昨日書いた、桜の絵の続き話 みたいなものですが、この経験も僕の人間性に莫大な影響を与えました。
* 今日の話以外にもいくつかありますが、それはこの先書くか分りません。
二つとも、今なら大した出来事ではありませんが、純粋だった子供時代には非常に大きな傷、いやトレーニングを心にもたらしてくれました。
桜の絵で意味不明の出来事に遭遇した僕。
以降、心の中で反抗はしながらも、一応はまだ先生として見ていたわけです。
しかしながら、そんな純粋な感覚は、この先話す出来事で完全にひっくり返しましたね~(笑)
「全て僕が悪いのです」と思いさえすれば、なんてこと無く乗り越えられるものなのですが・・・・
事が起きたのは、この東という名の女性先生の、結婚式場での出来事。
結婚式前の道徳の時間に、ツーショット(当時はそういいませんでしたけど)写真なんぞを見せながら、婚約者の自慢話を聞かせられたクラスの皆でしたが、特に悪い意識も無く、「そうなんだ~」くらいの思いだった僕。
式の日が近くなるにつれて、”クラスとして何かしなくては?”という、あの独特の雰囲気が教室全体に出てきた。
例のごとく、(ほぼこの先生の推薦によって初めから結果が分りきっている選挙で選ばれた)学級委員の二人が、得意の優等生ぶりを発揮し、結婚式に歌を歌おう等と言い出した。
同時に何かプレゼントを・・・という話も有ったわけだが、これらは一応、先生のいないところで話し合われたりもした。
僕自身は歌うことに特に反対も無く、プレゼントも出来る限りお金を使わないものをあげようという事でクラス意見がまとまったわけで、ところがそのプレゼントで辛酸を飲まされることになるとは、その時は思いもしなかった。
「何をあげようか?」 と考えたけれど、好きではないにしろ、まがいなりにも先生の門出。
何か良いものを、と考え、親にその話しをしてみたのだけれど、
「出来る限り工夫してごらん」といわれて、当然小遣いなど殆どもらっていなかったし、何か買うにもバスで45分も乗って横浜駅まで行かねばならず、かといって近くにあるのはスーパーと古ぼけた雑貨屋ぐらいしかない。
第一、この当時は小学生を単独で繁華街に行かせてくれるはずも無いわけで、式の日は近づくし、だんだん焦りが出てきた。
しかし、たまたま、家でページを開いた本に、石膏による工作写真が載っていた。
印象に残っているのは、白くて美しく、吸い込まれそうな車模型のようなもの。
その写真をみて、これって何かで代用できない? そう考えた僕が思いついたのが石鹸。
つるつるで、彫刻刀で容易に削りだせ、飾るのが飽きれば洗うことに使える。
「これなら、家にあるもので出来るし、お金もかからない」、そう思った僕は親に話すと、石鹸を二つほどもらった、一つは台座にし、もう一つはその台座に乗せる彫刻にするためだ。
何を造ろうか?そう思っていたところ 三春駒というのが幸せを運ぶ馬である、とたしかテレビの番組だったと思うけど紹介していたのを見て、これをイメージして造ってみることに決めた。
デザインは、角ばってごつごつした三春駒ではなく、馬の走る姿に近づけて掘り込みをおこなっていった。
自分で言うのもなんですが、結構手先が器用です(笑)
石鹸は削るのは容易だが、壊れるのも簡単であり、結構な時間と注意をかけて彫り上げ、難しかったのは足を入れる台座の穴で、何度少しずつ削ってぴたりと入るようにしたのを覚えている。
出来上がった三春駒?みたいなものを母親に親に見せると、「幸せを運ぶ馬、これから子供が出来るから喜んでくれるよ!」と言ってくれた。
机の引き出しをあけると、少し汚れているけれど、箱を見つけ、それに千代紙みたいな色紙をノリで貼り付けて、紐で結び、式の日を楽しみにしていた。
当日、友達数人とバスで式場へむかい、式そのものが始まると子供の相手をしている時間がないことも有るのか、結婚式のだいぶ前の面会時間に控え室で先生と対面した。
先生の周りにはすでに来ていたクラスの生徒が集まって、それぞれお祝いのプレゼントなどを手渡していて、それを見た時、僕は多少の後悔を覚えた。
お金をかけないと言う約束は完全に破られ、恐らくは親がお金をだしたか、買ってきてくれただろう品物がプレゼントとして並んでいた。
女の子は花が多かったな・・・・
先生は、みんなの持ってきたプレゼントを一つ一つ開けつつ、感想を述べながら「ありがとう!」とそれぞれの子に言っていた。
今思うと、後で開けると、どれが誰のプレゼントか分らなくなるからだったのだと思う。
すこし離れて見ていた僕だけど、思い切って「先生これ」と色紙を貼り付けた箱を差し出した。
それを受け取った先生、紐を解くと箱の蓋をあけ、中にあった石鹸彫刻をとりだした。
しばらくじっと見つめたあと、次の一言が口から出た。
小さな声であったけれど、はっきりと僕には聞き取れた。
「なんてもったいないことを・・・・・・」と、 例の眉間にしわを寄せた表情でだ。
僕は黙っていた、続けざまに僕のほうを向いた先生が口にしたのは説教。
「なんでこんな勿体無い事をしたんですか?」という厳しい言葉だった。
このときには、次の言葉を予測して僕は下を向いていた、それでも「ありがとう」と言ってくれることを多少なりとも期待していたけれど、無駄なことだった。
先生はそのまま彫刻を箱にしまうと、すぐ横から話しかけられた他の子と話をはじめた。
とても大きな衝撃だった、 すくなくとも僕にとっては・・・・
その瞬間、例の桜の絵を投げ捨てられた瞬間が頭をフラッシュバックしたのを今でも鮮明に覚えている。
そのあと、式がどうなったのか、だれと帰ってきたのか?という記憶が全く無い。
おそらく頭の中はこの出来事だけで満杯だったのだと思う。
ただ、帰宅した家で母親が「先生よろこんでくれた?」という問いに、嘘をついたことは覚えている。
”すごく喜んでくれた”と。
不思議と前みたいな悲しみはなかった、怒りも無く、ただ、何ともいえない気持ちだけは有った。
この出来事以降、僕は一切他人に何かを期待することをしなくなったのは間違いない。
ごく普通に行動するし、社会活動もやる、しかしながら、そうした自分に対する他人の評価というものを、常に鉄の冷たさをもって迎え入れている。
いや、冷たくとか、素っ気無くとか、いい加減とか、適当にと言う意味ではない。
よい方向で言葉をもらえれば笑顔で返すし、「ありがとう」というし「こちらこそどうも」ともいう。
しかしながら、自分の行動の価値判断は、すべて他人ではない自分の自分に対する満足度で判断しあくまでも自分のベストを目指すこと以外の異物はなんら挟まないようにしている。
故にどんな批判を受けても揺るがないし、動揺もしない。
この先生には5年~6年生の2年間を担任として持たれ、こうした一部の出来事以外にも、かなり色々な体験を積まされる事になった。
そうした経験が僕にもたらしたのは、自分が何かすることで、何かを得ようとか、良く思ってもらおう等と思わない心。
何か施してくれるとも思わないし、ましてや助けてくれかもしれない等という、他人に対する甘えも期待も一切心の中に存在しない。
すごい人、偉い人だ等と、結構容易に人は言葉を吐くが、これが僕に向けられる事等、有るはずないし、期待もせず、思われたくもないし、バカだといわれても当然に関係ない。
これらの、つらい思いは、心の成長期であった思春期入り口の僕に、人を考える莫大な時間を与えてくれ、それによって言葉の影に潜む、心のあやふやな部分を敏感に読こめるというオマケまで付いてきた。
でも、この先生がなぜ僕に対してこうだったのか? その理由は今でも分らない。
幼い頃から他人と協調することが上手くできず、何かにつけて感覚がずれている僕は、この先生にとって理解しがたい子だったのかもしれない・・・という思いは、確かにある。
いくつもあるこうしたこの先生との出来事を、家内に話したが、「よく 捻くれなかったね~」 と言われたものの、こんな人間に自分を駄目にされるほど惨めなことはないわけで、この先生の先生としての存在そのものを無いものとして扱えば、特に問題なく毎日が過ごせる僕でもあったからだ。
最後に 石鹸彫刻は ソープカービングと言います。
本なんかも出ていますね、 美しいですよ。
http://www.nihonbungeisha.co.jp/soapcarving/