その3は【基本姿勢編】の 2)「世界で一番、自分は大変だ。」という空気を出す人。
について。
これね~!? 結構こうした男はそこいら中に居て、 同じ男の僕でも結構イライラするんです。
実のところ、普段の生活は誰でも大変なものでして、 自分一人だけが大変だなんていう事は有り得ない。
すぐにこうした言葉を口にするタイプは、結局仕事にしても普段の生活にしても、自分を取り囲む全ての物に対して逃げの姿勢があるから容易に
口にするんです。
確かに大変な仕事や出来事はあります、誰しもがわかり得るものはともかくとして、それ外の ?????という場合で、それについて書いてみます。
実はこんなところにも褒めて育てられた人間と、正しく叱られて育った人間との違いが出る。
褒めて育てられると、 その行動の起点が常に誰かしらからの評価となり、しかもそれが自分を絶賛する物でなければならなり。
厄介なのはそうした評価が無いと、物事は単にやらされているだけの苦痛そのもので、ただ苦しいだけになってしまうんです。
当たり前の事ですが、 世の中に存在する人の所業は出来て当たり前というのが原則。
それが普通であり、 当たり前を、当たり前としてやって褒めてくれる事等、この世の中には有りませんよね。
特に優れた結果でも出さない限り、褒められることも賞賛されることもないのが世の中である以上、特段に恵まれた環境と並外れた才能でもない限り、
いやいやそんな物など普通の人間に、そうそう有るわけがないのだけど(備わっている様に見えても、それは本人の血のにじむ努力の結果)、
褒めて育てられるとそうした視点が実感として頭の中に存在しない。
結果として、本人は欲するのに誰も褒めてくれないわけでして・・・
すると代替要求として”じぶんはこれだけやっているのだ!、大変なのだ!”と、自ら喧伝することによって、「大変ですね」という変則的”褒め言葉 ”を求める事になる。
最悪なのは、それを繰り返しているうちに周りの人間がイラつき、職場の皆から冷たい目で蔑まれたり阻害されたり、 場合により「いいかげんにしろよな!」と叱咤される。
ところがそれが当然だとして育った本人にはそれが全く見えないわけで、
やがては、 ”正しく叱られて育った人間のように”、耐えて物事を正しく理解する訓練がされていない為、病む事となる。
いかに褒めて育てる教育が、歪んだ人格を生み出す教育法なのかというのをこんな一面でも実感するわけだが、
正しく叱られてきた人間は、 それが大変だと思うと、どうやったら大変でなくなるか? 出来る様に工夫するか?をまず考える。
逃げるのではなく、物事を正しく理解し、そこから未来へ自分はどうあるべきか、というのが常に頭の中に有るわけです。
それは、自分の思いが簡単に通らない事、過ちを正される事の繰り返し、我が儘な感情を自分で抑えるために必要な心=忍耐力と我慢を、幼少期より親から正しくもたらされてきたことが、正しく叱られて育った人間の成長環境だからなのです。
それ故、褒めて育てられた人間が大変だと思う様な事を、「当然できるでしょ!」というレベルで処理することが出来るように育っている。
そもそもが、正しく叱られて育てられた人間の行動基準は 積み重ねられた上記の具体的経験から”自分に対する満足度を高めるところ”に原点が有り、
自分との戦い?で勝つこと(要求と感情の負荷を適切に処理すること)に喜びを見いだしていく精神構造となっている。
それゆえ 、評価や賞賛は 自分で自分に課す物であり、 人の評価等はさほど重要でないところに特徴がある。
*もちろんそれが得られればさらに喜びは増しますが。
優れた人間性は、自分の中に常に目標を置き、それをクリアする為に自らを磨き上げるわけで、その過程で大変だとは言わない。
評価なければやらされていると思う、 ほめて育てられた思考とは真逆に精神構造が出来ているが故のもの。
その磨き上げの結果として、回りの人間の評価として繁栄されるだけで、 その過程は現実的な大変(苦難)の連続である。
能力の高い人間は、 大変だ等と簡単に言いませんね。 常に笑顔で余裕があり、ともするとこの人はいつも暇人なのか?と思わせる面を
もっている。
当たり前の事ですが、強い精神力と処理能力、人間的強さと精神的な強靱さの有る人間にとっては、大変という言葉のレベルが遥かに高いところに有る物だからなんです。
しかし、 褒めて育てる教育というのは、精神的弱さから簡単に病む人間を育成する、誠に恐怖の教育でもあるのだと・・・・・