政治とカネ/桜井よしこのお粗末な客観的認識性

2007-02-07 11:41:15 | Weblog

 間違った常識を常識とする小賢しさ

 1月14日(07年)の「サンデーモーニング」でのこと。評論家の桜井よしこが昨年末の佐田玄一郎前行革担当相の事務所経費の付け替え問題や、松岡農相、伊吹文科相等の事務所費付け替え問題に絡んで次のように発言している。

 桜井よしこ「日本の政治は田中角栄以来、おカネを使うことに非常に鈍感になって、何をしてもいいという風潮になった。西欧では考えられない」

 これは桜井よしこ一人の考えではなく、かなり多くの人間の常識となっている。果して金権政治は田中角栄の発明による、田中角栄発祥の政治手段なのだろうか。

 私が中学か高校の頃にある人から大正時代の子どもの頃実際に見たこととして聞いた話だが、東北の農村地帯で力を持っていた豪農の主(あるじ)が村の選挙になると立候補者が立候補の挨拶に順次来るそうだ。「立候補することになりました。よろしくお願いします」と挨拶すると、主は「いくら必要なんだ?」と聞く。相手は「選挙資金にどれくらい必要です」と答える。すると主は脇に積み上げてった札束の中から相手が必要とするカネを数えて、相手が正座してかしこまっている前にポンと投げ渡したそうだ。相手は押し頂いて、引き下がる。

 ポンと投げて渡した――手渡すことのできる距離に相手は座っていなかったということだろう。離れて座っていたから、ポンと投げることになった。裏を返すと、手渡して貰える程の近い距離に座ることはできなかった。その距離も、投げて渡す行為からも、主と立候補者との力関係の差、あるいは違いがどれ程のものか窺うことができる。相当な距離があったに違いない。

 その豪農の主にとって、カネを受け取った者のうち誰が村会議員に当選しようとも、そのすべてがお釈迦差の手のひらの中の孫悟空と同じく、薬籠中の存在に過ぎないだろう。現在の若者言葉で言うなら、パシリに当たる存在だったに違いない。カネの力がそうさせるのである。

 立候補者たちは受け取ったカネを村の者を集めて、飲ませたり食わせたりしたに違いない。村の中で一般の村人よりも力を持った者は女まで抱かせてもらったかもしれない。

 このような光景は日本ではどこでも一般的な光景だったことは簡単に予想がつく。その証拠を『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)から見てみる。

 「太宰春台(江戸中期の儒学者)はその著『経済録』において検見法の弊害を論じ、『代官が毛見(検見――役人が行う米の出来栄えと収穫量の検査)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には省や名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢を賦課する割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(かみ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。――』」云々。

 上記光景は、「難題」を用いた、現在の政・官も用いている間接的なワイロ請求=収賄であることを示している。そして民は「難題」を避け、手心を加えてもらうために積極的に贈賄せざるを得ない立場に立たされている。今で言えば、パーテー券を買ってくれと依頼されて、仕方なく買うようなものだろう。代官はワイロで得たカネを力として、「与力や旗本」といったさらに上の家柄と権力を手に入れる。

 このように地位を権力とし、カネを力(=権力)とする効用が村世界を介してサムライ世界の習いとなっていることを村の住人は痛いほど知っていた。村の最高権力者である豪農の主が自らの権力の証明と、それをより確かなものとするために自らの地位とカネを村世界の習いとして自ら利用していたとしても不思議はないだろう。それが歴史・伝統・文化として後世にまで伝えられ、21世紀の日本の今日にまで至っている〝政治とカネ〟の問題であろう。
 
 『日本疑獄史』(森川哲郎・三一書房)によると、明治の元勲山県有朋は親友である医者の出でだが、尊王の志士として活躍し維新後山城屋和助を名乗って商人となった親友野村三千三を自らの贔屓で陸軍省の御用商人とし、当時は競争入札がなく、いわゆる今でいう随意契約で陸軍省への納入を引き受けさせて儲けさせ、リベートを受け取っていたという。山城屋和助はたちまち巨額の資本をつくり、海外にまで手を広げようと野心を抱き、生糸の海外取引を目論み、外国資本と対抗するための60万円の資金を山県に依頼した。山県当人がそれだけのカネを所持しているわけがなく、最初から陸軍のカネを当てにした依頼だったはずである。当時の政府の最高クラスの位置で800円くらいだったという。60万円はその約62年分の金額に当たる。

 山県は陸軍の予備金64万円を「貸し下げ金」の名目で山城屋和助に渡す。山形屋は生糸の海外取引で一時は巨額の利益を上げたが、普仏戦争で取引先であるフランスが敗れ、翌年パリ・コミューンの乱が起こり、労働者が政権を取ると、生糸を原料とした絹製品は殆ど売れなくなり、大和屋は30万円の大損をこうむり、その上和助が洋行中に店の番頭が相場に手を出して50万円の赤字を出す。64万円の陸軍予備金の私的払い下げが露見する。山城屋は窮して山県に依頼して貸し下げ金の返済を装ったニセ帳簿を作らせるが、それも露見して、陸軍省に出頭を命ぜられた和助は「観念して、一切の証文を破り捨て、山県を初め長州閥高官に送った割り戻し(リベート)の記録もすべて焼き捨てた上、明治4(1871)年11月29日朝、陸軍省に出かけ、返済が遅れていることをわび、『書類の整理をしますので、暫く一室をお借りしたい』と教師官の空き部屋を借りて中にとじこもった」。

 死人に口なしが幸いしたのか、元々長州閥の雄としてそれなりの権力を持っていたからなのか、明治維新から3年経過したばかりの、新政府に不満を持った旧藩士等の不平士族の横行で人心も世の中もまだ定まっていない時期と重なって、政府高官である山県まで関与していたということが世間に知れたら、新政府攻撃の材料を与え、維新の正当性に傷がつくと考えたからなのか、多分そんなところだろう、『日本疑獄史』には「山県も山城屋のあとを追って割腹しようとしたが、西郷隆盛に抑えられて、果たさなかったともいう。これが事実としてもゼスチュアだけであったろう」と書いているが、山県にまで咎めは及ばずに済んだ。

 山県にしても、リベートで得た資金を自らの地位の保全や更なる上の地位獲得のためにばら撒かなかった保証はない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は天皇から与えられる官位によって上下が決まるために、それを得るために将軍に進言する老中にワイロを贈ることを習慣としている。官位による席次の違いがそれぞれの誉に影響したいうから、誉はそれぞれの政治力に順次影響していっただろうし、官位自体が自己を誇る権威ともなり、政治力ともなっただろうことは容易に想像できる。それがワイロで決まった。

 これらは国会議員の地位がカバンを主としてジバン・カンバンで決まり、その恩恵を経て大臣の椅子獲得の要素となる4期だとか5期だとかの当選回数が、江戸時代の官位に相当する勲章と言えないことはない。

 こうしてみてくると、政治がカネを力としているのはあくまでも日本の美しい歴史・伝統・文化であることがよく分かる。桜井よしこが言っているように決して「日本の政治は田中角栄以来、おカネを使うことに非常に鈍感になって、何をしてもいいという風潮になった」わけではない。

 桜井よしこの認識が客観的認識の欠如から出ていることは言うまでもないが、欠如させている主たる理由は〝政治にカネ〟が美しい日本の歴史・伝統・文化としてあるものだとするのは国家主義的立場からして、とても容認できないからだろう。彼らにとって、あくまでも「美しい国」日本でなければならない。「田中角栄以来」とした方が日本の国を傷つけない方便としては都合がよく、容易に受け入れることができる。日本人の自分のことしか考えない利己主義が戦後のアメリカナイズが原因だとした方が都合がいいようにである。そうしなければ、日本民族優越論が早々に破綻することになる。

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