安倍首相/「赤ちゃんポスト」と「再チャレンジ」の関係

2007-02-25 07:32:59 | Weblog

 熊本市の慈恵病院が設置を進めている「赤ちゃんポスト」制度のその名前に美しくない国首相安倍晋三は畏れかしこくも「大変抵抗を感じる」とのたまっていらっしゃる。「ポストという名前に大変抵抗を感じる。匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのか。大変抵抗を感じる」(2007/02/23 19:43/四国新聞・インターネット記事)

 「赤ちゃんポスト」とは子どもを産んだものの、育てたくない・育てることができない新生児を病院が預かって代わりに育児するシステムとのこと。報道によると、厚労相は認可の方向で動いている。

 美しい国日本に執着しながら、横文字が大好きな逆説性国家主義者・美しくない国首相なのだから、「赤ちゃんポスト」の名前に抵抗を感じるということなら、そのまんま直訳で〝ベイビー・ポスト〟としたら「抵抗を感じ」なくなるのではないか。

 それとも「格差」の存在に目潰しの煙幕を張る支持率低下防止政策の安倍「再チャレンジ」福祉精神からしたら、捨てられた子どもを息を引き取るまで見守るぐらいの演出は必要で、〝揺りかごから墓場までポスト〟としたら、安倍宣伝になるのではないか。お得意の横文字で言うなら、ちょっと長くなるが、〝フロム・クレードル・トウ・グレイブ・ポスト〟。少なくとも「赤ちゃんダストボックス」よりもましだろう。
 「首相は『子どもを産むからには、親として責任を持って産むことが大切ではないか』と指摘。その上で『基本的には既にそういうお子さんたちに対応するための施設などもある』と述べ、既存の施策で対応が可能との認識を示した。」(同四国新聞)と必ずしも歓迎していない姿勢らしいが、同記事は「ただ行政が対応できずに、虐待や遺棄、死に至るケースが起きているのが現実だ。」と解説している。その兼ね合いといったところだろう。

 但し責任という点から言うなら、それぞれの役目を果たさない無責任は親も政治家も官僚も同列・同罪に位置しているのではないか。美しい国日本の政治家と官僚は国・地方合わせた1000兆の借金をこしらえて、厚顔無恥の面の皮も厚く平然としている無責任さである。譬えて言うなら、無責任にも借金ポストに国のカネを1000兆円も遺棄したということだろう。

 尻に火がついて慌てて財政再建、財政再建だと大騒ぎしているが、政治的に力のない中・低所得者から税の形で有無を言わせずに剥ぎ取るアコギ政治で格差をさらに拡大し、なおのこと「再チャレンジ」で救うとゴマカシ政治を展開しなければならなくなっている。

 新生児を「赤ちゃんポスト」に預けるについては確かに親の無責任もあるだろう。妊娠・出産は頭になく、快楽追求だけが目的のセックスに熱中する。妊娠したのも気づかずにいたとか、気づいても、遊ぶのに夢中で放置しておいて中絶もできなくなった。あるいは男を引き付けておくための方便に妊娠・出産したが、育児まで考えていなかったとか、無責任例は様々に考えることができる。わざわざ飛行機と電車とタクシーを乗り継いで熊本市まで預けにいく母親も出てくるに違いない。

 しかし、産み育てる覚悟で子供を持ったものの、離婚だとかリストラだとか、予期しないその後の変転から、あるいは無慈悲な年貢の嵩上げならぬ種々の税手当ての削減や税上げ、規制緩和が逆に収入低下をもたらすとかによって生活がままならなくなり、自分で育てる自信を失って預けざるを得ない親もいるに違いない。

 そんな一人を救うために100人の無責任には目をつむる。100人の有罪者を無罪にすることになったとしても、たった一人であっても、実際に無罪の人間を有罪とする冤罪を防止するための疑わしきは罰せずの精神、推定無罪の精神の趣旨適合である。

 安倍首相はそういった趣旨適合の柔軟な寛容精神は持ち合わせていないらしい。美しくない国の美しくない首相だから仕方のないことなのか。

 中には一旦は預けたものの、後になって自分で育てようと思い直して引き取りに表れる親もいるかもしれない。そういった親の育児を支援することこそ見せ掛けではない、真の〝再チャレンジ〟ではないだろうか。

 無責任からのものであっても、止むを得ずのものであっても、少なくとも自分が育てるよりもマシという考えからの一種の遺棄、放棄だろう。だとしたら、親にとっては「赤ちゃんポスト」はなおさらの〝再チャレンジ〟に相当するのではないだろうか。それを汲み取ることもできずに、再チャレンジ政策を掲げながら、親たちの〝再チャレンジ〟に鈍感でいられる。何とも美しき国の美しき首相かなである。

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