まずは Gooニュースから
国母パパ「次の五輪出る資格なし」
2010年2月19日(金)08:00
バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ(17日=日本時間18日、サイプレスマウンテン)“腰パン騒動”に端を発した男子ハーフパイプの国母和宏(21)=東海大=の言動は、さらなる波紋を広げた。日本から応援に駆けつけた国母の両親や妻は、周囲に何度も頭を下げ、謝罪の言葉を口にするなど、痛々しい様子。「父母参観」と表現して駆けつけた日本選手団・橋本聖子団長(45)は「精いっぱいやってくれた」とねぎらいながらも、今後処分などについて日本スキー連盟(SAJ)と話し合いを持つ方針だ。
耳をつんざく歓声の中、深いため息がもれた。国母の妻・智恵さん(24)らと一緒に、「KAZU」と書いたうちわを手に競技を見守った父・芳計(よしかず)さん(51)は、息子の演技を見届けると、目頭を押さえた。
「(応援に来るのは)迷いました。でも、これが最後だと思って。(息子)本人がやったことですが、(家族)みんな精神的に苦しかった。次の五輪は無理でしょう。いろんな方の意見を聞く限り、その資格はありません」
あえて非情に、息子に五輪引退を勧告した。9日、成田出発時の公式服装の乱れに端を発した“腰パン問題”。日本中の注目を集め、多くの批判と怒りを買った。五輪という晴れ舞台を見終えた今、芳計さんは息子に男のけじめを求めた。
二人三脚で来た競技人生だった。芳計さんがスノーボードをしていた影響で、息子は4歳で競技を始めた。しかし、「やりたい」と言ってきた息子に、簡単にやらせることはしなかった。飽きてすぐにやめてしまえば、意味がないから。鋼の意志ではじめた息子につきっきりで指導し、技を磨いた。父は厳しさで愛情を示してきた分、今回の騒動に心が痛む。
「迷惑をかけました。本人に代わって謝りたいです。今後については本人としっかり話し合いたいと思います」。母・由香里さん(44)も、ひたすら頭を下げた。非難され、目標だったメダルも逃した息子を本当の意味で助けられるのは、家族のみ。約10人の親族応援団の帰路につく足取りはあまりに重かった。
今回の国母選手の問題は、くずした服そのものより、インタビューでの「ちぇ!うるせーな」が騒動の火付けになったと僕は思っています。
オリンピックでの演技を見させてもらいましたが、あらゆる憂さ(重圧、批判)を跳ね返さんばかりの全力トライ、しかし失敗、でも二回目も全力で挑戦。
出来る限り余計な先入観を廃しながらビデオを見た僕ですが、そこには彼なりの主張(哲学)を感じました。
結果はふるわなかったものの、競技直後の彼の言葉には突っ張ることも、強がりも嘘もなかったと思います。
冒頭に上げた記事には、次回のオリンピックに関して多少なりとも記載がありますが、
“次回のオリンピック出場を断念することはどうなのか?” と僕は思っています。
若い時はとにかく自信もあるし、突っ張っているものですが、そうした背景からの過ちというものは後の人生でいくらでも訂正出来るもの。
僕自身、彼に厳しい書き方をしていますがその理由は、若者が過ちをした際に、まわりにいる多くの人たちがその過ちの程度に応じて厳しい姿勢をきちんと取る?ということが、若者に多くを学ばせる事になるからです。
もちろんこんなブログで僕が某かを書いたところで彼に届くはずもなく、すぐに埋もれて無くなってしまうわけですが、若い時分における一人の人間と、それを取り囲む親や社会の在り方について、教育研究をしている立場から少しだけ書かせていただきます。
若者がいろいろ摩擦を起こすのは古今東西多々あることで、けして珍しいことではありません。
そうした事に対して、常に必要なのは厳しさですが、それは当人にとって(そのとき)は大変な心の負担になるものの、人間性の成長という面においては飛躍的な成長をもたらす特効薬のような役割を持ちます。
よく、厳しくすることは強制であり、個性を捻じ曲げ無理やり上の者が思い通りするための、いわゆる暴力と同じだ、という言葉を聞くことがあります。
ところが人間そのものは、動物そのものでもあり、他の動物と全く同じに本能を中心とした行動を基本にしつつ、その上に幼いころより染みこませてきた社会常識を載せて生きるという、あくまでも人が作り上げた文明の中で育ち老いていくわけです。
これは一般的認識でいうところの常識ですが、それをさらに補足する常識として他に言葉を話すこと、文字を書く事、歴史を学ぶ事等々もあり、これらすべては過去の人間たちが構築してきた常識そのもので、
それは常に社会生活を営む上における現在の常識に融合され、本人のもつ固有の常識として固定化されます。
学校教育はすべて先人の残した常識の集大成であり、人はそれを学びながら同時に親の世代がもっている一般常識を授けられつつ成長するということでもあるのです。
ゆえに所属する社会が異なれば当然に違いが出るのはあたりまえで、しかしながら1+1=2というように共通普遍のものがそこに有り、人を愛する気持ちも同じように社会の枠をこえて人類に共通という大原則があります。
こうした広い常識は月日の流れのもとで少しずつ変化を遂げてつつ変化し、
そして今、みな現在という社会常識の中で生活をしており、当然に国母選手も人生を歩んでいる。
すこし分かりづらくなってしまいましたね (^^;)
今回問題とされた?彼の服装も、少し後の時代では何ら問題にならないのだと思いますが、流れの先端?は現在においての一般常識に適合(安定しない)しないから大抵は問題となるわけですが、
常識の変化は、特殊な場合を除いて常に若い世代からおこり、やがてはその世代が社会常識となり、ところがすぐその下のさらに若い世代がまた変革をおこし、そのころにはもとの世代は自分たちの常識を保守するようになります。
この理由は、学者連中がどうのとか口にするほど難しいものではなく、至極簡単であり、本能のもたらす共通認識が社会的安定性(生存環境の安定性)を常に求めるというのが答えです。
変革も本能、現状の安定を求めるのも本能という、きわめて不安定な狭間に若者達はいるわけで、それが強烈な自己主張や突っ張る姿勢となる。
その世代なりの安定する場所を構築しているという方が解かりやすいかもしれません。
ただ、一見頑固に見える古い常識も自然環境が刻々と変化するのと同じように、世代の変化は常に起きており、年上の人間は下の人間の起こす変化に有る程度の許容を設けつつ、社会的不安定を生じさせない範囲で変化も促していくようにも出来ており。
服の問題は常識を視点に置くと半分正解で半分間違いということで、100%正しい答えはないかと思いますが、以前も書いた礼(正しく相手を評価する)という人間性を基準とした視点に立つと、批判されてしかるべきなのですね。
さてこれに関しての問題?ですが、
それは前述の常識とは異なって、人間性というものは年齢に縛られることなく何歳になっても停滞させることなく育て上げていかねばならない、という点に大きな違いがあります。
育てるには社会が担っている部分と本人の意思がよる部分がありますが、それが無ければ全ての人は幼児程度の思考で停止し、それがどんな恐ろしい物であるかということはどなたでも簡単にお分かりになられるかと思います。
社会が担う部分としての教育として代表的なのは親ですが、力を入れて育てねばならない事の一つに慢心の抑制があり、これは同時に社会全体の若者に対する姿勢としても重要なものでもあります。
故にそれが備わった大人であるからこそ、子育てができるのです。
子供の子供を育てられない理由がここにもあります。
人は何かに秀でたり、他者の上に立つとかならず慢心が起こり心の成長が止まります。
その慢心を、自分の力で取り払う力をつけさせる事は若い時ほどやすく、しかしながら年齢が増すほど人間性として固定化されていくことから取り払うのが非常に難しくなります。
ゆえに幼少期から反抗期前までの子育てにおける”きちんと叱る”という親の教育は大切なのですね。
こうしたことに反するように耳にする(冒頭に書いた)、
厳しくすることは強制であり、個性を捻じ曲げ無理やり上の者が思い通りするための、いわゆる暴力と同じだ、
という理論は、そのままの人物を認めるだけにとどまり、それ以降の成長というものがありません。
簡単に言うなら、相手がどんなであろうが、それにより心が成長せずとも「それがその人間なのだからかまわない」という、人と人のつながり(社会という存在)を極めて軽視し、人間どうしをバラバラの存在として切り離したうえで、全体という概念から導き出される社会という存在を無視した考え方です。
“強制”という言葉は、他人の心をそういった方向でしか理解しようとしない、もしくは理解できない、という極めて幼稚な思考であり、
“個性をねじ曲げ”は相手のもつ問題点をその人間自身、または周りの者達が解決しようとせず(しようとすらしない)、言葉のトリックにより肯定(ごまかし)することで、そこに何らの進歩はありません。
“無理やり”や”思い通りにする”は人の意見など受けれない自己中心思考でしか物事を考えない時に起こりやすい思考で、自己に対する肯定が強く、被害者妄想的な思考をもつとこうした考え方になります。
自分の考えが一番だと慢心している自分の心を基にして、人の言葉は過ちだと決め付ける態度を逆に相手へ強制しているわけです。
一見、厳しい言葉を受ける者の心を保護して優しく思えてしまうこうした考え方は、自分には落ち度がないという考えと”他人の事など知らん”という相乗姿勢であり、これを当人の為にと向ける事ほど、迷惑な事は無いかと思いますが、皆さんはどう思われますか?
残念ながら他人にそうした感覚を持たない僕はさらに言葉を続けます。
叱られること(人の本能がもつ生きる力もが引き出され)、それが本人に慢心を気づかせ、心の葛藤を通して否定を肯定にするために働く原動力となる、いうなればまだ人間として成長可能な者はそこに自分の力で問題点を見出し、自身の進歩のために行動でき、
だから努力も出来る・・・
話は少し飛びますが、ほめて育てる教育、叱らない教育は、この慢心に乗じる極めて薄汚い教育法なので犬等の下等生物なら非常に優れた効果を上げます、
ところが、これによって成長した子は犬のレベルを超えられず、人間らしい慢心が崩れたところから自らを振り替えり自分を再構築する、という高度な術を学ばずに育ちます。
慢心でそだった場合の特徴は非常にプライドが高く、わがままで、特に自分を否定されると激昂して感情を抑えられないという特徴を持ち、
いわゆる、切れると抑制の利かない人間になるか、自分の慢心を崩されるのに恐怖を覚えて引きこもるという逃避行動の、たいていどちらかとなる事が多い。
慢心が極限まで成長していますから他者を認めず(認める力すらない)、人の輪に溶け込む事が難しいうえに弱者を見下すのが決定的特徴で、
当然ながら自分より力の有る者の存在を認める力が乏しい(慢心が許さない)事から、そうした相手を否定できる口実を見つけ出して(重箱の隅をつつく様に)は冷徹なまでの嫌がらせ(いじめに姿を似せて起こす事が多い)をしたり、それが出来ない場合として最悪のなのは湧きだす感情に押し流されて刃物を振り回すなどするわけです。
その証拠に引きこもりの増加と、極めて自分勝手な理屈で大量殺人を起こす事件は、ほめて育てるという教育理論の広がりと完全にシンクロしながら広がってきました。
今の日本は、年齢にそぐわない幼い人間性しか持たない多くの若者が、慢心した感情をまともに抑制することのできない国へと変貌を遂げてしまいましたが、この辺の話は長くなるのでまた今度にします。
さて、叱らない教育、ほめて育てる教育からすれば、今回の問題行為をオリンピックと切り離したうえで事をうやむやにした挙句、これまたおかしな理屈(表現だ個性だと)をつけて褒めることで本人をただそうとするわけですが、
「褒めたところで彼はこの先成長することができるでしょうか?」
すぐれた運動能力とセンスを持つがゆえに誰も叱れない状況になっていたであろうことは想像に難くなく、それが故に今回の「ちぇ!うるせーな」が巻き起こした今回の批判は彼に多くをもたらしてくれる事と僕は思っています。
国母選手に必要なのは、自分の取る行動が自分をとりまく多くの人達にどういった思いを巻き起こしているのか、それにより人の心はどう動くのか?ということを、身をもって学ぶことが大切で、それは若い彼にとってはきわめて苦痛を要求されるもので激しい痛みを伴うものだろうし、認めたくはないだろうけれど、
その先にはひとつ成長した彼の姿があり、次のオリンピックで表彰台に立つ姿であろうとおもいます。
余りにも恵まれた天分は幼いころから彼に賞賛の言葉しかもたらさなかっただろうし、親でさえ成果=人間性 と勘違いしてしまう事は多々ある。
今回の騒動は彼が成長するための良薬となってくれたと思う、人は慢心が無くなった人間を人格者というのだから・・・・
写真は、普段高い空を飛んでいる鳶が、珍しく地面を歩いているシーンです。
国母パパ「次の五輪出る資格なし」
2010年2月19日(金)08:00
バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ(17日=日本時間18日、サイプレスマウンテン)“腰パン騒動”に端を発した男子ハーフパイプの国母和宏(21)=東海大=の言動は、さらなる波紋を広げた。日本から応援に駆けつけた国母の両親や妻は、周囲に何度も頭を下げ、謝罪の言葉を口にするなど、痛々しい様子。「父母参観」と表現して駆けつけた日本選手団・橋本聖子団長(45)は「精いっぱいやってくれた」とねぎらいながらも、今後処分などについて日本スキー連盟(SAJ)と話し合いを持つ方針だ。
耳をつんざく歓声の中、深いため息がもれた。国母の妻・智恵さん(24)らと一緒に、「KAZU」と書いたうちわを手に競技を見守った父・芳計(よしかず)さん(51)は、息子の演技を見届けると、目頭を押さえた。
「(応援に来るのは)迷いました。でも、これが最後だと思って。(息子)本人がやったことですが、(家族)みんな精神的に苦しかった。次の五輪は無理でしょう。いろんな方の意見を聞く限り、その資格はありません」
あえて非情に、息子に五輪引退を勧告した。9日、成田出発時の公式服装の乱れに端を発した“腰パン問題”。日本中の注目を集め、多くの批判と怒りを買った。五輪という晴れ舞台を見終えた今、芳計さんは息子に男のけじめを求めた。
二人三脚で来た競技人生だった。芳計さんがスノーボードをしていた影響で、息子は4歳で競技を始めた。しかし、「やりたい」と言ってきた息子に、簡単にやらせることはしなかった。飽きてすぐにやめてしまえば、意味がないから。鋼の意志ではじめた息子につきっきりで指導し、技を磨いた。父は厳しさで愛情を示してきた分、今回の騒動に心が痛む。
「迷惑をかけました。本人に代わって謝りたいです。今後については本人としっかり話し合いたいと思います」。母・由香里さん(44)も、ひたすら頭を下げた。非難され、目標だったメダルも逃した息子を本当の意味で助けられるのは、家族のみ。約10人の親族応援団の帰路につく足取りはあまりに重かった。
今回の国母選手の問題は、くずした服そのものより、インタビューでの「ちぇ!うるせーな」が騒動の火付けになったと僕は思っています。
オリンピックでの演技を見させてもらいましたが、あらゆる憂さ(重圧、批判)を跳ね返さんばかりの全力トライ、しかし失敗、でも二回目も全力で挑戦。
出来る限り余計な先入観を廃しながらビデオを見た僕ですが、そこには彼なりの主張(哲学)を感じました。
結果はふるわなかったものの、競技直後の彼の言葉には突っ張ることも、強がりも嘘もなかったと思います。
冒頭に上げた記事には、次回のオリンピックに関して多少なりとも記載がありますが、
“次回のオリンピック出場を断念することはどうなのか?” と僕は思っています。
若い時はとにかく自信もあるし、突っ張っているものですが、そうした背景からの過ちというものは後の人生でいくらでも訂正出来るもの。
僕自身、彼に厳しい書き方をしていますがその理由は、若者が過ちをした際に、まわりにいる多くの人たちがその過ちの程度に応じて厳しい姿勢をきちんと取る?ということが、若者に多くを学ばせる事になるからです。
もちろんこんなブログで僕が某かを書いたところで彼に届くはずもなく、すぐに埋もれて無くなってしまうわけですが、若い時分における一人の人間と、それを取り囲む親や社会の在り方について、教育研究をしている立場から少しだけ書かせていただきます。
若者がいろいろ摩擦を起こすのは古今東西多々あることで、けして珍しいことではありません。
そうした事に対して、常に必要なのは厳しさですが、それは当人にとって(そのとき)は大変な心の負担になるものの、人間性の成長という面においては飛躍的な成長をもたらす特効薬のような役割を持ちます。
よく、厳しくすることは強制であり、個性を捻じ曲げ無理やり上の者が思い通りするための、いわゆる暴力と同じだ、という言葉を聞くことがあります。
ところが人間そのものは、動物そのものでもあり、他の動物と全く同じに本能を中心とした行動を基本にしつつ、その上に幼いころより染みこませてきた社会常識を載せて生きるという、あくまでも人が作り上げた文明の中で育ち老いていくわけです。
これは一般的認識でいうところの常識ですが、それをさらに補足する常識として他に言葉を話すこと、文字を書く事、歴史を学ぶ事等々もあり、これらすべては過去の人間たちが構築してきた常識そのもので、
それは常に社会生活を営む上における現在の常識に融合され、本人のもつ固有の常識として固定化されます。
学校教育はすべて先人の残した常識の集大成であり、人はそれを学びながら同時に親の世代がもっている一般常識を授けられつつ成長するということでもあるのです。
ゆえに所属する社会が異なれば当然に違いが出るのはあたりまえで、しかしながら1+1=2というように共通普遍のものがそこに有り、人を愛する気持ちも同じように社会の枠をこえて人類に共通という大原則があります。
こうした広い常識は月日の流れのもとで少しずつ変化を遂げてつつ変化し、
そして今、みな現在という社会常識の中で生活をしており、当然に国母選手も人生を歩んでいる。
すこし分かりづらくなってしまいましたね (^^;)
今回問題とされた?彼の服装も、少し後の時代では何ら問題にならないのだと思いますが、流れの先端?は現在においての一般常識に適合(安定しない)しないから大抵は問題となるわけですが、
常識の変化は、特殊な場合を除いて常に若い世代からおこり、やがてはその世代が社会常識となり、ところがすぐその下のさらに若い世代がまた変革をおこし、そのころにはもとの世代は自分たちの常識を保守するようになります。
この理由は、学者連中がどうのとか口にするほど難しいものではなく、至極簡単であり、本能のもたらす共通認識が社会的安定性(生存環境の安定性)を常に求めるというのが答えです。
変革も本能、現状の安定を求めるのも本能という、きわめて不安定な狭間に若者達はいるわけで、それが強烈な自己主張や突っ張る姿勢となる。
その世代なりの安定する場所を構築しているという方が解かりやすいかもしれません。
ただ、一見頑固に見える古い常識も自然環境が刻々と変化するのと同じように、世代の変化は常に起きており、年上の人間は下の人間の起こす変化に有る程度の許容を設けつつ、社会的不安定を生じさせない範囲で変化も促していくようにも出来ており。
服の問題は常識を視点に置くと半分正解で半分間違いということで、100%正しい答えはないかと思いますが、以前も書いた礼(正しく相手を評価する)という人間性を基準とした視点に立つと、批判されてしかるべきなのですね。
さてこれに関しての問題?ですが、
それは前述の常識とは異なって、人間性というものは年齢に縛られることなく何歳になっても停滞させることなく育て上げていかねばならない、という点に大きな違いがあります。
育てるには社会が担っている部分と本人の意思がよる部分がありますが、それが無ければ全ての人は幼児程度の思考で停止し、それがどんな恐ろしい物であるかということはどなたでも簡単にお分かりになられるかと思います。
社会が担う部分としての教育として代表的なのは親ですが、力を入れて育てねばならない事の一つに慢心の抑制があり、これは同時に社会全体の若者に対する姿勢としても重要なものでもあります。
故にそれが備わった大人であるからこそ、子育てができるのです。
子供の子供を育てられない理由がここにもあります。
人は何かに秀でたり、他者の上に立つとかならず慢心が起こり心の成長が止まります。
その慢心を、自分の力で取り払う力をつけさせる事は若い時ほどやすく、しかしながら年齢が増すほど人間性として固定化されていくことから取り払うのが非常に難しくなります。
ゆえに幼少期から反抗期前までの子育てにおける”きちんと叱る”という親の教育は大切なのですね。
こうしたことに反するように耳にする(冒頭に書いた)、
厳しくすることは強制であり、個性を捻じ曲げ無理やり上の者が思い通りするための、いわゆる暴力と同じだ、
という理論は、そのままの人物を認めるだけにとどまり、それ以降の成長というものがありません。
簡単に言うなら、相手がどんなであろうが、それにより心が成長せずとも「それがその人間なのだからかまわない」という、人と人のつながり(社会という存在)を極めて軽視し、人間どうしをバラバラの存在として切り離したうえで、全体という概念から導き出される社会という存在を無視した考え方です。
“強制”という言葉は、他人の心をそういった方向でしか理解しようとしない、もしくは理解できない、という極めて幼稚な思考であり、
“個性をねじ曲げ”は相手のもつ問題点をその人間自身、または周りの者達が解決しようとせず(しようとすらしない)、言葉のトリックにより肯定(ごまかし)することで、そこに何らの進歩はありません。
“無理やり”や”思い通りにする”は人の意見など受けれない自己中心思考でしか物事を考えない時に起こりやすい思考で、自己に対する肯定が強く、被害者妄想的な思考をもつとこうした考え方になります。
自分の考えが一番だと慢心している自分の心を基にして、人の言葉は過ちだと決め付ける態度を逆に相手へ強制しているわけです。
一見、厳しい言葉を受ける者の心を保護して優しく思えてしまうこうした考え方は、自分には落ち度がないという考えと”他人の事など知らん”という相乗姿勢であり、これを当人の為にと向ける事ほど、迷惑な事は無いかと思いますが、皆さんはどう思われますか?
残念ながら他人にそうした感覚を持たない僕はさらに言葉を続けます。
叱られること(人の本能がもつ生きる力もが引き出され)、それが本人に慢心を気づかせ、心の葛藤を通して否定を肯定にするために働く原動力となる、いうなればまだ人間として成長可能な者はそこに自分の力で問題点を見出し、自身の進歩のために行動でき、
だから努力も出来る・・・
話は少し飛びますが、ほめて育てる教育、叱らない教育は、この慢心に乗じる極めて薄汚い教育法なので犬等の下等生物なら非常に優れた効果を上げます、
ところが、これによって成長した子は犬のレベルを超えられず、人間らしい慢心が崩れたところから自らを振り替えり自分を再構築する、という高度な術を学ばずに育ちます。
慢心でそだった場合の特徴は非常にプライドが高く、わがままで、特に自分を否定されると激昂して感情を抑えられないという特徴を持ち、
いわゆる、切れると抑制の利かない人間になるか、自分の慢心を崩されるのに恐怖を覚えて引きこもるという逃避行動の、たいていどちらかとなる事が多い。
慢心が極限まで成長していますから他者を認めず(認める力すらない)、人の輪に溶け込む事が難しいうえに弱者を見下すのが決定的特徴で、
当然ながら自分より力の有る者の存在を認める力が乏しい(慢心が許さない)事から、そうした相手を否定できる口実を見つけ出して(重箱の隅をつつく様に)は冷徹なまでの嫌がらせ(いじめに姿を似せて起こす事が多い)をしたり、それが出来ない場合として最悪のなのは湧きだす感情に押し流されて刃物を振り回すなどするわけです。
その証拠に引きこもりの増加と、極めて自分勝手な理屈で大量殺人を起こす事件は、ほめて育てるという教育理論の広がりと完全にシンクロしながら広がってきました。
今の日本は、年齢にそぐわない幼い人間性しか持たない多くの若者が、慢心した感情をまともに抑制することのできない国へと変貌を遂げてしまいましたが、この辺の話は長くなるのでまた今度にします。
さて、叱らない教育、ほめて育てる教育からすれば、今回の問題行為をオリンピックと切り離したうえで事をうやむやにした挙句、これまたおかしな理屈(表現だ個性だと)をつけて褒めることで本人をただそうとするわけですが、
「褒めたところで彼はこの先成長することができるでしょうか?」
すぐれた運動能力とセンスを持つがゆえに誰も叱れない状況になっていたであろうことは想像に難くなく、それが故に今回の「ちぇ!うるせーな」が巻き起こした今回の批判は彼に多くをもたらしてくれる事と僕は思っています。
国母選手に必要なのは、自分の取る行動が自分をとりまく多くの人達にどういった思いを巻き起こしているのか、それにより人の心はどう動くのか?ということを、身をもって学ぶことが大切で、それは若い彼にとってはきわめて苦痛を要求されるもので激しい痛みを伴うものだろうし、認めたくはないだろうけれど、
その先にはひとつ成長した彼の姿があり、次のオリンピックで表彰台に立つ姿であろうとおもいます。
余りにも恵まれた天分は幼いころから彼に賞賛の言葉しかもたらさなかっただろうし、親でさえ成果=人間性 と勘違いしてしまう事は多々ある。
今回の騒動は彼が成長するための良薬となってくれたと思う、人は慢心が無くなった人間を人格者というのだから・・・・
写真は、普段高い空を飛んでいる鳶が、珍しく地面を歩いているシーンです。