗りの竹光の大太刀を〝役立たず“の象徴として堺の街を持ち歩き、当時の僧侶を皮肉った。



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当初の目標が一休禅師のカットで達したので、部屋の片付けとギターの修理。   中学生の時、親戚の納屋に打ち捨てられていたのをもらって来た60年代の国産ビザールギターで、愛着が拭えず、同じ機種を再び入手し使っている。YouTubeで目にするB、C級ブルースマンやアフリカのミュージシャンが手にするかつての日本製安ギターが実に格好良く見える。音もまた個性的である。 一番好きなことを仕事にし、2番目を趣味とする。別のいい方をすれば、長時間やっていて苦にならないことを仕事にし、2番目を趣味とする。ギターは30分も弾いていればやることはなくなる。おかげで不可解で奇妙なくらい上達しないままである。もう一つ加えるなら、思い通りに行かず途中挫折に終わろうと、まったく苦にならないことを趣味にするのが良い。



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新作の一休は陰影があるが、それは『半僧坊荒海祈祷図』以来である。半僧坊は、東シナ海に轟く雷鳴を表現したかったし、何より人間ではない。これは旅に出たり手術をする友人に、ご利益があるからと勧め、私も待ち受けにしている。 人間では一休が久しぶりであるが、そんなきっかけにも一休が貢献してくれると考えている。男の種々相を描くために手法の選択を広げておきたいという思いもあるか。特に和尚の顔は凹凸に富み陰影による演出のしがいがあるし、今から〝房事“での灯を想定して、といえなくもない。行燈のあかりを当てる当てないで悩んだ『ゲンセンカンの女』を思い出す。房事を描いて品を保つためには主役をなかなか見せずに恐怖を演出したジョーズ方式が適切ではないか、と今は考えているのだが。



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一休和尚の〝門松は〜めでたくもありめでたくもなし。これによって、生きるほど冥土に近付いてしまうことを知り、結果常に何か作りたい物がある私は、死ぬ時に途中挫折に苦しむことになるだろうことを、恐れ続ける原因となった。こちらは無自覚だったが、めでたいけどめでたくない。物事一面的ではない。に関しては自覚しており、むしろ小学生の私に客観性をもたらせたろう。こちらの影響は大きかった気がする。       一休はモチーフとして今までの誰とも違うところがあり、いずれ何かをもたらすだろう。私の勘がそういっている。おいおい判って来るだろうから、今から頭を悩ませる必要はない。



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一休和尚完成。今後一休とはしばらく付き合うことになりそうで、今回もそうだが、陰影有りのバージョンも制作しようと考えている。一度作品から陰影を排除と決めると〝そうであらねばならぬ“と妙に頑なところがあるので、そんなところを打開するにも、和尚が一役買ってくれるような、制作する対象に対してそう思うなど、今まで作ってきた人物とは趣が違う。 鍵っ子だった私に、生きるほど冥土に近付くという、逃れようがないことを教え、自分では全く気が付かなかったが、プレッシャーを受け続けることになった。ここで再会したのも縁である。

 



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昨日より街中でシャレコウベを掲げた雲水姿の一生を作成。まさに小四の私の頭に浮かんだ一休である。鍵っ子だった私が一人読み耽った姿が蘇る。違うといえば、この晩、掲げたシャレコウベ を枕に酔い潰れる『一休和尚酔臥図』を2年前に先に制作したが、その際酒器である瓢箪 を転がしておいたので、それを肩に乗せている。 水上勉の『一休』によると、一休はわざわざ墓場からシャレコウベを持って来たらしい。乱世の世の中、そこら辺を掘ればいくらでも出て来たかもしれないけど。 盲目の美女森女は女芸人である。傍に鼓を配したいが、今回もヤフオクと思ったが、出来れば埃じみた物でなく、良い物を使いたい。撮影させてくそうな人を思い出した。



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それにしても一休の顔が、非常に個性的な顔だというのが何よりで、よく左卜全で映画化されなかったものである。様々な場面で様々な表情を見せてくれるだろう。ここが立体像の被写体としての面白さである。しかし室生犀星みたいな顔ではそうは行かないが、犀星や乱歩のように表情が乏しければ、それはそれで何をやらせてもじっとしてるので、それに乗じてやりたい放題である。写真は無い物は撮れないので、被写体が一番偉いと思っているが、自分で作っているので遠慮はない。



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