「オシアン」中村徳三郎訳 岩波文庫
どうやら貸し出し期間内に読み終えた。読み終えたというより最後の方は斜めに読み飛ばしたといった方がいい。しかし、オシアンの世界にとっぷりとつかり、堪能できた。はじめは訳文の文語体の文章が、散文になれてしまっている私にはなじめなかったが、でもすぐに世界に浸れるようになった。戦いで、次々と死の世界に行ってしまう悲しい物語なのだが、全編には甘美な優しさがあふれて、とてもロマンティックである。
この物語がヨーロッパに紹介されたとき、センセーショナルになったのがうなづける。まさに新古典主義からロマン主義的な世界へ移行して行くちょうどその時、大きな影響を各方面に与えたのもむべなるかなである。原文を読んでみたいと思うが、どう逆立ちしたって、これからゲール語を勉強して、原書を読むなどとても無理な話だ。この歌は本来竪琴に合わせて歌われたものだという。平家物語を琵琶法師が吟じたようなものだったのだろう。映画の中で吟遊詩人が竪琴を奏でながら、吟じているのを見たことがある。ああいうものだったのかも。そしてお抱え歌人は自分達の歴史を歌って、伝えていたのだろう。どこかで片鱗に触れてみたいものだ。はじめ読んだときはアイルランドの伝承を連想した。同じケルトだし、と思ったのだった。
オシアンの内容は、3世紀ごろ、スコットランドの北部モールヴェンに、フィン、またはフィンガルと呼ばれる王がいて、戦いで、一族の者たちが次々と戦場に倒れ、最後に生き残った王の息子オシアンが、高齢で失明してしてしまってから、戦死してしまった息子オスカルの許婚マルヴィーナに一族の戦士たちの思い出を語って聞かせた話である。マルヴィーナは竪琴の名手であった。
キリスト教の伝わる以前の、スコットランドの荒涼とした高地、そこで活躍するフィン王一族の勇壮にして優しい人柄、白い胸の美しい娘たちの悲しい物語。枕詞のように形容の言葉がつく、たとえば、白い胸の娘、緑深きエリン、荒波のロホラン、激しい剣のフィンガルといったように。
オシアンが紹介されるとヨーロッパにセンセーションを巻き起こしたことは前にも述べた。もう少し詳しく言うと、フランスではルソー、スタール夫人、シャとブリアン、ラマチーユたちに感動を与え、ナポレオンは愛唱する余りパリ大学にケルト学部を作ったという。ドイツではゲーテ、ノヴァーリス、クライストなどが、特にゲーテはオシアンに傾倒し、「若きウェルテルの悩み」に反映したという。当時の人たちとは違う時代環境にいる私ですら、一読して、その気持ちはよく分かる。
さて、このオシアンの名声が高くなると、思わぬところから論争がわき起こった。それはオシアンの古歌など存在しない、これを採取して発表したマクファーソンの創作だ、とイギリスから。アイルランドからはこれはアイルランドの古歌の盗用だというのであった。国内からもオシアンなど実在しない、歴史的人物ではない、だからオシアンの歌など存在するはずがない、というものだった。イギリスで反対の先頭に立ったのはあのサミュエル・ジョンソン博士だった。これを知ったときはジョンソン博士を買っていただけに残念に思った。
スコットランドの歴史等を読むと、当時の歴史的背景、事情はいろいろあるが、かなり民族蔑視が含まれているように思われる。イングランド、スコットランド、アイルランドという確執、さらにスコットランド内でもローランドとハイランドとの差別。ハイランドには文字もない、未開の地であったというのである。もうひとつキリスト教が入って来て、こういう世界観が拒否され、排除の対称になったのではあるまいか。アングロサクソンの言い分のように私には思える。どっちにしても、オシアンのこの文学性は重視されてもよかったのではなかろうか。ヨーロッパ人がアフリカに文明などなかった、だからジンバブエやマリの文明があったわけがないと主張したのに似ている。
訳者の中村徳三郎さんはこれに対してひとつひとつ反論している。私はそれをどうのこうの言う知識は持ち合わせていないが、この物語を読んだ感想としては、実在かどうかは別にして、一人の人間の手によるものではなく、伝承の歌だろうと直感したのだった。とはいえ、これをマクファーソンの創作だとする説はまだまだ強く残っている。
中村徳三郎さんの解説によると、この民族の思想は「とき」の観念が根底にあるという。この民族の心には未来と過去だけがあって、現在はないよう、あってもごく軽いもの、急流のように近づいてくる未来は、そばに来るともう過去になり、すべては過去に吸収されてしまう。ゲールという語は「風」という言葉から来ているそうだが、まこと風のように、とどまるときは消えている。すべては消えていくが、高貴な行為だけは「とき」の流れの堤の上に残ると考え、そういう行為をすることに生きがいを感じている。高貴な行為とは報酬を求めない行為。ただ祖先や子孫たちが歓んでくれる行為。
あるものはすべて仮の姿で、敵も味方も善人も悪人も同じ人間だと考えている。だから倒れた敵のためにも石積みを建てねぎらう。この民族の民話にあるように、人が動植物や光や音や空気になるというような輪廻の思想に似通った考えになり、自然に対する親近感、一体感となる。この考えはケルトの思想ではないか、と。