1月25日(07年)の『朝日』朝刊『愛国心「ある」が78% 本社世論調査』なる記事に「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思い、そのうち9割は先の戦争で日本がアジア諸国におこなった侵略や植民地支配を『反省する必要がある』と考えていることが、朝日新聞社の世論調査(面接)で分かった」と出ていた。
常々言っていることだが、人間は一般的には愛国心を基準に行動しているのではなく、自己を基準として行動している。それはただ単に一般的な社会生活に於いて愛国心を基準に行動する機会が皆無に近く、自己を基準に行動する機会に圧倒的に支配されているからに過ぎない。
但し人間は自己利害の生きものであることを本質性としていることから、国家を基準に行動しようとも、自己を基準に行動しようとも、自己利害性を反映させる。自己を前面の押し出す場合に於いても、国家を前面に押し出す場合に於いても、自己利害を基準とする。「愛国心」表現にしても、自己利害表現の一つに過ぎない。
国家を前面に押し出す「愛国心」表現が自己利害を基準とする以上、自己利害表現が妥当な性格を備えていて初めて「愛国心」表現も妥当性を獲ち取ることが可能となる。優越民族意識からの偏狭且つ独善的な「愛国心」表現は、本質のところで優劣の価値観を自己利害の基準の一つとしていて、その反映から生じた自縄自縛であろう。自国の優越性だけを信じ、他の民族を劣るとし排斥したり、経済力を笠に着て自国の国益追求のみを優先し、他国の利益を不当に排したりの独善的「愛国心」は優劣の価値観にのみ立った自己利害表現以外の何ものでもない。
そういった独善的で偏狭な「愛国心」から免れるためには、人間が自己利害の生きものであっても、同時に社会の生きものであり、社会の一員たる務めとして、自己利害は社会の規範・社会のルールの範囲内にその主張をとどめなけれがばならないことを弁えて、そのような姿勢を基本とした存在性を揺るぎないものとしていく以外に方法はないのではないだろうか。
例えば自己利害は社会のルールとしての基本的人権や男女平等・男女同権といった社会的権利、各種の条例や法律、あるいは公徳といった守るべき社会的規範等の規制を受けている。これらの規制を踏み外さない、自制した自己利害表現を自己の社会的姿としたとき、そこからは優劣の価値観を自己利害の基準とする姿勢は生まれようがなく、それは「愛国心」表現に対しても当初から優劣の価値観を排した独善性とは無縁の自制された形で反映されるていくだろうからである。
別の言葉で言い換えるなら、社会のルールに従った社会的姿(=自己利害表現)が愛国心表現へと谺していくことで、愛国心は偏狭性や独善性に陥ることから免れるということではないだろうか。
と言うことは、あくまでも社会のルールに従った自己利害表現、そのような社会的姿を人間は基本としなければならないと言える。
大体に於いて、社会のルールをその社会に生きる人間の基本的な生き方としなければならない規範に反して、逆にそれを踏み外した自己利害行為を自らの社会的姿とした場合、そのような社会的姿は「愛国心」行為にも反映されるだろうから、「愛国心」を口にする資格もないだろう。
このことを朝日新聞の世論調査に当てはめて考えるとしたら、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思」っている、その「愛国心」が偏狭さや独善性に陥らない妥当な性格を維持するためには、「国民の8割」が優劣の価値観を判断基準としないことと、諸々の社会的ルールに従った自制した自己利害表現を自己の社会的姿としていなければならないことになる。
「自分に愛国心が『ある』」とする「国民の8割」が優劣の価値観を自己利害の基準とせず、諸々の社会的ルールを忠実に守る上記社会的姿を取っているするなら、「国民の8割」に対応した日本の社会の「8割」の場面で優劣の価値観から生じる男女差別や障害者差別、さらには何らかの人種差別は存在しない社会であり、企業の粉飾決算やリコール隠し、保険金の不払いや消費者金融の利子の取り過ぎ、建設業界の談合、あるいは政治家や役人の犯罪・不祥事、あるいは殺人や強盗、公金横領、飲酒運転殺人等の各種犯罪といった日本社会の不正は無縁の状況でなければならない。
だがどう贔屓目に見ても、政治の社会でも官僚・役人の社会でも、企業社会に於いても、あるいは一般社会に於いても、いずれの社会であってもその「8割」方の場面が不正・犯罪にまみれ、残る2割方のみが被害を免れているとしか見えない。
と言うことは、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思」っていたとしても、その「愛国心」は偏狭で独善性に陥りやすい性格の「愛国心」かマヤカシの「愛国心」ではないかという疑いが生じる。前者に関しては北朝鮮が日本列島越しに太平洋に向けてミサイルを発射したときの朝鮮学校生徒に対する嫌がらせや、05年の中国の反日デモに対する過剰な嫌中感情に既に見てきている。
後者に関しては、例え優劣の価値観からではなく、その多くが即物的な損得の自己利害から発した不正・不祥事・犯罪であっても、そのような社会のルールに反した自己利害表現が国家を前面に出す「愛国心」表現に反映されないはずはなく、妥当性を持つとは到底思えない。すべてが「愛国心」に反する行為なのだから、不正・不祥事・犯罪を横行させておいて、「愛国心」もクソもないだろうということである。
俺は関係ないという人間が大勢いるだろうが、官僚等が予算を誤魔化したり、企業に接待を迫ったりして飲んだり食ったりするコジキ行為は彼らの専売特許としてあるものではなく、学校の卒業式や運動会の後、慰労会だ反省会だと称してPTAや学校の予算で飲み食いする、あるいは自治会でも似たような口実を設けて自分の懐を痛めない飲み食いをすることにつながった日本の社会全体に亘る慣習であって、そのような慣習を出発点として政治家・官僚の不正・犯罪があるのである。関係ないと言えるは人間は少ないだろうし、それは「愛国心」に関わる意識にも影響しているはずである。
つまり、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』」としても、当てにはならない「愛国心」ではないかということである。
「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思い、そのうち9割は先の戦争で日本がアジア諸国におこなった侵略や植民地支配を『反省する必要がある』と考えている」ということだが、そのような「愛国心」と「反省」の「8割」に対するその「9割」という構図からも「愛国心」表現の実態を考えてみる。
〝反省〟なる心的営為は省察能力が可能とする。省察能力とは、自らを省みて、是非を考える能力をいう。「自らを省みて」の「自ら」とは自分自身のみではなく、自分の家族であったり、日本の社会であったり、日本という国そのものであったりするだろう。それらを対象として、それぞれの有り様を省察することによって、是非の判断が生じ、是非の結論に至る。
いわば〝反省〟とは戦前の日本の戦争のみを対象とした省察に限定されるわけではなく、すべての場面に亘って等しく機能させてこそ、その省察能力は過不足のない力を発揮し、「反省」の判断内容により多くの妥当性を与えることになる。
例えば、日本の戦争は反省する。しかし自分が家庭で夫の立場で妻に暴力を働いて何ら自省心が働かないというのでは、日本の戦争に対する省察(=反省の判断内容)は正当なものかどうかあやふやとなる。侵略戦争と家庭内暴力の違いは国家という集団か個人か、主体の違いのみであって、本質部分をなす人権意識や社会意識、倫理意識、暴力意識に関して言えば通底するということもある。
だが、一般論としても、日本の社会が不正・犯罪に覆われている事実から鑑みて、特に社会的責任をより多く背負っている政治家・官僚の不正・犯罪の跡を絶たない横行から見て、日本人の多くが「反省」の発動要素である自らを省みて、是非を考える省察能力の著しい欠如を見ないわけには行かない。
いわば社会のルールを無視した自己利害行動に走っている人間が数多く占めることによって現在の姿となっている日本の今を省みて、その是非を考え、あるべき姿に持っていく力を総体として抱えていないにも関わらず、「愛国心」だ、「反省」だと言っても、俄かには信じがたい。「愛国心」を言い、「反省」を口にすることで〝善〟を演じることができる可能性におんぶした口先だけの「愛国心が『ある』」であり、「『反省する必要がある』」ということもあり得る。
それを下司の勘繰りだというなら、特に政治家・官僚は自らの即物的な自己利害行為を社会のルールの範囲内に改め、醜悪さが満ちはびこった自らの世界・自らの社会を浄化してから、下司の勘繰りとすべきだろう。
社会のルールに従った自己利害表現を社会的な基本姿勢とし、それをカガミとして国を考える「愛国心」と対峙したとき、「愛国心」に関わるどのような自己利害表現も口先だけであることから、あるいは眉唾や奇麗事であることから免れることができるのではないだろうか。
基本はあくまでも社会のルールに従った自己利害表現であり、そのような姿を自らの社会的姿とするということだろう。
そうでない以上、同じ日付け(07.1.25)の別記事『日本に生まれて「よかった」9割』に書いてある、学校で愛国心を教えるべきだが「50%」だとか、「愛国心がある人や保守的な立場の人が日本の戦争責任をきちんと受け止めている姿が透けて見える」とか、世論調査から窺うことのできる態様は現れた数字どおりには受け止めることはできない。記事の中の「愛国心はあるが、中身などをあれこれ考えているわけではない――。そんな実態が見えてくる」という解説自体がそのことを証明している。