「現実を直視できない」のは小泉か小沢か

2007-02-22 06:45:52 | Weblog

 昨朝(07.2.21)のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」で同日付の朝日朝刊の記事『「鈍感力が大事」小泉前首領、塩崎氏らに 「どの時代にも格差 なぜ言わない」』に関してバカげた遣り取りをしていた。記事を全文引用しておく。

 ――「支持率を気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」――。小泉純一郎前首相は20日、国会内の自民党控室で中川秀直幹事長らと会い、安倍内閣の支持率の低下に悩む政府・与党幹部に対し、「何をやっても批判される。いちいち気にするな」とげきを飛ばした。
 小泉氏は、今国会で焦点になっている格差問題について、「『格差とはどんな時代にもある』となぜ、はっきり言わないんだ。自分は予算委員会で言い続けてきた。君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」と持論を展開。「現実を直視できない小沢民主はダメだ。小沢(代表)の言ってることは社会主義そのもの、世迷言だ」と切って捨てた。
 さらに、遅れて姿を見せた塩崎官房長官には「まとめようとしてはダメだ。総論は賛成でも、(各論で)必ず反対が出る。だからまとめてはだめだ」と助言した。
 首相退任後はあまり表だった発言は避けている小泉氏だが、この日は「若い人に話して欲しい」との中川幹事長の求めに応じての「大放談」となった。――

 次に「朝ズバッ!」の遣り取り。大型ボードに貼り付けた拡大記事には全体を太い赤線で囲み、「小泉氏は、今国会で焦点になっている格差問題について、」から「と切って捨てた。」まで赤線が引いていある。女子アナが「と切って捨てた」と読み終えると、みのもんたとヒゲの岸井成格が小泉の発言を肯定したのだろう、小気味よげに笑い、もう一人の出席者の寺脇元文部官僚も軽く笑っていた。

 岸井、笑いながら、「だけどね、変人の小泉さんの後って、誰がやってもねえ、損な役回りなんですよ。だからー、(みの、声を出して笑いながら聞いている。)小泉さんの言っていることも一理あるんですね。(みの、嬉しそうに笑いながら、「ウン、ウン」と声を出して頷く。)確かにもう目先のことであれこれしてるけど、もっと墓穴を掘っちゃいますけどね。だけど、小泉さんみたいにああやって、開き直ってね、一言でボーンと言ってね、みんな唖然とするっていうのはなかなかこれやれることじゃない、芸当じゃないですよね」

 寺脇「(・・・・聞き取り不明)っていうのは鈍感の力ですから。本当は力がないから、鈍感なんです」

 みの「小泉さんが言うとさあ、そういう言葉が合うように感じちゃうから困っちゃうんですよね」――

 人並みの認識力を持たないから、「合うように感じちゃう」に過ぎないのだが、本人は気づいていないのだから、知らぬが仏の幸せ者でいられる。

 寺脇元文部官僚、31年間文部省・文科省に勤続したということだが、何言っているのか分からない。力があっても、鈍感な人間がいる。小泉純一郎がいい例ではないか。日本の首相を務め、それ相応の力がありながら、「格差とはどんな時代にもある」だけで片付けることができるのは「鈍感」そのものに出来上がっているからだろう。

 確かに格差は如何なる時代にも、如何なる社会にも存在する。それは人間が〝平等〟という理念・理想を実現させるだけの力を持たない情けない能力状況にあるからに過ぎない。だからと言って、すべての「格差」が許されるわけではなく、また「格差」の内容によって許容限度というものがある。

 「格差とはどんな時代にもあ」ったと言っているように江戸という「時代にもあ」った。「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多。吉川弘文館)見事な「格差」状況。

 飢饉がない年であっても、多くの農民は満足に食べることができず、妊娠してしまった子を食い扶持が減ることを恐れて生まれてくると直ぐに間引きし、幼い娘を女郎に売りつけるといったことを日常的に行っていたという。それも「全国民の一割」程度の武士階級を食わせるために年貢という形で搾取されていたからだ。

 このような搾取を原因とした「格差」は絶対支配者の武士権力には許される「格差」ではあったろうが、抑圧される側の被支配農民には許すことも認めることもできない「格差」なのは言うまでもない。許容限度を超えた「格差」であったが、武士が絶対支配者であり、農民は絶対被支配者に位置していた力関係が許容させていた「格差」であったろう。

 それを「格差とはどんな時代にもある」で片付ける。長岡藩の「米百俵」物語といった封建時代の譬え話を持ち出したり、江戸末期の国学者で歌人である橘曙覧(たちばなのあけみ・1812~68)の歌が好きだという割には「どの時代」も同じに扱い、「どの時代」の「格差」も同じに扱う知識は暗すぎる。「目先のこと」としてある現在の日本社会の「格差」も「どんな時代にもある」からと許してしまう道理の暗さである。

 尤も「鈍感力が大事だ」という主張に添って言うなら、「格差」にもそれぞれに内容があり、異なった姿をしていることを無視し、一律に扱って平気いられる無神経・「鈍感力」は「大事」にしているだけあってさすがと言うべきか。

 どのような物事・事柄も様々な内容を持っているのであって、表面的な把握にとどめることによって一律に解釈する過ちは犯してはならないことを絶対命題しなければならない。ジャーナリストでございますとテレビに出て喋り、新聞に記事を書いて飯を食っている以上、絶対命題とすべきであり、当然の客観的認識性であろう。しかしそうはなっていないで、ジャーナリストでございますとシャシャリ出ている人間が多すぎる。

 「君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」一つ取っても、どこに「小泉さんの言っていることも一理あるんですね」か分からないし、「そういう言葉が合うように感じちゃう」のかも見当がつかない。

 因みに岸井成格の経歴を『Wikipedia』から一部紹介してみる。「岸井 成格(きしい しげただ、男性、1944年8月22日生まれ)は毎日新聞東京本社特別編集委員。21世紀臨調運営委員。早稲田大学客員教授。日本ニュース時事能力検定協会理事長。
東京都出身。慶應義塾大学法学部を卒業後、毎日新聞社に入社。熊本支局を経て、政治部に勤務。ワシントン特派員、政治部副部長、論説委員、社長室委員、政治部部長を歴任。その後、編集局次長、論説委員長などを経て、現在に至る。」となっている。

 経歴が泣く、あるいは何のために経歴を踏んできたのか分からないお粗末な客観的認識性となっている。

 日本は「近隣諸国」よりもはるかに早く現代的な経済国家に向けてスタートを切ったのである。朝鮮戦争特需で、それまで青息吐息だった日本の経済は一気に息を吹き返すことができた。3年間で米軍関係から支払われた金額はドル建てで約10億ドルに近かったと言う。1ドル360円の固定相場の時代だから、当時のカネで10億ドル×360円=3600億円の特需である。また金額だけではなく、トヨタあたりはジープや軍用トラックの修理・委託生産で技術を学ぶことができたろう。そしてさらにベトナム戦争特需で経済大国へに向けて確実で力強いフライトへと持っていくことができた。

 当時のカネがどのくらいかと言うと、朝鮮戦争が終わった年の前年の1952(昭和27)年8月1日に「『公務員給与ベースは1万3515円に』と人事院が勧告」(『明治大正昭和世相史』加藤英俊・岩崎爾郎・加太こうじ・後藤総一郎共著・社会思想社)と出ているが、その時代の3600億円である。

 参考までに付け加えると、同じ年の11月29日には当時の池田勇人通産相(1960年/昭和35年7月に首相就任)が「『中小企業の倒産自殺もやむをえないと』と再放言して大臣失脚」(同書)と出ている。最初の放言は1950(昭和)25年12月に「池田蔵相『所得の多い者は米、少ない者は麦を食べるように』と発言」(同書)となっている。

 当時のマスコミが報じたのだろう、「貧乏人は麦を食え」の発言となって流布することとなった。

 池田勇人の発言は「格差とはどんな時代にもある」と同じく客観的認識性を欠いているからこそ可能となる開き直り発言であって、小泉純一郎のような『鈍感力』を武器とする政治家が以前にもいたと言うことだろが、共に自民党の総裁・総理として同じ歴史・伝統・文化を担った同類なのだから、当然の話でもあるのだろう。

 経済的スタートを先行して好発進した日本とは違って、韓国は朝鮮戦争(1950・6~1953・7)で国土は荒廃し(一度は北朝鮮軍に釜山まで攻め込まれている)、1965(昭和40)年に日本との間で締結された日韓基本条約によって日本から有償・無償の合わせて5億ドルという朝鮮戦争特需で荒稼ぎした10億ドル近い金額の半分の日本からの援助によって経済回復へ向けて日本よりはるかに遅れてスタートを切った。それから10年後の1970年年代半ばの韓国は貧しくて学校へ行けない子どもたちが駅で新聞売りしたり靴磨きしたりする状況にあって、日本の戦後当時の光景だと言われていた程にまだ貧しい時代にあった。それから30年ほどしか経過していない。

 一方中国は日中戦争で国土を荒廃させられたのち、戦後もなお国共戦争で荒廃し、共産党が政権を取り幾多の紆余曲折を経て小平が改革解放経済に着手したのは1979年の、韓国と同じく今からまだ30年も前である。しかも13億もの人口と広大な土地を抱えている。

 朝鮮戦争特需とベトナム戦争特需という追い風に恵まれ、韓国・中国、あるいは他のアジア諸国を遥か後方に置いて日本が一番にスタートした絶対的に有利だった諸条件を無視して、「君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」と「近隣諸国」を比較対象とする「鈍感力」は、首相経験者としてただ単に客観的認識性が欠如しているとだけでは片付けられない「現実を直視できない」資質と言うのはどのような逆説で育むことになったのだろうか。それとも日本の政治家だから当然な姿なのだろうか。

 「塩崎官房長官には『まとめようとしてはダメだ。総論は賛成でも、(各論で)必ず反対が出る。だからまとめてはだめだ』と助言した」ということも、どういう形であっても、反対意見を取り入れて一列に並べる纏め方であっても、あるいは足して2で割ろうと3で割ろう、こっそりと愛人の意見まで取り入れようと、纏めなければ案の形を取ることはできない。どう纏めるかは反対意見の強弱・多少によっても違う。小泉本人は郵政民営化選挙で自民党に大勝をもたらし、民営化を果たしたことを勲章として、自分の言うことは常に正しいとしたいだろうが、民営化によって日本がどう変わったと言うのだろう。民営化はコップの中の嵐に過ぎなかったのではなかったか。

 「まとめてはだめだ」を忠実に実行するなら、法案の纏め方も人事の纏め方も合い通じるものがあるだろうから、閣議での「起立できない」、「私語を慎めない」といういわゆる中川幹事長の苦言は「まとめてはだめだ」に逆行する要望ということになり、小泉流からするなら、却って励行すべき授業崩壊ならぬ、閣議崩壊となる。大いに私語しなさい、起立などするな、閣議中、勝手に席立ちせよ、のススメとしなければならない。

 こう見てくると、「現実を直視できない」のは小泉純一郎の方にこそ八百長相撲ではない正真正銘・圧勝の軍配をどうしても上げなければならないのではないだろうか。

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