なぎのあとさき

日記です。

うこんの桜、リヴェット、X

2022年04月16日 | 日々のこと


近所にうこんの桜を見つけた
満開になってすぐに雨に当たったみたいで花びらがくたっとしてたけど
淡いグリーン~クリーム~ピンクのマルチなグラデーションはほかの桜にはなくて、ソメイヨシノの後のお楽しみ
まだ若い木で、育つのが楽しみ
S観音のうこんは大きすぎて花を近くで見れない


フロックス バリエガータ ブルーパヒューム
色といい風にゆれる立ち姿といいとっても可愛い
しかもいい香り


前に地植えにしたら夏の暑さでやられたので、今回は鉢植え


また少し気温が下がったら、ラックスさんは花びらが閉じてカップ咲きみたいになった


モンちゃんを追い出して箱におさまったマオ姫
モンちゃんはそんなことでいやな顔はしない
マオちゃんが側にくればいつだって頭をナデナデするように舐めてあげている


へへ


お隣のおうちにおばあちゃんが同居するようになって、庭に出てモンちゃんを見ると話しかけてくれて、モンちゃんも嬉しそうに寄っていく
みんなモンちゃんが大好き

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リヴェット映画祭が始まった

・メリー ゴー ラウンド
パリで出会う男女
女は姉に呼ばれてきた妹、レオ(マリア シュナイダー)で、男は姉の恋人ベン(ジョー ダレッサンドロ)が、姉を探し、見つけ、また探し、パスワードも探す旅をする
冒頭から、映画のところどころでコントラバスとバスクラリネットの演奏シーンが入る
いいんだけど、音が近すぎて割れて聞こえた
ヒュートラは少し後ろのほうに座ったほうがよさそう
2列目で見たらけっこう画面を見上げた
というのも平日なのに満席に近かった
昔はリヴェットはガラガラだったものだが

ブレッソン見た後のせいか、リヴェットの映画はすべてがゆるゆるな感じがした、演出もカメラもストーリーもゆるゆる、わるくいえばだらだら、でも計算されてない動きに見えていい
人を追いかけて常にカメラがぐらぐらせわしなく動く
レオ役の女の子がまあ可愛い
Gジャンジーパンのデニムオンデニムが決まっててすぐタバコを吸う
動きも表情もとにかく可愛くて、こういう女の子はフランス映画でしか見れない、自分がいくつになっても憧れる

追いかけっこや人探し、空き家探索は楽しい
霊媒師の家にいる茶色の子猫がやたら可愛かったり、夢の森と浜辺のシーンでいかにもな鎧の騎士やら蛇が出てきたり、遊びごころがあって
空き家でロウソクつけてオイルサーディンのディナーのシーンとか、途中までハッピーで楽しいんだけど
姉妹の父親の遺産を狙うベンやベンの妹、弁護士とか皆、うさんくさい人たちで、終わりのほうはちょっと残念な感じ
霊媒師の人もあんな目にあうことないし
レオだってハッピーなままでいてほしかったが
制作が行き詰まって監督が不調だったらしいけど
不調がそのまま映画に出ちゃうのがヌーベルバーグならではかもしれない
レオも途中で降板して夢のシーンのレオは別の人が演じている

161分、終わりのほうはちょっと長かった
この春はGジャンをヘビロテしててこの日も着ていた、外に出て公園のすみでタバコががうまかった

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・現代思想入門 メモ
フーコーの部分も後々この本の中で発展していくのでおさらい
アウグスティヌスは、聖書の原罪を人間の闇としてとらえている
「新たなる古代人」になることとは
終わりなき自己との闘いをするのではなく、有限的に、その都度注意して、自己をコントロールしていくこと

この終わりなき闘いが、次の章でニーチェのディオニソス的なもの、フロイトの抑圧的な無意識、ショーペンハウアーの盲目的な意志につながる
物語の背後でうごめく出来事の群

ここでカントの純粋理性批判
哲学(1787)「世界はどういうものか」ではなく「人には世界がどう見えているか」
人間のもつフィルター→超越論的なもの(思考)

世界そのもの(無限)には到達できない
人間は有限的な存在である

つづいてラカンへ

精神分析で、人は過剰な動物である
本能は第一の自然で、動物は自由度が低い
人間はそれを第二の自然である制度によって変形する
人間の欲動は第二の自然

母親と一緒にいることの快楽は、父親に母をとられて(去勢)不安に陥り、母親が戻ってくることで享楽を得る

追い求めるが、手に入ると幻滅するのが対象a

想像界は、鏡を見て自己イメージができる
象徴界は、世界に言語による区切りができる
このふたつが合わさって認識になる
現実界は、認識では捉えられない何か、成長前の原初のとき、刺激の嵐にさらされていた不安と享楽のとき

対象aを点々とすることで、到達できないXのまわりをめぐる
このXが、現実界である

次に否定神学システム
言語化できるのならそれは神ではない
のように~ないと否定で語るしかないもの
事物に到達したくてもできない、近代的有限性

否定神学、X、ドゥルーズやデリダの二元論の外にあるグレー部分、ニーチェのディオニソス的なもの、フロイトの無意識は共通する手の届かない領域

そこを追求するのはやめて、有限なものをひとつひとつ考えよう、っていうのがフーコー

私にとってのXははっきりしていて天国の猫たちだ
海や魚、山や木ばかり見ていたせいか人間のためにある哲学はすぐに放り出してたけど、天国の猫たちのことを考えるのに哲学は役にたつのかもしれない



あたちはビーよ
猫の中の猫っていわれてるけど、人間の言葉はだいたいわかるにょ
空にぴょんして2年目になるわ
ここの暮らしは最高ね
にゃんだってあるし、にいたんもいる
いろんなお花が咲いててお庭を思い出すわ
ちもべがいにゃいけど、時々のぞいたりちてゆの
にゃんだってできるもにょ
いやなやつはここにはいにゃいから、地上はいやなやつをふるい分けるためにあるにょね
あたちたちがおいでって思えば、ちもべもこれるにょよ、いつか

・その午後、巨匠たちは
私もまえに神様のことを考えてたら画家たちが出てきた
なので、中盤すぎまでわくわくしながら読みすすめた
モネもダリも北斎もいいけどターナーがとくに面白かった
あのまま、何も起こらず絵を描いたりご飯食べたりして、たまに海が荒れるくらいの話だったらとても楽しかったのだけどサイトウ息子が出てきたあたりから物語の展開が強引な感じ
でもこの著者さんは好き
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