帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

桜の絵、そして 涙

2012年03月20日 | 僕という人間 その他

桜を見ると、いつも思い出す出来事があります。

それは小学校の5年生の時の事なのですが、当時、僕は横浜の羽沢というところに住んでました。

港からはかなり離れた丘の上に建てられた市営住宅、確かA-192号という番号の家だったかな・・・

平屋の連棟式団地で、ちいさいけれど、そこそこ大きな庭の有る2Kの間取りに、親父が作ったテラス、鶏小屋、小さな家庭菜園なんかが有った。  懐かし~な~・・・ 

 

当時の担任の先生は 東という名の女性で、やがては結婚して姓が変わったのだけれど、僕にとっては思い出したくも無い名であり、どうでもよいことで、話はこの先生との事。

 

なぜ”桜の絵、そして 涙”という題なのか? というなら、今でも目に焼き付いて離れない、床に落ちた一枚の絵が忘れられないエピソードになっているからです。

それが、我が子が大人になる年齢になるほど時間のたった今でも、心の奥から離れることが無い。

つまらない話なので、読んでいただいている人には悪いのですが、偶々そういった気持ちになったので、書いてみます。

 

その時、授業の図画工作で桜の絵を描くというのが有って、満開の桜の木を写生し、絵にするもので、まあ、どこの小学校でも行なわれているとは思いますが、下絵は鉛筆、そして絵の具で色をつけるだけの極めて簡単なもの。

でも、結構時間がかかるので、下絵を外で描いて、絵の具で色を入れるのは教室で行われました。

幼い頃から工作や絵が好きだった僕は、この授業も嬉しくて仕方ないわけですが、そんでもって結構夢中で色を入れていましたね。

小学校の授業ですから、得にこうした授業は歩き回る友達もいて、時折来ては「どう書いている?」という友達の言葉に誘われながら、他の子の絵を見たり、 まあそれぞれが色々な方法で描いていたわけです。

多くの子は幹だけ書くと、花は全体をピンクに塗りつぶす感じの絵を描いていた。

 

僕は?というなら、薄いピンクの花一面に覆われている質感がどうしても筆で出せず、筆で小さな点みたいなものを組みあわせたりしていたのだけれど、どうしても腑に落ちずにいた、

ある瞬間に、「は!」と気が付いて、”なぜ筆だけで全てを描かなくてはならないのだ?”と疑問が湧き上がり、筆の点々による花びら、全体を塗りつぶす感じ、そしてもっと自分に近い処の枝や花は、こうしたら描けるのではないかと思い立った。

とくに散る花びらは、この方が綺麗に描けるのではないか?と思った僕は、小指の先に絵の具をつけて花吹雪を描いて見る事にした。

すると花びらの形そのものが丸っこい事も有るけれど、想像以上に綺麗に書け、自分は満足。

桜の花は、光の当たり具合で白に近い色も見えるし、濃いめのピンクにも見え、そうした色を指で混ぜながら一心不乱に書き?続け、

そのうち、周りの友達が「あ!」「上手!」とか言って回りに集まり始め、その言葉に僕自身も多少なりとも誇らしい気持ちだったり、なんとなく得意なような不思議な気持ちでもあった。

幼い頃から、幾度と無く作文や絵で章を受け取った事がある僕ですが、大抵はそれを目的に書いていたわけではないのでどうでもよく、特に自慢してやろうとか、すごいだろうなんて気持ちは毛頭無いわけで、でもなんとなく友達がはやし立てる言葉にいい気になっていたのを覚えています(笑) 

授業終了がすぐ迫った頃、僕としては満足な出来上がりとなり、先に終わって遊び始めている多くの友達を避けつつ、教壇の机に座って絵を受け取っている先生のところへ提出しに行きました。

僕が提出した絵を受け取った先生、しばらく僕の絵を見ていたのですが、すぐに眉間をゆがませた表情で、「これはなんですか?」と聞いてきた。

その表情と言葉が、余にも当時の僕には衝撃的であった事から、今でも瞼にそれが焼き付いている。

そしてその次に放たれた言葉は、「これでは、梅なのか桜なのか分りません」という言葉。

僕は驚き、絶句しつつ、「桜です」と小さな声で答えたわけですが、次にその先生が取った行為は、奈落のそこに僕を突き落とすようなもの。

「こんなもの絵ではありません!」と言い放ち、それを床に向かってポンと放り捨てたのですね。

絵はひらっと回転するような感じで、床の上に落ち、周りの友達も一瞬静まり返り、僕は落ちた絵を黙って見ていた。

そして、その女性先生は、その落ちた絵に目もくれず、すぐに教壇に立って皆に片付け指示を出しはじめた。

 

その後、僕が覚えているのは、震える手で落ちた絵を拾い上げ、先生の机に置くと、黙って席に戻って片付けたこと。

相当なショックであったのは間違いないけれど、不思議なことに 悲しいとも、悔しいとも、腹立たしいともその時は思わなかった。

その後給食を食べ、6時間目が終わり、僕は相変わらず黙ったままで帰宅。

玄関のドアを閉めると、何故かそれまでは何とも無かった思いが急に沸き上がってきて、やがてそれが抑えきれなくなって一気に爆発した。

とめどもなく涙があふれ、行き場の無い悲しさは胸をかきむしり、どう我慢しても耐え切れない僕は布団を出し、掛け布団をかぶって思いっきり泣いた。

そのまま泣き疲れた僕は、いつの間にか寝てしまったらしく、やがてパートから帰宅した母が、布団かぶって寝ている僕に気が付いて起こしてくれたのだけど、

すぐに泣いてたことに気が付いたようで、「なにかあったの?」と聞かれ、その時は耐えていたものの、母親の顔を見ているうちに耐えられなくなり、再び泣き出してしまった。

その時に自分が何を言っていたのかは明確に覚えていない、ただ、一部始終を話したわけではなく、床に投げられた絵の事を繰り返し言っていた事は覚えている。

頭を撫でられている内に、だんだんと気も落ち着き、「何故だろう?」という事を考え始めていたけれど、その疑問は、結局小学校卒業まで晴れる事はなく、今に至っても解決していない。

この先生が今も生きているのか? もう死んでいるのかは、全く分らない。

中学に入り転校した事もあったのだけれど、当時の友達とは一切連絡を取っていない。

もしクラス会などがあって、万が一その先生と顔を合わせよう物なら、”何を言い出すか判らない自分”、というのもそこにいるわけで、顔を見れば、恐らくは当時自分が受けた思いに匹敵するか、それ以上の屈辱的言葉を、延々とこの先生に対して言い放つに違い無い。

時が怒りを解決するとは言うが、必ずしもそうでない事もあるのだ、ということが今の自分から解る。

子供の頃から、”表現は形式にとらわれなくてよく、可能な限り自分の自由な表現をすることが絵である”と親に聞かされてきた僕は、それ以降、こうした関係には感情を押し殺すロボットになった。

学校の授業で、図画工作と音楽に対する興味を失い、それ以外にもその先生の授業は机に座っているというだけとなり、内情は殆ど拒絶であるから成績は惨憺たるもの。

これ以降の絵は、友達と同じものを見て描き、それ以上の余計な事をするようなまねは一切しなかったです、なぜならそれが何より無難だから。

やがて中学に入り、なぜか美術の先生の目に留まって特別扱いに近いことをしてもらった。

でも翌年に僕は転向してしまったけれど・・・

この先生には今でも感謝している、凍り付いた心を溶かしてくれたのもこの先生のおかげだからだ。

それが無ければ、今でも絵に対する態度は変わらなかったのではないか?という思いが胸をよぎる。

 

満開の桜の木を見て、自分の指をみると、そのときの感覚がよみがえってくるのですが、

絵を描くのに、なぜ筆でなければならないのだ、なぜ鉛筆で下絵を書かねばならないのか?

泥では駄目か? 草の花や葉をつぶして出る色では駄目か?色鉛筆では? クレヨンは? 紙を切り抜いては駄目か? なぜ制限を受けねばならないのか?

そうした疑問(我が侭な?)は今でもあって。

しかし、学校教育というのは決められた方法と決められた回答、決められた結果以外は認められず、いうなれば先生の思いに忠実に従える子ほど成績もよく、評価も高い。

それが現実なのだけれど、僕は一切なじむことが出来ない。

 

国語の問題で、「誰々は彼の思いをどう受け止めたでしょう?」という問題がよくあるけれど、

こうした問いに対して、僕は答えを出すことが苦手で、品行方正、文部省ご推薦の答えを書けばマルがもらえることを分っていても、「人の心はわからんではないか?」という思いが出てきて回答出来ないし。

数学はなぜこうした解き方をしなければならないのだ?と常に疑問を持ち、勝手に間違った回答方法を考えてみたりと。

これじゃ~皆からバカだといわれるし、嫌われても仕方なかったわけだ。

 

自分のしてることに良い評価をもら得るということは、一時は居た事がある日本の職場や会社には無かった、常に叩かれるし、バカな上司を逆に叩きつぶしたりしていたからだ。

自分を殺すことが一番うまくやれる方法、それに僕はどうしても絶えられない、

故に、星条旗の下で人生の半分を過ごすことになった理由がそこに有るのだけれど、床に投げられた、一枚の絵、そして涙、 僕の子供時代の、懐かしき思い出のひとつです。

 


オルゴールと命

2012年03月20日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

上の部屋を片付けていた娘が、「パパ~ これ見て~!」と持ってきた物があった。

少し錆びた、小さなオルゴール。

もう記憶は定かではないけれど、僕がだいぶ前に娘へ手渡したものだ。

 

タイトルは ”星に願いを” 、 「そんなことあったよな~」と昔の記憶を手繰り寄せる僕。

 

薄茶色に変色したハンドルを指で回してみると、 いまだ変わらぬ美しいメロディを奏でてくれる。

 

しばらくこれを手にしていた僕、 ふとある事を思いついて、階段の横に取り付けてみた。

「どんな感じの音になるのだろうか?」と耳を澄ましてみると、手製の木製階段は小さな金属の音を、やさしい木のぬくもりとして解き放つ、不思議で美しい音(楽器)へと変身させた。

 

一度メロディを奏で終え、再び古びたオルゴールを見た時、そのすぐ横の 踏み板に刻まれている”時”に気が付いた。

「数えてみようか・・・・」

指でそっと撫で、そして一つ一つ数えてみる。

一、二・・・十四、十五・・・、 やがてそれは僕と同じ年令に達し、更にその先へと繋がっていく。

大きな幅、薄い幅、一つ一つがこの木を育んだ気候という歴史を僕に教えてくれる、あたかも教科書の様に。

 

最後まで数えようと思ったけれど、製材された四角い形はすぐにそれを阻み、いったいこの踏み板、いや木の年令はいくつ(何才)だったのだろうか?という想像しか許してくれなくなる。

 

一枚の板、そしてこの家を構成する柱の一本、一本に刻まれている時は、おそらく僕よりはるかに年上であり、しかしながら伐採という死をもって、今は僕の家族を包み守る存在となってい。

人はその多くを自然の力に頼り、あらゆる生き物達の死の上に立たねば、生きていくことは出来ない。

家の階段が、わざとラフな造りで、無塗装のままであるのは、こうした命という物を少しでも自分の家族に読み取ってもらうためだ。

そして、オルゴールをここに取り付けた事で、僕が新たに込めた無言のメッセージというものに、いつか誰かが気付いてくれるのではないか? なんて、すこしだけいたずら心を持ちながら思う。

それはすぐかもしれないし、ずっと先かもしれない、もしかすると誰も分らないうちに家そのものが老いてなくなってしまうかもしれない。

大声で怒鳴るわけでもなく、引き止めて耳へ入れるわけでもなく、叱りもせず、諭しもせず、だた

無言のまま伝えるメッセージ、子供達の幸せな未来へのメッセージ。

 

 

 

 


おすすめの店

2012年03月20日 | Weblog

娘の部屋の天井に取り付けた、花の照明器具。

実は日曜日に横のエアコンで作業中にうっかりシェードを割ってしまった・・・・

 

ぱり~ん!  どっひえ~!!! 

 

そこで、この商品の販売元に連絡したところ、非常にすばらしい対応をいただきました。

ありがとうございました。

 

非常にセンスのよい会社で、ここの商品は僕(たいしたことありませんが)のデザイン感覚とぴたりと重なります。 紹介したいので、是非ホームページをみてください。

スマートホンポーチなんか娘に買ってあげようかな~、なんて考えてもいます。

 

http://www.orrb.co.jp/index.html